姫君のエスコート
空が高くからりと晴れ渡った朝。
リュファス=クタールは今日がいつもと同じ一日だと信じて疑わなかった。
夜にだけ口を開くファンシーな動物たちは朝になると身動き一つしない剥製に変わる。初めて彼らがしゃべったときは驚くと同時にわくわくもしていたが、中身が真っ黒な泥と欲にまみれた魔法使いたちだとわかってからは声を聞くのもうんざりする。彼ら以外に会話が可能な存在がいれば、この剥製だって窓から放り投げたいくらいだ。
何もかもが不気味な魔法じみたこの城なので、一昨夜、お客様だという少女が二人現れたのも、夢幻の類いなのだと割り切っていた。城ではいないものとして扱われて、衣食住に困ることはないが、ただそれだけの軟禁生活も、もう半年になろうとしている。
どこの誰とも知れない男と恋に落ちて、たった一人で子供を産み育てた母はもう楽園の門をくぐってしまった。
何の証拠もないのに父親の遣いを名乗る人たちについてきた。大人の庇護なく生きていくのに困っていたこともある。ただただ、寂しかったというのが本音だ。父親が、母を捨てた訳ではないと思いたかったし、家族だってほしかった。
絶望そのものの目でこちらを見下ろしてきたクタール夫人に、唇をかみしめてにらみつけてくるユーグに、自分が望まれていないことは嫌でもわかった。魔力を持つ子供を家に連れてきたことで義務は果たしたとばかりに父親は家によりつくこともしない。嫡子であるユーグに、この家にふさわしい魔力さえあれば、きっと自分は捨て置かれたのだろう。
廊下に人の気配がした。
食器を下げるためにメイドがワゴンを持ってきたのだろう。銀食器の上には、食べ散らかされた朝食が半分以上残っている。なまじっか什器が高級なせいで、育ちの悪さが際立ってしまう。飲み込めない感情を眉間に込めた。吐き出す相手がいないのだ、飲み込むしかない。
控えめなノックとともに、扉が開く。
「あのぅ」
メイドが控えめに声をかけてきた。珍しいこともあるものだと振り返ると、メイドの後ろからひょっこりと赤毛がはねていた。ふわふわとしたウェーブは薔薇色で、つり目気味の瞳には透明度の高いアメジストがはめ込まれている。
「あんた、」
昨夜、秘密の庭にいた、姉妹の片割れだ。
「おはようございます、リュファス様」
ドレスの裾をつまんで、小さな淑女はかわいらしく頭を下げる。
こういうとき、どういう風に返すのが正しいのか、リュファスは知らない。だから椅子に座ったまま、じっとオディールを見つめる。どういうつもりなのか、一体何をしに来たのか、見極めなくてはならない。ここには、リュファスの味方などいないのだから。
そうやって身構えて顔をこわばらせるリュファスのすぐ目の前までオディールはにっこりと笑った。
「今日から私がご一緒しますわ。さ、外へ出ましょう!」
「は?」
「大丈夫、私がお守りしますから!大船に乗ったつもりでいらして!」
自信満々に胸を張って、小さな手は有無を言わさずリュファスの手を握り引っ張り上げた。
淑女らしからぬ大股でぐんぐんとオディールが歩いて行くので、目の前のドレスの裾を踏まないことに意識をとられすぎていて、状況理解が追いつかない。
(守るとか、船とか、一体何の話なんだ)
「おい、待てって。どこ行くんだよ」
「外です。部屋にこもってばかりでは、お姉様みたいになってしまうんですから!リュファス様はクタール家の令息なのですから、もっと堂々としていればいいのです!」
もう一人の令嬢、ジゼルを思い出す。確かに、日の光など知らないような色素の薄い少女だった。
リュファスの手をつかんだまま廊下の真ん中を小走りに歩いて行くオディールに、周囲の使用人たちが目を丸くして道を空ける。その後を歩くリュファスを、目を丸くしたまま口を半開きで見送る物だから、居心地が悪いったらない。
