赤薔薇と白薔薇
目が覚めて最初に叔父が私に告げたのは、リュファスとの婚約が白紙になったということだった。
「誓約をする前で本当によかった。とりかえしのつかないことになるところだったからね」
肩をすくめる叔父の仕草は軽い。
リュファスが魔力を暴走させたとはいえ、魔道具の故障が原因なのだから、むしろ叔父は喜ぶかと思っていたのに。あれだけの魔力を示されて、婿になることを喜ばない貴族はいないだろう。
「何故ですか?」
「お前とリュファス様では子供が望めないからだよ」
「?」
意味が飲み込めず、目を丸くしてしまう。
デリカシーのない発言に、叔父の後ろでアンが鋭い目つきをさらに鋭くしていたけれど、後見人を簀巻きにするわけにはいかないらしく、そのまま射殺しそうな目つきでお茶の準備をしていた。叔父の鈍感力には刺さらないらしい。
「リュファス様の魔力は強すぎる。魔力の総量もだけれど、それを巡らせる体にも恵まれて初めて発揮できる、天性の才だ。比べて、お前は魔力自体は強いが、体がとにかく弱い。水を満たしているだけでひび割れてしまう硝子の器に、さらに水を注げばどうなると思う」
「粉々になって楽園の門をくぐることになりそうですね」
「本当に、そんなことにならなくてよかったよかった」
考えてみれば自明だったが、子供のことにまで頭が回っていなかった。というか、乙女ゲームで出産の描写なんてあるわけがないので考えが至らなかったけれど、婚姻の先にあるのは跡継ぎだ。今こうして、クタールの家を地獄絵図にしている原因そのもの。
リュファスの魔力と私の虚弱な体を持った子供など、生まれることも叶わない。加えて、そんな魔力の塊のような赤子を妊娠したら、おそらく私の体がもたない。私とリュファスの子供が生まれる可能性は極めて低い。というか命が惜しかったらそんなもの作ろうともしてはいけない。
貴族の嫡子の婚姻としては致命的だ。
だが、誓約を交わした後で判明したのであれば、それを破棄することはできなかっただろう。きっとクタール夫人が赦さない。叔父がやれやれとため息をつく。
「我が子を守る母親というのはここまでするものかね。義姉さんが生きていたら、怖いことになっていただろうな」
「そう、ですね」
睡蓮池を凍らせて、私が寝込んだ日。
クタール夫人はわざわざ医者を呼び寄せた。領内で有名な名医だという彼は、私の状態をつぶさにクタール夫人に伝えたはずだ。あの睡蓮池を凍らせるだけの魔力を持っていることも、その時点でわかっていたのかも知れない。アサガオ茶は自身の目で最終確認をしたかったのだろう。何しろ敵の多い立場だから。
そして、私の体が魔力に耐えられない器だということを、知った。
だからリュファスとの婚約を提案したのだ。
ダルマス家の婿養子にすればリュファスを穏便にクタールから追い出すことができる。そして、一番心配している魔力の強い子供は絶対にジゼルの腹からは生まれない。唯一の可能性は婚外子だが、婚外子が生まれたら、ただでさえリュファスの存在に苦しんできたクタール夫人が何をするか想像に難くない。
婚約に必要な書類も、一応形式に則って一通り確認した。リュファスと私の婚約を認める書面もそろっていた。一族の老獪な魔法使いたちを出し抜いて、クタール夫人は笑っていたのだ。後継者としてのユーグの地位を確立させるために、親友の娘など捨て札でかまわない。
(というか、最初からクタール夫人、私たちのこと孕み腹としか見てなかったな)
母イリスと親友というのがどこまで本当か怪しくなってきた。そもそも魔力の強い相手にユキアサガオ茶を飲ませる関係、もしかしなくても仲悪かったんじゃなかろうか。基本的に隣接する領地が仲がいいのは珍しいのだ。なにかしら、境界でもめる。だからこそ縁戚となるのが有効なのだけれど。
