波間
降りしきる雪と冬の時化、荒れる海に出たがる船は少ない。
定期船を持っている一角商会でなければ、きっと怪しまれたことだろう。
人目をはばかるようにローブを目深にかぶった人間が四人並んで波止場に立っている。
積み荷はトリュトンヌとスージオ、送り主は私とオディールだ。
「お姉様ったら、甘すぎます。首を切ったって足りないのに」
「オディール」
たしなめる声に呆れが含まれるのは致し方ないと思う。
「そこに正義があっても、楽園の門は罪だと判じるでしょうね」
なるべく人に優しく生きましょう、とオディールの頭をなでる。
幼子にするようなそれに、スージオが「どの口で」と低く呟いたので、オディールに足を踏まれることになった。
トリュトンヌが私の手を取った。貴族達の、労働を知らない細く綺麗な手だ。
私の手と、同じ。
「感謝いたします、ジゼル様、オディール様」
「海の向こうへ行って、二度と帰らないことね!」
「そのつもりです。戻ったところで牢に入れられるだけでしょうし」
「無事を祈ります」
別れを惜しむ間柄ではない。
逃走したい罪人がいて、余計なことをしゃべられたくない貴族がいて、利害が一致しているだけだ。
「そういえば、代理人、という方はどなただったのですか?」
ふと思いついて口に出した私の言葉に、トリュトンヌは何かを考えるように口元に触れた。 カエルラ公爵家のことを考えているのだろう。
カエルラ公爵はあの場所でがれきの下敷きになり、楽園の門をくぐった。
王太子殿下は公爵家の悪を暴き、法の下に断罪した。
当然公爵家傘下の貴族達は抵抗したけれど、自らの巣を虫食いにした烏合の衆にできることなど限られていた。血筋として旗頭にすべきトリュトンヌ公女も行方不明ときている。とはいえ、その旗頭も偽物なのだけれど。
「私はお顔を拝見したことはないんです。後継者を決めようと一族会議をしていた頃には、遠い縁者の、下級貴族の娘でしたから」
「そうですか……」
今となってはカエルラ公爵もいないので確かめようもないけれど、危険な薬品の流通にも関わっているのなら、なるべく距離を取っておきたい。
商売敵か、取引先か、いずれにせよだ。
桟橋を渡りながら、トリュトンヌが不意に振り返った。
「あ、でも。一度だけ、お声を聞いたことがあります。黒猫をしゃべらせていました。魔道具か何かだと思うのですが」
「え」
一瞬、脳裏に浮かぶ、常春の城。暗い廊下。
薔薇の下の招待状。
冬の風が、桟橋をガタガタと揺らして、ふらついたトリュトンヌをスージオが支えた。
船員が小走りに近づいてきて、頭を下げた。
「出航してよろしいですか、お嬢様。海の様子があまりよくありませんから、もう出ませんと」
「……ええ、そうして頂戴。お二人に、主神エールの導きがありますように」
「お二人にも、主神エールのご加護がありますように」
恭しく頭を下げて、トリュトンヌという偽名の女は甲板に消えていった。
冬の海は暗く、荒れていて、うつろな骸骨の眼窩を思わせた。
波に揺れる船を眺めながら、ようやく弔われた無数の骸骨を思い出し、目を伏せる。
自らに後ろ暗いところがあれば相手も後ろ暗いことをしているはずだと思う。
己が損をすることは許せないし、相手が自分より得をするのも許せない。
「本当に、愚かね」
一筋の寂寥と共に、呟いた言葉もまた冬の波間へ消えていった。