「様なんかいらないよ、リュファスでいい……それに庭に出るなら、反対側だけど」
ぽつりとつぶやいた言葉に、初めてオディールの足が止まる。
あまりにも雑に歩き回る物だから、風に絡んだ髪が綿飴のように絡まっている。令嬢にあるまじき、メイドであれば叱責を受けている姿だ。けれど、気分を害した様子もなくオディールは堂々と胸を張った。
「ええ、そうでしたわ。私としたことが。ここは、あなたの、おうちなのですから」
あなたの、と強くスタッカートをつけてオディールは言う。なぜだろう、リュファスは下町の不動産屋を思い出した。金にがめつく押しが強い、事故物件を今年最高の幸運と言って売りつけるような自称最高にポジティブな男。半年間一度も思い出すことのなかった顔を、なぜ今。
「では、私をエスコートしてくださいな」
空が高くからりと晴れ上がった日。
令嬢に手を差し出されたらどうしていいのかもやっぱりわからなくて、リュファスは廊下で立ち尽くしていた。
下町の子供たちは皆したたかでたくましかった。そこに男女の差はなかった。
だから、時折奉仕活動に訪れる貴族令嬢たちのことを同じ生き物とは思えなかった。荷物を持ったこともないほっそりした腕。今にも折れそうな腰。砂糖菓子を口に入れたような鈴の音色でしゃべり、花の香りがする人形のようだと思っていた。
身分の差、生まれの差。搾取する側の人間に嫌悪感を抱いたのはもちろんだけれど、一種の憧れもあったのだ。
初めて間近で見た貴族令嬢、ジゼルのことを思い出す。
砂糖菓子でできたような色彩の少女は、イメージ通りの貴族令嬢だった。
そして、その妹であるオディール。
姉と対照的な、華やかな色彩をまとう少女。その傲慢さも、わがままさも、やはり貴族というイメージの側面だった。
それ故に。
(違う、なんか違う)
リュファスは頭を抱えながら首を振る。うなり声のようなため息が口の隙間からこぼれてしまう。貴族令嬢となんか話したことがない。夫人とは完全に初対面から敵対している。
だから、目の前で小手毬の茂みに突進していく赤毛の少女にどう対応するのが正解なのかわからなくて途方に暮れていた。
クタールの誇るオリエンタルな空中庭園で、計算し尽くされた角度に刈り込まれた植木達も、こんな無作法を受けるのは長く生きてきて初めてのことだと思われる。
ここにメアリがいれば、オディールの名前を叫んで引きずり出しただろう。もちろんこちらも使用人と雇い主の立場としても不正解だ。ダルマス家の愉快な追いかけっこは着実に貴族としての品位だとか常識だとかを削り取っている。
さておき、ふわふわの巻き毛に木の葉をいっぱい巻き込んでオディールが匍匐前進をしているのには理由がある。
猫を探しているのだ。
夜にだけ動き出す化け物の猫ではなく、城に住み着いている野良猫。真っ白な子猫がいるのだとオディールに話すと、目を輝かせて見たいと言い出した。
「だからさ。野良猫なんだから、探して見つかるものじゃないって。昨日も思ったけどあんたのそのドレス、汚しちゃって大丈夫なのか?」
「あんたじゃなくてオディールよ。オディール嬢ってちゃんと呼んでくださる?リュファス」
音がしそうな勢いで茂みから首を引き出して、小さな令嬢が腰に手を当てる。
つんとそらした小さな鼻にも、泥汚れがついている。これでは下町の子供と変わらない。貴族令嬢とは何なのか、リュファスは首をかしげたまま戻せないでいる。
「オディール嬢。そんな風にドレス汚したら、お姉さんに怒られるんじゃねぇの」
「!!」
図星らしい。
キッとにらみつけたけれど、ぐっと唇を引き結んだあと、頬を膨らませた。
