消えた男 1
夢を見ている。
オディール・ダルマスはそう自覚した。
見覚えのある風景、見覚えのある会話、見覚えのある人物。
それは一四歳になったばかりの、ある春の日の光景だった。
一面の薔薇の花と、ジゼルと、それから、あと一人。彼。
彼のことを思い出すとき、オディールは少しばかり苦労する。
細身で、平凡な顔立ちの男。
整えられているけれど無難で洒落っ気のない服装ばかりを着ていたし、髪の色もどこにでもいる茶色だった。
他の殿方より少しばかり背が高いことくらいしかいいところが思い浮かばない、とにかくそんな男。
年は20歳を越えていたんだったか、それとも18歳そこそこだったか全然思い出せない。
顔に年齢が出にくいという意味では童顔だったのかも知れない。
名前は、ジョンだったかスミスだったか、全然ロマンチックではないということしか覚えていない。
次にすれ違っても絶対に気がつかない自信があった。
それでも、オディールはたまに、そのジョンだかスミスだかわからない男のことを思い出す。
彼は、オディールの義兄になったかもしれない男だったからだ。
つまらない男だった。
ただ、植物のことに詳しくて、庭の薔薇をとても愛してくれた。
オディールやジゼルへのお世辞ではなくて、心の底から薔薇が好きだという姿に、呆れとすこしばかりの好感を持ったのを覚えている。
叔父が連れてきた取引相手の次男だった。爵位は、子爵だったか。
真冬に薔薇を満開にすることはできずとも、一輪くらいは負担をかけずに薔薇を咲かせることのできる魔術師。それは木の属性の魔術師としてはそれなりに強いことを意味する。
木の魔力の使い方を丁寧に教えてくれたし、白薔薇の『ジゼル』が枯れてしまわないよう頼んでもいないのに大量の肥料や薬やパートナープランツを用意して来たのには笑ってしまった。
服のどこかしらに泥や土をつけている、ちっとも見栄えのしない男。姉妹の美貌より、商会の高級品より、庭に咲く薔薇をうっとりと見つめる男。つまらなくて平凡な男。
けれど、少しだけ。あの男の隣にいるときのジゼルが。いつも忙しそうにしている姉が、とても穏やかな瞳をしていたから。
少しだけ、その空間を。オディールは好ましく思っていた。
「だけど、もう少しくらい顔が良くて、もう少しくらい優雅な殿方がいいわ」
これっぽっちもオディールのお眼鏡にはかなわなかったけれど、なんとなくそれが大切なことではないと言うことをオディールは心で理解していたので、これは無い物ねだりの愚痴のようなものだった。
「いやせめて名前覚えろよ。そんなんでいいのかよオディール」
話を聞かされたリュファスがいつもの調子でまぜっかえす。
「王太子殿下くらいでなくちゃ認めない!って息巻いてたのはお前だろ?」
「リュファスったらいつのことを言っているの。それに、私より年上なのに、相変わらずお子様なのね。魔術書とばかり向き合っているからそうなるのよ。恋歌の一つや二つそらんじられなくては、貴族令息とは言えなくてよ?」
「へいへいご忠告ありがとうございますー」
わざと行儀悪く卓上のお菓子をつまみ上げて、リュファスが口に放り込む。
子供じみた仕草に躊躇なくリュファスの手の甲をはたくと、リュファスが「いてっ」と不満そうな顔をした。
「お姉様直伝よ」
「あー。見たことあるなそういえば」
ふん、と鼻を鳴らすと、リュファスと反対側の席からため息が聞こえた。ユーグが泉のような瞳をオディールに向けて、小さく微笑む。
「ご協力感謝するよ、オディール」
「どういたしまして。ユーグ、あなたお兄様なんですから、もうちょっとちゃんとリュファスを躾けたらいかが?お姉様にお願いしてあげましょうか。あなた達も簀巻きにされたらいいんだわ」
「君は……その過去を堂々と誇れるのか……」
「強ぇよなぁ……前から思ってたけどあんた本当に貴族令嬢か?もらわれっ子とかじゃねぇの?」
「失礼ね!どこからどう見ても完全にお姉様と血がつながった妹よ!」
このアメジストの瞳が見えないのかしら、と頬を膨らませれば、ユーグはお詫びにと新しくて珍しいお菓子を皿に積み上げた。
色とりどりのお菓子は、見慣れぬ異国の模様を描いている。
「しかし、オディール。僕の記憶が間違いで無ければ、君の言うスミスという男は、近々海の向こうへ留学することが決まっているよ。男爵家の、次男だろう。木の魔術師だ」
「えっ」
「船を手配するよう彼の父君から頼まれたので、間違いないよ。うちとも古くから取引のある家だからね」
「な、なんですって!?」
ありえなかった。
あの美しい姉と、遠い異国の学問書を天秤にかけるような男が存在するなんて。
(何を涼しい顔をしているのよ、あなた達は!)
