とある悪役令嬢のお茶会
もしも、時間が戻せるのなら。
誰もが戯れに考える命題。赤薔薇の回答は、いつだって一つだ。
もしも時間が戻せるのなら、私は10歳のあのときに戻る。
屋敷中を駆けずり回り、使用人に簀巻きにされ、枯れ葉と蜘蛛の巣が髪飾りだったあの頃に。
今でも屋敷の皆の語り草。子リスを追いかけているようで楽しかったですよ、とメアリは笑ってくれるけれど。
「戻れるなら、どうするんだ?」
「横っ面を張り倒して、今すぐお姉様のところへ行ってハグしてキスするべきだって納得するまで説教しますわ」
「オディールったら」
「成長したと言うべきなのかな。あのオディールがもうすぐデビュタントとは」
クタール侯爵令息兄弟は、最初に顔を合わせたお茶会以来度々ダルマスの館を訪れている。
お姉様と私の命を再三危険にさらしたことについては許しきれないけれど、私たちが和解するきっかけを作ってくれたのだから、とお姉様に言われては納得するしかない。ほんの少しだけ、感謝もしているし、今では同情もしている。
(血を分けた兄弟が、相争わなければならないなんて、悲劇だわ)
お姉様と今から殺し合えと言われたら、私はお姉様を殺すことなんて絶対にできない。わがまま放題だった10歳の頃でも、できなかっただろうけれど。今ならそんな馬鹿げた命令をした相手をどんな手段を使ってでも楽園の門を自分でくぐるまで悔い改めさせると主神に誓える。
だから、気の毒な境遇のクタール兄弟がダルマスへ避難するように押しかけてくるのを片目をつぶって黙認しているのだ。薔薇の館として知られるこの庭に、冬薔薇が温室にほんの少しのこるだけの季節にまでやって来るのなんか、この二人くらいだ。今では敬称もなく、呼び捨てにできるほど親しくなっている。
「あの、とは何ですのユーグ」
見た目ばかり穏やかだけれど、ユーグはわかったうえでわざと不躾な言葉を口にするので、つい喧嘩腰になってしまう。
「ただでさえ古くさいうちの城に、『赤毛の生首伝説』を追加してくれたのは誰だったっけ」
「リュファス!」
いたずらっぽくユーグに乗るリュファスに、思わず声が大きくなる。
「恋に破れたメイドが空中庭園から身を投げて、今も愛する男を捜してさまよってるとかなんとか」
「私メイドじゃないわ!それになんなの、その情けない女は!私なら相手を殺して私も死ぬわ!」
「お願いやめてオディール」
お姉様がぎゅっと私の手を握るので、いつの間にか立ち上がっていた席にしぶしぶ座り直す。お姉様は体も心もか弱いから、私が興奮して口を滑らせてしまう感情的な言葉に過剰に反応する癖がある。子供の頃から変わらないのだけれど、それが嬉しくも歯がゆくもあって、握られた手をぎゅっと握り返した。
私たちの様子を見守るリュファスの視線は温かい。くすくすと笑う声がくすぐったくて、紅茶を飲み干してごまかした。いつのまにかよく笑うようになった彼の、甘いジャムのような視線に、まだ慣れない。
「あの怪談話、歌になって都でも流行してるそうだよ。お金で買えない貴重な贈り物にはお返しをしなくてはね。デビュタントのお祝いには何がほしい?」
「ユーグからいただくものなんかなにもありません!全部お姉様が用意してくださるんですから!」
「……そう」
にっこりと笑うユーグの声が低い。
ええ、知っていますとも。
ユーグが、お姉様のことを、時々まぶしい物を見るように見つめていることくらい。私を抱きしめるお姉様を、苦いような切ないような瞳で見つめていることも。
善意と慈愛の心で、多少なりとも応援して差し上げようと、「恋をしていらっしゃるの」と一週間近く詰めたのに。返ってくる言葉は「そういうのじゃない」だとか、「君に頼むのは不安しかない」だとか、挙げ句の果てには「どうか幸せを願うくらいは赦してくれ」とか!のらりくらりとつまらない男!膝をついて、いいえ額を地面にこすりつけるくらいのことをしたら恋文を渡すくらいのことはして差し上げるのに。
(やっぱり、心を差し出すこともできないような殿方に、お姉様は渡せませんわ。せいぜいくやしがっていらっしゃればいいのよ)
