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地下室

 暗い通路に足音だけが響く。

 湿った石の道に、裾がぬれないようローブをたくし上げながら進む。

 暗闇のせいか、それとも気温をコントロールする魔術が遠くなるせいか、一歩進むごとに寒さが身に染みる。


(オディールが、風邪を引いていないと良いけど)


 そうでなくとも丸一日が経過している。


(おなかをすかせてるわよね。脱水症状とか起こしてるんじゃ……)


 壁を伝う水の筋に目をやるけれど、とてもではないが衛生的とは思えなかった。

 ローブの裾を踏まないよう急ぎ足で階段を降りる。

 浅い階段は、長さこそあれ傾斜が緩やかで、さほど深くはないようだ。

 トリュトンヌの言葉通り、分かれ道はなく、壁伝いにまっすぐ進んでいく。

 やがて、少し開けた空間に出た。

 ランプの明かりで照らしきるにはギリギリ足りないような、頼りない空間だ。

 けれど、その部屋はほんのりと青白い光に照らされていた。


「あれは……」

(水晶?それとも、氷?)


 青白く光る透き通った鉱石が、壁の一部を大きくくりぬくように鎮座していた。

 しおれた白い薔薇で飾られたそれは、はたして氷の塊だった。

 この地下室の温度が低いのは、屋敷に施された保温の術式が遠ざかっただけが原因ではないようだ。


(この地下室は使っていないと言っていたのに)


 こんな壁の奥の地下室を冷蔵庫代わりに使うには使い勝手が悪すぎるだろう。

 空気を含んだ氷が白く濁るように、銀針を閉じ込めたような透明度の低い氷の柱を見上げていると、何かがランプの明かりに光った。

 氷柱の中に、ぼんやりとシルエットが見える。

 その中に、金属でも含まれているのか、ちらちらと光る物がある。


(何かを凍らせてるの?)


 手を伸ばして壁に近づこうとした瞬間、脳裏をよぎったのはトリュトンヌのおびえきった顔だった。

 彼女はなんと言ったか。

 そう、もう二人も、地下へ送られたと。

 皮膚という皮膚に鳥肌が立って、背中を冷たい手でなでられた気分になる。


(早く、オディールを探そう)

「オディール、いるの?」


 声がこだまして、暗がりに消えていく。

 返事はない。


(スージオは最低限の備えはある場所だって言っていたけど)


 思った以上に地下室は寒い。


(低体温症にでもなってるんじゃ)


 嫌な想像が私の足を前へ前へと進ませる。少しひらけた空間をランプで照らして、行く先を確認しようとした目が、止まる。

 カビだらけの暗い色をした石壁に、明らかな違和感のある色彩。

 なんとかして悲鳴をかみ殺して、それが人の形をしていることに気がついた。

「そこに、どなたか、いらっしゃるのですか」

 魔術院から派遣された魔術師だという設定を自分に言い聞かせて、声が震えないように絞り出した。


(さっきオディールの名前を呼んだことを聞かれていたわよね……もし聞かれたら、どうやってごまかそう)


