掌編『トリック・オア・トリート』
草木も眠る丑三つ時。此処には、そんな言い回しがあるが、果たして今、この時、誰もが眠っているのだろうか。私が答えても良いのなら、そうだ、眠っている。誰も覚めることが無い。薄青い夢を視て眠りこけている。生まれる少し前に、この世界は睡眠薬を処方されたんだ。
睡蓮は微睡み、雨百合は項垂れている。金木犀の芳香が路上に沈む。街に闇から霧が降り、この真夜中、誰もが眠っていた。私と私の友達である脳ぐるみ以外は。脳ぐるみの子象は14センチくらい。脳ぐるみの蟒蛇は23.5センチくらい。蟒蛇の腹は開いていて、ポケットのようになっている。子象は蟒蛇の腹にスッポリと収まり、そこから上半身を出して暮らしている。つまり、二人は、いつも一緒にいる。
狭まり狭く黒く暗い部屋、ヒソヒソと喋る子象の脳ぐるみ……。
「……デンシンバシラの上に大きな灰色の丸い筒みたいなのあるでしょ……あの中に……油が入ってるんだよ……」
「……うん……そうだね……」蟒蛇の脳ぐるみが優しく答えた。
子象が小さな長めの鼻で、ベランダの鉢に植わる白粉花の種を ぽい と放る。その種が、電信柱にしがみついた灰色の変圧器に当たり とん と音がする。
「……お化けは? 寝てる?……」
「……今は寝てるよ……」
私が物心ついた時には既にお化けがいた。私の家にはお化けがいた。。お化けは私を襲う。私は逃げようとするけれど、いつも逃げられない。逃げられずに隅っこで泣いていると別のお化けも来る。私はお化けに、私の心と時間を殺されている。止まっている。動いていない。それなのに酷い焦燥感。ぐちゃぐちゃ。ぐちゃぐちゃ。例えるなら、赤黒い蝙蝠が体の内側に入って来るような感覚。息が詰まる思い。
「……お化けが眠っているうちに夜の街を散歩しようよ……」子象の脳ぐるみが私を誘う。
「……しよう、しよう……」蟒蛇の脳ぐるみも誘う。
それなら行こうか。
「……外は寒いよ。カーディガンとかコートとかある? あるなら着たほうがいいよ……」
「……風邪引かないようにね……」
私は薄汚れた黒いカーディガンを羽織る。小さな布鞄に子象と蟒蛇の脳ぐるみを乗り込ませる。私は一人だと寂しい。寂しい。だから、一緒に、行こう。
「うん。行こう」
「行こう、行こう」
私は隅からそっと抜け出して、物音を立てないように気を付けて、裸足にサンダルを突っ掛けて、腐ったように汚れている扉を開けた。深い霧が肺を侵す。私は此処から出た。
踊るように一回転。薄い赤いスカートがひらりと広がる。私は私を幽かに取り戻した。短い廊下を静かに陽気に進み、昇降機に乗り込む。そこには先客がいた。頭のオカシイ子供がいた。しゃがんだまま「ママは死んだ……ママは死んだ……」と歌うような抑揚で繰り返していた。私も歌った。
真っ青なママは死んだ。
ママは死んだ。
だからお化けが出た。
黒ずんだお化けが出た。
私は真っ青なママの代わり。
私はママの代わり。
頭のオカシイ子供が私を怖がり、頭を掻き毟りながら鋭い奇声を上げた。開いて行く。それを合図に閉じていた丸い世界がゆっくりと開いて行く。柘榴のように。零れる中身。甘酸っぱい中身。
昇降機は地上に着いた。私は降りる。あらゆる競争から降りるように引き攣った笑顔で降りる。煙草の吸い殻がバラ撒かれたゴミ溜めエントランスを、私は出た。
すると、街は霧。深い霧。街は霧に埋もれていた。私が右足を踏み出すと、私は霧の中に紛れ込んだ。
「散歩だ。散歩だ。どこに行く?」
「真っ直ぐがいいよ。次は左に曲がって、その次は右に曲がって、その後でまた真っ直ぐ行ってみる?」
「いいね。そうしよう、そうしよう」
私は、脳ぐるみの会話の通りに狭苦しい通りを進んだ。濃い霧が立ち込め、視界は悪い。その視界の悪さが私の気持ちを良くした。
「冒険だ。僕たち冒険してるんだ」
「そうそう。もう散歩の範疇を超えてるね。日付が変わってるから今日はハロウィーンだよ」
ハロウィーンって何?