大体姉妹の麗しいスキンシップに焼き餅を焼くなんて殿方の度量が知れるというもの。
やはり、お姉様にはもっと素敵な方がお似合いだわ。
デビュタントと同時に国中からお手紙が届いた、お母様の再来と呼ばれたお姉様。社交界の白薔薇と呼ばれるお姉様がいれば、ここはいつだって薔薇の咲くダルマスの館になるのだから。
「はぁ。私もお姉様のデビュタント、見てみたかった」
「あー、ダンスに誘う人垣、すごかったね」
「壁みたいな分厚い手袋の化け物に迫られた気分だったわ。誰を選べば失礼にならないのか全くわからないんだもの。ユーグが助けてくれなければどうなっていたか」
深くため息をつく、長い長い睫毛の落とす影が紫水晶の瞳に落ちる。
潤んで揺れる、どこか哀愁を含んだようなラベンダー色の光彩に、私は思わず席を立ち上がってお姉様を抱きしめてしまう。
「お姉様を怖がらせるなんて!私がデビューしたらどこの殿方か教えてね、お姉様。片っ端から社会的に抹殺できるよう頑張りますわ」
「やりかねないなー」
「確かに」
「やめてそれだけは本当にお願い」
大丈夫よ、オディール。そう優しく微笑んで、お姉様は私の頬にキスをくれる。
本当は、知ってる。お姉様のこの悲しそうな表情、少し困ったような眉や、儚げな造形のせいで、誤解されがちだってこと。お姉様自身が愚痴っていたから。
デビュタントの日も、結局体調不良で倒れてそのまま帰ってきたのだけれど、なぜかお詫びの手紙がわんさか届いた。どれもこれも、貴方を悲しませてしまったのは自分だという謎の自負と、償いをさせてくださいという度を超したプレゼントと共に。大イカの目玉ほどもある真珠や、鳩の卵ほどもあるルビー。あんなにきらきらしいものを見てうんざりした気持ちになれるなんてなかなか得がたい経験だわ。
足を組み直して、ユーグがため息をつく。不機嫌な表情も絵になる、母親似の容貌が社交界の年若い淑女達を賑やかしているともっぱらの噂。顔はいいのよね、顔は。
「ジゼルから氷の薔薇をもらおうと躍起になっている令息が後を絶たないからね」
「なんですの、それ」
「社交界の白薔薇は愛する相手に氷の薔薇を贈るという事実無根の噂だよ」
「まぁ!」
相も変わらずお姉様の魔力の器としての体は弱く、今もコップいっぱいの水を薔薇にするのが日課だ。宝物のリボンはもう宝箱に収まりきらないほどになってしまって、専用の飾り棚を作らせたのは3年前のこと。外から見たらただの衣装箱に見えるよう細工してもらった私の自慢の品。
(だってお姉様にばれたらいくら私でも恥ずかしいもの。私ばかりお姉様を好きみたいだし)
時折体調のいいときには二、三本の薔薇を贈ってくれることもあるけれど、やはり治療の一環でもあると言っていたから、わざわざ他人に贈るために薔薇を作ったりはしない。そもそも、氷の薔薇はすぐに溶け出してしまって、贈り物にするには儚すぎる。対面か、同じ館に寝泊まりする相手でもないと手に入れることはできない。最近ではリボンのバリエーションがなくなってきたからと手ずから刺繍を施したらリボンを巻いてくれることもある。
たしかに、愛する人への贈り物のようだ。そう考えてみると。
(ユーグったらやっぱりお馬鹿さん。事実無根とは言えないと思うわ。私ってば、とってもお姉様に愛されているんじゃないかしら。私だけ。私だけが!とってもとってもお姉様に愛されているんじゃないかしら)
口元がむずむずとしてしまう。にやけてしまうなんて淑女らしくないから控えたいのに、お姉様に愛されているのは私一人という現実に、甘酸っぱい感情が心臓を満たして踊り出しそうだ。冬なのに熱い頬を押さえていると、ユーグがもう一度ため息をついて微笑んだ。
「……君たち姉妹は本当に仲がいいね」
「ユーグの言葉って時々全然そのままに聞こえませんわね」
私がユーグとにらみ合っていると、リュファスとお姉様が視線を交わして笑い合う。
「ユーグとオディールも仲良しよね」
「確かに」