オディールは憤った。
もしも自分がユーグの立場だったなら、恋い慕う女性を手に入れる機会がありながら留学を選ぶような男が目の前にいたら、それこそ海へ沈めている。
そもそも、初恋を介錯してあげようという優しさで情報を持ってきたのに、ユーグもリュファスもこれっぽっちも動揺していない。
(何故なの?)
違和感は、オディールの中で澱のようにひっそりと沈み、積み重なり、醸されていった。
そんなことが、三度続いた。
スミスだかジョンだかグレゴリーだかわからない男が、穏やかな午後の時間に現れて、いつの間にか消えていった。
薔薇の季節が訪れ、オディールが十五歳になってすぐ、三人目のスミスが遠い外国に旅立った。
オディールという女の勘に優れた令嬢は確信を得た。
幼馴染み、兄代わり、そう呼んで親しくしている青年達が、金と権力によって姉の恋路のことごとくを土のついたかかとで踏みにじっていることを。
そして、初恋をこじらせたその男が、関係を進める勇気も失恋する覚悟も見守る度量も無いくせに未練と慕情を蔦のように募らせて、姉の未来を絡め取ろうとしていることを。
そんな兄の凶行を間近に見て、力ずくで止めることもできるだろうに、目をそらし続けて見ぬふりをしている天才魔術師を。
(この私が!再っ三!助言をして差し上げたのに!!何一つ理解できていないだなんて、なんて、なんて! お馬鹿さん達なのかしらっ!!)
オディールの小さな拳がテーブルにたたきつけられる。
勢いで、インク壺とペーパーウェイト、それと美しい宝石箱が跳ね上がる。アクアマリンで飾られた、中身より高価そうなその宝石箱は、クタール侯爵家からジゼルへの贈り物だった。
最近親しくなった友人が旅立ってしまった幼馴染みへ、ちょっとした季節の贈り物。
(白々しい。あなたたちが手を回したくせにっ!)
つるりと形の良い額いっぱいにしわを寄せて、オディールは憤怒の表情で奥歯をかみしめる。
裏から手を回すようなことはするなと、正面からぶつかれと、何度も何度もオディールは進言した。臆病者と罵ったこともある。だというのに、二人はジゼルの友人以上の場所を求めなかった。
触れれば割れてしまうガラスの人形を愛でるように、自ら線を引いて指をくわえて眺めるばかりだった。
(だったらさっさと諦めて手を離しなさいよ!)
