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睡蓮の庭2

  

 月の綺麗な夜だった。


「リュファス」


 びくり、名前を呼ばれた影が振り返った。宵闇の薄暗がりで、冷えた風が水面を渡って凍てついていく。

 睡蓮池の横、二つのランプをはさんで3人の影が揺れる。

 池を背にした侯爵令息と、ランプを手にしたメイドと、それから伯爵令嬢と。

 足下に置かれたランプの隣には、リネンだろう布がたくさん重ねてある。薄闇のせいでよくは見えないが、リュファスが回復したとは思えない。きっと今も紙のような顔色をしているのだろう。


「…ジゼル」


 どうして、と。小さな声が聞こえた。

 

「庭を見張るのは得意なんです」


 多分私の身体の中で背筋だけがわりと鍛えられている気がする。ベッドに入って、椅子にもたれて、窓の外を見続けてきたのだから。

 夜中に庭の手入れもないだろう。オレンジ色の明かりが見えるたび、窓の外に目をこらすだけで良かった。


「……あんたが俺を助けてくれたって聞いた」

「声をかけただけです。ですが、今一度リュファスが池へ入るとおっしゃるなら……」


 楽園の野を望んで、冷たい池の水に身を任せるというのならば。見殺しにはできないと助けはしたけれど、生きていればいつか彼のトラウマは救われる可能性もあるのだと説いたところで誰がそんな戯言を信じられるだろう。

 救うこともできないのに中途半端に地獄に引き戻すようなことはむしろ酷なのではないだろうか。

 返ってきた声は、とても静かだった。


「違う、命を自分で絶つつもりは無い」

「では何故」

「……メダイを、この池で無くしたから」


 言われて、リュファスの胸元にいつもかけているネックレスが無いのに気がついた。無くした、というが、十中八九城の誰かが池へ放り投げたのだろう。夫人か、ユーグか、使用人達か。

 だが、いくら信心深いとはいえ命を賭してまでメダイを探すのは。口まで出かかって、ゲーム中のリュファスのスチルを思い出す。メダイのついたネックレスを下げていた。そうだ、子供の頃から同じ物ネックレスをかけているのだな、と思ったはずだ。


「母さんが、俺に遺してくれたんだ。俺には、あれしか残っていないから」


 心臓が嫌な音を立てる。

 池でリュファスを見てから、ずっと考えていたことだ。

 これは元々あったイベントなんだろうか、と。

 私がいなければ、ユーグはこんな冬の寒空の下蓮池を見に来たりしなかっただろうし、オディールを助けるために空中庭園から飛び降りるようなことをする必要はなかったはずだ。私たち姉妹の存在のせいで元々安定していないらしいクタール夫人のメンタルがさらに悪化している。それによってリュファスが一番大切にしていたメダイに手を出したと考えられないか。

     

 結局私は罪悪感に耐えきれずにここに立っている。せめて、彼のよすがを取り戻したい。ヒロインであるソフィアが誰を選ぶかはわからないけれど、彼女はリュファスを癒やしたのだから。ソフィアで無くとも誰かがリュファスを癒やしてくれるかも知れない。大丈夫、リュファスルートでの私の死因は魔力の自家中毒、今後も訓練を続けていけば死ぬことは無いはず。そもそも婚約していなければモブとしてさえ登場しないはず。嫌な音を立てる心臓をなんとかしてなだめる。


「魔法を使わないのですか?」

「使えなくされてる」


 淡々と答えて、首元のチョーカーに触れた。

 昨日の昼まではなかった、大粒のエメラルドを使った装飾品だ。どこまでもシンプルなリュファスの服装とは不似合いだ。封印用の魔道具ということだろう。そうした道具があることは想像に難くないが、それが犯罪者以外に使われることを想像したことはない。


「昨日、オディールを助けたせいで…?」


 思い返してみれば、昨日の夕方、池で倒れていたリュファスの首にはもうこのチョーカーがあった。つまり、一昨日の昼の騒動があってから、お茶に来ることができなかった数時間の間になんらかの懲罰が与えられたということだろう。

 池に派手に着地したことを使用人たちもユーグも目撃している。どう考えてもクタール夫人が用意しただろう高価そうなチョーカーに、罪悪感でつぶれそうだ。小さな悪役令嬢こと野生児の妹が無茶をすることを承知で、せめてましだろうと護衛に、なんて提案をしてしまったのは私なのだから。さらに言えば、真冬だというのに庭の水場へユーグと侍女たちを誘導したのも私である。元凶で原因でついでに運も間も悪い。申し訳なさで胃が痛い。今すぐ土下座したくなってきた。


「どう考えても違うだろ。この屋敷の人が、おかしいからだよ」


 優しい微笑みで、まだ幼い少年が首を横に振った。こんなに悪辣な環境で、こんなにまっすぐな目をした少年を、見捨てるなんて許されるんだろうか。


(オディールなら絶対に許さない)


