王子様のチェス盤
ユーグ・クタールという駒は、傷の多い駒だった。
なにしろ、七家門の長男でありながら、正妻の息子でありながら、魔力がない。
まるっきり、ないのだ。
どうしようもない傷だった。
だからこそ、シャルマンはユーグを気に入っていた。この致命的な瑕疵は、七家門の当主に首輪をつけて、完全に屈服させるのにちょうど良い。
ユーグが侯爵家の当主となれるよう、王族として便宜を図ってやるつもりでいた。
そんなシャルマンの思惑をユーグはちゃんと理解しており、王族に頼るだけではなく他の手段を探しながらも、命綱として『ご学友』の地位を手放さない。そんな地に足の着いた現実的な思考も、シャルマンは気に入っていた。
ある冬の社交シーズンのこと、シャルマンは何度も首をかしげ、目をこすり、口をへの字に曲げた。
ユーグが変わった。
何が変わったというようには見えないのに、変わってしまった。
そう、目が変わった。
(そういえばこいつの目は、こんなに澄んだ水色だったのか)
目の色など変わるはずもないのに、シャルマンは初めてユーグの瞳の色を知った気がした。
クタールのお家騒動は絶賛おしゃべり雀のメインディッシュだ。
ユーグとクタール侯爵家の傍系達がぶつかることは、ユーグに魔力がないと判明した日から発生が確定していたイベントだ。だから、それ自体に驚きはない。
けれど、結末はとても意外だった。
ユーグはあれほど憎んでいた庶子を取り込み、傍系達を黙らせたというのだ。
自力で、嫡子に指名させた。
腹違いの弟と連れだって宮殿へ現れたユーグは、まるで落ち着いている。
(嫡子に指名されたから、精神的に安定したのか)
少し、面白くなかった。
鮫だらけの海を、血まみれで必死に泳いでいる存在だと思っていたのに。
(私と、同じように)
気がついたら、まっすぐにユーグのもとへ歩いていた。
泉の色をした瞳を静かに伏せて、ユーグは貴人を迎える礼をとる。
「おめでとう、ユーグ。あとは貴族院だな」
「ありがとうございます、殿下。心配はしておりません」
ユーグの目が、すぐ後ろの少年を示す。
「僕の弟です。すぐにでも、王国の星となるでしょう。クタールの杖は健在ですから、七家門といえど否は言わせませんよ」
「……へぇ、そうなのか」
赤い瞳の少年は、緊張した面持ちでこちらを見上げている。
けれど、その瞳に恐れはない。
ただ、こぼれるほどの魔力が、指先から、視線から、髪の一筋まで巡っている。全幅の信頼を寄せるには、あまりにも強すぎる魔力だった。
この年で魔力暴走を引き起こすほどの魔力だと、報告を受けている。
「期待しているよ。よく励み、私の友人を支えておくれ」
「はいっ!王太子殿下!」
元気よく下げられた頭に、ユーグはため息をついて、視線で許しを請うた。
もちろん、笑って不問にする。
苦笑しながらも、ユーグが弟を見る目は柔らかい。長く見過ぎたせいか、ユーグが怪訝な顔をした。
「……何か?」
「ああ、いや。なんだか人が変わったようだと思ってな。家族と和解したからか?」
「それも、ありますが」
一瞬、ユーグが眉間にしわを寄せた。
そういえばいつだってユーグにぴったりとくっついていたクタール侯爵夫人の姿がない。いつもどおり、父親の姿もない。それが家族と和解した姿だとしたらいびつすぎる。
完璧な王太子であるシャルマンらしくもなく、言葉選びを明らかに誤った。
ユーグ、シャルマンがそう声をかけようとしたとき、入り口の侍従が新しい客人の名前を読み上げた。
「ジゼル・ダルマス伯爵令嬢」
その瞬間、会場のあちこちからため息が漏れた。
誰かが、「まさか」と呟いた。
誰かが、「イリス様」と呻いた。
「淡雪」「白薔薇」「生き写し」その囁きのすべてを肯定するような、白いドレスを纏ったデビュタントの少女だった。
銀色の髪が揺れて、シャンデリアの灯りに煌めく。
「春を、見つけたんです」
ぽつり、ユーグが呟いた。
振り返ったシャルマンは、今度こそ王太子らしい表情を保つことができなかった。
現れた美少女を見つめるユーグときたら、見たことがないような目をしていたのだから。それこそ、午後の光が差し込む、透き通った泉のように、きらきらと輝いていた。
「ずっと、冬の中にいました。でも、僕の春を、見つけたんです」
恥ずかしげもなくそう言って、微笑んだ。
(お前、そんな顔できたのか)
さすがに王子として飲み込んだけれど、心の底からあきれていた。
ジゼルという少女の手を取って踊る友人を見たとき、その幸福そうな表情に、シャルマンはシャンデリアを仰いでため息をついた。
(傷は、癒えるのか。いや、癒えなくても、進めるのか……いや、ただの色ぼけか?)
