陶器製の黒い鳥2
ユーグの投げた風の刃は堅牢な城の壁を裂き、そこから水が吹き出した。崩れた石と木の破片を濡らしてガラスの破片ごとキラキラ光っている。
破砕された家具や床のひび割れを観察する。
配水管から落ちる水の飛沫に反応するように断続的に床がひび割れる様子は、水面に落ちた羽虫に食いつく魚のようだ。
リュファスの状態を見ると、嵐の目のように彼の周りだけ異常が起きていない。ただ、本人が苦しそうに喉をかきむしっている。そのたび、リュファスの爪の代わりだとでもいうように、床から石の塊が牙をむく。
「これからどうするつもりですか」
「首元の魔道具を壊します。なるべく安全に」
魔道具は繊細な道具だ。
今私たちを守っている防護の魔道具だって、本体を直接握りこめば子供でも壊すことができる。完全に破壊することはできずとも、『壊す』ことはできるのだ。
とりうる方法は二つ。
一つ目は氷のつぶてをぶつけて壊す方法。射出した瞬間から術者のコントロールは効かないため、命中精度は射手と標的に委ねられる。もがきつづける子供の、首についたアクセサリーだけを狙うなんてまず不可能だ。串刺しの未来しか見えない。
「氷で挟んで砕いてみます」
氷壁が船をすりつぶすように、とはいかずとも、氷の薔薇を作る要領で氷塊を造り、圧力で割ることができれば、首元がしもやけになる程度で済むはずだ。水たまりは床石のひび割れにしみこみながら、確実に私の足下にたどり着く。
膝をついて水に触れると、触れただけでしもやけになりそうなほど冷たい。冬の水だから当たり前だ。今は、その冷たさも幸運だと思える。自家中毒を防ぐために氷を作る訓練しかしてこなかったので、水を水のまま動かすとか、ましてや熱湯にするだとかはできる気がしない。当然、冷たい水を氷にする方が使う魔力は少なくてすむ。
指先に集中する。
器から魔力を注ぐイメージだが、指先から奪われる体温以上に心臓に冷気がたまっていく。爪から血を流して、代わりに氷を注がれているような感覚に歯を食いしばる。体がカタカタと震えて、嫌な音を立てるのを奥歯をかみしめて耐える。
まず、足下を氷で固める。そうしなければ真下から石の爪で刺し殺されかねない。次に、まっすぐにリュファスに向かって水を氷に変えていく。床の表面に霜がつき、導火線のようにリュファスとの間に白い線ができあがっていく。パキパキと石と氷がぶつかる高い音がする。
距離にして半分ほどまで線を延ばした場所で、床を這い回る蛇のような魔力が氷にぶつかって弾けた。
同時に指先に鈍い痛みが伝わり、腕の延長のように感じられていた氷の道筋が途切れた感覚がある。
(暴走状態なら、支配権をとれると思ったのに)
水と土が混ざった状態であれば、どちらかの魔力適性があれば動かすことができる。リュファスが睡蓮池の泥を操ったように。であれば、石床にしみこんだ水の量は少ないけれど、方向性を持たされていない魔力の塊ならば勝てると踏んだのだが相殺された。
ほとんど意識のない状態でこれでは、もしも意識と方向性があれば足場の氷もあっという間に破砕されたに違いない。
「お姉様」
氷の砕ける音だけが聞こえたのだろう、不安そうに声を漏らすオディールに、笑ってみせる。水たまりと霜と氷が広がる広間で、私が操作できる範囲が広がる分、心臓の冷たさは降り積もっていく。そこかしこで魔力のぶつかり合いが起きているのを視覚でも聴覚でもない感覚で察知することができる。
魔力量にふさわしい広範囲を攻撃対象とするリュファスの魔力は、池を回遊する水蛇のように石の床をぐるぐると回っている。
導火線のように水をつないで、少しずつ氷の塊を大きくしようと考えていたのだけれど、とてもではないが本人までたどり着けそうにない。魔力こそ多いが、私の体は硝子の水差しのような物で、一気に魔力をくみ上げることができないのだ。時間が足りない。
「少し、リュファスに近づく必要があるみたい」
歯がかち合わない。そのせいで、声が裏返ってしまった。
首につけていた魔道具を外し、オディールにかける。
「お姉様、これ」
「防護の魔道具よ。ここから動かないで、ユーグ様と一緒にいてね」
「……!!」
震える小さな肩を抱きしめて、肩越しにユーグを見上げる。痛ましい物を見るような目で、蒼白になっているユーグに無言でうなずいて見せた。少女を支えるように差し出されたユーグの手に、オディールを預ける。
泣きそうな顔をしている妹に笑いかけて、今度こそ背中を向けた。
配水管から流れる水は広間を水浸しにし、シーツや木片をびしょ濡れにしている。歩くたびぴちゃぴちゃと水音がして、私が足を踏み出した瞬間真っ白な霜になる。甲高く氷がひび割れる音に反応するように石の蛇が大きく蛇行しながら私の方向へ迫るけれど、凍り付いた石床にぶつかって砕け散る。
