消えた二人
非常灯の灯りと消火器の赤い光が廊下を仄かに照らす。薄気味悪いという感覚は、もう完全に麻痺してしまっており、スタスタと歩けるまでになっていた。
守衛もいなければ生徒の姿はおろか、気配すらも感じない。というより、この階に人の気配は全く感じられない。移動教室中なのだろうと、アカリは解釈する。
そうでもして無理矢理思考を転換しなければ、到底耐えられない。
「...カナヤ」
「何」
この、背後から感じる冷たい空気に。
「怒ってる...?」
恐る恐るといった様子でアカリが問う。ただし、足を止めて振り返ろうとはしない。
それは面倒だからではなく、ただ単純にその勇気がなかったからだ。
「...別に」
「怒ってるじゃない」
「怒ってたとして、何?僕の怒りを鎮めてくれるとでも?君の所為で、こんなにも苛々してるってのに?」
「さっきの事なら謝るわ。軽率だったのも、理解してる。でも、そんなのをいつまでも引きずらなくたって良いじゃない」
アカリの言葉に、カナヤが盛大に溜め息を吐く。
「何様のつもり?第一、勝手に侵入したのはそっちでしょ。軽率な自分の行動は棚に上げて、僕には引きずるな?どれだけ上から目線なのさ」
「私はそんなつもりで言ったわけじゃ...」
「聞き手にそういう印象を与えたら、本人の意思と関係なんてないんだよ。あー...本当、うざったい」
吐き捨てるようにカナヤが言い、それきり会話は途切れてしまった。カナヤが怒っている理由は宙ぶらりんのまま、気まずい雰囲気がその場に流れる。
彼と私は違う。
それは当たり前の事なのだが、そういう事を言いたいわけではない。
本質的に根本からカナヤとは違う。何が違うのかと言われれば答えられないが、違うというのはアカリにはあった。
暗い廊下を歩く三人分の足音がその場を支配し、誰も声を発しようとはしない。
「着いたよー...」
数分後、ようやく出た声は、ミワによる到着を告げる声だった。目的地の技術室は案の定真っ暗で、怪談話に出てきそうな雰囲気がある。
「...あ、もう着いたのね」
そそくさとカナヤから距離を取ったアカリが、技術室の扉に手をかけゆっくりと横にずらす。
ガラガラと立て付けの悪い音とともに扉が開き、真っ暗な空間が三人の視界に飛び込んでくる。
技術室特有の木の匂いは、木造校舎を歩いていた時とはまた違う匂いで、アカリの心がほんの少し落ち着く。
「...一応、探すー...?」
この教室にタクマがいない事はミワも分かっているのだろう。それでも尚探すかどうかをアカリに尋ねてくる。アカリを安心させる為だという事は、話を振られた本人が一番理解していた。
「...えぇ、申し訳ないけれど、お願い」
「いいよー...。んー...カナヤ君行こうー...?」
「は、ちょっ」
カナヤが返答するより早く、ミワがカナヤの腕を引いて技術室へと入っていく。その後ろ姿を追い、アカリも部屋に入る。
体感温度が廊下より低く感じるのは、多少なりとも恐怖があるからだろうか。アカリはそんな事を考えつつ、部屋の中をぐるりと見回す。
木の匂いと金属の匂い。技術室特有の匂いがはなにつき、アカリは顔を顰める。
昔からどうも、この匂いは好きになれない。
一応歩き回ってみたが、やはりというべきかタクマは見当たらない。
これは早々に次に行った方が良いだろう。そう判断し、アカリは二人を探して技術準備室に入る。
ところがそこに二人の姿はなく、もぬけの殻だった。
「...え?」
出て行った音はしなかった。周囲を見回してみるが、二人の姿は何処にもない。
「...カナヤ?ミワ?何処に行ったの?かくれんぼ?」
己の声だけが反響し、返事は一向に返ってこない。
「ね、ねぇ、何の冗談なの?出てきて」
アカリは急に不安になった。何か二人の身に起きたのかもしれない。私がいる所を見られて、捕まってしまったのかもしれない。
そう思うと、恐怖が一気に押し寄せてきた。
「カナヤ!ミワ!何処に行ったの!?」
もしかして廊下だろうか。一縷の望みをかけて廊下に出てみるが、そこにも二人の姿はなく、深い闇が広がっていた。
「嘘...どうしよう」
そう呟いたアカリの耳に、カツンと足音が聞こえた。
廊下の奥から聞こえるその音は、確実にカナヤとミワではないとアカリは直感で感じる。
–––––隠れなきゃ。
そう思うのに、足はちっとも動かない。いざという時ほど、体が思い通りに動かない。
足音は確実に此方に向かってきている。ここに立ち尽くしていれば、見つかるのは当然だ。
「こっち」
耳に声が届くと同時に、後ろから手を引かれ戸棚に引きずり込まれる。
「や、離してっ」
「静かに。見つかっちゃう」
「んーっ!」
狭い戸棚の中で縮こまる様にする中、背後の声の主がアカリの口を手で塞ぐ。
慣れた手つきが、余計にアカリを恐怖に陥れる。
カツン、カツンという足音が技術室の前で止まる。アカリの息が詰まった。
足音は数秒止まった後、また何処かへと遠ざかっていった。ホッとするやいなや、アカリは戸棚の扉を開け、背後の何者かから逃れる。
少々強引に逃れた為、背後の者はアカリが出た反動で壁に激突していた。
「いったー...」
「あ、貴方誰...?」
暗闇にようやっと目が慣れてきたアカリが見たのは、深い紺の布をフードの様に被った少年だった。
顔はフードと前髪と暗さの所為ではっきりとは見えないが、此方を見る右の黒の瞳と目があった事は、アカリにも確認出来た。
「助けてあげたのにこれは酷いよ...」
あー、うーなどと後頭部を抑えながら呻く少年が、不満そうに声をあげる。だがアカリはそんな少年を気にする余裕などどこにもなかった。
「質問に答えて」
「少なくとも、お姉さんを捕まえに来た訳じゃないよ。ここで寝てて、一人分の足音が廊下から聞こえて騒がしかったから起きて...近くにいたからついでに助けただけだし」
自分を捕まえに来た訳ではない。その事にアカリはそっと胸を撫で下ろす。
「それにしても変なお姉さん...迷子になったの?」
「え、えぇ、まぁ。友人とはぐれたの」
まっすぐ此方を見てくる少年にしどろもどろしながらも、アカリは何とか返答する。
「友人?お姉さん、転校生なのにもうお友達がいるの?」
「えっ、えぇ、まぁね」
「ふぅーん...?」
何かを探る様に少年がアカリを下から覗き見る。対するアカリは自分が此方の生徒ではないとバレてしまわないか、内心で冷や汗をかいている。
「...お姉さんの友達って、もしかして一緒に入って来た人?」
「そう、だけど...」
「そっか。その人達ならさっき見たから、案内してあげる」
「...本当?ありがとう」
コクンと少年が頷き、廊下に出る。アカリも慌てて後を追った。
闇に紛れそうな紺の布が、ゆらゆらとアカリの前ではためいた。