春風のような二人を見ていると、私とユーグの肩が自然と下がる。また、まぶしい物を見る目でユーグが二人を見つめて、痛みをこらえるように唇をかみしめて、そんなユーグの姿を見ていると……すねのあたりを蹴飛ばしたくなってしまう。私きっと前世でユーグと敵同士だったんじゃないかしら。親の仇かなにかだったのね。
「それにしても、コップにぎりぎりいっぱいの水を持ちながら話しかけてくる令息が多いのはそういうことなの」
お姉様が大きくため息をついて遠くを見つめる。
「傍目に見てると面白いんだけどな。オディール、想像してみろよ。ジゼルに話しかけようとして競歩で廊下を水浸しにする貴公子共を。袖口も手袋もびっちょり濡らしてんの」
「私のお姉様に向かって図々しい、とは思うのですけど……もはや狂気じみていていっそ恐怖を覚えますわね」
「紙一重だよな。まぁ、そう言いつついつも真っ先に助けに行くユーグも相当面白いけどさ」
「リュファス」
「はい、兄上」
ユーグの冷たい声にも、リュファスは相変わらず笑っている。これではどちらが兄だかわからない。でも、兄上と口にするリュファスの表情は柔らかい。そのたび、お姉様が嬉しそうに笑うのを、私は知ってる。あの城で、子供ばかりでできることもなくて、それでも必死でもがいた結果がこの果実なら、少しはお姉様の努力も報われたのかしら、なんて思う。
「いつもありがとう、ユーグ」
「かまわないとも、幼馴染殿。でもこれからは自衛を覚えた方がいいかもしれないね」
「あら、私が社交界デビューしたらお姉様を守って差し上げてよ?」
「だからだろ」
「そういうことだ」
「ちょっと、失礼じゃなくて!?」
明るい笑い声が花のない庭に満ちる。
お茶会の女主人として、お客様のためにポットに新しいお湯を入れようとして、ふとワゴンに置かれた瓶に目が行った。真っ赤な薔薇のジャムは、私の子供の頃からの好物だけれど、今年の春に作った分を先週食べきってしまったはずなのに。私の手が止まっているのをみて、お姉様が「ああ」と小さくつぶやいた。
「それね、アンが偶然街で見つけてきてくれたのですって。他にも、料理長が親戚のツテを伝って探してくれているから、まだもう少しは手に入りそうよ。来年の春まで心配しなくてよさそうね」
「……っ!」
いつだったか、薔薇のジャムがなくなったことに酷く癇癪を起こしたのを思い出した。
皿を何枚割っても誰も見向きもされなかった小さな私。
薔薇のジャムを見つめるお姉様の視線は、どこまでも柔らかく温かい。
あのまま、お姉様の愛に気づけなければ、お姉様が楽園の門をくぐっていたなら、私はきっと一生この小さな瓶の価値に気がつくこともできなかったかもしれない。
「よかったわね、オディール」
「はい、……はい、お姉様」
私の愛するお姉様。今は、私だけのお姉様。
だけど、いつか、氷の薔薇を受け取る義兄のことを思うと、胸が張り裂けそうになる。
未来で勇気を振り絞ったユーグだろうか、それとも、子供を諦めてリュファスと愛を育むことがあるだろうか。山のように積まれた宝石の贈り主の誰か、私の知らない社交界の殿方達の誰か。袖口を水でビチャビチャにしている誰かがお姉様の隣に立つところを、想像しただけで、陶製のカップを床にたたきつけたくてたまらない。
(絶対に、世に二人といない素晴らしい殿方じゃなくちゃだめ。国中の淑女達がため息をついて憧れるような、素晴らしい方でないと、許せそうにないわ)
ぐっと指に力を入れて、瓶から薔薇のジャムをすくいとる。
(そう、お姉様の優しさと愛は聖女様といっても過言じゃないわ。聖女様と釣り合うなら、王太子殿下くらいでないと……!)
淑女の戦場たる社交界へ向けて、密かに拳を握りしめるオディールの覇気はうっかり小春日和の陽気に紛れてしまう。とろりと甘く紅茶に溶けていく深紅のジャムは、波乱の予感を含んできらきらと光っていた。
少し先の未来の話、オディールのデビュタントの際にヒロイン・ソフィアをエスコートしたのは王太子であった。王城の庭園でオディールがソフィアに向かい「この泥棒猫!!」と叫ぶ原作通りのイベントが進行することになるのはまた別の話である。
ひとまず、一章を無事完結することができました。
読んでいただき、ありがとうございます。