とある悪役令嬢の反省会
波乱の社交シーズンは無事幕を下ろし、見慣れた屋敷の応接室でいつもの面々とティーセットを傾ける。
オディールは、こんな時間が幸せなのだと言った、欲のない姉に視線を向ける。
いつも青白い顔をしているジゼルにしては珍しく、薔薇のジャムより真っ赤な顔をして客人を恨めしげににらみつけていた。
「もうその話は忘れて、お願いだから」
「あら、私は何回だって聞きたいわ」
「オディールまで……」
頭を抱えたまま涙目でにらみつけるジゼルに、オディールはご機嫌な笑顔で答えた。
そんなリンゴみたいな顔でにらまれたって、ちっとも怖くない。
姉をからかう妹に、リュファスが吹き出すように笑った。
「いいじゃん。かっこよかったし。可愛い妹のためなら、ってスージオを脅迫するジゼル、なかなか見られるもんじゃないしさ」
「まぁ、お姉様のことだから、子猫が爪を立てている程度にしか思われなかったことでしょうね!」
悪い気はしませんけれど、オディールが付け加えると、リュファスは苦笑し、ユーグはため息をつく。
わりとガチめに怖かったけど、というリュファスの呟きは紅茶を注ぐ音に流された。
「私が同じ目にあったなら、ジゼルは彼を脅迫してくれたかな」
「えぇ……?うーん、どうかしら」
ユーグの問いに、ジゼルがふんわりと首をかしげる。
「まさか助けてくれないつもりか?少々冷たくはないかい?……少なくとも、友人だと思っていたのだが、僕だけだったとは」
「えっ、あ、助けないっていってるんじゃないわ!?もちろん全力で救出に協力させてもらうし、ダルマスができることがあるならなんだってするけど……ユーグが誘拐されるとして、クタール侯爵家とリュファスが動くでしょう?そのうえで解決できない相手に、私が脅迫なんてしても、効果も薄そうだしあまりいい手ではないような……」
「……救出方法を具体的に考えてくれて嬉しいよ」
真剣に考え込むジゼルに、ユーグが複雑な顔をする。
かみ合わない様子に、オディールは赤い髪をふわふわ揺らして鼻を鳴らした。
ユーグの泉の瞳と、オディールのアメジストの瞳がかちあう。言葉にせずとも伝わる思いというのは、あるのだ。
「ふふん。存分に羨んで下さってかまわなくてよ?」
「……うらやましいとも」
笑顔ばかりは優雅に、切実な重さでユーグがため息のように吐き出した。笑顔の爽やかさと声の重さが合っていない。
「楽園を諦めるほどの愛なんて、口先だけでも熱烈なのに。心からそう捧げられたなら、それこそ国を傾ける恋に落ちることができるだろう」
どこかほの暗い熱を沈めた泉色の瞳に、オディールは『そりゃああなたはお姉様のために人を殺せて死んでしまえるでしょうね』という言葉を飲み込んだ。大ぶりのフィナンシェをまるごと口に含む必要のある、重い言葉だった。
楽園を諦める愛。
愛故であっても、人を殺すような人間は、楽園の門をくぐることはできない。
罪を厭わない献身は、教義に照らせば悪でしかない。
それでも、オディールは思い出す。
『オディール。私ね。あなたのためなら、命だって惜しくないのよ』
『多分、人を殺すことだってできるけれど』
そう微笑んだジゼルの目に、嘘はなかった。哀しそうに、それでも愛しげに抱きしめてくれた、冷たく細い手を思い出すたび、紅茶を飲み込むのが難しくなる。
姉がそれだけの覚悟を持って迎えに来てくれたのだと、文字通り必死になって頑張ってくれたのだと。オディールはじんわり心が温かくなるのを感じた。
それと同時に、締め付けられるほどきゅうと心臓が痛むのも。
(こんなに愛を捧げてくれる人に、生涯出会える人なんて、本当に稀なんじゃないかしら)
物語のような甘い事実が、頬を薔薇色に染めてしまう。
「困るわ。お姉様のせいで、私の縁談のハードルがあがってしまいそう」
「私よりはましじゃない……?」
頬に両手を当ててオディールがため息をつくと、ジゼルがそれより深いため息をついて応じた。
