猫の真相 2
ソフィアの養父母は、クタール侯爵領の南隣、ジヴワ男爵領の片田舎にあるミエルという町で日用品と蜂蜜を売る商いをしている夫婦だった。
生活は豊かではなかったけれど貧しくもない。地元の人々や時折訪れる旅人に愛される、善良で、信心深い二人が切り盛りする、素朴な店だった。
家族の幸せな生活に影がさしたのは、ソフィアが十三歳になったころだ。
父が病に倒れ、母だけで店をまわすことになった。
どうにか金をかき集めて医者に診せることはできたが、今度は治療に必要な薬が買えない。無理を重ねた母の顔には疲れが見えるようになり、じりじりと家の中の空気が暗くなっていく。
神への祈りむなしく、焦燥と絶望は新たな友人を連れてきた。
ミエルに新しく着任した代官は、悪辣な男だった。欲望に忠実で、集めた税から金をちょろまかして領主に袖の下を渡すことに余念のない、そんな男だったのだ。
目をつけられたのは母だった。養子とはいえ子供がいる割には若く美しい女主人は、豚のように肥え太った男の嗜好に大変合致したらしい。
徴税人から、納税が遅れがちな店だと情報を得て、権力と金を振りかざしてあからさまに脅迫したのだ。
母はソフィアと代官を決して会わせなかった。じきに年頃になる娘が悪魔のような男の毒牙にかからないように、店にもなるべく立たせないようにして、深くスカーフをかぶらせた。
品性の欠片もない下卑た言葉や、恐怖をあおる暴力的な物音を、ソフィアは粗末な木の扉越しに聞くことしかできなかった。悲鳴や嗚咽が漏れないよう、必死で口を塞いでいたからだ。
だから、その日のことをソフィアは良く覚えている。
とびきり大きな音がしたのだ。それは代官の護衛が脅しをかけるために店を破壊するのよりずっと大きな音。店中の棚をひっくりかえし、蜂蜜の入った陶器の瓶が割れる音だった。
とっさに店の扉に手をかけたソフィアの鼓膜をたたいたのは、代官の罵声ではなかった。
「お前、さっき私のお姉様になんて言ったの?」
甲高い、少女の声だった。
「いいえ、結構。わざわざ気分を悪くする必要なんかないわよね。その豚のように脂ぎった指でお姉様に触れたと聞いたわ。もう十二分に重罪よ」
その間も、男のうめき声と、瓶が割れる音と、床や壁に何かがたたきつけられる音が響く。 ソフィアが手をかけている扉にも、何かがぶつかる鈍い音がして、動かなくなった。
重いものが扉の前に投げ込まれたらしく、扉は数センチしか動かない。その隙間から、男物のブーツが見えた。くたびれて泥にまみれたそれは、見覚えのあるブーツだった。領主の護衛をしてる男の足だ。のびているのか、ソフィアが扉を押してもびくともしない。
「小娘が、わた、私が誰だかわかっているのか!?」
つばをまき散らし、町の住人に怒鳴りつける代官の不愉快な声が聞こえた。
次の瞬間、鈍い音がして、鳥をしめたようなうめき声が続く。
「無礼者の名前なんか知るわけがないじゃない」
「私にこんなことをして、領主様が、だ、男爵様が黙っていないぞ!」
代官が二言目には言う脅し文句だ。たくさんの賄賂を送っているから、領主様は代官の横暴を見逃している。もとより平民の嘆願など、貴族には届かない。
町の住人達なら唇をかみしめてうなだれるしかない言葉にも、少女の声はひるむ様子もない。
「あら、どうか黙っていてくださいと床を舐めるのはお前の方だというのにね。お馬鹿さん。もちろん私はユーグに全部お話しするつもりよ。ちょうどお土産を持ってくって約束しているもの」
「一体何の話だ、うぐっ」
ガチャリ、と金属のぶつかる音がした。
少女の他に、複数人の武装した男がそこにいるのだと察して、ソフィアは真っ青になる。
(お母さん、お母さんを助けなきゃ)
渾身の力でドアを押すけれど、動いてくれない。ガタガタとドアが鳴る。子ネズミの抵抗は、陶器の割れる音に紛れて聞こえないらしい。