ずっと原作のジゼルがリュファスと婚約することになった経緯が謎だった。大筋は変わらないのだろう。最初は魔力さえ強ければユーグの婚約者にと望んだ。けれど、ジゼルが魔力に耐えられない体だということを知ってリュファスの婚約者にすることにした。
ジゼルがうっかり死んだ後、健全な肉体と強い魔力を持ったヒロインがリュファスと結ばれることになったリュファスルート、クタール夫人発狂してるんじゃないだろうか。
やだ怖い。考えんとこ。
逃避がてらふとベッドの隣を見ると、白薔薇が活けてあった。
全体的に東洋趣味なこの古城にあまり似つかわしくないそれは、銀の花器に控えめに1輪だけ咲いている。
私の視線を追った叔父が、ふと微笑んだ。
「オディールはジゼルにべったりだな」
「え?」
「その薔薇、一昨日ジゼルが倒れた時にダルマスから持ってこさせたんだろう。兄さんが植えた『ジゼル』だよ。同じ名を持つ花は、お守りになるからね」
何の根拠もないおまじない。
あの睡蓮池の『ユーグ』は、きっと夏になれば花を咲かせる。泥の中からでも、きっとしっかりと咲いてくれる。あのとき、リュファスを最後の最後であきらめなかったユーグの未来を信じたかった。
「そういえば館の赤薔薇はほとんどみんな『オディール』になってしまったな」
赤い薔薇にあふれた、赤いレンガの館。子供の健やかな成長を願って、祈るように植えられた花。
けれど、私は白い薔薇を見た気がした。
いつか、ダルマスの館で寝込んだとき、一輪だけ活けられていた真っ白な薔薇。あのとき、なんとなく理由を聞きそびれた花。もしかして。
「『ジゼル』はとにかく美しいんだが繊細な薔薇だったから、『オディール』にはずいぶんと金をかけて、強い薔薇になるように兄さんが作らせたんだ。雑草すら呑み込むほど強くなるとは思っていなかったけどね。庭師がおびえるほどの生命力なんて素晴らしいだろう」
それは悪口ではなかろうか。いや、本気でほめているのか。叔父の姪っこ愛が深すぎて判断ができない。ほとんど『オディール』に『なってしまった』、ってもしかしてほかの薔薇駆逐してるのか。ユーグが薔薇を外に出さないために塀を高くしたと言っていたけど、それって門外不出で大切にしているというよりは外部環境の生態汚染を防ぐための隔離的な処置だったのでは。
言われてみれば、あの館で赤薔薇以外を見たことがほとんどない。白薔薇は、温室にしかなかった。あの薔薇が『ジゼル』なんだろうか。
「あの子の魔力は植物と相性がいいからね。毎日毎日『ジゼル』が弱らないように枯れないように魔力を分けてあげるなんていじらしいじゃないか。いつだったか遠方からいい土を取り寄せてほしいなんておねだりする姿がもう幼い頃の兄さんそのものでかわいくてかわいくて」
「おじさま!!!」
中年のおじさんのデレデレした顔を見上げていたら、子供特有のハイトーンな声が、最大音量で鼓膜をつんざいた。部屋の入り口を観音開きにフルオープンして、小さなレディが仁王立ちで立っている。顔が真っ赤だし、ぷるぷる震えている。
「絶対に言わないでって約束したでしょう!?」
「オディール」
「やぁオディール。今日もかわいいね」
「私時々おじさまが言ってること全然わからないわ!?」
それは私もそう思う。
オディールの握りしめるハンカチには、とても不器用に快癒や健康を願う図面が縫い取られている。白い薔薇を見て、オディールの赤毛がふわふわと揺れているのを見ると、笑い出したくなるような、胸が温かくなるような、泣きたくなるような、不思議な気持ちになった。
