泥棒猫(冤罪)
「この、泥棒猫!!」
夜空に遠く響き渡る、ハイトーンなこの声が誰のものなのか、考える前に走り出していた。
どうか、どうか他人のそら似であってほしいと祈りながらも、どくどくと鳴る心臓が否を突きつける。だって、私はこの台詞を知っている。
薔薇のアーチを抜けた先、果たしてそこには白いドレスを着た少女が二人いた。
一人は壁際に追い詰められ、芝生の上に尻餅をついてしまっている。
それを見下ろす少女は赤毛だ。わなわなと肩を震わせている。
ソフィアと、オディールだ。見間違いようがない。
「い、一体何のお話ですか?」
ソフィアが不安を声ににじませながら、それでもはっきりと抗議する。
そんな態度が気に障ったのか、オディールが右手を振り上げる。
私はその先を知っている。
ソフィアの頬を叩いて、呆然とする彼女に彼女はこう言うはずだ。
『あなたなんかが、王太子殿下にエスコートされるなんて! 今日が誰のためのデビュタントだと思っているの? これだから平民は。身の程を知りなさい』
華やかな薔薇色の巻き毛をかきあげて、悪役令嬢は鼻を鳴らすのだ。そのシーンを、王太子に見られているとも知らず。
脳内で鮮やかに再生されるプレイ画面に血の気が引く。
オディール、そう叫びたいのに、呼吸が整わなくてとにかく奥歯を噛みしめて足に力を込める。整えられた芝が足音を吸ってしまって、オディールは後ろから近づく私に気がついていないらしい。
振り上げられた手は、けれど躊躇して、ぐっと握りしめたり開いたりを三回繰り返した。暴力に訴えることを迷ったのか、それとも殴るか平手か考えているのか、とにかくその数秒は私にチャンスをくれた。
オディールの右手に飛びかかると、バランスを崩したオディールが目を丸くして振り返る。体幹のしっかりしたオディールは一瞬ふらついたけれど倒れることはない。そのまま、私は膝から崩れ落ちてオディールの右手に縋るように抱きついた。
呼吸が整わない。急な運動と恐怖のせいで心臓が飛び出しそうだ。
「お、お姉様!?」
「オ、ディール、な、にしてる、の」
ぜえぜえと肩で息をしながら、それでもしっかりとオディールの手を握る。
突然の闖入者にやはり目を丸くしているソフィアと目が合った。
ソフィアが尻餅をついていて、私が膝をついているので、至近距離で見つめ合う羽目になった。
「申し訳ありません、妹が失礼を……」
そう言いながら、脳内で映像がフラッシュバックする。
『申し訳ありません、妹が失礼をいたしました。私はダルマス伯爵家のジゼル=ダルマスと申します。あの、お怪我はありませんか』
それはオディールが捨て台詞を吐いて退場した後、のこのこと現れたジゼルの台詞。たった今主人公を張り倒した相手が誰なのか、その素性を説明するモブの登場シーン。
同じ台詞を口にしようとしていた。
オディールは変わったはずなのに、原作通り、世界は回っているのだろうか。頭が真っ白になる。
「お姉様、大丈夫? 顔が真っ青だわ」
目の前のソフィアのことなどもう目に入らないかのように、オディールが膝をついて目を合わせてくれる。心配そうなその表情のおかげで、呼吸が少しだけ楽になる。
「だ、だい、大丈夫よ、オディール」
深呼吸して、もう一度ソフィアに向き合った。
「申し訳ありません。私はダルマス伯爵家のジゼル=ダルマスと申します。この子は妹のオディール。驚かせてしまって本当にごめんなさい。何か、その、誤解があったのだと思います。後で必ず、正式にお詫びに伺いますね」
だってオディールとソフィアは今日が初対面なのだ。
(さすがに自分より目立ったから吊し上げたみたいなチンピラムーブはしないはず……!)
今日までのオディールの再教育の成果を信じるしかない。
祈るような気持ちでソフィアに向かって手を差し出すと、ソフィアはじっと私の手を見て、オディールの顔を見て、最後に私の顔を見た。
「?」
「……ダルマス伯爵家の、ご令嬢……お二人が……?」
ぽつりと呟かれた言葉に、オディールと二人で頷く。
何故この主人公は目に涙をためて子羊のように震えているのだろう。
「私……私……」
とうとう、大粒のペリドットのような瞳から涙がこぼれ落ちた。そのまま、私の手を取ることなく、すっくと立ち上がる。
「申し訳ありません! お許し下さい……!!」
「「え?」」
私とオディールの間抜けな声に、答えはなかった。ダイヤモンドのような涙をこぼしながら、ソフィアは走り去ってしまったのだ。
つい先日まで町娘だっただけある、ドレスを着ているとは思えない速度だ。オディールとためを張れるかも知れない。
ぽかんと口を開けてソフィアを見送っていた私は、頭上から聞こえてきたひそやかなささめきに我に返った。
思わず顔を上げた先には、テラス席がある。
オディールがその悪行を目撃された場所だ。当然、そこには攻略対象である王太子がいるはずだ。しかし、それだけではなかった。会場の灯りが逆光になってよく見えないが、テラスには着飾った貴婦人のシルエットもいくつか見えた。
そもそもソフィアが追い詰められていた壁というのが、テラスのある休憩室の真下だったのだ。「泥棒猫!」なんて声が聞こえたら誰だって興味本位でのぞき見ようと思うことだろう。
社交界のおしゃべり雀たちは、日々話題と獲物に飢えている。
この状況を、どう料理するのが一番おいしいか。
