猫の真相 1
結論から言うとリンデン伯爵家への訪問は拒否された。
とてもやんわりと、けれどしっかりと。
なにしろ目の前で伯爵家の紋章のある馬車が門の中に入ったのに、門番には「主は当分お戻りになりません」と告げられたというのだ。
話を聞いた途端オディールが弾丸のように抗議しに行くのではと警戒したけれど、『悔しいですけれど、私でもそうしますわ。熱湯をかけられなかっただけお優しいというべきね』という理由で事なきを得た。自分が謝罪する側ということを理解してくれているようで何よりだ。
手紙を届けに行っただけで熱湯を浴びせられるかもしれなかった使用人が引きつった顔をしていたが。
ため息をついて立ち上がる。じっとしているわけにはいかない。
「アン、人をやって王都にある神殿を調べてちょうだい。救貧院をかねているところがいいわ。リンデン伯爵家のタウンハウスに近い場所から順に顔を出していけば、多分ソフィア嬢には会えるはずよ」
「えっ、なぜですの?」
きょとんとオディールが声を上げる。
メアリはわかりやすく目を丸くしているし、アンももの言いたげにこちらを見ている。
(シャルマン王太子攻略に必要な『名声』パラメータ上げのコマンドが『奉仕』だから、とは言えないし……)
現実にスチルの表示の有無がないので、前回のデビュタントイベントが果たして成功したのかもわからない。けれどとりあえず、イベントは起こったので名声と魔力を中心に上げていると考えておく。
「おしゃべり雀はどこにでもいるのよ」
いかにもな風にごまかすと、オディールはなるほどと頷いた。
もう一カ所候補を挙げるなら、魔力のステータスをあげる魔法院がある。伯爵家なら、身内の一人くらい魔法院に出仕しているはずだ。そこで魔力をあげる訓練をしている可能性があるのだ。
残念ながら、私が魔法院で人を探すのは難しい。
ダルマス伯爵家が盛大に没落したせいで、母の代では分家はおろか配下といえる家さえなかったのだ。皆身分を売り渡し、土地を担保に金を借りたまま返せず、消息を絶ってしまった。ダルマス伯爵家が盛り返してから金をせびりに来る者もぽつぽついたらしいが、素性も確かではなく、そもそもそんな甲斐性なしが出仕できるほど王都の魔法院の門は開かれていない。
仮にも軍事施設、ツテのない人間が内部を動き回ることはできないのだ。
(リュファスに頼めば、入れるかも知れないけど……)
幼なじみだ。恩人だとも言ってくれている。優しい彼のことだから、魔法院へ足を運びたいと言えば喜んで同行してくれるだろう。
ただ、多分、ものすごく目立つ。
王国の星に頼み事ができるのは、国王をはじめとする王族と魔法院の長老達と兄であるユーグだけだともっぱらの評判なのだ。その評判は平民上がりが傲慢な、という悪口と一緒に流れてくる。
侯爵家の庶子でありながら魔術の家門としての役割を実質すべて担っているという事実がさらに問題をややこしくしている。その気になれば貴族院で爵位の継承を主張できてしまう実績を持ったリュファスに取り入るべきか、否か。侯爵家の実権はどちらにあるのか、というねじれが生じてしまっている。
嫡子であるユーグにどこまでも忠実なリュファスが腹の底で何を考えているのか、どこの貴族と縁を結ぶのか、その動向は常に注目されている。
(ただでさえ王都中の噂になってるのに、リュファスのことまで噂になったらもう収拾がつかなくなりそう)
原作と同じイベントが発生している以上、原作から筋が外れるほど私のアドバンテージは削れていく。なるべくモブはモブのまま、ある程度は原作のストーリー通りに進んでくれないと、不測の事態に対応できなくなる。
(今年一年だけでいいから、せめて乙女ゲームのエンディングまで、なるべく目立ちたくない)
ため息をかみ砕き飲み込んで、いかにも寒そうな空模様を見上げて振り返った。
「アン、メアリ、奉仕活動用のドレスを用意して。なるべく地味なものをお願い」
主神エールは時々私にも微笑んでくれる。
