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睡蓮の庭

 すっかりぬるくなってしまったお茶にため息が漏れる。

 夕暮れのテラス席、お茶の準備は整っているが、向かいの席は空席のままだ。

 見下ろす睡蓮池は昨日のことなど何もなかったように凪いでいる。

 空中庭園からの落下事件。あのあと、冷たい池の中でオディールを抱きしめていると、すぐにクタール家の使用人達が群がってきた。毛布を被せ、温かいお茶を用意し、医者を呼び、暖炉のある部屋へ案内する。

 それらすべてから、リュファスは無視されていた。あまりにもあからさまだったから、思わず声をかけてしまったのだ。明日の夕方、お茶をご一緒しませんか、と。

 周囲の使用人の呼吸が一瞬止まったが、リュファスは小さく頷いてくれた。ついでに後ろの方でアンがうめいている声が聞こえたので、視界の隅でオディールが爆発寸前だったことも察した。正義感に任せて他人の家の使用人を鞭打ちしかねない勢いだった。ちょっとばかりピーキーで瞬間湯沸かし器なだけで、悪い子ではないのだ。本当に。

 妹の命の恩人に、感謝の意味を込めて。客人として正式にお招きを、と、クタール侯爵夫人側の使用人達が邪魔をしづらいよう再度叔父を経由してまで声をかけたのに、お茶の時間になってもテラスに設けられた席にリュファスは来なかった。

 オディールはとっくに飽きてお昼寝からの夕寝モードだ。これは夜中に目がさえてうるさくなるパターン。

 起こしに行くべきかと顔を上げると、すぐにメイドがお茶の入ったポットを持ち上げる。部屋付きの使用人達はにこやかにお菓子とお茶のお代わりを勧めたけれど、私が本当に聞きたいことをごまかしたいという希望が顔面に張り付いていた。つまり、リュファスが顔を出すことはないのだろう。

 約束をすっぽかされたことは全然気にしていない、と再三念押しをしてテラスを辞する。今日は天気こそ良いものの、鉄製のストーブに薪をくべても寒いほどの気候なのだ。いくらクタールが魔法を誇る家柄でも、城全体を春の陽気で包み続けるというのは無理がある。所々、穴はあいているのだ。健康と言いがたい身体にはこの寒さがこたえる。


 沈みそうな絨毯を踏みしめながら、ここに滞在していた間のことを考える。

 陰湿ないじめどころではない、虐待を受けているリュファスの様子を思うと、無理に引っ張り出すことも憚られる。この状態がこれからもクタール家で続くというのなら、とてもではないがトラウマを回避して更正なんてできそうもない。

 それこそクタール家に嫁いで四六時中守ってやるのでもなければ。だが、たとえ婚約したとしても結婚はまだ先のこと、つまりは不可能だ。婚約してもしなくてもリュファスを救えないならば、このまま自分の魔力についてはぐらかし続けて婚約の話自体を遠ざけるのが最適解、なのだと思う。

 飲み込みきれない苦さが喉の奥でわだかまっている。

 せめて最後にそれだけでも確認したいと思った。何か、希望のような物を探したかった。

 

「アン、リュファスのお部屋にお伺いしたいの。ほんの少しお時間をいただきたいとお願いできないかしら」

「かしこまりました。こちらでお待ちください」


 アンは理由を聞くこともなく一礼してスタスタと部屋を出て行く。

 部屋から窓の外を見てしまうのは、ジゼルとしての癖のようなものだ。

 ダルマスの館と違ってクタール家の館には薔薇が無い。代わりに、珍しくてオリエンタルな花がたくさん植えてあるという。春になったらいらっしゃい、クタール公爵夫人は言ってくれたが、それを見ることはないと思う。

 庭園のすみに池があって、枯れた睡蓮の葉が浮いていた。きっと季節には薄桃色の花を咲かせるのだろう。少しだけ残念だ。


「……?」


 磨かれた窓に顔を寄せる。

 それでも確認しきれなくて、重い窓をゆっくりと開く。

 

