第三十二話 芸を身に付けて
虎之助はいったん家に帰って屋台を置く。それから、棺桶を担いで花菱の家に行った。
花菱の家の前に行くと、腰高障子がすーっと開く。中には花菱とげっそりと痩せた恐屋がいた。
(恐屋さん、これはだいぶ寿命を取られたね)
花菱は虎之助を見ると、機嫌よく伝える。
「噺の秘訣の伝授は終わった。あとは実際に試してみればわかるよ」
「ありがとうございます」と恐屋が弱々しい声で告げる。
恐屋はふらふらしながら立ち上がると、板の間の上から土間に落ちそうになった。
「おっと、危ねえ」と虎之助は落ちそうになる恐屋を抱き抱える。
恐屋が情けない顔で頼む。
「すまねえが、虎之助さん。おいらを松の湯まで運んでくれ」
虎之助は恐屋の言葉を疑った。
「そんなになっても風呂に入りてえんで?」
恐屋が弱々しい顔で告げる。
「違うよ。さっそく噺の秘訣を試してえんだ」
「でも、今にも死にそうですぜ。まずは、養生したほうがいいと思いますぜ」
恐屋の表情は弱々しいものだが、確固たるものだった。
「いいから、松の湯へ」
花菱が真面目な顔で指示する。
「連れて行っておやり。恐屋にしても、ここで死んだらせっかく教えた噺の秘訣が無駄になって、浮かばれないだろう」
(大丈夫か? 風呂屋になんか連れて行って、一席を終えたら死ぬかもしれねえぞ)
恐屋はよほど早く噺がやりたいのか、泣きそうな顔で頼む。
「いいから、松の湯へ、早くー」
「わかりやした。そこまでいうなら、松の湯まで運びやしょう」
恐屋に耳栓をさせ、棺桶に入れて、背負って地上に帰った。
地上に帰ると、ちょうど昼四ツ(約午前九時)の鐘が鳴る。
虎之助は長屋に帰って恐屋を棺桶から出す。恐屋の顔色は悪い。
「本当に、このまま、松の湯へ行っても、大丈夫ですか?」
「いいから、松の湯へ」と恐屋は苦しそうな声で頼む。
恐屋はとてもではないが松の湯まで歩いていけそうになかった。
虎之助が背負って松の湯へ連れて行く。
松の湯の暖簾を潜ると、番台にいた松五郎がびっくりする。
「おや、虎之助さん。それに、そのぐったりしている人間は恐屋さん。そんな状態で風呂に入ったら、体に悪いですぜ」
虎之助は事情を説明する。
「松五郎さん、今回は風呂に入りに来たわけじゃないんだ。恐屋さんに二階の座敷で怪談噺をさせてくれ」
「怪談噺をって、そんな状態で噺なんてできるのけえ」
「俺もそう思うんだけど、恐屋さんが、どうしてもって頼むんでさあ」
松五郎が渋い顔をして意見する。
「いやあ、恐屋さんは顔見知りだし、虎之助さんは常連だから頼みを聞くけど、まだ陽が高いから、客の入りは、ほとんどないぜ」
「それでも、早く二階へ」と恐屋がよれよれの声で懇願する。
松五郎は冴えない顔で了承した。
「わかったよ。そこまで頼むなら、やっていいよ。だけど、終わったとたんにバタって倒れて死ぬのだけは、やめておくれよ」
「わかっているよー」と恐屋は小さな声で返事する。
履物を脱がせて、二階へ上げる。
二階には朝風呂を楽しんだあとの八人の客がいた。
常連客が驚いた顔で話をする。
「おい、あれ、恐屋だろう。え、こんな明るい時間に怪談噺をするのかい」
「よくみろよ。恐屋のやつ。生きているだけで精一杯だぜ」
虎之助の肩を借りて、どうにか床に恐屋が座る。座ると、恐屋の背筋がぴんと伸びる。
「ええ、まだ、陽の高いうちから怪談噺かと思われますが、一席お付き合いください」
恐屋が挨拶を述べると、人が変わったようによく聞こえる声で恐屋は語り始めた。
四半刻にも及ばない短い怪談だった。だが、恐屋の怪談は九人の聴衆の心をしっかり掴んだ。
噺が終わると場は静かになっていた。虎之助も噺に聞き惚れてしまった。
噺が終わると、恐屋が立ち上がろうとしてふらついたので、抱きかかえる。
「終わったー」と恐屋は満足した顔でいって、目を閉じた。
「おい、恐屋さん。死ぬな。死んじゃ駄目だ」
虎之助の叫びに二階がざわつく。すると、恐屋が目を開ける。
「大袈裟だね。虎之助さんは、とりあえず、台所に運んでくれよ」
他の客も恐屋が生きていると知り安堵する。
虎之助は台所に恐屋を運ぶ。台所で恐屋を座らせると、恐屋が穏やかな顔で頼む。
「すまねえが、一つ頼みがある。饅頭とお汁粉を、買ってきてくれ」
恐屋が銭の一緡を差し出す。松の湯で入れ物を借り、お汁粉と饅頭を買ってきた。
恐屋は泣きながら、お汁粉と饅頭を食べる。
「いやあ、うまいね。お汁粉と饅頭は久しぶりだ。やっと食いものにありつけた」
「花菱さんの家では何も食わせてもらえなかったんですかい?」
恐屋が顔を顰めて教えてくれた。
「そうだよ。厳しいお師匠さんだよ。稽古が終わって一席を終わるまで何も食べちゃいけないって命令するんだよ。口に入れていい物は、お茶と水飴だけ。それも少量だよ」
「なんでぃ、恐屋さんは死にそうじゃなくて、腹が減っていただけけえ」
恐屋がむっとし顔で言い返す。
「腹が減って死にそうだったんだよ。それと、もう一回、お汁粉と饅頭を買ってきてもらってもいいけえ?」
「十日近く喰ってなかったのに一気に食べると胃に悪いや。もう少し、時間を置いてからにしなせえ」
その日の晩に、気になったので花菱の家を尋ねる。
花菱は、また前のように布団で寝ていた。だが、虎之助が行くと半身を起こして、相手をしてくれる。
「この度は恐屋さんのために骨を折ってくれて助かりやした」
花菱は微笑んで告げる。
「どうだい。恐屋の噺は怖くなったろう」
「怖いというより、最後まで聞かずにいられない噺になりやした」
「どっちでもいいよ。ようはコツが掴めたんだろう」
「へい、それはもう。でも、一つ気になるんですが、恐屋さんはこれで寿命も何年失くしたんでしょうか?」
花菱は明るい顔で打ち明ける。
「一年も失くしちゃいないよ。わっちに寿命を取る能力なんて、ないからね」
「なら、何で、寿命を寄越せだなんて要求したんですか」
花菱は穏やかな顔で説明する。
「覚悟を見るためさ。それと、飯を食わせないため。どうせ、死ぬなら、飯なんて喰っても無駄だと止められるだろう」
「稽古の最中に飯を食べちゃ、いけねえんですけえ?」
「普通の稽古なら、きちんと食べてからやる。だが、今回は刻が短かった。そういう時は荒療治が必要なのさ。それに、修得した暁には有難味が出るだろう」
「なるほどねえ。そういう絡繰でしたか。でも、それなら実質、タダで恐屋さんに稽古を付けてやったことになりやすね」
花菱は昔を懐かしむ顔をする。
「いいんだよ。恐屋はね。先代、いや、先々代から頼まれているのさ」
「そうでしたか。こっちも助かりやした」
恐屋はそれから調子を取り戻し、前のように怖い噺をする噺家として名声を得た。