「万聖節の前夜祭だよ。全ての聖人たちをお祝いする日だよ」子象の脳ぐるみが得意気に話す。
へえ、そうなんだ? よく知ってるね。
「蟒蛇ちゃんが言ってた」子象の脳ぐるみが答えた。
蟒蛇の脳ぐるみは何でも知っている。いろいろなものを呑み込むからだ。あらゆるものを概念ごと呑み込む。だから知らないことはひとつも無かった。
私は真っ直ぐに進み、十字路で左に曲がった。
「こっちはアパートが多い区画へと続いているよ」蟒蛇の脳ぐるみは言った。
「真夜中だから変態に遭うかも知れないね」子象の脳ぐるみが訳知り顔で言う。
変態ってどんなの?
「うんとね、きっと下着泥棒だよ。何処かのベランダに干してあるはずのイチゴパンツを探してるんだよ」
「イチゴ模様の女児用パンツ。それを見つけたら変態は自分の家に持って帰ってしまう」蟒蛇の脳ぐるみも話に乗ってくる。
気持ち悪いね、変態は。盗まれた女の子も下着が1枚減る。明日履くパンツが無くて困るだろう。
「そうだ、変態を僕たちでやっつけようよ」
「それがいい、それがいい」
「僕がキバでドンってして体当たりでバーンってするよ。その後で蟒蛇ちゃんが変態を概念ごと呑み込んで、それでやっつけるの」
「任せて」
なんて頼もしい。任せた。私も出来るだけ協力することにする。あっ、聖霊だ。輝く白い色。私たちの目の前を過って行く。ヒラヒラヒラリ、キラリ、光の翅。捕虫網があったら捕まえるのに。それが無いなら黒くて鍔の広いトンガリ帽子でもいいけれど。そうなれば、私は魔女だ。聖霊を従えて世界を壊す。六日掛けて壊そう。七日目には休もう。地中海に面した砂浜で寛ぐんだ。
「地中海は壊さないの?」
「砂浜はどうする?」
あっ、そっか。どうしよう。壊すべきか。残すべきか。うん、残すよ。地中海と砂浜は残すよ。
「わーい。水浴びだ」
「泳ごう。泳ごう」
どうせ、誰もいないから裸で泳ごうか。
「青いビキニもいいよ。雰囲気出るよ」
「そう。そう」
そうだね。地中海と砂浜、それから青いビキニは残そう。
聖霊を追い、歩みを進めると、濃霧の中、幾つものアパートが並んでいる気配がした。そのうちのひとつ、ひとつの部屋の、ひとつのベランダは私の視界の中に在る。
「僕、象だから鼻が効くんだ。あっちに変態がいるよ」
「全ての動物の中で嗅覚が一番鋭いのはゾウちゃん」
斯くして私たちは一人の変態に出遭った。私たちは変態にドンってしてバーンってした。変態はイチゴパンツを握り締めたまま、打ち所が悪くて死んだ。体当たりしたら変態が倒れ込んでブロック塀に頭を強くぶつけてしまったから。頭が割れて血が流れている。蟒蛇の脳ぐるみが変態を概念ごと呑み込む。
「やったよ。すごいでしょ。やっつけたよ」子象が興奮して言う。
「すごいね、ゾウちゃん。変態をやっつけたね」
私たちは皆で協力して変態を倒した。そして、路地を右に曲がる。
「そっちは新興住宅地だよ」
「シンコウって何かを信じることでしょ? 何か信じてることある?」
私が信じてること……。さあ、何だろう。分からない……。信じるしか無いのは、私と脳ぐるみの存在。そして、この世界の存在。このことは、それを信じ込むように私の中身が何者かに操作されているからに違いない。騙されてなるものか。騙されてなるものか。騙されてなるものか、私が今、そう思うように何者かに操作されているとしたら、私も本物の脳ぐるみだ。私は誰の脳ぐるみだ?
