子羊の下ごしらえ
石の病の話や辺境の薬師の話を聞きたかったけれど、叔父は今日も帰ってこない。
タウンハウスの管理を任せている叔父の秘書曰く、「後始末でお忙しい」とのことだ。
(公爵派に取り入る工作とか王太子派にやらかしたあれこれとか、そうよね、派閥を鞍替えするってそういうことよね)
元々は叔父の早とちり、とはいえ公爵家とその仲間達を相手に回してダルマス伯爵家や商会にダメージのないよう立ち回るのはなかなかに困難なはずだ。持っている力の規模が違う。
(けど『完璧な王子様』を敵に回して無事だったエンディングがないんだもの)
起きなかった危機は、回避による利益を提示できない。私だけが知っている未来の重さが胃につらい。
よって、詳しく考えないことにした。私の精神衛生のために。
(でも、よく考えてみれば、オディールが悪役令嬢になるのって、オディールのせいではなくない?)
まず、クタール侯爵家。
これは完全にお家騒動の巻き添えだ。
ジゼルがリュファスと婚約している以上、ジゼルが恋敵としてソフィアを牽制しないのであれば、身内としてオディールが前に出ざるを得ないのだ。
先日の夜会で私もやったことだ。殴られたらきちんと殴り返さないと、舐められる。いくらでも殴って良いサンドバックだと認識される。貴族社会は怖いところなので。
そして、原作の通りならダルマス伯爵家はリュファスが嫡子となることを望んでいたはずだ。魔力の強いソフィアがユーグの妻となることは、当然妨害したい。
どちらにせよクタール侯爵ルートのソフィアとは対立せざるを得ない。
そしてシャルマン王太子。
ダルマス伯爵家が後見人の叔父の判断でカエルラ公爵家についていたのなら、王太子が連れてきた聖女候補ソフィアは政敵で排除対象だ。
トリュトンヌ公女が立后し、子供が生まれさえすれば、国王シャルマンはもういらない。子供の摂政としてカエルラ公爵が傀儡政治をはじめるだろう。私でもわかる。叔父の言う「十年くらいで回収できる」の内訳だ。
だからダルマスは、シャルマンの即位後、真っ先に潰された。ほぼノーリスクで更地にできる伯爵領。ソフィアへの加害は口実に過ぎない。見せしめの意味を込めて、より残酷に、首を切ってさらされた。
首筋に死神の刃を立てられたような冷たさに思わず首の皮膚の薄いあたりをさすってしまう。
(今なら、ユーグが少しは止めてくれるかしら)
クタール侯爵家がシャルマン王太子の派閥なのは確実だ。魔法院が王立の機関である以上、国王が権限を増すほどに魔法院の価値と発言力も増す。
王国の杖、魔法院を中央での権力の基盤とするクタール侯爵家が公爵家の横やりを望むわけがない。
(このままシャルマンの望み通り王太子派として振る舞えば、少なくともユーグとリュファスが敵に回ることはないはず)
それは私とオディールにとって朗報だ。
ろくに親戚がいないと言うことは、味方がいないと言うことだ。
(いや、いない方がましな身内もいっぱいいるけど)
目に浮かぶクタール侯爵家の有象無象というか魑魅魍魎。リュファスが実力で黙らせた人の心がない連中。
味方を作って、強い後ろ盾を得て、地位を確立して、死なないように、失わないように、奪われないように。
きっと、オディールだってそうだった。父親も母親もなく、頼りにならない病弱な姉を守ろうとして、必死だったはずだ。
(オディールのこと、悪役令嬢だ元凶だって決めつけてた私って、本当に馬鹿だなぁ)
広く堅い机に、頭を預ける。本当に、あのとき、オディールが私を許してくれて良かった。もちろん、わがまま放題でメイドを平手打ちする令嬢が良かったとは言わないけれど。
(領地のこととか、政治のこととか、私が頑張れば、オディールが悪役令嬢にならないですむってことよね!)
