リンデン伯爵
リンデン伯爵家から書状が届いたのは、夜会の翌日のことだった。
(当然と言えば当然よね)
ダルマス伯爵家のタウンハウスにしばらく滞在することをソフィアに手紙でしたためてもらったけれど、誘拐して脅して書かせたと考えるのが普通だ。
その上、夜会ではシャルマン王太子はダルマス伯爵令嬢ジゼルをエスコートして、ソフィアは連れてこなかった。一体どんな目に遭っているのかと、普通の親なら心配でたまらないはずだ。
(あまり時間をかけるのはよくなさそう)
なにしろソフィアの家なのだ。正面から敵対する気はない。
遅かれ早かれということで家の使用人達には準備を頼んであったし、今日の午後、お茶の時間にご招待することにした。
リンデン伯爵家の馬車から降り立った男は、とにかく若い男だった。
ソフィアと同じベージュ色の髪、ペリドットの瞳、一目で血縁とわかる優しげな面差しをしていたけれど、とてもではないが一五歳になる子供がいるようには見えない。
「お招きありがとうござます、ダルマス小伯爵」
「ようこそお越し下さいました、リンデン伯爵」
目が合うと、リンデン伯爵ははっとした顔をした。首をかしげると、面はゆいような戸惑ったような、不思議な笑みを見せた。
「いえ、イリス嬢……母君に、よく似ていおいでだったので」
「よく言われます」
丁寧な物腰に、優しげな口調。敵対的な態度はみられない。
ついでに今のような態度も慣れっこなのだ。
(お隣さんだから、お母様と会う機会も多かったでしょうしね)
この顔に面影を見る人の態度はだいたい2パターンで、美しい思い出や青春を透かし見るか、黒歴史と憎悪を思い出し舌打ちするかのいずれかだ。リンデン伯爵は前者らしい。
応接室に通すと、先にソファで座って待っていたソフィアが立ち上がった。隣には、オディールが座っている。
「お父様」
「ソフィア、変わりないかい?」
「はい……」
感動の親子の再会、と呼ぶにはいかにもぎこちない。
なにしろ、リンデン伯爵は実の父親ではあるが、ソフィアにとっては主神エールのいうところの悪を成す心持つ者なので、笑顔でハグというわけにはいかないのだろう。
ちらりとリンデン伯爵の視線が私に向いたが、気がつかないフリでリンデン伯爵に席を勧める。
「改めまして、ショナール・リンデンです。ダルマス伯爵家のお嬢さんと会うのは、先代伯爵がご存命の頃以来ですから、初めましても同然ですね」
「ご挨拶が遅れました、リンデン伯爵。ジゼル・ダルマスです。こちらは妹のオディールですわ」
「初めまして、リンデン伯爵」
「君とは正真正銘の初めましてになるね、オディール嬢」
「……ええ、そうでしょうね」
少し、間があったけれど、オディールは素直にこくりと頷いた。
目つきが据わっているのは昨夜の夜更かしで寝不足が響いているのだろう。多分。
ソフィアも気持ちぼんやりしているように見える。
「しかし、驚きました。王都にも慣れない娘が、突然ダルマス伯爵家のタウンハウスでお世話になっているなどと……」
(主神エールのお導きによって悪を正すためにうちにいます、なんて言ってもすぐには信じられないでしょうし……)
娘が洗脳されたと思われてもめんどくさい。
「神殿で襲撃があったことはお聞きになりましたか?」
「ええ。娘を保護して下さったこと、遅くなりましたがお礼を申し上げます」
「こちらこそ、もっと早くソフィア嬢をそちらのタウンハウスにお送りすべきでした。この通りオディールがソフィア嬢ととても親しくなったようで……これまで友人も少ない環境でしたから、ついもう少し、と甘えてしまいました」
申し訳ありません、と視線を床に落とす。
いかにも親しげに肩を寄せるオディールとソフィアに、リンデン伯爵は首をかしげた。
「そうなのかい?ソフィア」
「はい!お二人とすっかり仲良くなったんです、お父様」
ソフィアがぶんぶんと勢いよく頷く。
そんな様子を見て、リンデン伯爵は小さくため息をついて苦笑する。