 ランプの明かりが暗闇から人の形を掘り出す。

 服に縫い取られた刺繍がキラキラと反射する。

 色ははっきりと見えない、けれど、わずかにウェーブした髪に見覚えがあった。


「か、カエルラ公爵……?!」


 うつろな目をしたカエルラ公爵が、両足を冷たい床に投げ出して、湿った壁にもたれかかっていた。

 私の声が聞こえたのか、焦点の合わない目がこちらを見る。


「イリス嬢?」


 母親の名を呼んだ。

 下から見上げられる形になり、ランプを手にしたこちらの方が明るいこともあってはっきりと顔が見えたのだろう。

 どう答えて良いのかわからず私が迷っている間に、カエルラ公爵は立ち上がった。

 まるで不調など感じさせない、貴族然とした優雅な動きだった。

 地下の土とほこりに汚れた衣装のせいで、その優雅さは恐怖しか生まない。


「ダルマス伯爵令嬢。久しいな、トリュトンヌが生まれるまえに、顔を出したきりだったろう」


 それはそのはずだ。

 オディールとトリュトンヌは同い年。つまり、トリュトンヌの生まれた年に母イリスは命を落としている。


「一体こんなところで何をしている?」

「……人を、探しております。迷い込んでしまった子がいて」


 言葉を選びながらじりじりと後ずさる。

 正気を疑われている成人男性を相手に、こんな誰も来ない地下室で相対するなんて考えてもみなかった。


(カエルラ公爵がここにいることを、トリュトンヌは知らなかったの!?)


 すでに通夜のように沈みきった館の空気を鑑みて、積極的な情報共有がされているとは思えないが、せめて居場所くらい把握してほしかった。

 私が一歩下がると、それより大きな一歩でカエルラ公爵が距離を詰める。


(何か、言わなくちゃ。私をイリスお母様だと思ってるなら、何かお母様っぽい、いやでも私も『イリスお母様』のことなんて何もわからないんだけど!?)


 おぼろげな記憶の向こうで、儚く微笑んでいた美しい貴婦人。

 原作には名前しか出てこなかったオディールの母親。

 ランプの明かりでカエルラ公爵の表情がはっきり見えるほどの距離に迫られて、心臓が嫌な音を立てる。呼吸が浅くなる。


「人を探していると言ったな。ダルマスにはもうそんな力もないのか」


 怒りとも悲しみとも着かない表情で、カエルラ公爵は一方的に語りかける。


「お前は、お前の父親達は、あの呪われた土地を削り取られている間、一体何をしていたんだ」

(ダルマスが没落してたときのことを言っているの?呪われた土地、って。いやもともとは税収のほとんどない貧しい土地だけど)

「この国を、この土地を、千年の安寧を得るために、私たちの祖がどれほどの血を流したと思っている。どいつもこいつも使えない!」

「!?」


 突然激昂したカエルラ公爵声に反応するように、暗闇に火花が散った。

 目がチカチカする。

 公爵の指にはめられた指輪から、火花がまた咲いた。魔力同士がぶつかったことで見られる現象だ。魔道具にあしらわれる回路が細かく光っていて、そこに魔力が流し込まれたのだとわかる。


(魔力を押さえる、魔道具?)


 古く高貴な血を持つカエルラ公爵家だ、当然その血に流れる魔力は国でも上位の物のはずだ。分家の貴族達が公爵家の乗っ取りを考えるなら、そして当主がまともな状態でないのなら、危険な武器は取り上げたいと思うだろう。


「梟の血族は途絶えた。あの箱に居座っているのは偽物だ」


 ぶつぶつとカエルラ公爵がつぶやくたび、魔力に反応して指輪の周りでバチバチと火花が散る。


(いったいどんな魔術を使おうとしてるの……?)


 指輪に押しとどめられ不発に終わった魔術が、友好的な効果をもつ魔術とはとても思えない。


「北の国境はただの荒れ地だ。あの地にいる狼なんぞに何の価値もない」


 また一歩、カエルラ公爵がこちらへ近づく。


(オディールを探しに行きたいのに)


 カエルラ公爵の横をすり抜けなければ、奥へ進めそうにない。


(公爵が魔力を封じられてるなら、対抗できる……?)


 だが、この空間には水がない。

 壁際に申し訳程度に流れている水の音に耳を澄ませる。

 そうしている間にも、カエルラ公爵はじりじりと距離を詰めてくる。


「隼は爪を失った。継承することを拒絶した。断絶されてしまった。あの臆病者め、あの大馬鹿ものめ、あいつが生まれたときに祝福したすべてのものを台無しにした」

(それって)


 不意に、耳に入ってきた単語に顔を上げる。


(クタール侯爵家のこと?)