よし、と気合いを入れ直す。
数日後の夜会では再び集中砲火が確定しているデコイ役だし、この先どのくらい続くかわからない地獄だけれど、死ぬよりはましなはずだ。
「オディールは、私が守る!」
拳掲げた私の視界の端で、アンがほんの少しだけ首をかしげていた。
そう決意したのはほんの数日前だ。
「あの、オディール……?」
私がおそるおそる手を差し出す先で、アメジストの瞳がぎろりと私をにらみつけている。元々つり目なのに、怒りをにじませた表情のせいでますます目がつり上げっている。
誠に遺憾です、憤懣やるかたないですと表情だけで語り、数秒きっちりとメンチ切った上で「ふん」とそっぽを向いた。
実はここ数日こんな調子なのだ。
食事の時も一言も口をきいてくれないし、お茶に誘っても断るし、ソフィアの訪問も断っている。
ソフィアから何度も手紙が来ていたのに、全く返事をしていないというので事情を聞きたかったのだが、二割増しで怒りのボルテージが上がっていたのでそれ以上何も聞けなかった。
「えぇ……私何かした……?」
メアリに助けを求めるように視線を送るが、メアリも困り顔でぶんぶんと首を横に振るばかりだ。三つ編みの残像が見える。
公爵家の夜会当日、二人して完璧にドレスアップしているというのに、雰囲気は最悪だ。 ちなみにオディールのエスコートはオディールの希望でリュファスに頼んだ。
「クタール侯爵家の馬車が到着しました」
使用人の言葉に、リュファスを出迎えるためホールへ降りた。
魔法院の制服と同じ、黒をベースにコーディネートしたリュファスの礼服姿はばっちりと決まっていて、思わず拍手しそうになる。
赤を基調にしたオディールのドレスと並ぶと、リュファスの瞳の色もあいまってペアコーディネートとして完璧に思えた。オディールの方を振り返ると、「悪くないわね」とでも言わんばかりに頷いていた。
「よぉジゼル。オディール、迎えに来たぜ」
軽く笑って手を挙げたリュファスの左頬ぎりぎりを、ホールに飾られていたボケの一枝が矢のような音を立てて通り過ぎていった。
「マナー教本の角で殴られたいのならリクエストに応えて差し上げてよ、リュファス」
オディールがいつのまにか二本目の枝を手にしており、リュファスの頬が引きつった。
「いや、ユーグならともかく。俺のマナーが悪くてあんたに迷惑かかってるか?」
「今日誰のパートナーとして呼ばれたのか忘れているようね?」
「わかったよ。お迎えに上がりました、オディール嬢。これでいいか?」
「それで及第点がもらえると思っているなら庭の雪捨て場に放り込んで差し上げてよ」
軽口の応酬に、少しだけ肩の力が抜ける。
オディールがソフィアにつらくあたっているというので、ここ数日原作のバッドエンドを迎える夢ばかり見てしまった。
(よかった、いつものオディールね)
「つかそんなエチケットうるさい宴会なら俺じゃなくてユーグ呼べよな」
「宴会ではなく夜会ですわ。ユーグには断られましたの」
「え、そうなの?」
思わず聞いてしまうが、オディールは何か答えようとして、やはり眉間にしわを寄せてそっぽを向いた。
(無視してるのは私だけなのね……?)
やはり私が何かしてしまったらしい。リュファスは私たちを見て、軽く肩をすくめて見せた。
「まぁあいつ根暗だからな。こないだのあれ、ひきずってんじゃね?結構きっついこと言ったろ」
「だから!そういうところが気に食わないといっているの!そういうことならあなたも、少しは気落ちしたり傷ついたりして見せたらいかが!?」
「あんた相手に接待して俺にどんな得があんだよ」
「ええと、ユーグ、何かあったの?」
オディールに聞いても答えてくれないので、リュファスに話しかけてみる。
「いや、別に?強いて言うなら通常運転だな」
リュファスの表情からは嘘やごまかしは読み取れない。ただ、それは彼の嘘が下手という意味にはならない。
「逆にジゼルの方はなんかあった?」
「その、このあいだ、王宮でユーグに会ったんだけど、そのときに私、ユーグが作っていた魔道具を壊してしまって……」
「は?自作の魔道具?あいつの?」
急にリュファスが大きな声を出すので、私の方がびっくりしてしまう。
見開かれた赤い瞳に、ぎくりと心臓が嫌な音を立てた。
「わざとじゃないんだけど、ばたばたしていて謝れなくて。せっかく、私にプレゼントしてくれようとしてたのに、申し訳ないなって……」
話しながら、何故か後ろ暗いようないたたまれないような焦燥を感じて、だんだん早口になってしまう。
「プレゼント、って。それ、身に着けてないんだな?」
ただ世間話をするには重々しい、低い声にこくこくと頷く。
「……はぁ。なら、いいけど」
リュファスがため息をついて、前髪をくしゃりとかきまぜた。
長いまつげの下で、赤い瞳が何もない床をじっと見つめている。
「あのなぁ、ジゼル」
「はい」
リュファスは目を伏せて、言葉を探すように眉間にしわを寄せて、不機嫌そうな顔のままこちらを向いた。
「人からもらった魔道具を、ほいほい受け取るようなことすんな。世の中にはろくでもない魔道具がいくらでもあるんだからな。……魔術というより呪いの系統の……とは思いたくねぇけど」
最後の方はほとんど独り言のようなボリュームで、またリュファスは何かを考えるように口元を押さえた。
じっとこちらを見つめてくる赤い瞳の圧が強くて、目をそらしたくなる衝動からなんとか自身をごまかしつつ、リュファスに言われた言葉を反芻する。
「でも、ユーグが作ったものだし。防護の魔道具だって、言ってたから」
「素人が作った魔道具なんかもっと危険だわ。回路の不良で、頭や手首が吹っ飛んでからじゃ遅いんだからな。壊れた魔道具で俺がどんな目に遭ったのかは、あんたらが一番よく知ってるだろ」
怒りに似たリュファスの声に、私とオディールが同時に顔を上げる。
あの惨状、誰かの死を前提にした光景。もしも私が引き起こしたなら、まず間違いなく私は生き残れない。
「次からは絶対、絶対に!信頼できる鑑定士間に入れろよ」
「……うん、わかったわ」
確かに、専門家がいるような道具だ。いくらユーグが器用とは言え、本職でない人が作ったものを鑑定や試運転もなしに身につけようとするのは軽率だったかも知れない。
しょんぼりとした私に、オディールが何か声をかけようとして、眉間に思い切りしわを寄せて、手にしたボケの枝を真っ二つに折っていた。
背中を向けて肩を怒らせているオディールを指さして、リュファスが視線で「なんなの?」と尋ねる。
残念ながら、私は回答を持たないので首を横に振ることしかできない。
気まずい時間の終わりを告げるように、使用人が獅子の紋章を着けた馬車の到着を告げた。
雪の降りそうな灰色の空の下、豪奢な馬車はまるで地獄へのお迎えのように思えた。