消えた男 2
黄金の獅子。
ただの伯爵令嬢の手札には、回ってくるはずの無いカード。
けれど、オディールは賭けに勝ったのだ。
シャルマン王太子は確実にジゼルに惹かれている。あの王子らしからぬ、何かを楽しむような瞳。正面から王太子に意見するジゼルの姿にむけられた、輝くような笑顔。
当然だ、オディールは思う。
自慢の姉だ。愛する姉だ。この世界で一番、幸せになってほしい人だ。
だから、完璧な王子様の隣に並んで、完璧な幸福を手に入れて、それで。
(オディールが頑張ってくれたおかげねって、私のことを褒め称えて、抱きしめて下さるのが、筋というものでしょう?)
それなのに、ジゼルは王太子妃になんかなりたくないと言う。
豪奢なドレスを贈られて、少女のように胸をときめかせることもなく、憂鬱そうにため息ばかりついている。
(幸福になるための努力を怠るなんて、お姉様こそ簀巻きにされるべきなのよ。私の努力を、何だと思っているの)
夜会で無数の視線にさらされて、オディールはほんの少しだけ心細く思ったのだけれど、ジゼルは全く気にした様子もなくいつも通り困ったように微笑んでいた。
それが演技でも素でも、揺るぎもしない姉の背中はオディールに確かに勇気をくれたのだ。
シャルマン王太子と並ぶジゼルは、黄金と純銀でぴったりと似合いのように思えた。
(そうよ、私のお姉様なんだもの。もっと堂々と胸を張って、金貨が空から降ってきたって当然って顔をしてほしいものだわ)
そんな夢のような光景を想像してみる。きっと、下がり気味の困り眉をさらに下げて、あわあわと周囲を見渡すことだろう。
そして真っ先に、オディール、と呼ぶはずだ。
それが心配でも、叱責でも、感動でも、あのアメジストの瞳は一番最初に同じ色の瞳を探すはずだ。
(ああ、でも、私)
そんな光景を見たことがある。
金貨は降っていなかった。
でも、心の底から、幸福だと思った。
(そうだ、クタールの城で)
冷たい白亜の城で、病み上がりのぼろぼろの体で、それでも。
光指す回廊を、二人で手をつないで歩いていた。
二人でダルマスに帰れることを、嬉しそうに笑った姉を、覚えている。
『あなたは、私の希望だわ』
つんと、鼻先に痛みを覚えて、目元をぬぐう。
その感触で、夢から覚めたことをオディールは自覚した。
最初に感じたのはかび臭い湿った空気、そして喉の痛みだった。
「……ここは?」
手探りで自分が寝ていた場所に触れるけれど、手触りの悪い毛布の感触があるばかりだ。光源が遠くにあるのか、うっすらと灯りが揺らぐことで壁の存在を認識できる。
冷たい石壁と、土の匂いのする床。
(お姉様と舞踏会に来て、それで)
脳裏に浮かんだ無数の骸骨に寒気がする。急に立ち上がったせいかめまいがして、堅い壁に思い切り背中をぶつけてしまった。
地下を掘り出しただけなのか、それとも石材が劣化しているのか、とがった石の角が肩にぶつかってひどく痛んだ。
冷たい感触に思わず飛び上がると、壁だと思っていたそれは途中から氷の塊になっていた。魔力を含んでいることを示すように、時折青白く光っている。
氷の中に、白い花のような影が見えて、オディールは目をこらして近づこうとした。
そのとき、不意に壁にあたる光が揺らいだ。
砂混じりの足音が聞こえて、誰かが灯りを持って移動しているのだと知る。
とっさに見渡すけれど、周囲に植物らしきものはない。
光が近づいて、部屋の内装がだんだん明瞭になる。
タウンハウスの屋根裏にある使用人の部屋にも満たないような、狭い部屋だった。
あるのは質素なベッドが一つ、古びた毛布が一枚、そして、扉には鉄格子がはまっていた。
(牢……!?)
