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オディール嬢の憂鬱


 ジゼルが倒れたという報告を受けてから丸一日、オディールはジゼルの寝室の続きの間から動こうとはしなかった。

 視界でアンやメアリが忙しく動き回るのにも、城つきの医者がぎょっとして目を見開くのにもかまわず、扉の横に一人用のソファを用意させて、そこへ繭を張った蚕のようにじっと膝を抱えていた。


 オディール=ダルマスの姉、ジゼル=ダルマスという人は、とにかくか弱い女性である。部屋を出ることのほうが稀で、庭に出る回数なんて一年に片手で足りるほどだ。窓を開ければ風邪を引き、食堂の扉で骨折し、朝食に出た水が冷たかったという理由で楽園の門をくぐりかけるほど貧弱だった。薔薇につくアブラムシのほうがよほど頑丈だ。遠くから見かける顔はいつも青白く、空ばかりを眺めていた。

 オディールの知るジゼルは、庭から見上げた先、一番日当たりのいい部屋の窓越しの姿だけだった。決してその目が、薔薇園にいる妹に向けられることはなかった。

 赤い薔薇は初夏の陽気に咲き誇っていたのに、その光景を思い出すだけでオディールは胸がきしむような寒さを覚える。殻の入った卵料理を食べさせられたような不快感に、歯を食いしばってしまう。

 

 過去形にできるのは、今のジゼルが以前とはまるで違う人のようだからだ。

 一度も目を合わせようとしなかった、幽霊のような年上の女が、突然パーソナルスペースに土足で踏み込んできたので、ずいぶんと腹を立てた。今だって度々腹を立てている。


(今まで、見向きもしなかったくせに!私のことも、叔父様のことも、ダルマスの家のことだって、何もかも見えないような顔をしていたくせに!)


 つたない手つきで築き上げた砂の城を、土足で壊されたような苛立ち。

 使用人達が明らかに手のひらを返したのも、唯一の頼みの綱だった叔父が絶対的な味方にはなってくれなかったのも、卵の殻を次々放り込まれた気分だった。

 埋め合わせをするように毎日毎日会いに来るのも、気に食わなかった。

 小言を言いながらずっと隣にいるのも、うっとうしくてたまらなかった。

 好物の薔薇のジャムがなくなったから、代わりに薔薇の飴や香水を取り寄せるような子供だましでご機嫌を取ろうとするところも腹立たしい。

 ほんのちょっとティーカップを持つ仕草が綺麗になったくらいで、妹の成長を嬉しそうに微笑んだ姿を覚えている。正面から見てしまったせいで恥ずかしくてそのままティーカップを投げ捨てたくなった。

 授業が嫌で逃げ出した日に、使用人と一緒にオディールを探して、庭で倒れたなんて聞いた日には、人を罪悪感で殺す気なのかと小一時間問い詰めたくらいだ。そんなことをしでかしておいて、「怪我はしてない?大丈夫?」、だなんて意味のわからないことを聞いてくるのも頭にきた。血が逆流して心臓が爆発するかと思ったのに、何も知らぬ顔をして首をかしげるから、病人でなければもう一時間は説教していた。

 いつだって風前の灯のような命で、楽園の入り口にいる姉の口から、オディールという名前を、一生分以上聞いた気がしている。

 母も父もすでに楽園の門をくぐり、叔父以外の誰もダルマスの令嬢を名前で呼び捨てになんかできないのだ。ジゼルが毎朝名前を呼んでおはようと挨拶をしてくるから、そんな寂しいことにまで気がついてしまった。

 オディールという孤独な少女は、この横暴な姉の気まぐれのせいで、自分が寂しかったことに、気がついてしまったのだ。

 嫌いで、嫌いで、大嫌いなのに、楽園の門をくぐりそうになっていると聞けば、ジゼルの部屋の前から動くことができなかった。同じ色のアメジストの瞳で見下ろして、オディールと呼ぶ声が聞こえなくなるのではないかと思うと、喉を締め上げられるような恐怖が胃の底からせり上がってくるようだった。


「お姉様は私のことがお嫌いなのよ」

 