ワルツのようにぐるぐる回る思考に、意識が遠くなるのを感じたと思ったら、世界が暗転してしまった。急に走ったせいで貧血を起こしたらしい。
すぐ隣にいるはずのオディールの悲鳴が遠く聞こえる。ここで私が倒れればどんな噂になるか、回らない頭でも答えは簡単だ。ろくなことには、絶対ならない。
虚弱な我が身が恨めしい。
(主神エール、どうか)
朦朧とする意識に歯を食いしばったけれど、どうしても、目を開けることができなかった。
主神エールへの祈りはいつだって通じない。
どうか何事もなくことが済みますようにと主神エールに祈り、領地に帰ったらお布施をしっかりしますと誓ったのに、朝一番にアンが持ってきた新聞には見慣れた名前が乱舞していた。
『驚愕!王太子殿下のエスコートを受ける伯爵令嬢』からの『禁断の三角関係!?話題の伯爵令嬢、社交界の白薔薇から王太子殿下を略奪!』と続き、『悲嘆に暮れるダルマスの白薔薇ことジゼル嬢』と『姉の名誉を傷つけられたと怒りをあらわにするオディール嬢』の絵が掲載されている。
今頃王都中のおしゃべり雀たちがこの話題で腹を満たしていることだろう。
「……雀の丸焼きっておいしいのかしら」
「へ!? あの、えっと、つ、捕まえてきましょうか!? ジゼル様っ」
通りすがりに私のつぶやきを拾ったメアリが、決意のこもった眼差しをで窓の外の雀に向ける。冬毛でふっくらと丸い雀たちが何かを感じたのか一斉に飛び立つ。
「言葉の綾だから気にしないで。オディールはまだ寝ているの?」
「いいえ、お嬢様なら先に食堂へおいでです! 紅茶と薔薇のジャムをご所望だったので、これから取りにいくところなんです。あっ、ジゼル様もジャムのリクエストはありますか?」
「じゃあ、りんごのジャムがあればそれをお願い」
「はい!かしこまりました!!」
にこにこと笑顔で頷いて、メアリが廊下の向こうへ消える。
アンが食堂の扉を開くと、気まずそうな顔をしたオディールと目が合った。
色々とやらかして、これから怒られることを自覚している顔だ。そして、その上で「私悪くないもん」がありありと伝わる表情でもある。口をとがらせて、頬を膨らませて、眉を寄せて、目をそらす。
成長したはずなのに子供の頃からまるで変わらない表情に、知らず肩に入っていた力が抜けた。気がつかないうちに緊張していたらしい。
(原作の強制力みたいなものがあって、どうあってもオディールが悪役令嬢になるのかと思ってしまったのよね……)
昨日の台詞、昨日の行動、原作とは少しだけ違う結末になったけれど、全く同じ台詞を言おうとした事実がどうにも気持ちが悪い。
「おはよう、オディール」
「……おはようございます、お姉様」
ちらちらとこちらをうかがいながら、オディールが返事をする。
「それで」
机の上に並べた新聞は5社分。いずれもトップの記事は私達だ。
うぐ、とオディールがパンを喉に詰めたような声を出す。
「何がどう『泥棒猫』なのかしら? 説明して頂戴」
「……だって」
ぐ、とオディールの眉間にしわが寄る。
「だって、王太子殿下のエスコートを受けるべきなのは、あの子じゃないわ!」
バン! とオディールが机を叩いて、シュガーポットが跳ねた。
怒りに似た感情を込めてこちらをにらみつけてくるオディールの瞳は、アメジストに炎が灯ったような煌めきで、強く訴えかけてくる。
「あんな子、平民なんて! 絶対に認められませんわ!!」
びっくりするほど悪役令嬢っぽい台詞が飛び出してきた。心臓に悪い。
「オディール。そんな言い方はよしなさい。私達はリュファスの友人でしょう、身分や血筋が人格や才能に関係ないことはよく知っているじゃないの」
「そういう問題ではありませんの! この際、相手が公爵令嬢だったとしても絶対だめです!」
だだをこねるように首を振って、いやいやと訴える。まるで子供返りしてしまったようなオディールの様子に、首をかしげた。
(平民どころか公爵令嬢さえ認めないなんて、どういうこと?)
「公爵令嬢なら王太子殿下にエスコートされても何もおかしくないと思うけれど……もしかして、オディール、王太子殿下にエスコートしてほしかったの?」
昔から恋愛小説や恋歌が好きで、ロマンチストなオディールのことだ。絵本やサーガに出てくる王子様さながらの王太子に憧れるのにも納得できる。
加えてオディールは思い込みの激しいところがあるので、いつか王子様が、という願望をこじらせてしまったのだろうか。憧れの人が見知らぬ女を、それもつい先日まで平民だった庶子の令嬢をエスコートしているとなれば、ファンとして動揺してしまうのもわからなくはない。
アイドルの恋人にファンが炎上してやらかす騒動はどの時代にも枚挙に暇がないものだ。
納得しかけた私に、オディールはキッとまなじりをきつくしてとうとう席から立ち上がった。
「違いますわ! 王太子殿下がエスコートすべきなのは……」
大きく息を吸って、胸を張る。
「どう考えてもお姉様よ!!」
「……」
呼吸を止めていたことを、自分が息を吸う音で理解した。
はたして、たっぷり5秒停止した思考の先で、口から吐き出せた言葉はたった一つだけだった。
「……なんで!?」
本日無事書籍発売いたしました!
温かいコメントやメッセージを皆様ありがとうございます!
書き下ろしのエピソードも追加しておりますので、楽しんでいただけましたら幸いです。




