公爵邸の薔薇の下
強欲で、傲慢で、どこまでも貴族らしい男だった。
妹を王妃にするため、あらゆる手段を使った。
王国で一番の権力を手にするため、ありとあらゆる手段を使った。
アンダー・ザ・ローズ。
薔薇の下。
潔白な騎士も、善良な部下も、罪に耐えかねた妻も。
都合の悪い物は何もかも白薔薇の下に埋めてしまった。
そうしてやがて天罰覿面、野望のための最後の駒、たった一人の娘が死んだ。
最愛の娘、トリュトンヌ。
豊かな実りを示す、大河の恵みの名を持つ公女。
「それから、カエルラ公爵様は心を病んでしまわれました……いえ、ずっと前から、奥様をご自身で殺した日にはもう、壊れていらしたのだと、思います。新しい客人を紹介しても、記憶することができなくなりました。貴族名鑑をそらんじて当然の立場の御方がです。当主が代わってずいぶんになる家の貴族にも、先代や先々代の名前を言ったり、突然叫びだしてメイドを殺したり、亡くなった公女のドレスを買いそろえたり、かと思えば亡き王妃殿下へ手紙を書いて送るよう言いつけたりと」
「カエルラ公爵家には配下も多い。当主がそんな状態だったというのに、看過するとは思えないが」
ユーグの言葉に、トリュトンヌは首を振る。
「もちろん、一族で話し合いの場が持たれました。公爵様を引退させて、分家から新しい当主を選出するために。ずいぶんと長い話し合いの末に、公爵様の従兄弟にあたる方が新当主として名乗りを上げることになりました」
ですが、とため息のような声が震えた。
「その方は、その会議の翌日に、自身の館で殺されてしまいました」
ただでさえ冷える神殿の空気が、さらに下がる。
「犯人はわかりませんでした。ですが、次の当主を知っているのは一族の人間だけです。誰しも公爵の地位はほしい。けれど、手を挙げれば殺されるかも知れない、そんな疑心暗鬼の状態で、次の当主など決まるわけがありません」
トリュトンヌは祈るように両手を組み、落ち着かない様子で何度も指を組み直していた。
「そうしているうちに、公爵様の代理人を名乗る人が現れたんです」
「代理人?」
「遺言状をお預かりするほど、親しく頼りにしている方、だそうです。公爵様直筆のお手紙と、公爵様に預けられたという家宝の片割れを持っていらしたと。公爵家に長く仕えている執事長が事実だと保証していたので、疑う者はありませんでした。その方が」
言いよどむように喉を震わせて、トリュトンヌは目を伏せる。
苦痛に耐えるように眉を寄せ、三度深く呼吸した。
「その方が、一族の人間に言ったのです。『皆様がいれば、公爵家を維持することは叶うでしょう。公爵様お一人の公爵家ではないのですから』と。『カエルラ公爵様は、こうして健在でいらっしゃるのに』と」
「……正気かよ」
「正気なものですか」
吐き捨てるようにスージオが呟いた。
「現状を維持さえすれば、絶対的な権力は手に入らずとも、自身の裁量で公爵家を好きにできる。誰にもとがめられずに甘い汁を吸える。そんな誘惑に、公爵家の年寄りどもが揃いも揃ってぐらついた結果がこれですよ」
冷たい石の床に縫い付けられているせいだろう、顔は青白く声は震えている。
「発作的な行動を押さえるための薬と、意識を混濁させる洗脳の魔道具、それから、死んだ娘の身代わりを用意した……公爵家の一級葡萄畑と引き換えに、臣下が差し出した生け贄、それが彼女です」
舞踏会の日、母であるイリスと私を間違えた公爵の様子が思い浮かぶ。
呆然と二人を見下ろす私と、トリュトンヌの目が合った。
ずるずると膝立ちでエプロンドレスを汚しながら、トリュトンヌが私にすがりつく。
「公爵様の夢を、覚めないままでいさせることが、私の役目です。娘が生きて、王妃となる夢。摂政としてこの国の権力を握る夢。それが叶わなかったとき、次に薔薇の下に埋められるのは私です。だってもう、私の他に、二人、薔薇の下に」
「手を離せ」
ユーグの剣が閃いたと思ったら、次の瞬間にはトリュトンヌ公女の首元に当てられいた。
スージオが状況を確認しようと必死でもがく音が聞こえるが、リュファスの拘束を外すことはできない。
「……トリュトンヌ公爵令嬢」
自分でも驚くほど低い声が出た。
公女でさえないと、偽物だと自白した少女を見下ろして、同情より先に怒りがわく。
「取引をいたしましょう、トリュトンヌ公女」
「……」
ごくりと、トリュトンヌ公女の喉が鳴る。
あのとき、カエルラ公爵のタウンハウスで、トリュトンヌはスージオの犯行をごまかすために、メイドの格好をして出てきたのだ。それならば。
「私の妹は無事ですよね?今はどこに?」
スージオ男爵令息の背中に問いかければ、うめくような声がして、ややあって頷いた。
「カエルラ公爵家のタウンハウスの地下室にいる。ワインセラーの奥の隠し扉だ」
「公女はその場所をご存じですか?」
視線を戻せば、トリュトンヌはこくこくと首を振って頷いた。
