子羊の末路
庭に飛び出たオディールは、後ろを歩いてくる足音に眉間のしわを深くして庭木の間を突っ切った。生け垣の木はオディールの指先に従いのれんのように隙間を作って、深紅のドレスが通り過ぎるのを待って隙間を閉じる。
すぐ後ろでリュファスの「ちょっと待ておい!」という文句が聞こえたけれど、当然聞こえないふりをした。
(土でも掘って追いかけてくればいいんだわ)
生け垣の向こうにいるはずのリュファスにべーと舌を出して、ずかずかと歩き出す。
ふと、肺を満たす薔薇の香りに足を止めた。
カエルラ公爵邸の庭は、公爵の言葉通り美しく整えられている。
その一角を占有する薔薇は小ぶりな白薔薇で、香りこそ強いが控えめな印象を受ける。おそらくは先ほど公爵が言っていた薔薇だろうが、大輪咲きの『ジゼル』とは比較するまでもない。
オディールは鼻を鳴らして、ダルマスの温室に思いをはせた。
(白薔薇ならなんでもお姉様に似ていると思っているのかしら、公爵様ともあろうものが、センスはないのね。お気の毒だこと)
小ぶりではあるが、庭師が大切に育てているであろうそのつぼみが、オディールの眉間のしわを深くする。
脳裏に何度もフラッシュバックするのは、氷の薔薇だ。
書斎の扉の隙間から目に飛び込んできた光景が、オディールの目に焼き付いて離れない。
優しく微笑んで氷の薔薇を手渡す姉と、頬を真っ赤に染めて嬉しそうに微笑むソフィア。
淡雪の君が、思いを寄せる相手に贈る薔薇。
頭がお花畑の令息達が勝手に作ったストーリーをオディールは鼻で笑う。
(お馬鹿さん。あれは、そんなのじゃないのよ。そもそも私だって、ちょっと綺麗だから飾っていただけよ。それを毎回毎回、おおかた、メアリがお姉様に馬鹿なことを吹き込んだんだわ。あんなの、飽きたし、つまらないし、ちっとも、別に、気にとめてなんかいないわ)
形の良い額に深く深くしわを刻みながら、オディールは赤い唇をかみしめる。
(あんな平民上がりの庶子なんかに、嫉妬だなんてするはずがないじゃない。馬鹿なお姉様。私はもう、デビュタントも済ませた一人前のレディなんだから)
つんと、すまし顔で胸を張る。
今日の月は満月で、曇天の向こう側から夜空を明るく照らしている。夜空に透かした氷の薔薇を思い出して、とうとうオディールは涙をこぼさないために堅く目をつぶる必要があった。
(いいえ、いいえ。何をごまかしているのオディール!私の、お姉様よ。私の!お姉様なのに!!)
レディらしからぬ形相で地団駄とヒールの先を強く石造りの小道に叩きつけた。これが王都で一番良い仕立て屋の靴でなければヒールが折れていただろう。
ソフィアにつらくあたった自覚はある。
ジゼルの言うことはいつも通り間違いなくて、腹が立つほど正論だ。
でも、簀巻きにされたって認めたくなかった。
「あの子ったら図々しいのよっ!悪いのはソフィアだわ……っ」
オディールの爆発した感情に呼応するように、薔薇の花がにょっきりと枝を伸ばした。
「あ、いけない」
はっとしてオディールは魔力の器を意識する。こぼれて傾けてしまった魔力を体の中に巡らせる。
オディールもダルマスでは薔薇の世話をするので、庭師達がどれほどこの庭に心を傾けているのかは肌で感じることができる。
勝手に枝を伸ばされたりするのはいくら客とはいえ嫌だろう。
(元の形に戻さないと、せめて敷石に乗り出さない程度に……)
しゅるしゅると、オディールの指先に従って薔薇の枝が動く。
植物にも相性があるのか、特に目立って形を変えてしまったのは薔薇だけらしい。
(それにしても、公爵様のセンスはともかく枝振りは本当に立派な薔薇だわ。この土とか、持って帰ったら、叔父様が分析して作ってくれないかしら。『ジゼル』の土にしたいわね)
ダルマスの館にいるときの癖で、ドレスが汚れるだとか特に考えずオディールはぺたりと地面に膝をつけた。別に汚れたら替えのドレスに着替えたら良いのだ。
腐葉土をたっぷり含んだ黒く柔らかな土に触れて、オディールがどうやって持って帰ろうかと思案していると、ふと指先に違和感があった。
木の魔力は目の前の薔薇の木によどみなく巡っていたのに、突然コントロールが一部分きかなくなる。急に誰かに腕を捕まれたような違和感に、オディールは首をかしげた。
違和感は薔薇の木の根元にあった。
好奇心から、枝をたぐる、根を動かす。
精密なコントロールはあまり得意でないので、花壇から敷石へ黒い土がぽろぽろとこぼれていく。
そうしていくうちに、木の根に何かが絡まっているのが見えた。
月明かりに金属がキラリと反射している。
「……指輪?」
(魔道具かなにかかしら、それともこれが薔薇の育成の秘密とか?)