「オディール、ありがとう」
「ち、違うわ!私じゃない、私じゃないったら!!」
恥ずかしさから顔を90度以上そらしながら、それでもプライドが逃走を許さないらしい。ぷるぷると震える小さな子供を手招きする。数秒ためらって、それでもつんと顔をそらして、レディにあるまじきズカズカと大股で部屋を突っ切った。
不安に揺れる瞳を見下ろして、小さな肩を抱きしめる。
多分、オディールがいなかったら、私は我が身可愛さで人の道を踏み外していたと思う。 ユーグに殺されたリュファスの死体を見下ろして、ほっとしていたかもしれない。
「……でも、まぁ、今回は助けてくださったから。許して差し上げるわ!」
ぎゅう、と。心臓が絞られる。無辜の信頼がゼロ距離で罪悪感を撃ち抜いていく。
「……助けてなんか、ないわ」
「お姉様?」
「私が巻き込んだのよ。ごめんなさい、オディール。私が、私ばかり生き残りたいって、ひどいことを」
頭が痛い、そう思った時には頬を涙が伝っていた。
自分を哀れむ涙なんて、卑怯すぎて止めたいと思うのに、あとからあとからあふれてくる。
嘘をついた代償。自分だけが助かろうとした代償。それから、自分のために妹を犠牲にしようとした代償。
全部私の自業自得で、身勝手が過ぎて自己嫌悪で死んでしまいたくなる。何が私は私を好きになりたいだ。
オディールが都合良く私の望むしとやかな令嬢になっていたら、きっと今回誰かが死んでいた。
私は私が否定するものに助けられたのだ。
目の前でこんなに生き生きと輝いている妹に、ちっとも目を向けていなかった。無理矢理型にはめて、賢しらに説教をしたりして、本当に。
これではどちらが悪役令嬢だかわからない。
「お、お姉様!楽園の門をくぐったりしたら、ゆるさないからね!?」
「うん、ごめんね」
生き残るという言葉にばかり反応して、ぎゅっとオディールが背中に手を回してくる。小さな手では、子供の私の背中も守ることができない。教育を強要するより先に、信頼関係を築くべきだった。
姉の名を持つ薔薇を、たった一人枯れないよう守り続けていた子供の、ひたむきな愛情に気づきもしないでいた。 こんなにすり減らして傷ついて、それでもなお愛してくれる小さな妹に、私はまず愛情を返すべきだったのだ。ジゼルが生き残るためではなく、生きていくために。
後悔はたくさんあるけれど、まだ引き返せる場所に私はいる。道を残してくれたのはオディールだ。私は報いなくてはいけない。
「あのね、お姉様」
「うん」
「リュファスにむかって、いっぱいお皿とか壺とか投げてしまったのだけど、すごく綺麗な絵皿ばっかりだったわ。クタール侯爵夫人に謝った方がいいかしら」
「……私を助けるためだったんだから、私が謝るわ」
「でも、割ったのはリュファスよ」
「そうね」
「それに、そうなったのはユーグ様のせいだし」
「そうね」
「侯爵夫人にも、侯爵にも責任があると思うの」
「そうね」
「私と一緒に謝ってくださったら、お姉様を許して差し上げてよ。お姉様だけのせいではないんだもの」
「……ありがとう」
腕の中の体温が、瞼をゆっくりと降ろしていく。この子には私か叔父しかいないのだ。だから、こんなに無防備に愛情を求める姿にどうしようもなく胸が痛む。この子に、間違っても、愛されていなかっただなんて言えるわけがない。
(決めた)
「オディール」
「なぁに、お姉様」
(ジゼルとして生きる。この子を愛する姉として、今度こそちゃんと生きる)
「……あなたは」
死亡フラグなどではなく。
もっと、愛しく大切な。
「あなたは、私の希望だわ」
薔薇色のつむじにキスをした。
悪役令嬢の姉ですが、モブでいいので人としてまっとうに生きたい