冬に見つけた花
少年が息を吸うと、柔らかな冬の香りが肺腑を満たして、そのまま声にならなかった。
ユーグはなんども瞬きを繰り返し、目の前の光景が信じられないのだと言うように首をかしげる。
(君は、どうして)
ジゼル嬢、そう声をかけようとして、うまく呼吸ができなかった。
冬の光は柔らかく銀色の輪郭を縁取り、紫水晶の瞳に長いまつげが影を落としている。新人画家が小躍りしそうなその光景のなかで、彼女が一心に視線をそそいでいる先は、薔薇の花でも宝石でもなく、不格好な木組の模型だ。
貴族を中心に魔力を至上とするこの国で、それを使わない建造物は『蛮族の道具』だと忌み嫌われる。装飾の先端まで魔力を張り巡らせ、冬に真夏の花を咲かせることで財力と血統を誇示するのだ。
魔力がない自分でも役に立てるはずだと、領地のためによかれと思って考えたことだ。両親と一族に少しなりと認めてほしいと必死で考えたこのからくりをお披露目した日、かえってきたのは失意のまなざしと、侮蔑の言葉だった。
(とうの昔に、父上も母上も、僕を見限っていたんだろう)
だからあの日、馬鹿な子供は手を離したのだ。期待することをやめた。希望することをやめた。ただただ、呪うように笑いながら生きてきた。
踏みにじられてボロボロになったそれを、宝物を見つめる瞳ですくい上げてくれる人がいるなんて、思ってもみなかった。
自分と同じ立場の少女を、傷つけてやろうと思ったのに。
蜥蜴の大門は、現代の魔術師たちでは作ることができないほど精巧な魔術式が刻まれており、ダルマス領が誇る旧時代の遺物だ。
その大門を動かすには、聖女に及ぶほどの魔力を必要とする。
それこそが古い血を持つダルマスの後継者の証であり、領民たちの敬愛と畏怖とを勝ち取る手段でもある。だが、蜥蜴の大門が最後に動かされたのは、彼女の母親が存命だった頃、長雨で増水した河川から下流の村々を守るために使われたきりだ。
母親の魔力を受け継ぐ子供が生まれなかったから、宝の持ち腐れ。現に数年前の水害の際も、蜥蜴の大門は使われなかった。まだ子供たちが幼い故仕方がないと思っただろう。だが、もはや門を動かす力が後継にないと知れれば、領民の失望はいかばかりだろう。
家門の後継を争う相手がいないだけで、お前も同じだとつきつけてやりたかった。所詮はこの魔力のいらないからくりと同じ。誰からも必要とされない、自分と同じような立場の人間が、同じように傷ついている姿を見て安心したかったのだ。
それなのに、これっぽっちも傷つかなかった。
そのことに心の底から安堵している自分がいる。
「ユーグ様、この水門は素材は何を使われるのですか?堅くて大きな石がダルマスではあまり採れないのです。木ではすぐに劣化してしまいますよね」
「え、ええ。山の近くは石を切り出そうと思っていました。ダルマスあたりの下流は粘土があるから、レンガで作ればいいかと」
「うーん、でも、つなぎ目の強度が心配です」
「石を切り出して川で運べばいいし、それこそ補強は魔法に頼ってもいいですよ。維持に魔法がいらないことを重点に置いているのですから、建設時に魔法を除外する必要はないでしょう?」
「ああ!確かに」
ぱっとジゼルが顔を上げるから、思わず一歩後ろにひいてしまった。花のない庭の蓮池が煌めくから、その光を受けてジゼルの瞳がきらきらと光るのだ。昨日までの何かを憂うような表情とは違う、希望を見つけたような笑顔に心臓が嫌な音を立てる。顔が熱い。冬の日差しが暑いと言い訳はできそうもないのに。
(ああそうだ、淡雪の君)
その憂いを払うためならば百の宝石を捧げて惜しくないと言われた彼女の母親。当代の男たちはこんな気持ちだったのかも知れない。
そう思うと、急に落ち着かなくなってしまう。
社交界デビューはまだだが、すぐにジゼルは評判になるだろう。なにしろ母親が有名だ。ダルマスの窮状は父親の財力で解決済みである。父方の商会は貴族にも太いパイプを持っている。魔力の強さより家柄の古さを優先する家門もある。強い魔力を持った貴族の次男三男が婿入りを希望するに決まっている。なにより、この人形のような美貌だ、貴公子が列を成して彼女に愛を請うだろう。彼女の母親がそうだったように。
