流れ星
重たい望遠鏡をベランダに設置するのは、今年入ってはじめてのことだった。
時刻は真夜中2時を回った。
今日は冬の流れ星、ベルセウス座流星群が見れる日だ。肉眼でも見えるその星々はたしかに美しいが、私は望遠鏡を覗いてみるベルセウス座周辺.....流れ星の発生する辺りが最も美しいと思うのだ。
ところがそれは、長いマフラーの端を肩に回し、もうちらちらと流れている星々たちを覗き見ようと望遠鏡に手をかけたところにやってきた。
ベランダから振り返り、直線上にあるその玄関の扉からはコンコンと誰かがノックをする音が聞こえる。
「ごめんくださいな」
時刻は真夜中2時、こんな時間に誰が起きて誰が人の家の扉をノックするのか。そのしゃがれた女性の声は想像するに、歳をとった女性の声だと思うが、その具体的な想像がさらに私を震え上がらせた。
私はふらふらとした足取りで、依然ノックと挨拶を続ける扉に近づいていった。幽霊なんてものはいない、オバケなんてないさと懐かしい童謡を頭の中で繰り返しながら、もし相手が徘徊老人や痴呆老人であったらどうするかと一部冷静さを保ちつつ、ゆっくりと玄関の扉を開いた。
玄関の扉を少しだけ開けると、そこには背中が丸まった豊かな白髪をひとつに括った、小さなおばあさんがこちらを優しげな瞳で見上げていた。
「こんな時間にすみません」
「あ、あの……どちら様ですか?」
「星を見させてください」
「はい?」
噛み合わない会話をしながら、おばあさんはなんと星が見たいと願い出てきた。
「外を歩いていたらね、白くて大きい筒を持った人がベランダに出てきたの。それ、双眼鏡でしょう?」
どうやらおばあさんは、道を徘徊している途中に、ベランダで望遠鏡を設置している私を発見したらしい。玄関から見えるらしい望遠鏡(おばあさんが言うには双眼鏡)を指さしながら、口元を緩ませていた。
「これは望遠鏡ですが……」
「一度星を間近で見てみたかったの。すこしでいいから、見せてください」
訂正もむなしく、なぜかぺこりと頭を下げられてしまった。
しかし普通、見ず知らずの人の家に星を見るためだけに来るものなのか。しかも時間は夜中を回っている。やはり痴呆老人だ。私は警察に電話しようと思ったが、なぜか口は思わぬ方向に動いた。
「……じゃあ……少しだけ、覗いて見ますか?」
――――――――――――――――――――
おばあさんを家にあげて数分。私には危機管理というものがないのかと頭を抱えそうになったが、一生懸命に望遠鏡を覗いて見るおばあさんの丸い後ろ姿を見て、星を見たいという人にきっと悪い人はいないと開き直ることにした。
「あ……寒くないですか」
おばあさんは冬だというのに防寒の一つもしていなかったことに気づき、私は自分のマフラーをおばあさんの肩にくるっと回した。
「あぁ、ありがとう。イケメンなのねぇ、お兄さん」
「い、いえ」
おばあさんはお礼を言ってくしゃっと笑うと、また望遠鏡に向き直った。
「こんなに綺麗に星が見えるのねぇ」
「あぁ、はい」
「ご自分で買ったの? この双眼鏡」
「いえ、小さいころ、母から誕生日プレゼントで……」
「あぁ、いいお母さんね」
母のプレゼントという言葉を、口に出してからふと思い出した。
私は小さなころから天体に興味があり、図書館の本棚から引っ張り出した分厚い図鑑から、多くの星座や惑星を覚えている中で、母がサプライズとして誕生日にくれたものだった。
「今見ているものは、おおいぬ座。夜空の中で一番明るい星です」
「えぇ、大きくてぴかぴかして、太陽みたいだわ」
おばあさんは望遠鏡をのぞいて、なにがそこまで楽しいのかにこにこしながら星を見ている。悪い人ではなさそうだ。
「私、流れ星を見てみたいわ」
おばあさんは望遠鏡から目を離すと、疲れたのだろう目をしぱしぱと瞬きしながらこちらを振り向き、流れ星というちょうどいい要望を出した。
「でも無理よねぇ…… いつだって見れるものじゃないもの」
「えっ、きょ、今日ならちょうど見れますよ!」
急な事でなぜかどもってしまったが、今日はもともと冬の流星群を見るつもりだったのだ。
その要望にきちんと答えられると思うと、私はなぜか心から嬉しくなった。
「望遠鏡じゃ見辛いので……あ! ほら、いまちょうど落ちましたよ!」
おばあさんの背中をやんわりと叩いて望遠鏡から離し、夜空を指さすと、一瞬のきらめきが線を描いた。