王太子殿下を籠絡した社交界の白薔薇は、なんとその後パートナーの座を妹の紅薔薇に奪われた。
ダルマス伯爵姉妹が自領に戻る前夜のこと、最後の夜会でオディールをエスコートしたのはシャルマンだった。黄金の髪飾りをオディールに贈り、それはもう光り輝く笑顔で、オディールをエスコートし、ファーストダンスを務めた。
それだけでも社交界はもはや餌を投げ込まれた池の鯉のような勢いで口を開いていたのに、二曲目はジゼルをパートナーにしたものだから、もはや鯉が土手を這い上ってくる勢いだった。
田舎の美人姉妹を翻弄する色好みの王太子か。
はたまた、王太子の寵愛をあの手この手で独占するダルマス伯爵家の策略か。
「そういえば最近殿下がおっしゃっていたんだが」
「き…聞きたくない」
「教えて頂戴!」
正反対の姉妹の反応に、ユーグは笑う。
「白薔薇よりも美しく、赤薔薇よりも闊達で、あとはまぁそれなりに魔力のある娘なら、すぐにでも王太子妃にするそうだ」
「いないだろ。無茶言うな。というかこの二人混ぜるとかとんでもない事故にしかならねぇって」
「僕もそう思う」
「失礼だこと。お二人とも一生独身でいらしたらよろしいんじゃなくて?ねぇ、お姉様」
「放っておいてもこの二人ならいくらでも縁談が来るわよ。うう、頭痛い……」
一瞬表情を固まらせた兄弟は目に入らない様子で、深々と、ジゼルはため息をついた。
実のところ政敵を追い落として我が世の春とばかりにご機嫌な王太子が、今後来るだろう縁談ラッシュを牽制するためにダルマス伯爵姉妹を利用したに過ぎない。
「王太子殿下が私に懸想しているなんていう噂が残っているから、よほど心臓が強い方か、政治的な目的のはっきりした方でないと縁談が来そうにないのよ……ただでさえ出遅れてるのに、こんな調子で結婚なんてできるのかしら」
アメジストの瞳が窓の外を見て、ちらつく雪にまたため息が漏れる。
まるで彼女の先行きを示すかのように、空は薄暗いままだ。
「……ああ、そうだ。ジゼル」
「?」
「先日渡し損ねた魔道具なんだが」
ユーグの言葉に、びく、とジゼルが肩を跳ねさせた。
その様子を見て、オディールが首をかしげる。リュファスは何も言わず、目を細めただけだ。
アンが銀の盆に載せた小さな箱を運んできた。
ユーグがそれを受け取って、そのままジゼルに差し出す。
「ちゃんと修理ができたよ。出入りの職人の鑑定を受けているし、正常に動作することも保証してもらった」
「そ、う、なの?ありがとう、ユーグ。その、このあいだはごめんなさい」
「かまわない。僕が勝手に落としただけだ」
ちらりと、ジゼルがリュファスを見る。
リュファスが深く頷く。その表情は完璧にコントロールされていて、逆に感情が読めない。
興味津々、とオディールがのぞき込む先で、薄い箱が開けられる。金色のリボンがかかった水色の箱から、薄紫色のリボンが顔を出す。
裏面に、金と銀の糸で刺繍がされている。
リボンの裾に止められた金具の隙間から、赤い輝きがわずかに漏れていた。
「この通り素人の作った物だ。矢の一本くらいは防げるはずだけど、あまり過剰な期待はしないでくれ」
「もしかして、これユーグが作ったんですの?」
「出力関係は俺も調整手伝ったけど、回路は全部兄上だな」
わぁ、とオディールが歓声を上げる。金銀の糸を縫い込み、あるいは金属をインクのように描いたリボンが魔方陣を描いて模様のようにキラリと光る。
「ユーグってこんな特技もありましたのね!綺麗!すごいわ!ね、お姉様」
「ええ、本当に!すごく綺麗。クタールで売っている物と遜色ないんじゃないかしら?」
目を輝かせる姉妹に、ユーグは少しだけ目を見開き、表情を隠すように顔を伏せた。
わずかに赤くなった耳をつついて、リュファスが笑う。
「やめろリュファス」
「なー。わかるわかる、ああいうところほんとずるいよなぁうちのお隣さんはさぁ」
「? なんですの、二人して」
「いーや。うちの兄上はあんたらのためなら多分楽園の門くぐれなくなっても後悔しないんだろーなーって話」