「嘘、」


 睡蓮池の真ん中に、植物以外の色彩があった。

 最初は大きな鳥でもいるのかと思った。そして、次には隣の木に布でも引っかかっているのかと。

 だが、三度瞬きして確信してしまう。


 リュファスが小さな背を丸めて睡蓮池に入っていた。十分に上着を着込んで薪を燃やしても寒いような気候の今日に。

 冗談では無い、子供がこんな冬空の下で水に浸かれば低体温症で死んでしまってもおかしくない。

 一瞬、足を向けることを躊躇した。そして、今一瞬でも躊躇した自分にぞっとする。リュファスが死ねば、全部解決するのに、そんなことを。

 たったいまユーグとクタール家の行いに目をつぶろうとした自分が正義ぶるのは滑稽だ。だが、目の前で子供を見殺しにするのはいくらなんでも寝覚めが悪すぎる。

 淑女らしからぬスピードで階段を駆け下り、花の無い中庭を突っ切る。


「リュファス!」

「……」


 振り返ったリュファスの顔は真っ青で、唇は紫色だった。

 全身が震えて、動きがぎこちない。こちらに足を進めようとして、数歩、歩いたところで池の泥に足を取られたのか転倒した。リュファスの藍色の上着が泥水に浸かって黒く染みていくのが見えて、悲鳴をかみ殺す。

 水に浸かってはいけない、これ以上体温を奪われるようなことがあれば、本当に死んでしまう。

 池に一歩踏み出すと、防水加工なんてされていない革と布の靴を伝って痺れるような冷たい水が足を切り裂くようだ。なんとかして自分と同じくらいの身長の骨細な身体を引き上げる。


「リュファス、しっかり!」

「……エール……」


 主神の名を呼んで、リュファスは意識を失ったらしかった。

 庭の騒ぎに使用人達がまばらに集まりだす。令嬢の汚れたドレスと、真っ青になったリュファスの姿にぎょっとして立ち止まる。

 ショールをリュファスにかけて抱きしめる。昨日に続き二度目になるドレスごしに伝わる水の冷たさに早くもこちらの歯がかちあわなくなる。水と同じ温度の人の肌に、寒さだけで無い鳥肌がたつ。


「なにをしているの、すぐにリュファスを部屋に運んで!」

「は、はい!」

「お嬢様!」


 アンが珍しく焦った表情で走ってくる。そういえば、部屋でアンを待つはずだったのだ。アンに手助けされながら立ち上がり、リュファスを抱える使用人を見ていると使用人は何を思ったか不思議な笑みを見せる。媚びるような、威嚇するような笑みだった。


「いえいえ、大丈夫ですよ、ジゼル伯爵令嬢。リュファス様はこれでやんちゃな坊ちゃんでして、ちょっと今日は。まぁ、吃驚されたでしょうけどね。ええ、すぐに元気になりますとも」


 従者や使用人が令息をこんな状態で放置していたことを責められたと思ったのかも知れない。

 あるいは、ドレスを汚させたことをクタール侯爵経由で叱られると思ったのだろうか。

 間違いなく、目の前の男が口にしたのは保身だ。腕の中のリュファスはもちろん、ジゼル令嬢のためでもなんでもない。まだ13才になったばかりの少年が死にかけているというのに、そのことに痛む胸を持つ人間がこの家には一人も居ないのか。


「この家では」


 声を振り絞るのに呼吸が必要だった。


「この家では、こんな子供が、冬の池に入るのを……やんちゃと言って済ませるのですか!?」


 怒りで呼吸がうまくできない。オディールがいなかったら、自分がこんな人間と同じ場所に落ちていたのかと思うとぞっとした。隣でアンが腕をつかみ、爆発しそうな感情が一気に醒めていく。


「…お嬢様は私が。貴方は早くリュファス様を」

「はっ」


 返事もそこそこにリュファスを抱えた使用人が中庭を駆けていく。

 遠巻きに眺めていた使用人達は、目が合うとばつが悪そうにそっぽを向いてそれぞれに逃げ出してしまった。


「……ジゼルお嬢様、部屋に戻りましょう。お体にさわります」

「ええ、アン。ありがとう」


 感情のまま怒鳴り散らしたって、リュファスの立場が良くなるわけではない。リュファスの容態が一秒を争っている状態で、通りすがりの使用人一人責めて何になるというのか。

 ましてや保身のためについさっきまでリュファスへの仕打ちを見て見ぬ振りしようと思っていた人間に、我が身可愛さに見殺しにしようとした人間に、彼らを責める資格など無い。ただ邪魔をしただけだ。なにが、希望のような物だ。リュファスと婚約しようがするまいが、リュファスの境遇は変わらない。きっとこのまま、死にかけてさえ誰にも顧みられることの無い侯爵家で、いつかみたシナリオの通りに病んでいくのだろう。


「お嬢様が心を痛める必要はありません」


 不意に隣から声をかけられて、アンを見上げてしまう。

 いつでもきっちり肩口で切りそろえられた黒髪のせいで、すぐ隣のアンの表情は見えない。だが、気を遣われたのだということはわかった。


「……ありがとう」


 どう言葉を返して良いかわからなくて、それ以上何も言えなかった。

   

  

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