身に覚えのない悪意1
衝撃の告白に目を白黒させている私の両肩をソフィアが支えるというよりはがっちり両手でホールドしているので至近距離で見つめ合うことになる。
「王太子殿下と父が話しているのを聞きました。父は、王太子殿下にこう言っていたんです。私の身柄を王太子殿下の自由にしていいと。そして、『見返りに、薔薇がほしい』と」
薔薇。
薔薇のダルマス。花の名前を冠する家名はいくつかあるが、薔薇の、とつけばダルマスが挙げられる。そのくらい古くから、ダルマスの薔薇は有名だった。
リンデンとダルマスは隣接している。そのリンデンが、薔薇がほしいというのなら、それはダルマスのことだと考えるのが普通だ。
「王太子殿下は、『口添えはしてみよう』と仰せでした。それで、『少々長く、令嬢を借り受けることになるが良いだろうか』、とも」
「そんな……待ってください。ソフィア嬢は王太子殿下とどこで出会ったんですか?神殿でたまたま意気投合したとか、隠していたけどじつは王太子だったことが発覚したとか、そんなイベントがあったはずじゃ」
楽園の乙女に、ソフィアの父親の姿はほぼ出てこない。オープニングでソフィアを歓迎し、ずっと探していたと言うだけの舞台装置だ。
「新聞社が好き勝手書いているだけです。いいえ、きっと王太子殿下が書かせたものもあるのでしょう。私が王太子殿下に会ったのは一度きり、あのデビュタントの夜だけです」
「そんな……どうして」
(ありえない)
無事にイベントが進行したのだと思った。
ゲームのシナリオがスタートした以上、ここは『楽園の乙女』の世界なのだと。不安とともに自分の優位を確信していたのに。
「オディールが、助けたから……?」
知らないうちに改変していた。
ソフィアの養父母は元気なままで、実の父親を頼る必要はなかった。ソフィアは貴族である父親の命令で連れてこられ、シャルマンに売り飛ばされているようなものだ。
恋愛イベントの「れ」の字もない。むしろ嫌悪や憎悪がある方が自然かもしれない。
「ええ、そうです!」
「え?」
ソフィアは私の肩をつかんだまま、さらに顔を寄せてきた。
実の父親に道具同然に売り飛ばされ、恩人の領地を切り取ろうとしているという告白をしたはずなのに、なぜか目はキラキラと輝いているし、頬はますます血色良く赤い。申し訳ないと言っていたさっきの言葉と矛盾している。
「お二人が、私を助けてくださったときに、私は主神エールの存在を確信したんです!」
「はい?」
「いと高きところにおられる御方は、いつだって私たちを見守ってくださる。善良な祈りには救いの手を差し伸べてくださる。悪を成すものには改心を促し、善き道を進むよう促してくださるのだと!」
「ソフィア嬢?」
「今もそうです。私は父がダルマス伯爵領をほしがることを知っても、流されるままでした。強欲な貴族のすることだから、貴族達の争いだから、私には関係ないことだって見て見ぬふりをしようとしました。でも、主神エールは止めてくださった。他人の財を奪う強欲に、手を貸すことのないよう。お二人を、また私の前に遣わせてくださったんです。これを神の愛と言わずしてなんと言うんですか!」
「ソフィア嬢、待って。待ってください、お願い話を聞いて。あとこんなところでそんな大声出さないでください! 誰かに聞かれでもしたらどうするんですかっ」
「大丈夫ですジゼル様、主神エールは必ずや正しき行いを守護してくださいますっ」
どんどん早口に鼻息荒く近づいてくるソフィアの鼻先がもはや私の鼻先につきそうだ。というか、目がおかしい。完全にトリップしている。
(乙女ゲームのヒロインを救ったら仲良くなるとかじゃないんだ……?)
ソフィアが私たちに感謝していることは確かなのだろうけれど、私の都合や意思など一切確認する気もない。ソフィアの矢印は主神エールにのみ向けられており、完全に宗教にどはまりしている。
「主神エールのご意志である以上、私は私の不明を悔い、改め、この悪を絶対に止めなくてはいけません。どうか、お力を貸してくださいジゼル嬢!」
奉仕コマンドで上がるのは名声と信仰だ。
ステータス画面を確認することはできないけれど、ソフィアの信仰のパラメータがぶっちぎっているのが手に取るようにわかる。
(そもそも、どうして王太子殿下がダルマスを?)