「わかります。『前のトリュトンヌ』が連れて行かれた場所ですから。いつか、私が殺される日が来たなら、少しでも生き残れるよう何度も下見に行きました」
「では、トリュトンヌ公女。オディールを取り戻していただけますか?」
ぎょっとする少女に、にっこり笑ってみせる。
「了承していただけるなら、彼を今ここで楽園へ送るのは保留にします」
「!!」
ただでさえ青いトリュトンヌ公女の顔がさらに白くなる。
スージオが騒がないよう押さえつけているリュファスが、トリュトンヌに剣をつきつけたままのユーグが、二人してびっくりしたような顔をしてこちらを見ている。
「それに、そうですね。無事に取り戻せたなら、二人まとめて、駆け落ちを手助けして差し上げましょう。一角商会なら、荷物に紛れて外国へだってお送りできます。公爵家の手の届かない遠い場所で、二人きりやり直す人生。いかがでしょう?」
原作のオディールがお得意な、脅しと報償をとりまぜた悪役令嬢の交渉だ。
私ではオディールのような迫力は出せないだろうから、代わりになるべく安心させるように微笑んで見せた。悲観的になっていっそ心中しますなどと言い出されたらやっかいだ。
「悪魔め!!」
笑顔を作ったのは逆効果だったかも知れない。
スージオが吐き捨てるように叫ぶ言葉に、私はトリュトンヌ公女を置いたままスージオへ近づく。
トリュトンヌ公女が背中で動く気配がしたけれど、ユーグが剣を突きつけているのでそれ以上動くことはできないのだろう。
四肢を石に拘束された囚人。殺しそうな目で見上げてくるスージオを見下ろして、あろうことか私は彼に親近感を覚えていた。
「あなたが手を出したのは、私の大切な大切な妹なの」
恋人のために、見ず知らずの令嬢を何人でも殺そうとした彼なら、きっと理解してくれるだろう。
「私の愛する、可愛い妹なのよ」
じんわりと、目の端が熱くなる。
強すぎる感情に魔力が一瞬制御を失って、氷の結晶が空中で粒になる。
キラキラと床に落ちていく。
それは刃物などなくとも人を殺せる力に他ならない。
「や、やります!必ずオディール嬢をお連れしますから!ですからどうか!!」
神殿の冷たい床に膝をついたままトリュトンヌ公女が叫ぶ。
スージオがもの言いたげにこちらをにらみつけていたけれど、黙殺して頷く。
完全にこちらが加害者の悪役のような光景に、クタール兄弟が物言いたげな顔をしている。目を合わせることができなくて思案するそぶりで床に視線をそらした。
襲撃されて殺されかけて妹が攫われて被害者は完全にこちら側のはずだし多少の加害は自己防衛と主張したい。
「……あのさ」
気まずい空気を破っておずおずとリュファスが手を挙げる。
全員の視線を受けて、リュファスが息を吐いた。
「あのオディールがさ。トリュトンヌ公女とか、公爵邸の人間に『助けに来ました』って言われて素直に信じると思うか?」
「あ」
壊れた神殿の天井から、月光と一緒に冷たい空気が降りてくる。
どうすんだよ、と視線で問うリュファスに、頭を抱える。
「確かにオディールは、単純なようで疑い深い……というか、被害妄想がひどいからな」
ユーグが失礼すぎる追い打ちをかけるけれど、事実なので何も言えない。
人は鏡と言う言葉がある。オディールは自身の高すぎる攻撃性から、周囲の人間も同じくらい攻撃性を持っていると信じている節があるのだ。
「じゃああの三つ編みの……部屋付きの使用人を同行させるのはどうだ?」
「いやユーグ、お前、人のこと言えねぇって。メアリの名前も覚えてないのかよ」
ユーグの提案に、リュファスがため息をつく。
「いやでも、オディールもなぁ、あいつ使用人のこと人間と思ってない節あるからなぁ。平民のこと、金握らせたら何でもすると思ってるっつーか」
トリュトンヌ公女と連れだってアンやメアリがオディールの前に現れたらどういう反応をするか。
裏切り者と叫んで暴れ出す、が容易に想像できる。
「そ、れは、叔父様……と、私のせいもあるかも……」
オディールのほしがる物・事・人は何でも金で用意してきた叔父と、オディールのやらかしを可能な限り金で解決してきた私。
その対象のほとんどは平民や下級貴族だ。
今回の襲撃だって、実質金で解決した。
悪役一家としては大変正しい姿勢かも知れないけれど、人間的信頼関係を育むという意味では大変教育によろしくない。
(私、知らず知らずのうちにオディールの悪役令嬢ステータスをあげるようなことを……!)
頭を抱えてしまう。
ダルマス伯爵家が、正確には一角商会が王国有数のお金持ち組織なことが、こんなところで徒になるなんて。
(……後悔してる時間なんかないわ。私ができることは)
顔を上げて、固く拳を握った。
「私が、行きます」
ユーグが何か言いたげに口を開いて、結局眉間にしわを寄せて頷いた。
リュファスもしばらく自分の足下、正確にはスージオを見下ろしていたけれど、神殿の天井越しに少し欠けた月を見上げることしかできなかったらしい。
人間、吐いたつばを飲むことはできない。
(愛する人のためなら何だってしますとも!)