「いいのよ、どうせ。お姉様は私のやることならなんだって気に入らないんだわ」
「いや、なんでもってことはないだろ。服汚したら普通は怒るだろ」
「私をいじめるのが好きなの!お勉強中ずっと横に座って監視したり、メアリたちに追いかけさせたり!」
「なんで追いかけられるわけ」
「私にお勉強させるためよ!!」
顔を真っ赤にしてオディールが叫ぶ。
全身で不満をあらわにして地団駄を踏みそうな貴族令嬢を前に、リュファスはこの上なく冷静に口を開いた。
「それはあんたが悪いんじゃ…」
「悪くないわよ!お姉様が全部悪いの!私のこと嫌いなのよ!!」
「……嫌いじゃないだろ、きっと」
(なんだか下町の小さな子供に同じようなことを言い聞かせた気がする)
まだ母親も生きていて、温かくて、優しい記憶だ。
翻って、この場所の冷たさに拳を握りしめる。
「本当に嫌いなら、無視するから」
それがこの家での、リュファスの扱いだ。ぎくりと、オディールの肩が震えた。
「いないものとして扱う。勉強中に隣にいるなんて、そんなのめんどくさいだけだし、あんたが逃げたら放っておけばいい」
そんなことはないだろう、リュファスは思う。
あのバラの下のお茶会でオディールが登場したとき、ジゼルは確かに止めようとした。良識ある貴族の子女として当然のことかも知れないが、それでもあの化け物達から庇うように立ち上がったのだ。
「……前は口をきいてくれなかったの」
「?」
「でも!でも少し前のことよ。最近は、いじわるだけど、ちゃんと毎朝一緒に食事をするし、ええ、そうね。そこまで、そんなに、嫌われては、いないと思うわ。そう、それに、バラをくださるのよ。氷でできているの、すごくきれいなんだから!」
「ふーん、そうなんだ」
頬を真っ赤にしながら一生懸命に言葉を紡ぐ年下の少女に、リュファスは小さく微笑む。関心がほしい、甘えたい、そんな気持ちでかんしゃくを起こしていた下町の子供と同じだと思ったのだ。
(そういえば、ここに来て初めてこんなに気安く会話をしている気がする)
この城にはリュファスを敵とする人間が多すぎて、味方を名乗る人間は誰一人信用できない。昨日出会ったばかりの客人に心が安らぐのもおかしな話だ。
見上げる空も風も同じはずなのに、空気ばかり重いこの城でようやく呼吸ができた気がした。これが貴族の世界なのだと諦めていたが、もしかしたらそうではないのかもしれない。オディールをみていると、そんな気がしてくるのだ。
(俺は何も知らない)
兄弟ですら殺し合う世界だとあの喋る剥製達は言っていた。味方はこの城にはいないから用心しろと、低い声で忠告した。
だがこんなにも不器用に思い合う姉妹がいるのなら。
(兄弟だって、少しくらい、歩み寄れたりしないのか)
「あっ!いたわ!!」
突然視界から赤色が消えた。
次の瞬間、赤い野ウサギは小手毬の茂みを抜け、睡蓮の植え込みを飛び越えて、飛び出してしまった。
「だめだ!!」
リュファスは一瞬遅れて走り出す。
ガーゴイルの口から睡蓮池へ水が流れ落ちる。
ここは『空中庭園』なのだ。塔から塔へ渡すように、テラス状にせり出した人工の庭だ。
「……っ!」
文字通り、飛び出してしまったオディールの手をかろうじてつかむ。だが、上体の半分以上をせり出した状態で引き上げることはできず、石造りの縁がリュファスの靴底でじゃり、と嫌な音を立てた。
(無理だ、落ちる)
驚愕のあまり悲鳴をあげることもできない子供の体を抱いて、リュファスは歯を食いしばる。
目を閉じたくなる衝動と戦いながら、眼下に広がる睡蓮池をしっかりと見据える。
『応えろ、従え』
乱雑な命令に、轟音と閃光が弾け、枯れた睡蓮の葉が勢いよく空中へ放り出された。




