神殿都市アグナヴァル
王国北方最大の都市、アグナヴァル。
神殿都市、神の庭とも呼ばれるこの街は、山々と雪に囲まれた修行者の土地である。
なだらかで重々しい円錐形の山が連なり、台地状に都市を取り囲んでいる。山頂を飾る万年雪、その下にのぞく黒い岩肌。いまなお炎の記憶を宿す山肌には噴気孔から湯気が上がり、苔や低木が這うようにして白と黒以外の色を添えている。
溶岩台地の上に築き上げられた街は黒曜石を磨いたような黒で形成されていた。
冬には雪に埋まるこの土地に、神が恩寵を下した土地。
生きる炎、火山の上に築かれた都市、それがアグナヴァルだ。
(つまり、温泉があるってこと!)
街に到着するなり、硫黄の匂いが鼻をついた。
私にとっては懐かしいとさえ感じる香りだけれど、オディールは顔をしかめて鼻をつまむ。
「なんですの、この匂い」
「硫黄よ。火山の近くはこんな匂いがすることがあるの」
「今日は風向きがよくありませんね。私の手落ちです。ご容赦下さいませ、ジゼル様、オディール様。明日からはアグナヴァルの商会支店にある馬車を使いましょう。谷底の匂いが届かないよう作られた馬車がありますから」
うきうきと説明する私に、アンが顔をしかめながら謝罪する。
「え、と。普段はこんな匂いがしないの?」
「日によりますが、こちらは貴族が通るための街道ですから。普段の風向きなら匂いなどしないのですが」
言われて窓から外を見ると、黒い岩の段丘には豪奢な建物が建っており、火口壁に近い場所に近いほどその豪華さが増していくのが見て取れた。
逆に、湯気の噴き出す谷底には小さな建物が密集していて、平民達の居住区だとわかる。
遠目からだとどの建物も黒色をしていてわかりづらかったけれど、明らかに高台とその下の街には差があった。
安全な温泉を楽しんでいた前世の記憶に、頭を殴られたような気持ちになる。
(そっか、硫化水素がでるんだもんね。危険な場所には平民が住んでて、貴族は安全な場所に住んでるんだ……)
雪に覆われる極寒の土地に比べれば、冬も地熱で暖かいアグナヴァルに集まるのは当然だ。
完璧に舗装された道に導かれるまま神殿に到着した私たちを出迎えたのは、巨大な漆黒の神殿だった。
都市を見下ろすようなその偉容もさながら、吹き付ける風には硫黄の匂いがまったく届かない。
「ようこそ、遠方よりの旅人よ」
声が響いた。
磨き上げられた黒い壁に反響して、耳の奥深くまで届く。
「お待ちしておりました、ダルマス伯爵令嬢。あなた方の信心に神もきっと応えて下さることでしょう。主神のお導きがありますよう」
白い衣装を纏った神官が深々と頭を下げる。
でっぷりと蓄えた脂肪に、いったいこの痩せた土地のどこにそんな脂肪分が含まれているのかと一瞬考えてしまった。
(人を見た目で判断しちゃだめよね)
「お出迎えに感謝いたします、神官様。主神の祝福がありますよう」
アンが進み出て、黄金色の詰まった箱を手渡す。
神官は自らその箱を受け取り、重さを確かめるようにして箱を撫でながら、神官は顔中のしわが二倍になるほどの笑顔を作って見せた。
「ええ、ええ。無論です。このように信心深い方々には必ず、主神のみならず神々の祝福が降り注ぎましょう。ええ、ええ。この神の僕たるパウルスが保証いたしますとも」
ニチャア、という音がしそうな笑顔に。
少しだけ。
ほんのすこーしだけ、この神殿でオディールが成人式をあげることを後悔しそうになったけれど、そんな気持ちは神殿の中へ案内されるにつれ吹き飛んだ。
巨大な神像はダルマスや王都の倍はあろうかというサイズで、矮小な信者達を睥睨している。花と宝石で飾られた神々を見上げて、その数の多さにも驚かされる。
地方の神殿ではまずお目にかかれない。王都の神殿でも省略されるようなマイナーな神の姿もある。神に仕える従者達の像まであって、極彩色に飾られている。
楽園の野への、信仰と敬慕が地層のように積み上げられているのを見せられている気分だ。色彩豊かすぎていっそ落ち着かない。
「す、ごい。お姉様ご覧になって、見たこともない神様がたくさんいらっしゃるわ!」
オディールがはしゃいだ声を上げる。
素直な感想に、パウルスは満足げに頷いた。
「王国で最も祝福に満ちた神殿は我らがアグナヴァルの神殿であると自負しております。こちらであれば、ご令嬢が望むあらゆる神の祝福を求めることができましょう」
奥へ進むにつれて、神像のサイズも大きくなっている。
行き止まりの開けた空間には、山肌の岩を直接削り出したのであろう主神エールが鎮座していた。
もはや大仏サイズだ。
炎が照らしてはいるけれど、顔のあたりがうっすら暗くてよく見えない。
その両側にいるのは花の女神と、剣の神だった。
「わぁ、大きな剣! すごいわ、一体どうやって作ったのかしら」
駆け寄ったオディールの顔が映るほどに磨かれた剣は、巨大な神像に合わせたサイズだ。
「このアグナヴァルは神の恩寵の都市。谷で採れる鉱石も、それを武器にする職人達の腕も、いずれも一級品です。王国の魔術は王都にあるかもしれませんが、王国の武術はこのアグナヴァルにあるといって過言ではないでしょう」
花の女神は主神エールの妻なので大体セットだけれど、剣の神というのは珍しい。
それに、険しい山に囲まれたこの土地が戦場になることはないというのに。
(なんでそこまで剣の神が崇められてるの?)