「クタールへの街道を封じるだけでジヴワは干上がってしまうんですってね?クタール侯爵令息ユーグ・クタールからジヴワ男爵に手紙が送られていたはずよ。特別に大切な客人がミエルへ向かうから、丁重におもてなしするように、って! 蜂蜜がお姉様の喉に良いっていうから、こんな田舎町まで休養を兼ねて足を運んで差し上げたのよ。それがなんなの、関所でお姉様を呼び止めて、許しもなく手に触れてあまつさえ髪を引っ張ったですって!? 私が単騎で先行してなければその場で手首を切り落とすよう言っていたわ!!」
自らの発言にますます怒りが加速したらしい。話すほどに激昂する少女の言葉に合わせて、また店の中の何かが壊れる音がした。
どうやら代官が投げ飛ばされたらしい。扉の隙間から、趣味の悪い金の刺繍のはしが見えた。
「まったくもう、汚らわしい。これだから田舎は嫌なのよ。お土産を受け取ったユーグがこの豚にどんな罰を与えるのかだけが楽しみね。むち打ちなんて生ぬるい、もっと目新しい拷問がいいわ。お手紙を書かなくちゃ」
地獄のような台詞が、うっとりした少女の声で降ってくる。
代官と同じ、人を人と思っていない台詞だった。踏みにじられる蟻の気持ちなど、知る価値もないと思っている、傲慢な声だった。
(踏みにじられるだけなんだわ、私たちなんて)
目頭が熱くなって、涙がこぼれて、恐怖と混乱に扉を開けることを止めてしまったソフィアの前で、悲鳴のような声がした。
「オディール!!」
さっきまでの甲高い声とは違う、少女の声だった。
突然の絶叫に、ソフィアの肩が震える。
ガシャリ、と武装した男達が一斉に動いた音がする。
「オディール、あなた、一体何しているの!?」
「あら、お姉様。安心なさって、悪漢はもう退治いたしましたわ」
「どう見ても暴行してるのはこちらよね!? 蜂蜜を買いに行くだけって言っていたのにどうしてこんなことに……」
ばたばたと、慌ただしい空気がドアの隙間から伝わってくる。
「ああもう、こんなに壊して。オディール、いつも言っているでしょう、平民にも生活があるのよ?」
「私が来たときには壊れてましたわ。この豚が、手下を連れて店を壊していましたもの。税金がどうとかいってこちらの女主人に迫っているの、私がこの目で見ましたのよ。私は助けて差し上げただけよ」
しれっと嘘と言い切れない嘘が聞こえてきた。
「そう、なの? その女主人は?」
「そこで伸びてますわ」
(お母さん!)
ソフィアは思い出したように力を込めて扉を押した。扉の前の男の体制が崩れたのか、重い鉄製の小手が床にぶつかって大きな音を立てる。
ガチャガチャと音がすると、扉の隙間に金属で覆われたブーツが見えた。そうソフィアが認識するのと、男の体が押しのけられて扉が開くのは同時だった。
「子供です。この店の娘かと思われます」
代官の連れている護衛より、ずっといい鎧を着た男だった。低い声が報告する。
恐怖のあまり頭に巻いたスカーフを必死でつかんでいると、カウンターからのぞき込むその人と目が合った。澄んだ菫色の瞳がこちらを見下ろして、目を丸くしている。
いつか行商人が見せてくれた、アメジストという宝石に似ていた。
その少女がカウンターを回り込んでドアの前に立つと、ソフィアは彼女が貴族なのだとすぐにわかった。色味こそ地味だけれど、このあたりでは見たことがないような美しい織りの布地を使ったドレスワンピースだったからだ。
よく手入れされた銀の髪が遅れてふわりと揺れる。
「ごめんなさいね、驚かせてしまって。役人のことは心配しないで、私から男爵へお話ししておくから」
膝を折って目を合わせて、美しい少女はソフィアを落ち着かせるように微笑んだ。
優しい笑みに誘われるようにそろりとドアの外に出ると、店の中は目も当てられない状態になっていた。割れた瓶から蜂蜜が漏れて大惨事になっている。
壁にたたきつけられて意識を失っているらしい代官の顔は、見る影もなく腫れ上がっていた。
そんな破壊の跡地に、まるで女王のように君臨している少女がいた。つば広の帽子にまとめ上げられた髪は、きっと赤毛なのだろう。後れ毛が逆光を受けて金褐色にも光って見える。
店の中を見渡して、カウンターのすぐ前に倒れている母を見つけてソフィアは悲鳴を上げた。
「お母さん!」
駆け寄って手を取ると、荒れた手にはしっかりとぬくもりがある。外傷はないようなので、気を失っているだけらしい。
