ムクドリはどの木にいたか
ユーグ・クタールは目が覚めて最初に口にした紅茶を嘔吐した。
「ユーグ様、どうなさいました!?」
部屋つきのメイドが慌てて医者を呼ぶのを片手で制して、白いリネンを汚すシミを眉をゆがめて見下ろす。
ほんのかすかに、花の香りがしたせいだ。
それは机に飾られた花だったかも知れないし、紅茶そのもののふくよかな香りだったかも知れない。だが、脳裏に薄桃色の液体が思い浮かんだ瞬間、体がそれを拒絶した。
花の香りのする、美しいお茶。
何の気なしにユーグが飲み込めるそれは、豊かな魔力に満ち満ちた少女には毒も同然なのだという。明確に、拒絶された気がした。生きている世界が違うのだと突きつけられた気がしたのだ。
母親の虚像のような笑顔だろうか。(そんなもの見慣れて久しいのに)少女のつたない嘘だろうか。(ああそうだろう、誰が僕のようなできそこないを望むんだ)より高い山から谷底に突き落とされた痛みだろうか。(僕が勝手に期待しただけだ)
空の胃袋からせり上がる不快感が繰り返しユーグを襲う。
吐き出すもののない胃袋から、それでも苦い液体が喉を焼きながら口を満たす。最悪の朝だった。
それでもクタールの嫡子たれと育てられた少年は機械的に身支度を済ませ、胃には白湯だけを流し込んで何事もなかった顔をした。普段より装飾の多い上着を用意されて、また眉間にしわが寄る。
今日はクタール家とダルマス家の婚約を『内々に』発表する日だった。
婚約式には十分な準備が必要だろう。だが、書類だけでも今日中にそろえられて国王の許しが出れば(無論形式上の話であって、本当に国王がその婚姻を精査することはない)正式な婚約者となる。
あの蓮池で観た柔らかな光景が脳裏にちらつく。冷たい床に膝をついておびえるようにユーグを見上げるジゼルの瞳も。なにもかもが、いつも通りユーグをこの世界からのけものにしていた。
様子をうかがうように息を潜めている使用人たちの視線から、逃れるように部屋を早足に出て行った。あてなどない。それでも、日当たりのいい子供部屋にじっとしていることができなかった。
だが、少年は自分の行動を早々に後悔することになる。
日陰がお似合いの艶のない真っ黒な髪が、視界に入ってきたからだ。
普段になくめかし込んだ格好のリュファスが渡り廊下に座り込んでいた。陽光の下で、首元のエメラルドのチョーカーが煌めいている。誰が見ても、今日のリュファスは貴族の令息そのものだ。
ジゼルに合わせたのだろう薄紫のベストが、今日これから行われるイベントを嫌でもユーグに思い出させる。日当たりのいい渡り廊下にいる庶子と、薄暗い廊下に立つ嫡子の姿が、そのまま未来の姿だと言われているようで、また吐き気がこみ上げる。しないはずの花の香りまでしてきて冷や汗が流れた。
「あ」
リュファスが顔を上げる。
物言いたげな赤い瞳がユーグをとらえる。普段なら気配を察してユーグを避けているリュファスが珍しい反応だった。リュファスのいる場所は明るすぎて、暗い廊下にいるユーグの表情は見えないらしい。
「なぁ、あのさ」
「僕に話しかけるな」
顎を引いて、振り絞れたのはその一言だけだった。
虚勢、虚勢、また虚勢だ。それでもユーグは拳を握りしめて光の下へ一歩踏み出す。確証もない不安なんて虚ろな感情に負けるのは絶対に嫌だった。
生暖かい陽の光にさらされて、全身の産毛がちくちくと不愉快な感覚をもたらす。いつだってユーグにとって世界はそんな物だった。
とまどいを隠しもせずに見上げてくる、腹違いの弟を見下ろす。持って生まれた力だけで何もかもを手に入れてしまう、理不尽に殴りつけたくなるのを奥歯をかみしめて耐えた。
陽光を受けて煌めくエメラルド、それを飾り付ける水晶、いずれも大粒で美しい物だが、その細工にユーグは見覚えがあった。
魔力を封じる道具だ。
リュファスがこの城に連れてこられて、最初にクタール侯爵夫人が大量に作らせた魔道具たち。美しいブローチやブレスレット、チョーカーのいずれも、呪いに似た強い力が込められている。クタールの一族に、庶子の強い魔力を知られまいと用意した物だったはずだが、どんな手段を使ったのかその魔力は一族の魔法使いたちの知るところとなった。結果的に、ここ数年は無用の長物となっていたものだ。なにしろ、城の中に閉じ込めておけば魔法を使う必要がないのだ。
今回この魔道具を持ち出したと言うことは、可能な限りは、対外的にその強い力を喧伝する気はないということだろう。強い魔力があると噂に聞くことと、実際目の当たりにするのとでは大きく印象が異なる。居心地悪そうにチョーカーをいじっていた(いらっていた、は関西の方言なのでほかの地域では意味がわかりません)リュファスが、目をそらしたまま口を開いた。
「なんでお前じゃなくて俺なんだよ」
不満と疑問を混ぜたその言葉に、今度こそユーグはリュファスの胸ぐらをつかみあげた。 金属がきしむ嫌な音と、石造りの柱にたたきつけられたリュファスのくぐもったうめき声が光さす渡り廊下にしみこんで消えていく。
不意打ちに目を丸くしたのは一瞬だけで、リュファスはすぐにユーグの腕をつかんで引き離そうとする。喧嘩に慣れた下町の平民らしい機敏さだったが、完全にマウントをとられた上体を振り回すのは体格差もない少年には難しく、左右に身をよじるにとどまった。
代わりに腹違いの兄をにらみつける。
「なんだよ。ジゼルの魔力が強ければ、お前と結婚するんじゃないのかよ。そういう家だろ、ここは!」
「貴様……っ!」
引き絞られたシャツの隙間で、魔道具がミシミシと嫌な音を立てた。
指の皮がめくれるほど爪を食い込ませて、ユーグは歯を食いしばる。火がつきそうなにらみ合いは、しかし数秒にも満たなかった。遠くに、足音を聞いたからだ。
取っ組み合いの喧嘩なんて姿を、使用人に見られてこれ見よがしに噂をされるような屈辱は耐えられそうになかった。乱暴にリュファスを床にたたきつけ、ユーグは大きく息を吸う。
倒れたリュファスの首に手を伸ばし、エメラルドを引きちぎろうとしたけれど、丈夫な革に縫い付けられた宝石を千切ることはできず、手にできたのはエメラルドを飾る金具と水晶だけだった。
「ああ、そうだ。『そういう家』だよ、ここは。とっとと出て行け、野良犬」
キラキラ光る破片を憎々しげに踏み潰して、ユーグはリュファスに背を向けた。
(いっそこいつの才能も魔力もなにもかも世界中に知らしめてしまえばいい。そうしたら僕こそ)
手近な扉を開いたら、晩餐会の会場となる小広間だった。
太陽光を集めるステンドグラスばかり、キラキラと美しい。
(この家を、出て行けるのに)
飲み込みきれない怖気が、飾られた花の香りと共に胃からこみ上げてきて、ユーグは唇を引き結んだ。