「うるさいぞリュファス!」
「今そんな話していた?」
「宗教学とか哲学のお話なら、私聞く気ありませんわよ?」
つながらない会話に、姉妹が揃って首をかしげる。
ちっとも似ていない銀色と深紅が揺れるのに、傾けた首の確度がまるで同じなので、ユーグとリュファスはそろって吹き出した。
「じゃあ、ジゼル、僕が」
「お姉様、私が着けて差し上げるわ」
「そう?じゃあお願いね!オディール!」
ユーグの手を遮るオディールはいつものことだが、食い気味にオディールの名を呼んだジゼルに、オディールは首をかしげる。
「お姉様、どうかしまして?」
「あ、ううん、何でもないの!本当に、なんでもないから」
不自然な沈黙を、布のこすれる音が埋めていく。
柔らかなリボンは、ジゼルの銀色の髪にふわりと巻きついて、少しばかりいびつな蝶々結びになった。
暖炉の上の鏡の前で、角度を変えながら顔を映して、ほんの少しだけ赤く染まった頬でジゼルが微笑む。
「ありがとう、ユーグ、リュファス。プレゼントのことだけじゃなくて、今回手伝ってくれたこと、全部……本当にありがとう」
「……どう、いたしまして」
「ん、別に」
ぼんやりと、完璧な紳士らしからぬユーグのつまらない返答だった。
赤い瞳をそらして、リュファスは照れたように笑った。
柔らかな日差しに、ジゼルの銀色の髪とライラックのリボンがさらりと揺れた。
「あ、今回かかった経費と騎士団の皆さんへの謝礼についてはちゃんと商会を通してクタールに返すから。ちゃんと受け取ってね?」
「は」
アンがユーグの手から落ちたカップをキャッチする。
「わぁ。だと思った」
「こういうのは友達だからこそちゃんとしないと。リュファスにも、魔法院の方に素材とか贈るから、もし欲しいものがあったら言ってね。なるべく頑張って探すわ。王国の星を個人的にこき使った謝礼には足りないかも知れないけど」
「うん、ありがとな、ジゼル。友情割ってことにしとく」
ユーグは拳を握り、リュファスは半笑いで頷き、オディールはにっこりと笑った。
「さすっがお姉様!貸し借りゼロは人生の基本だって叔父様も言ってましたものね!あ、それとユーグ、あとで温室裏に顔貸して下さる?そのリボンのお話、聞かせてくださいな」
「なぁ、下町のチンピラでももうちょっとオブラートに包むと思うぞオディール」
「温室の裏手は日陰だからこの時期まだ寒いわよ、オディール」
「僕が呼び出されることについては異論はないんだな二人とも」
誰ともない笑い声に満ちた客間は、いつも通り薔薇の香りで満ちている。
庭先には、早咲きの薔薇のつぼみが少しずつ膨らんでいる。
遠く、冬毛の小鳥が鳴く声がする。
大きな窓から降り注ぐ光に向かって、オディールは目を細めて、ひっそりと微笑んだ。
王都で見た緋色の絨毯は遠く、黄金の冠には手が届きそうもない。
けれど今は、降り注ぐ金貨より、5月の薔薇の花びらが恋しい。
(『今』と『お姉様』を失ってまで、手に入れたいものではないんだわ)
薔薇の棘は、獅子のように自ら噛みつく牙にはならないけれど、奪おうとするすべてから守るには存分に真価を発揮する。
「ねぇ、お姉様」
「なぁに?オディール」
「お姉様は私が守って差し上げますわ」
同じ色をしたアメジストの瞳で、ジゼルは目を丸くして、それからにっこりと笑った。
「ありがとう、オディール。あー、うん。ほどほどにね?」
後日、悪役令嬢オディールの『守る』の定義づけを明確にしなかったこと、『ほどほど』という曖昧な尺度を使ったことを、ジゼル伯爵令嬢は心の底から後悔することになるのだが、これはまた別の話である。
これにて二章終了となります。
お付き合いいただきありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
明日はコミック第一巻の発売日です!
とっても可愛い書き下ろしも書いていただいているので、是非お手にとっていただけると嬉しいです。