 隼と杖、そして臆病者。

 親世代のことを現在のことだと思っているカエルラ公爵にとって、臆病者とはクタール侯爵のことだろう。

 とうとう、私の背中が壁についた。

 壁を探って、指先に冷たい水の感触を得る。


「ダルマス、茨の中の薔薇。最も忠実で最も古いダルマス」


 カエルラ公爵の手が、ローブのフードに触れた。目深にかぶっていたフードが落とされ、頬に触れる手は冷え切っていた。


「ダルマスが棘を失う日が来るなどと知っていれば、もっと早くに手を打っただろうに」

「カエルラ公爵、無礼ではありませんか」


 少なくともレディの許しなく頬に触れるようなことは。

 冷たい手を押しのけると、目を細めて、何かを懐かしむような笑みをカエルラ公爵は浮かべる。


「少なくとも石の城は獅子に継承すべきだった。あれは最後の砦だ。あれが最後の機会だったのに、あの女は、私の愚かな妹は、王妃は、その役割を果たせなかった」

(会話が成立しない……!)


 熱に浮かされたように、うわごとのような言葉が一方的に投げかけられる。


「いいやまだ、まだだ、トリュトンヌがいる。私の可愛い娘。私の愛する娘。あの子が新しい獅子を産めば、まだ間に合うかも知れない」


 公爵の死角になるよう隠した手のひらで、魔力を巡らせた水が少しずつ貯まっていく。

 だが、流れる水の量が少なすぎて、これではナイフを作ることもできないだろう。

 せいぜいが手のひら大のつららくらいのものだ。


(そもそも、攻撃していいの?おかしくなっているとはいえ公爵を?直接??)


 正当防衛だと主張できなければ、たとえ王太子でもダルマスをかばうことは難しいだろう。 いつ暴発するかわからない爆弾入りの箱を渡された気分だ。


「なぜそこまで、トリュトンヌ公女を王妃にと望むのですか」


 苦し紛れに、拾えた単語で会話を試みる。

 少なくとも、彼の中でその部分だけは現在の時間軸の行動だ。だが、私の言葉を聞いたカエルラ公爵は目をむいて大きく息を吸った。


「私があの子を王妃になぞ、望むわけがないだろう!あの子はなるべく遠くへ嫁がせて、この呪いから一番遠い場所で、幸せに。……いいや、だめだ。妹は獅子を産めなかった。だから、カエルラの血脈として、……トリュトンヌは王妃にならなくてはいけない」


 激昂したと思ったら急に声のトーンを落として、ぶつぶつと、カエルラ公爵の独り言は続く。

 異界をのぞき見るような焦点の合わない目が、急に私を捕らえた。


「どうしてあの子がこんな目に遭わなくてはいけない」


 ぞっとするような冷たさが、肺腑のそこからせり上がる。

 集中力が乱れたせいで、手のひらに集めた水が一筋、指の間からしたたり落ちた。


「イリス嬢。その銀の髪、そのライラックの瞳、お前はあの幸福の光景の姿のままだ。

なぜ、お前は失わない」


 後ろ手に、手探りで水を探していた私の手に、突然ひんやりと冷たい感触があった。

 湿った土の壁から、突然氷の塊に触れた驚きでびくりと指先が震える。


「お前はなにひとつ、失っていない」


 一体何に触れたのかと、私は振り返った。

 振り返ってしまった。

 そうするべきではなかった。

 ほんのりと光り、魔力を帯びているとを示す氷の塊と、目が合った。

 正しくはその氷の塊に閉じ込められた、少女と目が合ったのだ。

 まどろむように薄く瞳を開いた、その目の奥に光がない。


「私はすべてを失っているのに。失ったのに」


 カエルラ公爵の言葉が耳を通って頭を殴りつける。

 薄く開いた口が動くことはなく、今まさに水に溺れたように水泡を抱いた氷の中に浮かび上がる。オリーブ色の髪の毛、そばかす一つない白磁の肌、オディールよりずっと年下の少女が、凍っていた。