わくわくとオディールが木の根からそれを取り上げると、一緒にころりとオディールの手に転がるものがあった。
軽石のようなそれは、白く軽く指輪と一緒に小さな手に収まる。
(貝?土壌を改良するのに使うって、昔聞いたわね。スミスだったか、ジョンだったか、誰にだったかしら)
宝石と一緒にその欠片を月に掲げて、オディールは眉間にしわを寄せた。
ほろほろと崩れるそれの、断片。
つるりとした外郭の中に、硬質な繊維がみっちりと詰まっている。
黒い土に汚れたそれは、ぽろぽろと小さな白い粒になってオディールの手からこぼれていく。
脆くて小さな白い石。
鉱石ではなく、生物由来の、何か。
「骨……?」
自分の口からこぼれた言葉のおぞましさに、オディールは血の気が引くのを感じた。薔薇の木の根に再度視線を戻すと、同じような白い粉と破片がいくつも絡まっていた。
アメジストの瞳が、最大限見開かれる。
貝殻も動物も、指輪なんかつけはしない。
この根を引き上げたなら、何を見ることになるのか。口の中がカラカラになる。
冬の湿った土に埋められていた指輪の冷たさが、そのまま手のひらの体温を奪ってぺっとりと張り付くようだ。
指輪を握り込んだオディールの指先の動きに連動するように、薔薇の木が傾いて根元が露出する。
それはオディールにとって無意識の動作で、だからこそ、その目に飛び込んできた光景に血の気が引いた。
悲鳴をあげることもできなかった。
薔薇の根に抱かれるように、無数の骨が月光を受けて光っていたからだ。
「……!」
全身の産毛が立ち上がり、へそのあたりから背骨に向かって冷たい感覚が這い上がる。
腰が抜けてしまいそうな衝撃に、オディールは奥歯をかみしめ、眉間にしわを寄せて、ぐっと腹に力を込める。
貴族が平民を殺すことはある。それは罪に問われない。それが法だ。
けれど、手の中の指輪は美しいルビーで飾られている。白い骨の軽さと冷たさに、それを放り投げてしまいたい衝動と戦いながら、オディールは唇を噛んだ。
あらゆる薔薇の下から、闇しかない眼窩がこちらを見ている気がした。
立ち止まったのは数秒。
くるりと振り返り、足を踏み出す。
這い寄る恐怖を正義と怒りが凌駕した。
(これは罪よ。絶対に、許してはいけない罪)
一瞬よろめいた自身を叱咤するように、ヒールを蹴り歩き出す。
(リュファスが私を探しているはず)
あの幼馴染みの隣人は、なんだかんだと面倒見が良い。
簡単に自分の使命を投げ出したりしない。
(大声で呼べば、すぐ見つけてくれるわ。それに人を集められるなら、その方が良いはず)
肺の底まで息を吸った瞬間、暗闇から伸びる手があった。
「リュファ」
その名前を最後まで呼ぶことなく、オディールの口が塞がれる。
オディールの爪が襲撃者の手に食い込むが、手は動じた様子もなくオディールを闇の中に引きずり込んだ。
オディールの指先が触れた薔薇の枝が、暴れる蛇のように襲撃者に牙を立てる。
一瞬闇の中に火花が散って、薔薇の枝はくたりと重力に従って地面に横たわる。
ほんの数秒の攻防ののち、また庭園には静寂が戻る。
ただオディールの手から滑り落ちた指輪と骨が、哀しいほど軽い音を立てて遊歩道を転がった。
【コミカライズのお知らせ】
8月7日から【悪役令嬢の姉ですがモブでいいので死にたくない】のコミカライズが始まりました!
詳細は活動報告に掲載しております。
原作共々よろしくお願いいたします!