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表と裏の狭間の世界で  作者: 珠椛
第1章
9/14

危険と秘密

「...僕の話?」

 足は止めずに、Iがアカリの言葉に反応する。

「そうよ、貴方の話」

 その言葉にIは浮かない表情をし、そして何かを決心したように、ポツリと小さな声で呟きだした。

「僕もね、お姉さん。親がいないんだ」

「え...」

 Iの口から出た言葉は衝撃的なもので、アカリが気の抜けた声を出す。


「思い出したくもないけど...過去に色々あったんだ。僕を見る度に喚き散らしてきて...煩かった」

 吐き出された言葉は鋭利な刃物の様に鋭く、また冷たく、そして底知れぬ何かを持っており、アカリは思わず呼吸を忘れる。

「それである日...殺されかけた。...うぅん、殺されると思った。でも実際はそうじゃなくて、僕の目を」

 アカリの脳が警鐘を鳴らす。聞いてはいけない。きっと後悔する。そう思うのに、Iの口を、己の耳を塞ぐ為の手は、一ミリも動かない。


「–––––どうしたと思う?」

 ひゅっ、と呼吸が乱れる。アカリは無意識の内に喉元に手をやって呼吸を整えようとしていた。

 答えは分かっていた。けれど口に出来ない。それは最も恐ろしいもので、言ってしまえばもう後戻り出来ない一言だったからだ。

「...痛かったよ。焼けそうな痛みと、真っ赤な...」

「やめて」

 それから先は聞きたくないと、震えた声で、アカリは無意味な抵抗の意を示す。

「...ふふ、やぁだ。これが答えだよ」

 当然Iがその言葉を素直に聞くはずはない。ニィと笑ってIはアカリに近寄り、左目を見せる。

 その目は、血の赤よりも真っ赤に染まっていた。

「あ、ぁ...」

「...ねぇお姉さん...狡いよ...僕はこんな目に遭ってやっとお兄さんに出会えたのに...。お姉さんはどうして何の苦労もしないで幸せなの?」


 Iに追い詰められ、アカリの背がドンと壁に当たる。

「どうして?どうしてなの?お姉さんは狡いよ。–––––お姉さんも、僕と同じ苦しみを味わうべきだよ」

「何言っ–––––!?」

 パシッ...と頰に衝撃が走る。数秒遅れて来た痛みに、頰を叩かれたのだとアカリは気付く。

「...ねぇ痛い?僕はね、もっともっと痛かったよ?」

 続いて二発目が飛んでくる。アカリの目にはそれがスローモーションではっきりと見えていたが、避ける事は出来なかった。

 勢いよく二発目を受け、その衝撃でアカリは壁に頭をぶつける。それでもIが手を止める様な雰囲気はない。殴られた勢いで唇を噛んでしまい、咥内に鉄の味がするとともに、ポタリと鮮血が床に零れ落ちる。

「な、んで...」

 ポツリと呟いたアカリの言葉にIが反応する。

「お姉さんが幸せだから」

 冷たく言い返して来たIの目に、光はない。

「僕のこの目はね、外に放り投げられて何時間も、何日も経ったある日になったの。目の前が暗くなって死ぬのかなって思った時に途端に痛くなってね。気が付いたらなってたんだ。そしてお兄さんに会ったの。視力はとうの昔に失われた筈なのに見える様になっていて、凄く驚いたなぁ...」

 そう言って話すIの表情は恍惚としている。

「お兄さんはとっても優しくて...僕、凄く嬉しかった。絶望の淵にいた僕を、誰かも知らない僕を助けてくれたんだもの」

 幼子が浮かべる曇りのない純粋な笑みであれば、美談で終わっただろう。しかし、Iの笑みから感じ取れるのは、歪んだ感情だった。


 ダンっとアカリを壁に押し付け、Iがアカリの気道を細い手で塞いでいく。

「お姉さんには分からないでしょ?のうのうと光の下で生きてきたんだから。そんな人間が何の苦労もなく幸せになるなんて許せない。無条件でお兄さんに助けられて、お兄さんから好かれるなんて」