疑問を口にする前に、答えは提示された。
礼拝堂に、騎士の礼服を模した白い衣装の神官がいたからだ。
神殿騎士だ。
厳かに頭を垂れて祈る姿は清廉そのもので、思わず見入ってしまう。
「西の国境から戻ったばかりの神殿騎士です。ほら、あの梟の。侯爵閣下の指揮下におりましてね。働きぶりが良いとたいそうお喜びでしたとも。無論大将首の栄誉、手柄は侯爵様のものですが、ここだけの話、実際に本隊を追い詰めてとどめを刺したのは、我が神殿の騎士達なのですよ。神の恩寵ですな」
揉み手せんばかりの勢いで、パウルスがまくし立てる。
目の前の神聖な光景と、パウルスの語る血なまぐさい戦績自慢が合致しなくて口ごもる
(傭兵が、産業なのね)
メアリの言葉を思い出す。
何年かに一度は村を出てアグナヴァルを目指す子供。
騎士として施される教育と、信仰。一攫千金の夢物語。
神に仕える人間の善意と慈悲だなんてとんでもない。
(口減らしと、人身売買じゃないの……?)
体温の下がる感覚に、指先が震える。
「それで、ダルマス伯爵令嬢、ジゼル様」
手にした金貨の小箱を、猫をそうするようになでさすりながら、パウルスがひそりと声を落とす。
「騎士をお望みと、お手紙をいただいておりましたが。どのような騎士をお望みですか。剣の神は必ずや貴方の信仰と献身に応えて下さいますよ」
ショーケースの宝石をセールスするように、差し出された指先へ視線を動かす。
よく見れば神殿騎士たちは皆何かしらの傷を負っており、とても祈りと修行の結果とは思えない。その生々しい傷跡は、戦場の血を感じさせた。
頭の中の倫理観が拒絶する。あるいは恐怖する。
そんな悪徳に手を染めるつもりはなかったのだとわめき立てる。けれど、この世界に生まれ育った価値観が口を押さえつけるのだ。
(何を今更良い子ぶってるの。一角商会は傭兵を雇ってるじゃない)
彼らがどこからやってきて腕と命を売っているのかを、気にしていなかった。金払いの良い一角商会の用務を、むしろ彼らは喜んでいたから。良い取引先のつもりでいた。
フィーリングが合ったら、リクルートするくらいの軽い気持ちできてしまった。
帰る場所のない子供達を育て上げる神殿騎士団。彼らは、金を積まれれば否といえない立場だというのに。
(私はジゼル・ダルマスなんだから。ジゼルとして生きると決めたんだから、ダルマス家の安定と領地の治安と、それからオディールの安全を維持する義務があるのよ)
少なくとも、この世界の倫理観で、神殿騎士の存在は罪ではない。悪ですらない。
欠けられた天秤の先にあるのが飢え死にだとすれば、まだ生きる道があるだけ、その道が罪でないだけましなのだろう。
いつ死ぬともしれない安い命の中から、貴族の騎士に選ばれたなら、それは最高の幸運なのだろう。
「お姉様」
不意に、ぬくもりが右手に触れた。
見下ろすと、アメジストの瞳がじっと私を見上げている。
「顔色が悪いわ。きっと長旅でお疲れが出たのよ。早く休みましょう?」
「おや、なんと。これは私どもも気が利きませんで。高貴な御方の来訪に浮かれてしまったことをお許し下さい。それに今日は風向きも悪い。谷の悪臭がお体に障ったのかもしれませんな」
パウルスは初めて金貨の箱から手を離し、礼拝堂の机へ置いた。
太い指先を軽く動かすと、控えていた神殿騎士が滑るように素早くその足下へ跪く。
「お前達、聖別した香木と聖水を運んでくるように」
「パウルス様」
神殿の奥から巫女が一人が進み出て、パウルスに何事か囁く。
「ふむ。申し訳ありません、ちょうど香木がきれてしまっているようでして。夕方の祈りの時間に聖別して、宿までお届けいたします」
私と同い年ぐらいだろう、年若い巫女の頭を撫でながら、パウルスが笑う。
(距離が、近くない、かしら)
巫女の肩を抱き寄せて、なんならちょっと匂いを嗅ぐように鼻が動いた。
(やっぱりこの神殿で成人式するのやめようかしら)
たとえ、神はほんの小さなメダイにでも宿るとしても、
なんとなく。なんとなく。
「まぁ、ありがたいこと! 感謝いたしますわパウルス様」
オディールが弾んだ声を上げて祈るように両手を胸の前で合わせると、パウルスは巫女から手を離し、笑顔のまま深く頷いて見せた。
「なんのなんの。ダルマス伯爵令嬢に、主神の導きがありますよう」
その瞬間、目を伏せていた騎士の一人が思わずと言った様子で顔を上げた。
平凡な茶髪、苔を思わせる深い緑の瞳。
まだあどけなさの残る少年の顔を、私は知っていた。
『楽園の乙女』の攻略対象、ルネがそこにいた。
驚きのあまり私は声もなくルネを見下ろしていた。
深い色の瞳の底に見えた色に名前をつけるなら、あるいは何かを叫び出しそうなその表情を一言で言うのなら。
憎悪としか呼びようのないものだった。