 せめて何か、何か手助けできないだろうか。


「リュファス」


 まだ何かあるのか、とリュファスが振り返る。


「秘密にしてくださいね」


 リュファスの隣に並び、池に指先をつける。身を切るような冷たさに奥歯を一回食いしばった。

 水面に、少しずつ透明な砂を落としていく。

 一番深くて、冷たい水に魔力を注いでいく。


「!」


 ガラスをはじいたような硬質な音が響く。水面にさざ波が立ち、水の中で氷の薔薇が立ち上がる。舞台装置のように透明な薔薇はゆっくり浮上し、冷たい水を滴らせながらやがて睡蓮池を埋め尽くす。

 池一面の氷の薔薇が月光にきらきらと光る。

 ため息が出るほど幻想的な光景だが、よく目をこらせば幻想的とは言いがたい。

 薔薇には睡蓮の根や、池の底のゴミがひっかかっている。

 

「!あった」


 リュファスが身を乗り出し、中程の薔薇を指で示した。確かに、月光に金色のメダイが光っている。

 よく確認して、メダイの乗っている薔薇以外を水に戻した。

 水面に一本だけ残った薔薇が、きらきらと光りながら浮いている。池の水面に一度だけ波がたって、その波に押されるように薔薇は岸辺までたどり着き、力尽きたように砕け散った。

 リュファスが膝をついてメダイを拾い上げる。

 リネンで泥をぬぐうと、主神エールを浅く彫ったメダイが月光にもう一度煌めいた。


「…ありがとう、ジゼル。でも、今のは」


 リュファスが視線を送る先には、さっきまでの光景が嘘のように静かな水面が広がっている。枯れた睡蓮の葉だけがゆらゆら揺れているだけだ。


「侯爵にお話になりますか?」

「いや。…魔力があるなんて知られても、ろくなことにならない。秘密にするよ」


 皮肉げに口元を歪めるリュファスの瞳には、暗い影が宿っている。また、私は彼をここに置き去りにするのだという罪悪感で胸が痛んだ。

 

「生きてさえいれば」


 ぽつり、自分でも意識しないまま言葉が出た。リュファスの視線で我に返る。何も考えずに口にしてしまったので、あわてて次の言葉を探す。

 なにか、希望のある話をしたい。未来に現れるとも知れない少女の話だとか。真っ白な仔猫のように頼りなくてあったかいものの話をしたいのに。


「生きてさえいれば、いつか。いつかきっと、報われる、日もくると」


 今まさにこの世の地獄を味わっている子供に、伯爵家でぬくぬくと生きている令嬢が言う。これほど響かない言葉も無い。自分で言っていて余りの寒々しさに嫌気が差してきた。

 生きてさえいれば、私が言うその言葉の苦さは、きっと理解はされないだろう。私が死ぬことは私しか知らないのだから。それが夢の合間に見た妄想だとしても。

 私だって18歳で死にたくないから必死なのだ。オディールを再教育し、この虚弱な身体を治した暁には、幸せな結末というものが見えるんじゃ無いかとあてもなくもがいている。


「私はそう信じて、生きています」


 恵まれた人間が言えば、傲慢としか思えない。傷ついた人の神経を逆なでする言葉しか吐き出すことができない。

 結局私は、どうあっても目の前の子供を見捨てる選択肢しか浮かばない罪悪感を誤魔化したいだけだ。

 とうとう足下の花しか見ることができなくなった私の頬に、冷たい手が触れた。

 顔を上げると、リュファスがじっとこちらを見ている。その表情に笑みはなかったけれど、敵意や悪意は感じられなかった。ゆっくりと、細くて冷たい指が頬を撫でて、頭を撫でた。月光でいっそう青白い肌と、体温をどこかに置いてきてしまったような指先が、彼がまだ全く回復できていないのだと嫌でも理解させられる。

 そんなぼろぼろの彼に、私の方が慰められているらしい。もう情けなくて涙が出そうだった。

 どれくらいそうしていたのか、リュファスが一歩引いてメダイを首に提げた。もう二度と彼の手元を離れることが無いよう、心の中で祈る。


「ありがとう、ジゼル。主神エールの祝福があらんことを」

「……リュファスにも、主神エールのお導きがあらんことを」


 導きが、彼の幸福であるようにせめて祈って、頭を下げた。

 月明かりの綺麗な夜だったから、ランプの明かりだけでも足下に不安はなかったけれど、夜の暗がりを照らすことなどできない。

 水の魔力を使いすぎたせいで、心臓から冷たい血が体中を巡る。体中が体温を上げようと震えている。視界がぐるぐると回り、なんとかアンに肩を借りながら部屋を目指す。

 芋虫のようだと自嘲して、自分のことばかり、一歩、一歩。

 ランプをもっていたアンが、何か声をかけていたけれど、私の耳には言葉として理解ができなかった。そんな状態だったから、私は気づくことができなかった。


 私が意識を手放すその瞬間まで、庭の片隅、回廊の柱の陰で、一部始終を見ていた影があったことに。  



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