第二十七話 回向院からの勧進帳
三日後、朝食を食べ終わって、今日は何をしようかと考えていた。
すると、腰高障子に人影が映る。
「虎之助や。虎之助は、いるけえ」と御隠居が呼ぶ声がする。
腰障子を開けると、ご隠居が柔和な笑みを湛えて立っていた。
「回向院から、勧進帳が回ってきているんだ。虎之助にも、一声、掛けたほうがいいと思ってね。寄らしてもらったよ」
「御隠居。勧進帳とは何でしょうか?」
「回向院から寄付のお願いの内容を書いた紙だよ」
(でけえ寺だと思ったが、金があるわけじゃないのけえ)
「何でえ、回向院は運営が苦しいんですかい?」
ご隠居は穏やかな顔で教えてくれる。
「回向院の円空さんは貧者や孤児の救済に力を入れているからね。お金は、いくら金があっても足りないよ」
(御住職が困っているなら、助けねえわけにはいかねえな)
「そうですかい。なら、以前、尾張中納言(徳川宗春)様から頂いた褒美の残りが十両。これに、尾張屋に買い取ってもらった処方箋の代金の十両を加えて二十両。これを寄進しやす」
御隠居は驚いた。
「二十両だって、そりゃあ大金だね、いいのかい」
「回向院の円空住職といえば、俺にとっては親も同然。その、親が困っているのに子の俺が何もしないんじゃあ義理が廃る」
御隠居は虎之助の意を汲んで、感心した顔で同意する。
「わかった。なら、直接その二十両を持って一緒に回向院まで行こう。円空さんだって、金だけぽんと貰うより、虎之助が立派になって一人前に稼いでいる姿を見たいだろう」
「わかりやした。なら、これから一緒に円空住職のところに行きやしょう」
二十両を袱紗に包んで家を出る。
市谷から麹町に入るが、武家屋敷ばかりで人気がない。
「それにしても、江戸の町ってのは広いですね」
御隠居が機嫌もよく語る。
「そりゃそうだ。大樹(将軍)様のお膝元だからね」
「こうして、広い江戸の中で、お初やご隠居のようないい人に巡り会えた。俺は幸せ者でさあ」
御隠居が笑って照れる。
「おいおい、そんなに褒めても、汁粉くらいしか出ないよ。両国に美味い汁粉屋があるんだ。帰りに御馳走するよ」
「なら、遠慮なく御馳走になりやす」
右手にお城を見ながら、駿河台を通る。
坂を上っていくと、天気が良いので、振り返ると富士山が見えた。
「右手に御城、遠くに富士山が見えますね。絶景だあ」
「駿河台の高いところに行くと、天気がいい日だと綺麗な富士山がよく見えるよ」
駿河台を通り、神田の人込みを進む。両国橋で通行料二文を払って渡ると、回向院が見えてきた。
回向院の広い敷地の中に墓や供養塔がずらりと並んでいる。そのまま、寺の山門から入って僧侶たちが生活する場である庫裏に行く。
剃髪した穏やかな顔の二十歳の僧侶が出迎えてくれた。僧侶の名は知っていた。慈空という。
慈空は虎の助と御隠居を見ると、にこりと微笑む。
「市谷の御隠居と虎之助ですか、どうしました」
御隠居が明るい顔で用件を告げる。
「今日は虎之助が寺に寄進をしたいと申し出るので、顔見せついでに、寄らせてもらった」
虎之助は巾着から袱紗に包んだ二十両を取り出して、慈空に差し出す。
「尾張中納言(徳川宗春)様から褒美と俺の稼いだ金を合わせたものでえ。寺の台所事情が悪くて勧進帳を廻していると聞いた。だったら、これを使ってくれよ」
二十両もの大金を見せられて、慈空の顔がほんの少し強張る。
御隠居が明るい顔ですぐに言い添える。
「虎之助が褒美を貰ったのは本当じゃよ。また、真っ当な手段で稼いだ金であることも儂が保証する」
慈空の表情が元に戻る。慈空はお金を受け取った。