「え...」

 Iの思いがけない言葉に、アカリは薄れる意識を浮上させ反応する。

「お兄さんって...もしかして...」

 途切れ途切れに言葉を紡いだアカリに、Iはにんまりと笑みを深めて頷く。

タクマお兄さん(・・・・・・・)だよ。お姉さんの、大切な人」

 脳に十分な酸素が行かず、考えが纏まらない。

 それでも、タクマがIに関わっているという事実は、しっかりと理解していた。

「タクマが、そんな事をしているなんて、知らなかったわ」

「だろうね。だって僕が誰にも言わないでって言ったんだもの」

 「あぁでも」Iが何かを思い出したかの様に呟く。

「今、お姉さんに知られちゃったね。忘れてもらわなきゃ、こうやって」


 先程より力が強められ、本格的に息苦しいの範囲を超えてくる。水から出た魚の様に、アカリの口が開閉を繰り返す。

 このままだと本当に死んでしまう。そう思うのに、手には全く力が入らない。

「大丈夫だよ、お兄さんには僕がついてるもん...。お姉さんがいなくなったところで、何の問題もないよ」

 さも当たり前の様に言うIに、アカリが口を開く。

「そんなの...貴方が決める事じゃないわ...」

 どうにかIの手を掴み、力を込める。荒い息で紡いだ言葉は何とかIに届いていた様で、怪訝な表情をしたIとアカリの視線が交錯する。

「タクマの、事は...タクマにしか分からないのよ...。貴方がどう思おうと勝手だけれど...タクマの考えを、勝手に貴方の思考で、都合良く変換しないで」

「–––––っ、煩い!」

 図星だったのか、怒鳴ったIがアカリの気道を確実に塞ぐ。それにより酸素が体内に入って来ず、目の前が霞み出し、意識が深い闇の中に落ちていく感覚にアカリは陥り始めた。

「いい、加減に...」


「やめたら?」


 アカリの意識が飛びかける寸前、ふと地を這う様な低い声がその場を満たす。

 生理現象故の、涙でぼんやりとした視界の中、アカリの目に映ったのはカナヤだった。

「...何で?この女の所為なのに!こいつさえいなくなれば...」

「手を離しなよ。じゃないと、今その子にやっている以上の事をやってあげるけど?」

 Iの言葉を遮ったカナヤの言葉が空気を凍らせていく。誰も発言を許されない雰囲気へと変わっていき、Iの手が震え出すのがアカリには分かった。

「もう一回だけ言うよ。手を離したら?」

 無表情で淡々と言うカナヤからは、例えようのないオーラがある。それは殺気とは違う何か。

 そっとIがアカリの首から手を離す。その手は情けない程震えていた。

「...さっさと消えなよ。仕方ないから、今回は見逃してあげる」

「...くそっ」

 吐き捨てる様にIが言い、何処かへと去っていく。


「カナヤ...」

「何処行ってたの。勝手にいなくならないでくれる?」

 勝手にいなくなったのは貴方の方よ。そう言いたいのに、急に入り込んできた酸素でむせてしまい、アカリが出来た事はカナヤを睨む事だけだった。

「探してたのよ、急にいなくなるから...」

「は?最初からずっとあの部屋にいたけど?」

「嘘...探してもいなかったわ」

「嘘ついてどうすんのさ...」

 心底呆れた様にカナヤが言う。出会ってからというもの、アカリはカナヤに呆れられてばかりである。


「あー...いたー...探したよー...」

 そんな空気を飛散する様に間延びした声がアカリの前方から聞こえる。ふと見れば、トテトテと軽い足取りでミワが向かってきていた。少しだけ切れている息を見るに、恐らく走ってきたのだろう。

「もー...何処行ってたのー...?焦ったよー...」

「...ごめんなさい」

 きっと私が見きれていなかっただけなのだろう。ミワに追撃された事でそう解釈したアカリは素直に謝る。

 頭を下げたアカリに、カナヤは決まり悪そうに「やめてよ、君らしくない」と吐き捨て、顔を上げる様に言う。

「でもまぁ...Iの事気付かなかった僕らにも責任はあるし...危険な目にも遭わせたし...」

 目を逸らしながらカナヤがぼそぼそと口籠もりながら言う。

「だからまぁー...おあいこってー...カナヤ君は言いたいんだとー...思うよー...?」

「っ、そんな事言ってない」

 見かねた様に助け舟を出したミワに対し、カナヤは焦った様に言い返す。

 その光景が何だかおかしくて、クスッとアカリが笑う。


「はぁ...とんだタイムロスだし...最悪」

「そんな事言ってもー...ちゃんと探してたよねー...」

 揶揄う様に言うミワに、カナヤは怒りか羞恥か、顔を真っ赤に染めている。

「あのねー...カナヤ君、アカリちゃんが急にいなくなってー...とーっても焦ってたんだよー...?それでねー...必死になって探してたのー...。ねー...良い人でしょー...?」

「そうね、とっても優しいわ。ありがとう。そしてごめんなさい」

 話を聞いていたカナヤが、もうこれ以上は言わなくていいとでも言いたげにミワを睨みつけ、アカリに視線をやる。

「もういい...さっさと行くよ」

 フイと顔を背けカナヤが言う。「次は?」

「次は三階に行くわ」

 調子を取り戻したアカリが元気良く答える。

 先程の空気も、Iの、アカリの、カナヤの奥に潜んだ狂気も闇も、もう何処にもなかった。



 ただ床に固まった赤い血と、少しへこんだ壁が、この場所で先程まで何が起こっていたのかを鮮明に物語っていた。

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