「ひっ!?」


 恐怖と動揺で、手のひらに集めていた水が流れ落ちた。


(しまった)


 死体があるかも知れないとは思っていたけれど、想像と実際に目にするのではまるで違っていた。ささやかな対抗手段さえ失った焦りで心臓があり得ない音を立てる。


「お前も失うべきだ、イリス嬢。ダルマスの最後の一人」

(氷、を。水がダメでも、氷なら)


 死体を封じている氷を使う、という倫理に対する躊躇は一瞬だった。奥歯をかみしめてうっすら光る氷に手を着けると、瞬間、体温が一気に下がる感覚があった。


(魔力が制御できない!?普通の氷と違うから!?)


 内臓に手を突っ込まれて無理矢理食道から胃を引きずり出すような不快感と、ぐらぐらと定まらない視界、生命の危機を感じて体中が警鐘を鳴らすのに、氷の壁に触れた手は万力で固定されたように動かない。

 他人の魔力をたっぷりと吸った氷と、私の恐怖が呼応するように、氷の表面でピシピシと細かにひび割れる音がして、二重の意味で血の気が引く。


(動かせる、多分動かせるけど)


 通常なら少しずつ水や氷に魔力を注いでやらなければならない、その手間が省かれている分、この氷を今すぐ操ることが可能だ。

 問題は、この氷に注がれた魔力が大きすぎることだ。

 何ヶ月も、何年も、魔力で凍らせ続けたかのように、指先に感じられる魔力は膨大だ。

 それも、他人の魔力の塊。

 受け入れてコントロールするには、私の魔力の器は脆すぎる。このままこの氷を動かすのは、大まかな方向性しか指示できない凶悪な兵器を動かそうとするような物だ。


「薔薇を刈り取ろうという者がいて、その棘がもはや薔薇を守ることができないのなら。茨の中の薔薇、ダルマス、お前はもはやただの鍵でしかない。それなら」


 カエルラ公爵が何を言っているのかまるでわからないし、そもそも会話が成り立っていない。迫り来る正気を失った男を前に、全身が恐怖と寒気で震える。


(制御できない、今動かしたら)


 寸止めや、防御だけではとどまらない。目の前の恐怖を排除したいという願いを、きっとこの魔力は叶えてしまう。


(人を、殺すなんて)


 すぐ背後の死体が、冷たく抱きしめてくるような心地に喉を締め上げられる。


「お前を最後の血脈として死ぬべきだ」


 瞬間、カエルラ公爵の指輪がはじけ飛んだ。


(ここで、死ぬわけには……!)


 ぞろりと、視界の壁や天井がゆがんだ。

 氷壁に触れた右手に力を込める。自分以外の魔力を受け入れる衝撃と同時にこめかみに激痛が走り、せめて目標を過たないように目を見開く。


(気持ち、悪い)


 イメージしたのは氷の槌だった。

 けれど、私の背後からは刃のようなつららが明確な殺意を持って形成される。

 魔力のぶつかる火花が目を焼くように視界を覆い尽くす。

 ほんの数秒のぶつかり合いの外で、大きな音が響いた。



「お姉様に」



 鈍い衝撃音と、ガラスの割れる音。



「触らないで!!」



 その瞬間、空間に満ちていた濃い魔力の気配は消え去り、魔力の火花もなくなった。 

 ぐらつく視界で見上げる先で、カエルラ伯爵はぐらりと体をゆらめかせ、白目をむいたまま横向きに倒れ伏した。

 ようやく氷壁から手を離せた私の目の前で、無数の氷の針が形を失っていく。

 ほんのりと魔力を含んで輝く氷の粒の向こうに、暗がりにも輝く薔薇色の巻き毛がふわりと揺れていた。 


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茨はここにあったな!
おおおおおっ、ヒロイン妹、王子様のようにあらわれた!
オディールさんヒーロー過ぎるよ!
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