「そうですか。疑って申し訳ない。円空様はもう少しで手が空くので会って行かれるのがいいでしょう」
虎之助と御隠居は十二畳の座敷に通された。部屋は明るく清潔で、壁には書が掛っていた。小坊主の智空がお茶を出してくれたので、礼を言う。
(慈空や智空は変わりがないようだな。相変わらず、居心地のよい寺だぜ)
ほどなくして、真っ白い髭を生やした。袈裟を着た、今年で六十四になる小柄な老人が入ってくる。この小柄な老人が回向院の住職である円空だった。
円空が座ると、にこにこした顔で挨拶する。
「この度は、当院に多額の寄進をしていただき、ありがとうございます」
「よしてくだせえよ。ご住職。そう、改まって言われると、むず痒いですぜ」
円空は晴れやかな顔で、感謝の意を表す。
「いやいや、親しき仲にも礼儀ありじゃ。二十両は、そう簡単に稼げる金ではない。これは虎之助の 努力の結実じゃ。きちんと礼を言わねば罰が当る」
「そういものですかね」
「そういうものじゃ。それで、虎之助や近況はどうじゃ、うまくやれておるか」
「へえ、食い物の屋台を出したり、口入屋をやったりして、どうにか暮らしておりやす」
円空は満足した顔で褒める。
「それは、結構。一人でも、ちゃんと生きていけるのなら儂も嬉しい。さらに、寄進までできるようになっていたのなら、なお嬉しい」
「いやいや、これはたまたま金が手元にあっただけですから。だったらあっしが持っていても使い道がねえ、ならここで、役に立ててもらったほうがいいと思いました」
円空とはその後、御隠居を混ぜて世間話などをする。ゆるやかな時が流れる。
円空が名残り惜しそうな顔をする。
「すまぬが、昼九ツに来客がある。今日は、この辺にしておきたいのじゃが」
「いけねえ、ついつい長居しちまいました。なら、あっしらはこれで失礼しやす」
帰りに両国の汁粉屋で汁粉をいただく。
「御隠居、今日は誘ってくれてありがとうごぜえやした。久しぶりにご住職の顔を拝めてほっとしました」
御隠居が人の良い顔でやんわりと告げる。
「何、金はなくとも、気になるなら、たびたび顔を出しておあげ。円空さんは名付けの親なんだ。親なれば気になることもあろう」
虎之助は気になる疑問を口にする。
「そうですか。でも、あっしの本当の親は、どこにいるんでしょうかね」
御隠居は複雑な顔で訊く。
「やっぱり気になるけえ」
「気にならないといえば、嘘になりやす」
御隠居は難しい顔をして腕組みして考えを述べる。
「そうか。でも、こればっかりは、阿弥陀様でもない限り、わからないからねえ」
その夜、虎之助は不思議な夢を見た。
そこは、明るい花が咲き乱れる美しい場所で、穏やかな陽がさしている。
ここはどこだと思うと、光に包まれた人間が現れる。
服装はわからず、顔も見えない。だが、温かい光が見てとれた。
光り輝く人が若い女性の声で話しかけてきた。
「虎之助よ。私は貴方をこの世に遣わした存在です。今日、貴方は大いなる善行を積みました」
虎之助の前に直径一尺(約三十㎝)の丸い鏡が現れた。
鏡には貧者への炊き出しをする慈空や智空の姿が映っていた。
場面が変わると、一心に供養の経を捧げる円空が映る。
光り輝く存在が優しく告げる。
「虎之助よ。もし、今ここで望むのなら、貴方を本来いた世界に帰してあげましょう」
虎之助は正直に答えた。
「いいや。それには及びません。俺はまだ帰るわけにはいかねえ気がします」
「わかりました。では、戻りなさい。私はいつも貴方を見ていますよ」
眼が覚めると、朝だった。
「何でえ、夢けえ。でも、妙に本物ぽい夢だったなあ」