「ソフィアがそう言うなら、そうなのでしょう」
「ソフィア嬢をとても信用されているのですね」
「はは、それはもう。この子はリンデンの神殿で聖女と呼ばれていました。無論、国の認める聖女ではありませんが。私欲なく、偽りなく、神に仕えることを喜びとする子です。嘘などつこうはずがありません」
それは、知っている。
偽りを口にすることは楽園の門を遠ざけること。主神エールに傾倒しているソフィアがそんな子供でも知っている教えを破るとは思えない。
「リンデン伯爵、私、ソフィア嬢といろんなことをお話ししましたのよ」
ソフィアにぴったりと寄り添ったまま、オディールが口を開いた。その声は歌うように、というよりは、主文を読み上げる裁判官のようなよどみのなさだった。
「生まれ育った町では蜂蜜が有名だったとか、リンデンには大きな遺跡があるとか……リンデン伯爵が、薔薇をお望みだとか」
ぴくり、とリンデン伯爵の指先が動く。
「……そのようなことを、ソフィアが?」
「ええ。花がお好きでしたら、よろしければ庭のお花をお土産に差し上げますわ」
あくまで、市井にいたソフィアはその意味をわかっていなかったのだという体をとる。
「王太子殿下にお願いするまでもなく、直接言って下さればよかったのに。お隣なのですから」
じっと、アメジストの瞳を向ける。丸く収めるつもりがありますよ、というポーズだ。
そんなオディールの隣で、ソフィアも大きく頷く。
「お父様、私、お父様と王太子殿下の取引のことをお二人に話しました」
「ちょっとソフィア嬢!?」
建前をべりべりと正面から引き剥がすソフィアに、オディールが目をむく。しかし、ソフィアは迷いなく祈るように胸の前で指を組んだ。
「どうか欲心に従うことのありませんよう。主神エールはいつでも私たちを見守って下さっています。隣人同士、手を取り合うことこそがいと高き方の御心と心得るべきです」
熟練の神官のような、流れるような説教だった。
おかげで一気に部屋の空気が下がって、空咳が出る。
リンデン伯爵は困ったように眉を下げ、小さくため息をついた。
「きっとお前ならそうするだろうと思ったよ。……ダルマス小伯爵。ソフィアが話していたことは事実ですが、誤解をされています」
カップを置いて、長い指先を絡める。
「私が王太子殿下にお願いしたのは、栄誉です。ソフィアのデビュタントに、王太子殿下のエスコートを受ける栄誉。獅子の隣に並ぶ栄誉を、薔薇と例えただけです」
ソフィアと同じペリドットの瞳が、しっかりと私を見て、ぐいと上半身を倒して近づいた。 急に距離が詰まって、端正なリンデン伯爵の顔が近づいた。
「リンデンは建国の昔から王家にお仕えしてきた家です。王太子殿下の願いを断ることなどできません。ですから、せめても、娘のソフィアには栄誉をあたえていただきたかった。王太子殿下のパートナーに一時なりと選ばれれば、社交界でも少しなりと心の支えとなるでしょう」
許しも得ていないのにリンデン伯爵は私の手を取り、切々と言いつのる。
「私の親心ゆえの願いでしたが、お二人が誤解をするのも無理からぬこと。どうかお許し下さい。ご存じでしょうが、ソフィアは哀れな身の上。お二人のように高貴の育ちではないのです。自身の言葉の意味することを、きちんと理解できていないのでしょう。この通り、嘘というものを知らない娘です」
リンデン伯爵の言葉に、ソフィアがあからさまにほっとした顔をする。
こちらとしても証拠があるわけじゃないし、貴族社会の言い回しに慣れないソフィアの勘違いといわれてしまえばそれまでだ。
(というか、そうであってほしい)
水面下の企みが本人にばれたからいったん手を引く、という理解でも結論は変わらないので問題ない。
(王太子の偽の恋人に公爵令嬢との恋のさや当てに領土戦なんて抱えきれない……っ!妹が悪役令嬢にならないようにするだけでいっぱいいっぱいなのにっ!)