シャルマンの中で、傷だらけの駒が、音高く前へ進む光景が浮かんで消えた。
同士を失った寂しさより、近しい友人が幸福そうに笑っていることが嬉しかったので。
(私は案外、お前のことが好きだったんだなぁ。ユーグ)
妙にくすぐったい胸のざわめきは、きっとユーグの色ぼけが移ったせいだろう。
所在なげにたたずんでいるユーグの弟の、赤く切実な色をした瞳も気になるところだ。
(さて、どうやってからかってやろうか)
ロイヤルスマイルを口元に浮かべたまま、シャルマンは珍しく、心の底から笑っていた。
幾百の夜会より、今日この日のデビュタントの煌めきを、ずっと覚えているのだろうと。
なぜだか、シャルマンはそう思った。
「五年たっても何一つ進展ないとか思わないだろう普通」
ポーンを前へ。傷一つないつるりとした駒が進む。
「何のお話かわかりかねます、王太子殿下」
「お前の『春』の話だ。クタール小侯爵」
ナイトが動く。女王の身代わりに、あるいは敵陣へ切り込むために。
「私の善意をことごとく無駄にしたことを忘れたとは言わせないぞ。王宮の書庫を開放して、禁制の魔道具を作ることを見逃して、結婚契約書に神官まで用意しておいてやったのに。お前から逃げ切ったジゼル嬢が私の部屋へ駆け込んで来たんだ。その上私の目の前で気を失ってみせるじゃないか。あの時の私の気持ちがわかるか?」
じろりとにらみつける王太子に、クタール小侯爵は焦る様子もなくため息をついて見せた
「腹がよじれるほど笑っていらしたでしょう」
「その通り。『ざまぁみろ』というやつだ」
さっきまでの渋面はもちろんポーズ、一転、王太子はご機嫌に笑う。
「二度は協力しないぞ?思い切り後悔しろ。あのとき洗脳の魔道具をジゼル嬢に使ってでも、恋しい春を手に入れておくべきだったとな」
「しませんよ。我ながら短慮でした……あなたに煽られたくらいで頭に血が上るなんてどうかしていた」
ユーグは眉間にしわを寄せて再びため息をつき、自身の右手を見下ろした。
ジゼルの赤く染まった頬と、震える細い手首を思い出して、唇を噛みしめる。
何かに怯えるように、庭木に止まっていた鳥が一斉に飛び立った。シャルマンは気にした風もなく紅茶をすする。
「しかし意外だったな」
「何がですか?」
「君が早々にリンデン伯爵を排除しなかったことさ」
「そうすべきだったと後悔していますけどね。他人の領地で交わされた会話をすべて聞けるほど僕の耳はよくありませんよ」
「君が白薔薇の話題を聞き逃すわけがないだろう」
「幼い日からの友誼と忠誠を信じていただけないとは悲しい限りです、殿下」
「面白い冗談だ。もちろん、一度だって疑ったことはないとも」
盤上の兵士が、また一人脱落する。黒のビショップが刈り取られる。
「別にリンデン伯爵家に与えなくてもいいではないですか」
すました顔でそう言って、ユーグは勝ち取った駒を指先でもてあそぶ。
「横取りするつもりだったのかい?」
「ダルマスの館あたりまで領地戦で手に入れられれば。まぁ、他がリンデン伯爵領になってもかまいません。いっそもっと重い罪を着せていただければ、ダルマス伯爵令嬢の助命嘆願を僕が願い出たんですがね」
「君は鳥が羽をもがれるのを黙ってみていればいいわけか。幼馴染みにして初恋の淑女の危機に颯爽と登場する侯爵令息、陳腐だが流行りそうな歌だ。さぞ豪奢な鳥かごを用意していたんだろう?残念だったな」
命を救われた流れでプロポーズをすれば、義理堅いジゼルが断れるはずがない。
目に浮かぶようだ。
遠慮がちに、ためらいながら、ぬるま湯のような優しい声でプロポーズを受ける姿が。
それを、殺しそうな目でにらみつけているオディールも。
そんな光景が流れるように脳裏に浮かんで、ユーグは口元を緩ませた。苦笑である。
「どうした?」
「いえ、鳥かごが薔薇に砕かれるイメージしか浮かばなくて」
「君の家の薔薇はずいぶん執念深いんだな」
「うちではありません。ダルマスです。レンガを砕き、騎士の斬撃に耐え、根の一本に至るまで燃やし尽くすまで決して枯れない薔薇です。庭先に一輪投げ込まれただけで、王城の花壇は全滅すると思ってください」
「ははは、怖い怖い」
シャルマンは軽く笑って見せたけれど、ユーグの表情から常ならぬ何かを察したらしく、空のカップを丁寧にソーサーに戻した。
「……本気か?」
「ご想像にお任せしますが、忠告はしましたからね」
「腐っても建国期の英雄の末裔か」
黒のポーンを前へ。
珍しく口をへの字にしたシャルマンに、ユーグは首をかしげた。
「お気に召しませんか」