王都の商会のスタッフから、各神殿で奉仕活動をしている令嬢のリストが届けられたのだ。屋敷からめったに出てこない令嬢達への売り込みの機会を逃さないということだろうか。ソフィアの名前は、ダルマスのタウンハウスからほど近い神殿に記載されていた。
ぐずつく空は灰色だけれど、地面に積もった雪の白さが視界を明るくする。
十分な薪や食料のない平民が神殿へ一杯のスープを求めて行列する横へ、商会の馬車から降り立った。
アンが神殿へ進み出て、寄付金を神官に渡す。奉仕を申し出ると、若い神官はおおげさなほどに喜んで見せた。扇子より重いものを持ったことがない令嬢の奉仕など、率直に言えば邪魔でしかないはずだが、寄付金に代えられるものではない。
地方で奉仕活動をどれほど熱心にしても、社交界の噂になることはない。長く忍耐強い献身があれば別だけれど。しかし、王都の奉仕活動は別だ。小銭さえ払えば、慈悲深い令嬢の奉仕活動だと新聞に載ることもできる。
寄付金の金額だって、なぜか不思議と皆知っているのだ。羽振りの良い金額が知れれば、夜会の招待状も増えるというもの。おかげで王都の神殿は活動資金に困ることがないというわけだ。
令嬢は名声を得られて、神殿は金を得られて、貧民は食事にありつける。
三方良しのついでに、もはや習慣化しているせいで、令嬢の仕事まで用意されていたりする。貧民に使うとは思えないほど清潔なナプキンを折りたたむ仕事と、たたまれたナプキンを広げる仕事。それから、いかにもな絵が撮れる粥を手渡す仕事だ。
それ以外の仕事をする令嬢がいるなら、それは真に信心深く、心優しい令嬢だろう。
鼻息荒く腕まくりして「この程度の行列三十分でさばいてみせますわ!」とのたまっている私の妹とか。
オディールがノックもなしに開けたドアの向こうで、薪を抱えたまま目を丸くしているソフィアだとか。
「え……えっ!?あ、えっと、そんな」
明らかに動揺したソフィアの手から薪がカラカラと乾いた音を立てて床に散らばった。
「まぁ! さすが私のお姉様だわ、本当にここにいるなんて」
「な、なんで」
ドレスワンピースの裾が汚れることもいとわず、オディールが膝をついて薪を拾い上げる。ソフィアも慌てて薪に手を伸ばし、やはり混乱しているのか薪を一本つかんだまま固まってしまった。
「奇遇ですね、ソフィア嬢」
白々しくも手を差し出して、ソフィアを立たせる。
オディールは薪を軽々と抱えると、鍋の下の薪にごっそりと突っ込んだ。周囲の神官達が小さく息を吐く音が聞こえる。満足げな貴族令嬢の顔に何も言えはしない。
「昨日のことを、謝罪する機会をいただきたいと主神エールにお祈りに来たのです。こんなに早くお導きをいただけるなんて、主神エールに感謝せねばなりませんね」
オディールと目を合わせると、ぐっと目に力を込めてオディールが顔を上げた。
「ソフィア嬢!」
決闘でも申し込むような勢いでオディールがソフィアの前に立つ。
「デビュタントでの振る舞い、心から謝罪いたします。淑女にあるまじき振る舞いでしたわ」
スカートの裾をつまんで、淑女の礼をとる。
謝罪しているとは思えないほど堂々とした態度だけれど、オディールから謝罪の言葉を引き出すには心からの納得が必要だ。メアリが後ろではしゃいだ声を上げて、アンに黙らされたのかすぐに静かになった。
「謝罪だなんて、そんな。私は何も、気にしてないです」
オディールとは対照的に、おびえた様子で目を合わせないように床を見ているソフィアに、どうしたものかと首をかしげる。こんなところを記者に見られたら、『社交界の白薔薇、王太子を寝取った令嬢をガン詰め』とかいう不名誉な記事がでそうだ。
「では謝罪を受け取っていただけたと思ってよろしいのね?」
「は、はい! もちろんで」「ああよかった! すっきりしたわ。さぁ、さっさと奉仕を済ませてしまいましょう。こんなに人手があるのに、王都の神官は愚図な方ばっかりなのね!」
「オディール」
奉仕に来ているのにヘイトを集めてどうするのか。
護衛兵達は慣れたもので、オディールが怪我をしたりやり過ぎたりしないよう立ち回っている。アンとメアリもオディールのフォローに入っている。
普段は令嬢達が立ち入るはずもない場所をうろうろされて、神官達があきらかに戸惑っている。