意外に思われるかも知れないが、実際のところ、オディールには最愛の姉の結婚を祝福する覚悟がある。
少なくとも彼女自身はそう自負している。
クタールならばお隣だ。七家門に数えられる侯爵なら家格は十分。子供の頃とは違い、十分に一族を支配下に置いている。
当主であるユーグ、あるいは王国の星となったリュファスなら、そのけなげな恋心に免じて、指十本にごってりしたダイヤモンドの指輪を一四本装備して顎とみぞおちに全力右ストレート三発腰を入れたジャブ二発で許してやるくらいの度量は持ち合わせている。
オディールという関門を前に、クタール侯爵令息たちは、限りなく有利で許された求婚候補者だったというのに。
「叔父様も当てにならないわ。私が、守らなくては」
オディールは沈痛な面持ちでテーブルに肘をつき、組んだ両手に顔を埋めた。
問題はジゼル側にもある。
美しく優しく善良な姉は、あの兄弟のあからさまな好意に気がついていない。メイドも使用人も町の住人も誰もが知っていることを、ジゼルは笑って友情だと言って済ませる。
知っていて無視しているのでは、と勘ぐられるほどに、ジゼル伯爵令嬢の鉄壁は崩れない。
まるで演劇を鑑賞する観客のように、他人事の優しさで受け流す。
確かに、一度破談になった家門と婚姻を結ぶのははばかられるが、それはそれ。惚れた弱みにもつけこんで、いっそうダルマスに有利な婚姻契約書を結ばせれば良い。クタールの半分が手に入るような婚姻契約書にだって、ユーグはためらわずサインするだろう。
その想像は妄想と片付けるにはあまりにも明瞭で、改めてオディールは身震いする。
愛と呼ぶには、あまりにも狭く、深い、井戸のようだ。
(しっかりなさいな、オディール!お姉様を守れるのは私だけ。私しか、いないのだから!)
クタール侯爵家は、ダルマス伯爵家ではとても太刀打ちできない家だ。
家格も、資産も、武力も、権力も、なにもかも。
当たり前のように幼馴染みとしてその権力を笠に着てきたけれど、いざ敵に回すことを思うとこんなに攻めにくい敵はいない。
ユーグやリュファスをおとしめようとする貴族令息が、魔力が無いことや血筋の卑しいことを馬鹿の一つ覚えのように繰り返していたけれど、今更納得してしまう。
それくらいしか、目に見えた欠点が無いのだ。
オディールは部屋に積み上げられた教材から、貴族名鑑を引っ張り出すと、その重い辞書のような書物を机に載せた。
「東の狼、いいえベルフェゴール公は叔父様より年上じゃない。南の熊ヨーゼフ侯爵のところにはご令嬢しかいないし。北の辺境伯?あんな寒い場所でお姉様が生きていけるわけないし、北のご令息は全員戦場育ちだから野蛮なんでしょう、却下よ却下。西の領主でクタール侯爵家を敵に回したい家門なんかいないし、いっそ外国……は、嫌だわ。そうよ、お姉様が一人で外国だなんて、生きていけるわけないもの」
オディールは社交界デビューこそまだだが、子供同士のお茶会や、商会の商人達がつかんできた顧客情報から、それなりにいろいろなことを知っているつもりでいる。
ぶつぶつと独り言には大きすぎる声で貴族の家名を口にしていたオディールが、はたと手を止めた。
金の刺繍糸で装丁された、ひときわ華やかで美しい家系図。
表紙の次のページにあって、あまりにも先頭過ぎていつも素通りしてしまう家門。
黄金の獅子。
一人目の英雄、最初の魔術師の子孫。
そのたった一人の王太子の名前をなぞって、オディールは眉間にしわを寄せた。
「……やっぱり、王太子殿下しかいないのね」
深く目を閉じて、オディールはゆっくりと長いまつげを持ち上げる。
強い意志の宿ったアメジストの瞳には、決意がみなぎっている。
もしもこのとき、誰か一人でも、オディールの隣に座っていたのなら、この熱すぎる決意をとりあえず無茶だと言って止めることができたかも知れない。
クタール侯爵家に単独で勝とうとするから選択肢が無いのだと、教えてあげることができただろう。家門の力ではクタールに劣っても、その役割や同盟関係故にクタールが手出しできないような、じゃんけんの相性を持つ家門だっていくつも存在する。
残念ながら、心根がまっすぐで純粋なオディール伯爵令嬢にとって、勝利とは正面から殴り合って勝つこと以外にないので、必然的に公爵家か王家という少なすぎるカードを選択せざるを得ないのである。