悪役令嬢の姉ですが、面識がないはずの攻略対象に政敵認定されています。
「なんで……?」
頭を抱えて自分の過去を検索してみるけれど、何一つ該当する記憶がヒットしない。
体調不良を理由に、王宮からの招待を二度は断った記憶がある。三度目までは偶然のうちだ。
王太子シャルマンのことを嫌いなわけではない。好きなわけでもない。ただ関わるとお互いにろくなことにならないから距離をとっている。
ただただ面倒に巻き込まれたくない、その一心だ。
お願いだからこちらを見ないでほしい、目を合わせないでほしいと斜め下に視線をそらしながらすれ違うような人が、誰にだって一人くらいいるはずだ。
消極的な意思表明。直接言うと角が立つし、相手を傷つけたいわけでももちろんない。そんなわけで、どうかこちらの事情と感情を察してほしいという逃げ道を残した拒絶。
そんな曖昧な意思表示が、こじれた拡大解釈と誤解の坂を雪だるまのよう転がり肥大した結果、全く意図しないトラブルを連れてきた。
(ううん、違う。多分、意図的だ。誤解じゃない。わかってて都合のいいように曲解された)
王宮で笑顔のチキンゲームをこなし続けている王太子が、安易な誤解をするわけがない。
ソフィアに目をつけて、リンデン伯爵にダルマスを切り取ることを提案した時点で、相応にダルマス伯爵家のことを調べてあるはずだ。
(意思表示をしないということはどのように受け取られても構わないと言うのと同じ、みたいな?和製ゲームなのになんでそんなところは欧米なの?どうするのが正解だったの?関われば没落エンド、関わらなければ政敵認定ってもう詰んでない?誰か助けて)
ゲーム内でも完璧な王子様だったシャルマンを敵に回すなんて、もう考えただけで胃液が喉までせり上がってくる。酸っぱい匂いが口から鼻をついて、目に涙がにじんだ。
乙女ゲームが原作なんだから恋慕とか三角関係とかそういう甘酸っぱい感じでもめてほしい。ゲームのジャンルが変わってしまっている気がする。
リンデン伯爵領はダルマス伯爵領の東隣、境界は山深く、わずかに街道一本で接する領地だ。
(ゲーム序盤の段階で乙女ゲーヒロインの実家に領地侵略されそう、なんてことある?オディールが悪役令嬢なのは、ダルマスとリンデンが敵対していたから……?そんなの、どうあがいてもヒロインの敵にしかならないじゃない)
どのルートでもオディールがソフィアを執拗に攻撃しようとすることにも、説明がついてしまう。今ソフィアが話したことを、オディールが知ったからだ。仲良くなんかしようが無い。
(どうして、何があったの?)
転生してからリンデンを敵に回した覚えはない。
たとえばダルマスが没落していた間、街道の治安が悪化したこと、貧しい領民がリンデンに流れたことは想像に難くない。それについてはクタールも同じだが、人と物の集まるクタールについては労働力として受け入れる余裕があったのでむしろ安い労働力を失うことを残念がられた。リンデンはどうだろうか。
ダルマスが持ち直してもほとんど交流がなかったので、あまり良い感情を持っていないのかもしれない。ソフィアと接触したくなかったのであえてこちらから声をかけることはなかった。
(社交界に人脈がないのが本当に響いてるわ)
それは古い家では、母親から娘に受け継がれるものだ。
そして一族を介して広がるものだ。
いずれもない私は、すでに情報の面で圧倒的な不利な状態だ。
作中に大きな戦争が起きる描写はなかったから、ダルマスの家格と商会の財力があれば大丈夫だと安心していた。オディールさえ暴走しなければ、それなりに幸せな人生を送れるはずだと思っていた。出る杭にさえならなければ打たれることはないと。
ここはへこんだ杭さえ薪になるなら着火される世界らしい。
商会の力で各地の情報を手に入れることはできても、貴族の屋敷の中の情報までは手に入らない。私はもっと社交界に出入りして、もっと身分の高いレディを先生として招くべきだったのだ。
(……過ぎたことを悔やんでも仕方ない)
頭を振って、意識を切り替える。心臓が嫌な音を立てて、こんなにどくどくと脈打っているのに血の気が引いているのか指先がやけに冷たい。
「一体、どういうことですの?」
その声は、中庭に積もった雪に吸われることなく、空に響いた。
はっとして顔を上げる私とソフィアの視界で、燃えるような赤毛が揺れた。
「オディール、一体いつからそこに」
「こんな開けた場所で大声で話していたことを、盗み聞きだなんて言わないでしょうね?お姉様」
「それは……」
腕を組んで仁王立ちしているオディールの、ドレスワンピースの裾が汚れている。それなのに、黄金で着飾った女王のような迫力で、悪役令嬢は怒りを込めて眉間にしわを寄せる。
私はオディールを見て、ソフィアを見て、天を仰いだ。
(オディールに今の話を聞かれたなんて……)
怒髪天からのお宅訪問が容易に想像できてしまう。それはいつぞやの記憶、クタールの古城で、まだ嫡子に指名されていないユーグに向かってオディールがやったこと。
相手が王族だろうが、同格の貴族家だろうが、きっとやる。やらかす。それがオディールという少女だ。
「オディール、いったん落ち着いて。お願い、私と話をしましょう」
気分は怒れる山猫にミルクを与えようとする飼育員だ。
「落ち着いてなんかいられません! お姉様は本当にダルマスの当主になるという自覚がおありですの!? 私だったら、今すぐにでも剣をとってリンデン伯爵家へ決闘を申し込みに行きますわ!」
一手目がカチコミとか乙女ゲームとして治安が悪すぎる。
(作中のオディールのソフィアいじめ、やたら詰めが甘いというか、証拠を残していたけれど、あれってシナリオの都合とかじゃなくてこんな風に場当たり的に行動していたせいでは?)