「お前達、倒れたご婦人がいるのに一体何をしているの」
少女の声ははつらつと良く通る。その命令を受けて、護衛だろう男達がぞろぞろと動いた。年の頃はソフィアと同じくらいだろうに、この覇気はいったいどうしたことだろうか。
(本当に、女王様みたい)
母親が抱き上げられるのをぽかんと口をあけて見ていたソフィアと、女王のような少女と目が合う。先ほどの少女と同じ、アメジストの瞳だ。同じ色なのに、まるで燃えているように強い光を宿している。
「お前、この町に医者くらいいるんでしょう、案内なさいな。ぼさっとしていないで! 母親なんでしょう?」
「あ……は、はい!」
壊れかけたドアを開けて外に出ると、町の住人達が不安そうな視線が集中した。ソフィア達を案じる視線の他に、代官に余計なことをしたのではないかという猜疑の瞳だ。
この善良な田舎の住人達を、確かに愛していたはずなのに、ソフィアの胸を塗りつぶしたのは煮詰めた怒りに濁った色だった。
ソフィアは息を吸って、足に力を込めて、顔を上げた。
(誰も、助けてくれなかった。あんた達に、そんな顔される筋合い、ないんだから!)
医者の家に向かって先導するソフィアに、武装した男は無言でついてきて、医者に金まで支払ってくれた。
夕方になって、ひどく慌てた様子の兵隊達がやってきて、代官をひきずっていった。男爵家の兵隊だという彼らが言うには、横領と脱税で裁かれるらしい。あまりにも今更だったが、金の収まる先は男爵本人だったのだから証拠はいくらでも揃えられるのだろう。
さらに、夜になって母とともに店に戻ったソフィアの目の前に、袋に詰まった金貨が差し出された。昼間の護衛の一人が、主達から店を壊した詫びに、と言って持ってきたのだ。
壊れた商品を買い直し、店を修繕して、父の薬を買うのに十分な金額だった。
美しい貴族の少女達は、突然に現れて、一日でソフィアの抱える問題の何もかもを解決してしまった。
(主神エールが遣わせてくださった天使様なのかもしれない)
代官から母を救い出してくれた少女も、役人のことなら心配しないでと微笑んでいた少女も。
そうしてソフィアはささやかで幸せな日常を取り返した。
血縁上の父親から連絡があったときも、相手が貴族なので従わざるを得なかったけれど、顔も知らない父親の娘になる必要性など感じなかった。
ただ、ソフィアは前向きだった。
見知らぬ世界への好奇心と、それから、あの日出会った天使のような二人に会えるかも知れないという期待を胸に、慣れない貴族社会について一生懸命学んだのだ。
蜂蜜を買いに来たと言っていた恩人に、一等いい蜂蜜を渡せるよう、ソフィアの部屋の棚にはリボンをかけた蜂蜜の瓶が置いてある。
ジゼルは目を見開いてソフィアを見つめていた。
菫色をしたその瞳を、懐かしくも尊い思いでソフィアは見つめ返した。
「覚えていませんよね。きっと、お二人にとっては道ばたの石を蹴飛ばしたくらいの、ささいなことだったんだと思います。あのときお二人が助けてくださらなかったら、きっと父は死んでいましたし、母ももっと傷ついていたはずです」
でも、とソフィアは言葉を続ける。
「デビュタントでは、緊張しすぎて気がつかなかったんです。それに、オディール様の髪が、あんなに赤い、薔薇のような色だって知りませんでした。お二人が並んで、ジゼル様がオディール様の名前を呼んで、それでようやくつながったんです。改めて、本当に……本当に、ありがとうござました」
「お礼を言われるようなことではありません、ソフィア嬢。オディールのやったことについてはむしろこちらが謝る側です。というか、今の話のどこにもソフィア嬢が私達に謝る理由が見当たらないのですが」
頭痛をこらえるようにジゼルは頭を抑えている。元から白い肌から血が引いて、いっそ痛々しいほどだ。ソフィアはジゼルを支えるように肩に手を添えて、顔を近づけた。
「父は、」
震えるジゼルを見つめて、何度もためらって、それでも眉間にしわを寄せて口を開いた。
「私の父、リンデン伯爵は、ダルマス伯爵領を手に入れようとしています」




