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第三十一話 芸に生きたし、寿命は惜しい

 その日は仕事を休む。翌日、約束した昼八ツ(約十四時)に恐屋の住む長屋に行く。

 覚悟を決めた顔の恐屋が待っていた。

「私しゃ決めたよ。私は芸に生きる男だ。花菱さんの命を削る稽古を受けるよ。それで、かつての勢いが取り戻すよ」


「本当にいいんですね」と確かめる。

「ああ、いいとも。百まで生きるのは諦めるよ」と恐屋は決意の籠もった顔で告げる。


「なら、暮六ツ(約十九時三十分)に迎えに来やす」

 虎之助は棺桶(座棺)を用意する。

 耳栓ようの綿を手に、暮六ツに恐屋を迎えに行った。


 恐屋に耳栓を渡してお願いする。

「これから行く場所は秘密の場所。すいやせんが耳栓をお願いしやす。また、あっしがいいというまでは、声を出さねえでくだせえ」

 恐屋が耳栓と棺桶を交互に見て、冴えない顔で訊いてくる。

「声を出すと、どうなるんだい。死んじまうのかい?」


「いえ、ちょっとばかし面倒な事態になりやす」

 恐屋は渋々の態度で従った。

「面倒なことねえ。わかったよ。いいと教えられるまで声は出さないよ。それと、その棺桶に入れて私を運ぶのかい。まさか、そのまま埋めちまわないだろうね」


「間違って埋める懸念はありやせん。また、棺桶で運んだほうが、なにかと都合がいいんでさあ、それに、こんな棺桶でもねえと、安全が確保できないんで」

「わかったよ。そっちも従うよ。でも、嫌だねえ、生きている間に棺桶に入るなんて」


 耳栓をした恐屋を棺桶に入れて背負う。そのまま、浅草を出て、尾張徳川家の下屋敷に行く。尾張徳川家下屋敷には裏門から鑑札を使っていつものように入った。

 虎之助が妖怪相手に商売をしている状況は下屋敷の人間にも知られている。運び込む物が屋台から棺桶に変わっても誰も気にしない。棺桶を背負って地下御殿に下りていこうとするが、棺桶の中身を確かめられることはなかった。


 地下御殿に下りて墓場に出る。幽霊長屋の花菱の部屋の前に来たので、棺桶を下ろして、中から恐屋を出す。

 恐屋は耳栓を取ると、嫌そうな顔をする。

「ちょっと、薄気味悪い場所だね、本当に幽霊が出そうだよ」

「出そうじゃなくて、住んでいるんですよ。この幽霊長屋には。じゃあ、花菱さんのところに、行きますよ」


 恐屋が怖がった顔をして引き止める。

「ちょっと、待っておくれよ。心の支度をさせてとくれよ」

 不機嫌な花菱の声がする。

「人の家の前で、ごちゃごちゃ騒ぐんじゃないよ。いいから、とっととお入り」


 声がすると、腰高障子がすーっと開く。

 部屋の中は布団が畳まれ、黒の襦袢(じゅばん)を着た花菱がいた。花菱が鋭い眼光を向ける。

「あんたが、今の恐屋かい。稽古を付けてあげるよ」

「へえ、よろしくお願いします」


 恐屋が態度も硬く土間に足を踏み入れた。

「では、あっしは、これで」と帰ろうとすると、情けない顔で恐屋が引き止める。

「え、虎之助さんは帰っちまうのかい。一緒にいておくれよ。帰る時は、どうするんだい」


 花菱が厳しい顔で宣告する

「稽古は私がいいというまで続くよ。ここに来たからには、生きて芸を修得して帰るか、死ぬかの二択だよ」

 恐屋は、すっかり腰が引けていた。

「生きるか、死ぬかの二択って、そんな、話が違うよ」


 花菱が冷たい顔で進言する。

「なら、帰ってもいいよ。だが、もう、ここへは来るんじゃないよ。ここは、本当に芸の真髄を見たい人間だけが来る場所だよ」

 恐屋が怖がりながら、感想を口にする。

「先代のお師匠さんに弟子入りをお願いした時に、同じ言葉を言い渡されたよ」


 恐屋が覚悟を決めたのか、草履を脱いで部屋に上がる。

「わかりやした。なら、芸の真髄を教えてくだせえ」

 恐屋が頭を下げる。

(どうやら、覚悟は決まったようだね。頑張りな、恐屋さん)


 恐屋を花菱に預けると、その日は家に帰る。

 次の日から、地下御殿に心太(ところてん)の屋台を出した。

 朝になり、妖怪の客足が遠のくころに恐屋の様子を見に行く。

 花菱の家の腰高障子が一寸ほど開いていたので、中を覗く。

 板の間に倒れている恐屋が見えた。

(おい、まさか、恐屋の旦那、死んじまったのけえ)


 横に幽霊の気配を感じたので見ると、花菱が立っていた。

 花菱は呆れた顔で意見する。

「女の部屋を外から覗くって感心しないねえ」

「そんなことより、恐屋の旦那が倒れちまっていますよ」


 花菱は素っ気なく告げる。

「ありゃ寝ているんだよ。だらしない男だよ。一晩、稽古を付けたら、もうへばっちまった」

「寝ているだけですかい。それで、稽古はいつ終わるんで?」


 花菱は考える仕草をする。

「そうだね。昨日、一晩付き合ったけど、早くて五日、下手したら十日は掛かるね」

「そんなに掛かるんですか」


 花菱は気楽に構えて教えてくれた。

「芸を修得するのに、十日なんて短いうちさ。ほんとうは、三年は通ってほしい。だけど、ここは場所が場所だろう。だから、無理に詰め込むように教えているのさ」

「なら、毎日ここに見に来たほうがいいんでしょうかね」


 花菱が真面目な顔で指示した。

「いいや、覗かれると気が散るし、恐屋も休めない。芸を修得するか、死ぬかしたら、わっちの家の前に七輪を出しておく。遠くから見て家の前に七輪が家の前に出ていたら恐屋を迎えに来ておくれ」

 虎之助はそれから、心太の屋台を出す。心太を売り切っては、幽霊長屋の花菱の家の前に七輪がないかを確認するのを日課にした。

 恐屋を花菱の家に連れて行ってから、九日目の朝に家の前に七輪が置かれる。

(恐屋さん、ついに芸を修得したのけえ。それとも、まさか、死んじまったのけえ)

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