「まぁ、一瞬だったわね」
「まだまだ流れてきますよ、ほら」
ひとつ流れ星を見つけると、不思議と次々に流れ星が見えてくるようになる。
ひとつ煌めいてはまたひとつ。そのうち夜空にはたくさんの星の線が描かれていき、まんべんなく夜空をきらめきで包んでいった。
こんなロマンチックな光景を、なぜか見ず知らずのおばあさんと見ることになってしまったのかはおいといて、この漆黒の夜空にまんべんの星が煌めきながら駆け抜けていく様が、私は大好きなのだ。
「……彼女にも見せてあげたかったな」
「彼女? あなた恋人がいるの?」
私の呟きにおばあさんは流れ星を見ていた目をこちらに向けた。なぜかその目には、まだ流れ星が映っているように見えた。
「えぇ、まぁ。でも、今入院しているんです……手術の必要な病気で」
「そうなの」
「とても綺麗な人で、私と同じく天体観測が好きな女性なんです。
星座は一個も覚えられないような人なんですけどね」
恋人は病弱な人だ。いつも白い天井と白い壁に囲まれ、時々外が見える窓をのぞいてはため息をつくことが多かった。
そこで私は、自分が好きだからと言われればそういうしかないが、星の図鑑を彼女に贈った。その本を彼女は大事そうに、けれど興味津津に読んで、わからないところがあれば私に聞いてきてくれた。
いま彼女はどうしているのか。深く暗い病室の中で、なにも光らないただ白い天井を見つめて起きていなければいいと私は切に願った。
「こんなこと、見ず知らずの方に言う話じゃないですね。すみません」
私はおばあさんの方を向き、なぜか申し訳なくなった気持ちで頭をかいて、夜空を見上げるおばあさんの横顔を見つめた。
「私も好きよ、天体観測」
「え?」
おばあさんはにこっと私に笑いかけると、その重たい腰をゆっくり起こしはじめた。
「今日はありがとう。
じゃあまた会いましょうね、イケメンなお兄さん」
そういうと、ベランダから壁伝いに手を置いて部屋の中に入り、よたよたとふらつく足で玄関の扉を開けてこちらに向かってお辞儀をした後、あっという間に帰ってしまった。
「……流れ星のようなおばあさんだったな」
本当にあっという間の出来事だった。ただおばあさんと一緒に星をみただけで終わってしまった。いや、むしろそれだけで済んでよかったのかもしれないが、なぜか心の中に暖かく柔らかい気持ちと若干の名残惜しさが広がっていた。
そろそろ眠気もやってくる時間になってきた。自分も部屋の中に入ろうと望遠鏡を持ち上げた時、ふと肩が軽いという違和感を感じた。
「あ、マフラー返してもらってない……」
私はおばあさんの薄着だった服装を思い返し、マフラーぐらいで防寒になればよいかと、気にせず望遠鏡を運ぶことにした。
――――――――――――――――――――
「母さん、父さんの様子はどうだった?」
アパートの近くに停めてある車の中には、暖房をつけて待っていた息子がこちらを心配そうに見ていた。
「相変わらず、私が誰だか分らなかったわよ」
車のドアに手をかけると、外のつんざく寒さを和らげる暖かい風に包まれた。
「そうか……いつか思い出してくれるといいな」
「あら、いいのよ私は。変わらず優しい人で安心したわ……」
彼はこのアパートで変わらず、あの時の、若かった青年の時で止まったまま天体観測をしていた。
そして突然現れた私になにも言わず家にあげ、何回もやってきたこのやり取りと同じように、今日も一緒に双眼鏡で一番明るい星を教えてくれたのだ。
「でも、いくら年だからっておかしくないか?
星のことは覚えてるのに、母さんのことは忘れてるなんて、そんな痴呆ひどいじゃないか」
息子はそういうと胸ポケットから煙草を取り出し、かじるようにくわえたたばこの先にライターで火をつけた。
「あら、忘れてるなんて私言ってないわよ」
「え、それって……」
息子がたばこを口元から離し、目を大きく開いてこちらを見た。
彼は星のことしか頭にないわけではなかった。はじめて聞いた、恋人の話。しっかりと彼の心の中には、変わらず私と言う病弱な少女がいるのだ。
「あの人の記憶は、私に星を教えてくれた時で止まってるんだから……」
そっと首にかけたマフラーに手をやる。使い古されたであろうこの青いマフラーの感触を確かめると、もう一度彼の優しさに触れられる気がした。