「個人的にね。あの目がひっかかってならない」
あの、アメジストの瞳。
何もかもを知っているかのように深く煌めき、奇妙に心を不安にさせる。
「まぁ、きっかけが負の感情だなんてよくある話じゃないか。出会いは最悪、感情が反転して恋になる。愛情の反対は無関心だからね」
対戦相手から殺気に近い圧を感じて、シャルマンは咳払いをした。
「冗談だ、怖い顔をするな。……そうだな、彼女は」
黄金の瞳が、何かを思い出そうとするようにチェス盤を見下ろしている。
「彼女の目は。まるで観客のような目だ。ジゼル嬢の世界で生きているのは彼女と妹だけ、そう見える。相互理解なんて望んでいない。最初から諦めている。いや、期待すらしていない。舞台の上の役者達に対して、愛憎を向けても無意味だからね」
ユーグは目を見開き、シャルマンを見た。
シャルマンはチェス盤を見下ろしたまま、つるりとした女王の駒をなでている。
「相手を人とも思っていない。なんとも失礼な話じゃないか」
「殿下、それは」
「私の友人はね、ユーグ」
ユーグの言葉を遮って、シャルマンは指先を組んで椅子にもたれ直した。
「多少性格はねじれているが努力家で誠実な良い奴なんだ。それがこれほど献身的に愛を捧げているのに、視界にすら入っていないっていうのはどうしたって気分が悪い。よほど心臓の強い女傑なのかと思ったら、温室の花じゃないか。自分が誰にどうやって守られているのかも自覚していない」
シャルマンの言葉を肯定するように、ざわざわと木が揺れた。
漏れ出した魔力を指先一つで収めると、シャルマンは一つ小さなため息をついた。
「ただまぁ、そうだね。オディール嬢を見ていると、焦がれる気持ちもわかるさ。案山子でも見るように世界を見ている美女に、たった一人の特別としてあれほどの愛を捧げもらえたなら」
シャルマンは正面からユーグを見て、にやりと笑う。
「そそられない男はいないだろうね」
「俗な物言いはやめていただけませんか」
今度はユーグがむっとした顔を見せて、ポーンを進める。
「すまない、君のは初恋だったな」
これっぽっちもすまないと思っていない表情でシャルマンが肩をすくめる。
「いずれにせよ、ダルマスについてはお前に任せるよ、ユーグ。お前の恋が実るなら良し、実らなければ鳥かごにでも入れるんだろう?」
心優しく誠実な人間には、はじめから選択肢にもないカードがある。
ユーグはそれを所有していて、なおかつ場に出すことができてしまう。
穏やかな海の生き物ではないのだ。それを証明してしまった。
「聖女候補がいるリンデンも、君の愛するダルマスも、残念ながら王都からは遠い。王家が最も信頼する杖、クタール侯爵家に対応を一任するとしよう」
(正直商会のことは、今回を機に潰してしまいたかったが、クタールを敵に回すほどじゃない)
ダルマス小伯爵、次期女伯爵ジゼルは、野心があるようにも悪女にも見えなかった。
だが、手折られるだけの花なら気にもとめなかったのに、結果的に伯爵令嬢の身で公爵令嬢を殺してみせたのだ。
ライバルを永遠に屠っておきながら、結局王太子妃の地位からもあっさり手を引いた。
(追い詰められた子ウサギの抵抗か。狐なら無害を装うのが上手すぎる。面白いな)
シャルマンは笑う。
様々な感情が交ざって複雑に光る、アメジストの瞳を思い出していた。
あんなにも正直に、目でキレられたのは久しぶりだ。
殺意ではなく抗議で。
つつくと膨れるおもちゃのようだった。
美しいと言うよりは……面白かった。
(思いのほか楽しかったから、少しだけ惜しいが)
だが手を伸ばせば面倒が多すぎる。
シャルマンは酸っぱい葡萄を冷めた紅茶ごとのみ干した。
「それにしても、面倒な男に好かれたものだ。ジゼル伯爵令嬢も」
「僕も、そう思います」
「国の害にならなければ私は何でもいいさ。我が友よ、君の健闘を祈っているよ」
「この身に代えましても、王太子殿下」
「……なんだか無理心中を予告されているようで怖いな」
ユーグは答えず、にっこりと涼やかに笑って見せた。
それ以上を聞くことなく、シャルマンは政治と宗教の話に舵を切った。
特に神経を使う会話が、先ほどまでの不気味な沈黙を完全に押し流すまで、シャルマンはジゼル伯爵令嬢の頭文字すら口にしなかった。
リスクマネジメントのできる男。
それが王太子シャルマンである。
一日遅れてしまいましたがコミックス第一巻発売となりました~!
これも皆応援してくださっている皆様のおかげです!
とけたあお先生のとっても可愛いダルマス姉妹をお手にとっていただけると嬉しいです。