「……ソフィア嬢、お話ししたいことはたくさんあるのですが、先に奉仕を済ませてしまいましょう。民達が寒い中待っているようですから」
もう一度手を差し伸べると、ソフィアは少しだけ迷って、手を握った後、笑顔を見せてくれた。
前髪をはらうと、袖口から鍋の底が焦げる匂いと、煙の匂いがした。質の悪い薪を使っていたので、洋服にもすすがたくさんついている。見上げる空が広いのは、神の恩寵を感じるべく庇を作らない神殿特有の建築様式のせいだ。
ただ、ずいぶんと久しぶりに外に出たような気がした。
灰色の空を眺めていると、ずいと目の前にふわふわの毛皮が差し出された。
「あのっ、どうぞ、ジゼル様」
ソフィアだった。
暖かそうな毛皮のケープは彼女のものなのだろう、なにしろ上着を着ていない。
「お気持ちだけで十分ですよ、ソフィア嬢。私はこの通り上着を着ていますし。それに、同じ伯爵家なのですから、『様』なんてつけないでください」
「あ……すみません。ジゼル様、いえ、ジゼル嬢がその、このまま空に消えてしまいそうな気がして。さ、さすが淡雪の君っていうかっ」
(それは疲れてぼんやりしてただけです)
いつもの地顔である。
「お手伝い、ありがとうございます」
「いいえ、私は何も。オディールになにもかも任せてしまって、お恥ずかしい」
オディールは生き生きと護衛達に力仕事を指示し、自らも奉仕活動に走り回っている。現場の指揮系統を一切合切無視する強引さが善意の迷惑とならないよう、オディールを誘導するのが仕事になってしまっている。
端から見れば口を出しているだけの姉だろう。
「そんなことないです! ジゼル嬢がいるから、オディール嬢も、ダルマス家の方も、きっと安心して自分の仕事ができるんです」
ぐっと拳を握るソフィアの、その手が震えている。
「そう言ってもらえると嬉しいです。でも少しくすぐったいですね。さぁ、ケープを羽織ってください。一番の働き者はあなたなのに、風邪を引いてはいけません。リンデン伯爵も心配されますよ」
差し出されたケープをソフィアの肩にかけて、紐を結ぶ。もう寒くはないはずなのに、ソフィアの肩の震えは止まらない。
そんなに冷えたのかとたき火の近くに誘導しようといて、うつむき加減のソフィアの目元に涙が光っていることに気がついて息をのむ。
ソフィアの冷たい手が、がしりと私の手をつかんだ。
「!?」
「ジゼル様っ!」
呼び方が戻った。萌黄の一番明るい色を閉じ込めたような瞳から、涙が一粒こぼれて冷たく光る。
「私、私ジゼル様に、オディール様に謝らないといけないことがあります」
「ソフィア嬢? 急に何を」
「本当に、本当に知らなかったんです。お二人がダルマス伯爵令嬢だったこと! もしも知っていたら、こんなことに加担しませんでした、どうか信じてください。本当にごめんなさい」
「ソフィア嬢、落ち着いて。一体何の話?」
ソフィアにオディールが謝るならともかく、ソフィアはいったい何をわびているのだろう。
(そういえば、王城でも私たちの顔を見るなり謝って逃げ出していたっけ?)
つい先日まで平民だったソフィアに、ダルマス伯爵家を害することなどできるはずがない。それとも、商会の関係で何かもめたのだろうか。養父母が小売りを商いにしていたという情報しかなかったが。
「覚えていないですよね。でも、オディール様と、ジゼル様は、私の、私たちの恩人なんです。ずっとお礼を言いたかった。どうか、私の話を聞いてくださいませんか」
ソフィアは涙をためたまま、微笑んだ。
雪が明るくて、ペリドットの瞳はますますキラキラと光っていた。赤く染まった頬は、寒さだけではなく興奮で血色がいいようだった。
「ミエルという田舎町が、私の育った場所です。とりたてて見所もなくて、あっ、でも上等の蜂蜜が採れる町なんです」
ソフィアが語るその町の名前にはまるで聞き覚えがなかったけれど、上等の蜂蜜という単語が記憶の底から何かを引き上げた。
そう、日々忘れてしまいたい幾多の記憶の中の一つ。
オディール伯爵令嬢の、華麗なる事件簿(事件を起こす側)の一つだ。