(嫌だ)
はっきりと、強い感情で目頭が熱くなる。
(この先二度と、こんな目で僕を見てくれる人なんか現れるわけがない)
砂漠で見つけた葡萄だ。
手放してなるものか。
真白な指先に触れようとした瞬間、雷のような音と光が庭をつんざいた。
「!?」
星を砕いたような音と火花が蓮池に落ちていく。複数の魔法がぶつかったときに発生する火花だ。
その真ん中で、泥水がせり上がって腕のように動き、次にしぶきをあげながら蓮の枯れ葉と茎を吐き出すように形が崩れた。泥水のかたまりから、はじめに目に入ったのは、燃えるような赤毛だった。
「オディール!!!」
普段の声量が嘘のような悲鳴を上げて、ジゼルが謎の泥水の怪物に駆け寄る。池の水でドレスが濡れるのもいとわず、必死に手を伸ばしている。
次に泥水から出てきた色彩に、自分でも表情が厳しくなるのがわかった。
「まぁ、リュファスは水の属性なのね。姉様と一緒だわ」
「いや、土だよ。蓮池の泥無理矢理使ったからこんなことになったんだよ」
オディールののんきな声が中庭に響く。うんざりとしたリュファスの声がそれに続く。
蓮池の泥を使ったという言葉通り、根をかき混ぜられた『ユーグ』の枯れ葉や根が無残に千切られて池に流れていく。
「オディール、一体どこから落ちてきたの。怪我はない?リュファスも大丈夫なの?」
わなわなと唇を震わせて、ジゼルが涙目になっている。
唇をとがらせて身構える妹を抱きしめて、血の気がひいて真っ青になった顔で、それでもリュファスに礼を言っているらしい。三人の会話が、途切れ途切れに聞こえてくる。こんなに近い場所で会話をしているのに、水面の向こう側のようだ。
「本当に、なんてお礼を申し上げたらいいか。リュファスは命の恩人です」
「別に、たいしたことじゃないよ」
文句を言いながらも、抱きしめられるまま離れようとしないオディールが目に入る。
どれほど宝物のようにこのガラクタを見つめても、オディールが視界に入った瞬間ジゼルの興味と関心はすべてこの小さな妹に向かってしまう。
リュファスの腕から、真っ白な猫が顔を出し、ジゼルが明るい声を上げる。猫を抱き上げて自慢げなオディールと、苦笑しながら猫ごとオディールを抱きしめるジゼルと、そんな姉妹の様子を見守るリュファス。その優しい空気が、羨ましくて、妬ましくて、焼き切れそうな痛みが心臓を引き裂いていく。
この庭に落ちてこようと思えば、3階の高さにある空中庭園から飛び降りてくるしかない。例えばリュファスの立ち位置に自分がいたのなら、まずオディールは助けられない。詠唱も道具もなしに、3階から子供二人分の衝撃を受け止める魔法なんて、使えない。
魔力のある男とそうでない男がいるなら、魔力がある方がダルマスだって望ましいに決まっている。その血に流れる力を失ったのならなおさら、強い魔力の夫を必要とするだろう。まさにリュファスはうってつけだ。蜥蜴の大門を動かすことができる、正当な後継者を望むこともできるだろう。
ユーグには、望むこともできない未来だ。
(本当に。仲のいい姉妹だな)
リュファスを見つめるジゼルの目に、恩義や友情以上の何かが映っている気がして、吐き捨てるように目の前の美しい光景に背を向けた。
他人の自分から見ても、オディールは手のかかる子供だ。どれほど破天荒な振る舞いをしても、ジゼルは自分が手を差し伸べることを疑問にも思っていない。無償の愛を注いでいるように見える。自分の地位を脅かさない弟だったなら、あるいは本当に血のつながった弟だったなら、あんな風にただ慈しんで仲良くなれただろうか、自問の答えは聞くまでもなく否だ。
出来損ないは、誰かの一番になんか、なれやしないのに。何を今更希望なんか持っているのか、馬鹿馬鹿しくていつも通り笑えそうだった。