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ライラックの季節(4)



 結局歴史の家庭教師はその日のうちにこちらの部屋まで足を運ぶことは無かった。

 それがマナー、ダンス、あらゆる家庭教師に影響するに至って、オディールが一切勉強に手をつけておらず、家庭教師達は次々と辞めていると知らされることになる。

 ゲームの中のオディールは一応淑女らしく振る舞っていたのでまさかこんなところでも躓いているとは思わなかった。そもそも恋愛事に関する会話以外はピックアップされないので気がつけなかっただけで、オディール嬢、もしかして勢いがあってプライドが高いだけの本当に残念な令嬢だったんだろうか。

 それでは性格の悪さを差し引いても社交界に金目当ての取り巻き以外いないのもうなずける。

 あれから毎朝朝食を共にしているが、長くも無い時間のやりとりだけでもかなりこちらのメンタルを削ってくる。子供だけが主張することを一応は許される、イージーモードで楽していきたい、世界で一番お姫様思考。とにかくこれを叩き潰さないことには先に進めない。

 オディールは当然引かないし、こちらについては引けないのだ、そろそろ悪役令嬢が砂糖壺をこちらに投げてきてもおかしくない。

 人間は安定と現状維持を求める生き物だ。これまでと環境が変わりすぎてあの勝ち気な少女がストレスをためていることは重々承知だ。けれど、このペースだときっとゲームスタートに間に合わない。時間が無い。伝家の宝刀を早々に抜くことにした。


「病気で伏せっていた分も、もう一度勉強し直したいのです。オディールと一緒ならきっと楽しいわ」


 ね、叔父様。

 毎朝の闘争が館の主人である叔父の耳に届いていないわけがないと思うけれど、精一杯可愛いそぶりでお強請りをしてみる。実際ジゼルという少女はモブではあるが美貌のライバルの姉というだけあって外見は美しいのだ。

 姪達を目に入れても痛くないほど可愛がっているパージュ子爵は快諾してくれる。オディールが叔父に泣きついていないはずが無いのだけれど、一も二も無く了承されたことに、若干の違和感を覚えずにいられないが、とりあえず目的の達成が第一なので気にしないことにした。

 以来、すべての授業をオディールの隣でうけることになっている。

 飽きたからお菓子を持ってこいというオディールをたしなめ、問題が解けないと癇癪を起こしてクビを宣告するオディールを横にどうぞお気になさらないでと授業を続けてもらい、マナーの授業では家庭教師と同じ回数だけオディールをしかりつけることになった。


 そんな生活が一ヶ月も過ぎると、少しだけ変化があった。

 オディールではない。使用人の方にだ。

「ジゼルお嬢様、オディールお嬢様が…」

 眉をひそめながら、オディールの横暴や癇癪を報告に来るようになったのだ。告げ口というべきか。使用人が口答えしよう物ならナイフを投げかねない気性の激しさは全く治らないけれど、そのナイフを実の姉に向けるほどブレーキが壊れてはいない。

 年長で現時点ではオディールより魔力の強い存在、オディールに意見ができるのは未来の当主である私の他にいない。叔父はそもそもオディールのやることにNOを出すはずがないので論外だ。

 そして、徹底的に使用人の側に立って守り、オディールを窘めている。

 主にオディールの素行が悪すぎてオディールの味方になりようがないのだけれど、ジゼルお嬢様はこちら側の人間と使用人達が認識しはじめたのだ。もっとも、面倒事を体よく押しつけようとしているのも多分にあるのだろう。

 報告があるたびにオディールの部屋に足を運び、経緯を聞き出して伯爵令嬢として、高貴なる義務持つ身として、主神に仕える正しい人のありようとしての良識と常識を説く。

 最近ではオディールが私の姿を見ただけで身構えるようになってきた。悪化の一途をたどっている気がする。

 

 ぱしゃん、間抜けな音を立てて水柱が銀のボウルに戻ってしまう。

 集中力が途切れてしまったらしい。雑念を振り払ってもう一度、最初から。水に触れて渦を作る。


「っ、」


 ぐらり、視界が歪んだ。

 銀のボウルに腕が当たって、そのまま絨毯を水浸しにしてしまう。


「お嬢様?!」


 すぐ後ろからアンの声が聞こえて、かろうじて踏みとどまる。視界がゆらぐ。

 アンの腕が抱き留めて支えてくれるおかげで、床とキスせずにすんだらしい。


「今日はもう、お休みください…ひどい顔色です」

「……ええ、そうするわ」


 立っていられないほどの目眩と頭痛に、素直に従うことにした。

 整えられたベッドに横たえられると、全身がだるく顔を動かすことさえおっくうだ。

 この感覚を知っている。

 ジゼルとして生きてきて、何度も何度も身近にあった感覚だ。

 アンが戻るのを待たず、意識が暗闇に落ちていく。

 そういえば、フルタイムで家庭教師の講義を受けるのも、毎日声を張り上げるのも、今までで初めての経験だ。そもそも体力の基本値が低いのだ。

 虫の鳴くような声で話して、毎日ベッドから窓を見つめて、家族の声も無視し続けた。現実逃避の結果からのスタートなのだ。

 生前はどうだっただろう。人とのコミュニケーションが苦手で、ゲームに逃げていた気がする。リセットボタンを押した先が前より死亡フラグだらけだなんて笑えない冗談だ。

 誰か、人の気配を感じた気がしたけれど、瞼が開かなかった。



 

 

 結局回復までに三日かかってしまった。以前より運動量は増えていると思うのだけれど、これからは食事療法や筋トレも始めた方が良いかもしれないと考える。この儚そうに見えて本当に儚いキャラクターがだめなのだ、いっそ悪役令嬢のマッチョな姉みたいなモブのほうが生存率が高そうな気がする。

 ほとんど香辛料の風味がしないパン粥をすすっていると例によって子供の声の切れ端と、ざわめく気配が窓越しに伝わる。

 きっと窓を開ければ中庭にオディールの声が響き渡っているのだろう。


「どうかご無理はなさいませんよう」

「ありがとう、アン」


 先んじて制されてしまい、苦笑して粥を押し込む作業に戻る。

 ふと、部屋の隅に見慣れない色彩を見つけた。

 一輪挿しに薔薇が挿してある。庭の薔薇だろうか。花瓶にはいつも花が満ちていたけれど、一輪挿しは見たことがない。わざわざ用意したのだろうか。

 問いかけようとしたけれど、アンは食後のお茶の用意をしていて忙しそうだった。


 仮にも伯爵家に一輪挿しが一つもないなんてこともないだろうし、きっととびきり綺麗に咲いた薔薇でもあったのだろう。

 庭の薔薇はオディールのような深紅の薔薇ばかりなのに、一輪挿しに生けられた薔薇は雪のような純白だった。

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