足場が削られるような感覚に、さっきから心臓がおかしな挙動をしている。
なるべく刺激させないように、ゆっくり、少しずつ近づいていく。
数回、土の蛇は氷の壁に阻まれて砕け、またリュファスから産まれてはゆっくりと石の床を旋回する。リュファスの表情が見えるほどの距離まで近づいても、こちらを認識している様子はない。ただ、浅い呼吸を繰り返し、顔からは血の気が引いている。
(急いだ方がよさそう)
距離にして半分ほど進んだところで、水たまりがさっきより深くなっていることに気がつく。
(このくらいの水量があれば、一気に凍らせてしまえるかも)
さっきから震えがとまらなくなっている。悪寒と頭痛に視界がくらむ。体中から血液がなくなってしまったような感覚で、体が冷えすぎてさっきまで冷たかった風が温かくさえ感じ始めている。魔力がコントロールを失っている証拠に、自分の靴と床の間に張った氷で足下がふらついた。
唇をかみしめて冷たい床に膝をつき、再度水に指先をつける。
ゴリゴリと床に落ちた木片を削る音と、石材の割れる嫌な音が重なる。それに混ざって、シャラシャラと奇妙に優しい音が耳をついた。
氷の音ではない。さっきグラスとガラスの大半は割れてしまった。こんなにたくさんのガラスなんて。
嫌な予感に振り返るのと、背後を巨大な何かが通り過ぎるのは同時だった。
石の床にたたきつけられる金属の音、冷え切った肌を弾いて切り裂いていく感覚に思わず目を庇って覆ってしまう。
「お姉様!!」
「ジゼル嬢!!」
もう一度目を開けると、目の前にシャンデリアが墜ちていた。
床と壁を這っていた土の魔力に、天井のシャンデリアが落とせると思えない。遅れて天井からジャラジャラと鉄の鎖が墜ちてくるが、その最後の断面は奇妙なくらい鋭利だった。土属性の魔法で砕かれた物とは違う、刃物で切られたような鋭利さだった。
(……さっきの1撃目のカフスボタンでは?)
行動がドミノのように積み重なって最悪の結果を連れてくるのは悪役令嬢のデバフか何かなのだろうか。気を取り直して、息を吸う。
「私は無事です!それより二人は」
声を遮るように、目の前の巨大なシャンデリアの残骸が地面から文字通りはじけ飛んだ。奥歯に響く金属音とガラスの砕ける音をまき散らしながら、シャンデリアが床を跳ねていく。跳ね上げているのは石の蛇で、猫じゃらしにじゃれる猫のようにシャンデリアをへし曲げながら追いかけている。
破砕音が響くことがリュファス自身にもストレスなのか、それとも単純に大きな音に反応しているのか、石の蛇ととがった爪は確実にシャンデリアを粉々にしていく。
不規則に床を転がるシャンデリアが、不意にオディールとユーグの方向へ弾き飛ばされた。
「オディール!!」
「きゃぁ!?」
「っ、」
シャンデリアと結界と土の爪がぶつかり、盛大な火花になる。シャンデリアをたたきつけられて嫌な音を立てる魔道具を目の端に捉えて、ユーグがオディールを抱え上げて瓦礫の上へ走り出した。2,3度獲物を追いかけるように石の牙が床からせり上がり、とうとうガラスとは違う鈍い音を立てて魔道具がその輝きを停止する。
生身の二人をシャンデリアごと押しつぶすように石の蛇が床から飛びつくのが、スローモーションのように見える。防護の結界がきしみながらじりじりと壁際に追い詰められ、ガラスの1枚も残っていない窓枠ごと壁が崩れるのをただ見つめることしかできない。
「やめて!!!」
突然の破壊行為に棒立ちになっていた足が、ふらつきながら動いて、氷をたたく硬質な音がする。
甲高い音を立てて足下の水が氷柱になり、弾丸のように射出される。石の蛇を一つ、二つ、砕いて、それでも蛇は無慈悲に何度でも再生する。なおもユーグとオディールを追いかけようとする三つ目のヘビを、とうとう氷柱は捕らえることができなかった。
後数センチ。
親指の関節一つ分。
届かなかった。本気で、もしかしたら死ぬほどの覚悟をして、放った一撃だったのに。
一拍遅れて、痛みが全身を駆け巡る。悲鳴が声にならない。息をしようにも、肺が動くだけで氷の針を内側から刺されているような激痛にさらされる。
「ひ…、く」
声が出ない。体中の血液が凍ってしまったような冷たさと、血潮が凍った部分に触れて火傷しそうな熱さを感じる。
水気もないのに床に霜柱が立ち、冷気で部屋中からピシピシと不快な音がする。
奥歯が震えてかみ合わない。鼓膜まで凍ってしまったように、周囲の音がぶれる。
凍らせることで支配権を得ていた床下の水が、ゴリゴリとかき氷のように削られて土としての性質を得ようとしている。
石壁が砕ける音と、空洞ができたことを示すように急に明るくなった視界に、目を閉じてしまう。
せめて、オディールたちがどうなったのか確認したいのに、指先さえ動かすことができなかった。