そうして、足音は鉄格子の前で立ち止まる。
どこにでもいそうな青年が立っていた。
アッシュがかった茶髪と、くすんだ緑色の瞳をした、何の印象にも残らない男。
じっと見下ろすその視線の冷たさに、オディールは思わず自身の首に触れる。
誰かに絞め殺される勢いで口を塞がれ、喉を捕まれた。
目の前の男が加害者だと、オディールは確信した。
「……あなた……」
どこかで見た。
どこかで、会ったことがある。
「デビュタント以来ですね、オディール嬢」
オディールは目を細め、ややあって小さく息を呑んだ。
デビュタントの日、ファーストダンスを断ったあの男爵令息が、そこに立っていた。
貴族令息の姿としては、異様としか言い様がない。
見える範囲の肌には包帯やガーゼが巻かれていて、歩き方もぎこちない。
まるで戦地帰りのようなボロボロの姿に、オディールは眉間にしわを寄せる。
言いたいことのすべてが表情に出るオディールに、男爵令息は笑ったらしかった。
その動作がどこかの怪我にひびいたのか、小さくうめく。
「まさかデビュタントの腹いせにこんなことをしてるんじゃないでしょうね!?」
「さすがにそこまで頭の悪い人生を送っていませんよ。あなたの姉君がやったことに報復していると考える方が自然じゃありませんか」
男が自身の包帯だらけの体を示すと、オディールは眉間にしわを寄せて息を吸った。
「はぁ!?お姉様がそんなことするわけないじゃない!」
反射のように叫んでオディールは表情を硬くする。
楽園の園にあまりにも近い姉は、暴力とは真逆の場所に立っている。何しろ、加害しなくてもすぐに死んでしまいかねないのだから。
けれど目の前の男は眉間にしわを寄せて奇妙な笑みを見せた。
「人はね、氷の塊に押し潰されれば死ぬんですよ」
オディールは戸惑いの表情で男を見上げる。
「それは……そうでしょうね」
「まだわからないんですか、わからないふりですか。あなたの姉君、なにが淡雪の君だ。あれだけの水の魔力があるなら、もっとまともな手段が執れるはずだろうに。人を殺すことに躊躇がなさ過ぎる、悪魔のような女だと言っているんですよ」
オディールの紫色の瞳が見開かれる。その色は驚愕から、一気に憤怒へと変わり、鉄格子にかみつかんばかりの勢いでつかみかかった。
「あなた……神殿で私たちを襲ったのはあなたね!?私たちを殺そうとしておいて、お姉様に反撃されたのを悪魔ですって!?無礼にもほどがあるわ!!そのまま雪に埋もれて死んでおけば良かったのに!!」
「よく似た姉妹だ。あんな悪魔のような女にも、家族愛なんてものはあるんですかね」
男の嘲笑にオディールは不吉な物を感じて言葉を飲み込む。
家族愛。
ジゼル・ダルマスがそれを注げる相手は、もうこの世に二人しかいない。
オディールの顔から血の気が引いた。
その反応を見て、男は薄く笑ったらしかった。
「なるほど、よかった。白薔薇は妹を愛してやまないという噂は本当なんですね。こんなに噛みつかれて無駄足になるかと思いました」
「あ……あなた、お姉様に何する気なの!?」
「心配せずとも、姉妹をそう長く離ればなれにしませんよ」
壁から染み出た水が、ぱきぱきと音を立てて凍り付く。
鉄格子が急激に冷えていく。
指先の冷たさに怯むことなくオディールは呪い殺すように目の前の男をにらみつける。
壁からにじみ出るようにつららの形を取った氷が、いましも射出されようと音を立てる中で、不意に壁の影が揺らめいた。
もう一つ、足音と灯りが響く。
「スージオ、いるんでしょう?」
女の声が、頼りなげに誰かの名を呼んでいる。
その瞬間、男は舌打ちして身を翻し、そのまま暗がりの奥へと行ってしまった
「……ちょ、ちょっと!待ちなさい!!お姉様に何かしたら許さないんだから!!」
呆然と男の影を見送っていたオディールは思い出したように叫ぶけれど、声は暗い廊下に反響し、吸い込まれて消えてしまう。
(なんとしても、ここを脱出しなくちゃ)
オディールは注意深く指先を鉄格子から剥がし、汚れをドレスでぬぐう。
幸い、先ほどの男爵令息が灯りを置いていったので、周囲を見ることができる。
「このオディール・ダルマスを敵に回したこと、楽園の果てで百年は後悔させてあげてよ」
ぎりぃ、と奥歯を砕くほどの勢いでかみしめて、オディールは眉間にしわを寄せた。
魔力を失って溶けた氷が、カランカランと音を立てて廊下に転がった。