眉間にしわを寄せて叫びを飲み込んでいると、リンデン伯爵が握ったままの手をぎゅっと引き寄せた。
「申し訳ありません、ずいぶんとご心労をおかけしてしまったようで……そのように哀しいお顔をさせるつもりはなかったのです。どうか、私と娘の無礼をお許し下さい」
「え、と。ええ、もちろんですリンデン伯爵。こうしてお話しすることで誤解がとけたのですから、なによりです」
「感謝します、ダルマス小伯爵」
リンデン伯爵は私の右手に口づけて、ようやく落ち着いたようにソファに腰掛けた。
その様子を、オディールは眉間に寄せたしわを隠すことなくにらみつけている。
「ああよかった!やっぱりジゼル様はお優しい。主神エールの御心に適う淑女ですね!」
心の底から素直な笑顔を浮かべてソフィアがはしゃいでいる。そんなソフィアを、オディールががっしりと腕を組んで座らせた。さすがヒロイン、悪役令嬢をして引きずる側だなんて。
「それではソフィア、そろそろお暇しようか」
「あの、私、こちらにまたお邪魔しても良いですか!?オディール様に教わりたいことがたくさんあるんです」
リンデン伯爵に手を取られながら、ソフィアがすがるようにこちらを見上げてくる。
「ソフィア」
とがめるようにリンデン伯爵がソフィアの名を呼ぶ。
家庭教師になるような淑女は通常もっと年上だし、ソフィアにまともな家庭教師がついていないかのような言い分だ。気持ちはわかるが、ソフィアに悪気がないことはわかっている。
「かまいませんよ、リンデン伯爵。せっかく仲良くなれたのですから、いつでも遊びに来て下さいね、ソフィア嬢」
ソフィアが目を輝かせ、リンデン伯爵がほっとした表情を見せる。
なんだかんだ、娘に甘いのかも知れない。
オディールがわざわざ薔薇の花束(通常の品種)を作らせるという盛大な嫌味に根ざしたお土産を用意したが、、文句一つ言うどころか笑っていた。さすがヒロインの父親、多分根がいい人なのだろう。
アンがゆっくりと髪をとかしてくれる。
丁寧に、さらさらと、柔らかな音が耳に触れる。
「それにしても、リンデン伯爵、ずいぶん若い方だったわね」
思わず呟くと、ランプの明かりが少し揺れた。
「今年で三十一歳ですから、実際お若いかと」
「えっ!?」
振り返ろうとした私の肩を、アンががっしりとつかむ。小柄なアンのほっそりした腕からは信じられない強さで体が固定され、首もろくに動かせなかった。
「からまりますよ、ジゼル様」
「ごめんね、アン。ちょっとびっくりしちゃって」
もう一度、静かにブラシが髪をなでていく。
「今年でソフィア嬢が一五歳だから、リンデン伯爵が一六歳のときの子供ってことになるわよね……」
肌つやや手のしわの感じからして、いかにも若そうだとは思ったけれど、そこまで若いとは思わなかった。
(若く見えるとかじゃないんだ……)
十五歳で成人を迎える世界なので、結婚も出産も、ライフイベント自体が前世の記憶より大分前倒しだ。
とはいえ、一六歳で父親になるのは早いほうだし、何よりソフィアは婚外子だ。婚約中にしろ、婚約者を探している最中にしろ、醜聞であることには変わりない。
先代リンデン伯爵は絶対に許さなかっただろう。
「そういえば、リンデン伯爵の奥方は……」
頭の中の貴族名鑑を開こうとして、うまくいかない。
疲れがたまっているのだろうか。
この体はいつだってうっすらと体調が悪くて、びっくりするくらい急に赤信号が点灯する。
「一度、ご結婚を。ですが、ずいぶん前に死別されています。お子様もいらっしゃらなかったかと」
アンがすらすらと答えて、ブラシを引いた。
鏡の中のジゼルは相も変わらず顔色が悪い。
有無を言わさずベッドへ寝るよう誘導され、暖められたシーツの上につっぷした。
うとうとと、目を閉じる。
たとえば、若さ故の情熱とか、恋とか、そいういうのがあったとして。
嫡子に過ぎない彼には、貴族社会のルールや力関係はどうしようもなくて。
心はずっと平民のメイドを思っていて、どこかで生まれているはずの子供をずっと探していて、当主になってやっと探し出せた。そんな、夢を。
夢を、みていた。
どうか、ソフィアというヒロインが、幸福であってほしいという、私の願望を。