 膝と腹の間の小さな空間に、七宝がきらめくなめらかな宝石箱を抱え込んでいる。

 煌びやかな宝石を守るためのそれには、確かにオディールにとっての宝物が詰め込まれていた。

 数十本の赤いリボンだ。

 小さな刺繍を施した物、ドレスの端切れをリボンに仕立てた物、レースを縫い込んだもの。

 どれも少しずつ違うリボンが、ぎっちりと詰め込まれている。 ジゼルがオディールに毎晩届けている薔薇に巻かれたものだ。

 氷の薔薇は溶けてしまう。姉からの初めてのプレゼントは、あっという間に水になってしまった。銀の盆にガラスの花瓶を置いて、毎晩毎晩なんとかして少しでも冷たい場所へ置いておこうと努力してみるのだけれど、朝には無慈悲にリボンだけが残っている。魔力を失えばすぐに形を失ってしまうのだ。たとえ冬が来ても、ダルマスの気候では完全な形で保管することなどできないだろう。それでも。銀の盆に残ったリボンをオディールは集め続けてきた。


 時計だけが歯車の音をさせて夜の闇へ落ちていく。無慈悲に刻まれていく時間を聞きながら、リュファスに言われた言葉を、オディールは何度も何度も思い返していた。

『ほら、あんたのお姉さんはあんたのこと好きじゃないか』

 池の泥にドレスが汚れることもいとわず、まっすぐにこちらへ走ってくる、か弱い骨細の令嬢。冬空の青さと、水面の煌めきに揺れる瞳には、オディール一人だけが映っていた。

 抱きしめた腕の強さに息が詰まったし、子猫のぬくもりが胸をふわふわとしたくすぐったさで満たした。 


「私のことを嫌いでないなら、愛しているのなら」


 ぐっと眉間にしわが寄る。

 医者たちが話しているのを聞いてしまった。魔力を使いすぎて、体のほうがもたなかったのだと言った。それなら、今ジゼルが倒れているのは自殺に近い。治療を兼ねて氷の薔薇を作り出していた彼女が、自身の限界を知らないはずがないのだから。


「どうして私を置いて楽園へなんか行ってしまうの」


 とうとう涙がこぼれてしまった。認めたくなくて、膝に額を押し付けて涙を隠す。宝石箱を抱いているせいで、胸に箱の角が当たって痛かったけれど、顔をあげることなんかできなかった。

 

「お嬢様、ジゼル様が目を覚まされましたよ!」


 扉の隙間から、弾むような声が聞こえる。

 オディール付きのメイドの中でも、一番若いメアリの気の利かなさにオディールは憤慨した。病人の部屋の入り口で大きな声を出すのも非常識だし、そんな声をあげたら部屋の中にいるジゼルに続きの間にオディールが待機していたことがばれてしまうだろうし、主人が哀愁をたたえて世界を儚んでいるときに雰囲気を台無しにするのも許しがたい罪だ。

 だから、ふんすと鼻息荒く気合を入れて、ソファから足を下す。

 メイドの教育が行き届かないのは家の女主人の責任だ。

 つまり、今のところジゼルのせいだ。

 なので、この胸のチクチクとした痛みも、呑み込み切れない羞恥心も、喜びに似たきらめきも、全部ジゼルが責任をもってオディールに対応する必要がある。

 鹿の骨を前にした犬のように能天気なメアリをにらみつけて、オディールは宝石箱を預ける。

 

「だから言ったのよ、お姉さまは主神エールへの信仰が足りないって」


 ずかずかと、毛足の長い絨毯を踏みしめながら、天蓋付きの大きなベッドへ一直線に歩いていく。ろうそくの明かりにも、銀糸のような髪の毛がきらめいて、青白い肌がぼんやりと月明かりに浮かび上がっている。

 

「私を少しは見習うといいわ。少し魔力を使ったくらいで倒れてしまうなんて、情けないんだから!」

「……そうね、オディール」


 枕元へ上半身を投げ出して距離を詰めると、ジゼルがまぶしいものを見るように目を細めた。

 日の光を知らないような白い肌は、いつか窓越しに眺めた姿と同じだ。

 ただ、視線だけがはっきりとオディールをとらえている。


「心配させてしまってごめんなさい。ありがとう」

「心配!なんか!……してません」

 

 想定以上の大声が出てしまって、オディールは口をつぐんだ。

 ジゼルは目を丸くしたけれど、オディールをとがめることはなく、ただオディールの赤い髪をなでている。

 やがて疲れと眠気が勝ったのか、オディールの頬に手をそえたまま、ジゼルは目を閉じてしまった。静かな吐息が聞こえる距離で、オディールは唇をかむ。

 触れる手があたたかくて、泣きそうになってしまう。


(私はまったくそんなことはないけれど、ええ、そうね。リュファスが言う通り、お姉さまは私のことを、愛しているのかもしれないわ)


 猫がそうするように、ジゼルのベッドへ体を丸めたオディールも、やがて小さな寝息をたてていた。

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