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第十一話 一番鰹

 四月一日の夜明け前、(ふんどし)を締めて(さらし)を巻いた虎之助は品川の浜にいた。虎之助の乗る漁船は七挺艪を備えた四丈(約十二m)の船で、中央に生簀を備えていた。

漁師代の末次は今年で四十になる老いた漁師だった。剃下(そりした)を綺麗に結い、身長五尺(約百五十㎝)で陽に焼けていた。


 初鰹を獲るために数十人の漁師たちが焚火の焚かれた浜で待機していた。漁師たちの話題は、もちろん初鰹。

「やれ、何両で声が掛かる」「やれ、エサは何にした」「やれ、鰹の群れは来るか」と熱気を帯びる。


 真っ暗な中、船を出す漁師が現れる

 集魚用の漁火を焚いた船が、一艘、また、一艘と初鰹を取るために出て行く。


 末次が立ち上がり漁師に号令を掛ける。

「よし、飯を食ったか、俺たちも行くぞ」

 末次と虎之助、それと十人の漁師が船に乗って(もやい)(つな)を外して海に出る。


 二刻ほど船を漕ぐと、艪漕ぎ役ではない漁師たちが網を準備して海中に投げ入れる。

 水面がバシャバシャと撥ねる音がする。漁火に照らされて網が引かれる。揚がる魚の群れが見えた。漁師が魚を生簀に揚げていた。


 先輩漁師に尋ねる。

「鰹を獲りに行くんですよね?」

「鰹の餌にする鰯を獲っているんだよ」


「鰯は充分だ。よし、帆を上げろ」と末次の声がする。

 船は帆の他に、七つある艪を全て使い、全速力で進んでいく。

 艪の漕ぎ手は途中交替しつつも、船の速度は極力落とさないようにする。

「艪に帆まで使うのけえ」


 先輩漁師が威勢よく注意する。

「そうだ。初鰹漁は速さが勝負だからなあ。もうじき相模灘だ。気を抜くな。ここからが勝負でえ」

 交代をしながら、相模灘を目指して進んでいく。暗い海で空に浮かぶ星のみを頼りに船を進める。


 空が段々と白み始めると、右手と左手に陸地が見える

「右手と左手に陸地が見えらあ」

 横で艪を漕ぐ先輩漁師が額に汗して答える。

「右が三浦半島で左が房総半島だ」

 手の皮が剥けてきて痛いので、(さらし)を手に巻いて痛みを緩和する。


 船の櫓は休むことなく漕がれる。

 四月二日の朝には海の色が変わる。

 青色の水面が、線を引いたように真っ黒になる。黒潮が流れる海域に到達した。

 黒潮の流れる相模灘の風は弱いが、波の高さが一丈はあった。


 波により漁船が激しく上下する。

「なんでえこれは、今日は海が時化(しけ)ているのけえ?」

 先輩漁師が笑ってから怒る。

「波の高さが一丈(約三m)なら、低いほうだ。高い時は、この十倍はある。この程度の波なら、艪の操作を間違わなければ、沈みはしねえよ」


(なんでい、間違ったら沈むってことじゃねえか)

 空を見上げれば、お天道さんが綺麗に見える。雨の心配は、なさそうだった。

(天気が晴れているのが救いだな)

 一丈(約三m)波は絶えずあり、四半刻に一回は倍の波が来る。黒い波が船を上下に揺する。


 船は絶えず漕いでいないと、すぐに転覆しそうになる。苦しくなって虎之助は思わず、海に吐いた。

(こいつは、確かに重労働だ)