オディールに対する残念令嬢の疑惑が深まりそうなのでため息しか出ない。
「以前にも言ったでしょう、証拠もないのにむやみに人を疑うのはやめなさいと」
「確かに、証拠があるのかと聞かれれば、何一つありません」
私の言葉に、ソフィアがずいと進み出た。
「ですが、すべて主神エールに誓って、私の耳がきいた言葉、私の知る真実です。恩人であるお二人を騙すだなんて、そんなことをすれば私の魂こそ楽園の野から遠ざかるでしょう」
目を伏せ両手を組んで、小さく祈りの言葉を囁き、ソフィアはゆっくりと顔を上げた。磨き上げられた宝石のように、一切のくもりのない瞳を私達に向ける。
こくり、とオディールが頷いた。
「お姉様、私はソフィア嬢を信じます」
「オディール」
「その故郷のなんとかいう村も、平民の店も、何一つ覚えておりませんけれど。ええ、確かに。豚みたいな代官を成敗したことは覚えておりますわ! 私、私を侮辱した人間のことは決して忘れませんもの。趣味の悪い髭の形まではっきりと覚えておりますわ」
堂々と胸を張って、オディールは顎をあげる。レースも宝石もない奉仕用のドレスの胸元に、傷一つ無い白魚のような右手が重ねられる。
「このオディール・ダルマスに恩義を感じているというのならば、その恩を返したいと望むのならば、その魂が善であることを信じて献身を受け取ることも高貴たる淑女の義務ではなくて?」
「オディール様……!」
ソフィアが潤んだ瞳でオディールを見上げる。
オディールは勝ち気なつり目を笑みの形にして、不敵に笑ってみせる。
ヒロインと悪役令嬢が意気投合している、多分本来なら感動的なシーンだけれど、私の胃がさっきから嫌な痛みを訴え続けている。
(暴走娘が二人に増えて、る?)
そんなまさか。
歯を食いしばりながら状況を整理する。とにかく時間がほしい。
このままリンデン伯爵家のタウンハウスを襲撃しかねない少女二人をどうやって止めるか。
もう気を失って倒れるしかないのか。しかし私の看病のためにとりあえず襲撃をやめてくれればいいが、目覚めたら先方のタウンハウスが燃やし尽くされていたみたいな地獄が展開している可能性も否定できない。
冷や汗をかきながら二人にかける言葉を思考し続ける私の肌を、何かが舐めるような感覚があった。悪寒と、鳥肌。ひりつく痛みに似た感覚が足下から脳天まで駆け上がる。
私の魔力の器が一瞬コントロールを失い、魔力が漏れ出て足下の雪を巻き上げ、視界が白くなる。
次の瞬間、金属を金槌でたたいたような甲高い音がして、遅れて石造りの廊下に何かが落ちた。
「……?これは」
「危ない!」
それがなんなのか確認する暇もなく、ソフィアがオディールと私の手を引いて建物の中に倒れ込む。
また石の廊下に何かが跳ね返り、キラキラと光った。透き通った円錐形の氷、つららが落ちてきたのかと考えたところで、思考が止まる。
頭上に太いつららのできるような庇はない。
雪煙の向こう、それが単なる偶然ではないことを示すように、氷片が窓の木枠に真横に突き刺さっていた。