「新入り、へばってねえか」と先輩漁師に声を掛けられた。

「だいじょうぶでさあ」と返事をして、また吐いた。


 末次は、じっと空際を見て指示をする。

「鰹の群れが見えねえ。船をもっと西に寄せるぞ」

「へえ」と先輩漁師が返事をする。


 帆を張り、艪を漕ぐこと三刻。

 虎之助たちは船を漕いで行くと小さな陸地が見えてくる。

 先輩漁師が明るい顔で解説する。

「三宅島がよく見えてらあ。初鰹は伊豆の漁師たちとも取合(とりあい)になるかもしれねえなあ」


 カモメの群れが見えた。末次が機嫌よく叫ぶ。

「いたぞ。鰹は、あの下だ」

 カモメの群れの移動に合わせて、船を先回りさせる。

 漁師たちが竿の先についた針に、新鮮な鰯を付けて海に投げ込む。


 少しの間を置いて、竿に強い当りが来る。ぐいと竿を上げると、全長一尺二寸(約三十五㎝)の鰹が海の中から飛び出す、鰹を手にとった漁師たちがすぐに針から外して、生簀に入れる。

(やった、初鰹だ)


 末次の怒声が飛ぶ。

「喜ぶのは、まだ早え。でかい一番鰹を釣るぞ。どんどん釣れ、生簀を鰹で満杯にするんだ」

 鰹は面白いように釣れた。みるみるうちに生簀が鰹で満たされていく。

そのうち、全長二尺六寸(約七十八㎝)の鰹が釣れた。


 誰かが叫ぶ。

「おう、これは大当りだ。今日は早く帰れるぞ」

 末次は生簀の残量を見て考え込む。

「いや、まだ入る。まだ釣るぞ」

 一刻ほど海上を彷徨(さまよ)うが、カモメの群れは見当たらない。


 先輩漁師が思案する顔で末次に尋ねる。

「どうしやす。お頭ら。これで鰹が八十から九十ってとこですぜ。二尺六寸を超える鰹も上がりやした。生簀は、まだ入りやすが、どうしやす?」

「大物の三尺の鰹がほしいところだが、二尺六寸でも、まずまずか」


 末次は思案の顔をする。

 虎之助には水面で跳ねる鰹の姿が、頭の中に絵として浮かんだ。

 一度、腹にむかむかするものを吐く。ほんの少しだが楽になったので声を上げる。

「お頭。勘ですが、小さいながらも、西に鰹の群れがいる気がしやす」

「俺には見えなえなあ」と先輩漁師が目を見開いて、首を傾げる。


 末次の判断は違った。

「俺も勘だが、西にいる気がする。西だ。西に船を移動だ」

 先輩漁師が相槌を打つ。

「お頭がいうのなら、そうかもしれやせんねえ。よし、西だ。西に行くぞ」

 西に一刻移動すると末次が驚いた顔で叫ぶ。


「よし、まんまと、俺の勘が当った。次で生簀を満載にするぞ」

「おう」と漁師たちが叫んで、船を移動させ鰹を釣る。

 鰹が生簀にどんどん降り注いでいく。

 見つけた鰹の魚群が過ぎ去る頃には生簀に鰹が満たされていた。


 先輩漁師が末次に確認する。

「これで、百二十から百三十。九割ってとこでさあ。どうします。まだ、釣りますか?」

 末次は遠くの海を見て険しい顔で呟く。

「ここいら辺が潮時だ。あまり、長く海にいると、時化(しけ)に巻き込まれそうだ」


 先輩漁師が指示を出す。

「よし、このまま、船を漕いで、江戸の魚河岸に着けるぞ、一番鰹を俺らが貰う」

「おう」と残りの漁師が威勢よく答える。

 船を漕ぎながら、先輩漁師に尋ねる。

「行きますかね、一番鰹の二十両」


 先輩漁師が誇らしげに答える。

「銀杏屋の話だろう。行くだろうよ。ただ、噂じゃ尾張中納言(徳川宗春)様が『今年は国許に帰る前に初鰹を喰いたい』と騒いでいるからな。中納言様に出すのに一番鰹以外は使えねえだろう。尾張家の台所奉行様が河岸に来りゃあ、銀杏屋の二十両を上回るって話だ」

「二十両を超えるって、いってえ、いくらになるんやら」


「知らねえや。あのお方は質素倹約とは無縁。派手な遊びが大好きだからね」

 船は一番鰹を目指して、夜を徹して、ひたすら漕ぐ


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