きっと、それは、お前だ。
建て掛けの家が霧の中に現れる。プラモデルみたいに組み立てる型式の家が建て掛け。ずらりと建て掛けの家が並んでいるように思った。その敷地内の隅に呑んだくれた酔っぱらいが寝ていた。蠟燭が酔っぱらいの側で灯っている。融けて短い蠟燭が最後の時を瞬かせて灯っている。揺らぐ、揺らめく炎。
「この人、ハロウィーンのジャックだよ」子象の脳ぐるみが言う。
「そうそう、ジャックだよ。ハロウィーンのジャック・オ・ランタンは本当は南瓜じゃなくて蕪なんだよ」蟒蛇の脳ぐるみも言う。
蠟燭をそっと手に取り、ジャックの口の中、舌の上に立てた。くり貫いた蕪のようにジャックの頭が灯る。灯る。あっ、酔っぱらいじゃ無かった。きっと聖人だ。その時、私は何かに躓いた。ボロボロのサンダルの先に何か当たった。私の足元には、全長30センチくらいのレンチが落ちていた。ボルトを締める工具、その名はレンチ。私はレンチを拾った。美しい。重い。このレンチで人の頭をどついたら、どつかれた人の頭を壊すことが出来るだろう。レンチは、その機能を充分に備えている。美しいという字は「羊が大きい」と書く。それは羊毛がたくさん取れるし、肉も多く取れるという機能美であろう。美の本質とは機能のことだろうか。それは、さておき、私はこのレンチで何をしようか。
「昔に見た映画で動物愛護に賛同する人の署名を集めることをやってたよ。僕、やってみたい。何か署名を集めようよ」子象の脳ぐるみが言う。
「ハロウィーンのランタンは南瓜じゃなくて蕪だってことに賛同する人の署名を集めてみる?」蟒蛇の脳ぐるみも言う。
集めてみようかな。霧が深く深くなり、目の前の1メートルくらいしか見えなくなる。手探り。五里四方は濃い霧。五里霧中。奥へ進むと出来上がった家が現れて来た。人が住んでいる気配が漂う。生活の匂い。私は署名を乞う台詞を練習した。
「……蕪だってことに賛同するなら署名して下さい……、……蕪だってことに賛同するなら署名して下さい……、……蕪だってことに賛同するなら署名して下さい……、……蕪だってことに賛同するなら署名して下さい……、……蕪だってことに賛同するなら署名して下さい……」
レンチで窓硝子を割ると、部屋の奥のテレビから陽気な声が流れて来た。
「レンジでチン♪ ポップパンプキン♪ バイエルンメンサント社のポップパンプキン♪」
降り下ろしたレンチでカボチャが弾ける。カボチャみたいな、カボチャにしか思えない頭が弾けた。カボチャ夫婦の頭をチン。私は呟いた。
「……レンジでチン……ポップパンプキン……あはは……」
二階に上がる。鍵の掛かった部屋があった。私はレンチでドアノブを破壊した。扉を蹴り開けると、パソコンに向かっている美しい少年がいた。銀髪。長い睫。その髪と睫の機能は何だ?
「こんばんは……夜分すみません……」
私は丁寧に挨拶した。少年は椅子に座ったまま、此方を振り返り、答えた。
「いえいえ、構いませんよ。僕に何かしてほしいことがあるのですね?」
「……はい。玉堂電力株式会社の中枢部をハッキングしてほしいのです……」
「うーん、難しいなあ。それは……トリック・オア・トリートとかいうのをしたいからですよね?」
「はい。お菓子くれなきゃイタズラするぞ……です」
「うーん……一時間下さい。やってみます」
「任せました。私は霧の中に戻りますので……」
少年はキーボードを叩き始めた。握り拳で ガンガンガンッ と叩き、キーボードは壊れた。
「玉堂電力株式会社に入れるハッカーなんて存在するのかなあ。難しいなあ……」
「……そんなに急いでいないので、明日でもいいですよ……あっ、そうだ。署名をお願いします」
「何の署名ですか?」
「カボチャかカブラか」
「うーん、カボチャかな……」
私は少年の頭をレンチで壊した。それから、その家を出た。私は重大な失敗に気付いた。
「……あっ、練習しておいた台詞を言うのを忘れた……」
すると、道路にあるマンホールの蓋が開いていた。何かが ゲリゲリ と鳴いているのが聞こえて来る。
「下水道に降りてみようよ」子象の脳ぐるみが言う。
「そうしよう」蟒蛇の脳ぐるみも言う。
私は梯子を伝い、下水道へ降りて行く。ヘドロ臭い。梯子の下にはヴェネチアにあるような小舟があった。辺りが、だんだんと明るくなっていく。汚ない水の表面にびっしりと小さな卵が浮かんでいる。それがひとつ、またひとつ、孵る。産まれるとすぐにゲリゲリと鳴く。その姿は蛙に似ていると思ったが、目を凝らしてよく見ると、しゃがんだ小沢さんによく似ている。小沢さんというのは、あの政治家の小沢さんだ。似ている、ただそれだけであり、他意はない。やがて下水道はゲリゲリの大合唱となった。うるさい仲間たち。ああ、うるさい。うるさいっ!
「あっ、見て見て、お城があるよ」
「あれは下裏界の魔王が住む城だよ。誰かがオリーブオイルをたくさん飲んで下痢をしたらお腹の中にいた魔王がゲリゲリ鳴いてメスを呼んでお腹の中は繁殖期を告げるんだ。呼ばれたメス達と昼夜を問わず交尾を続けて、半日程でメス達は卵を産む。産みまくる。その数は夥しい。お腹は下痢になる。トイレに駆け込むと肛門から卵がたくさん産まれる。そして流すでしょ。そうしてトイレから流されて卵は此処に辿り着いて、此処で孵ったんだよ」
下水道の中に浮かぶ古い城。私は小舟に乗って其処に辿り着いた。湿ったコンクリートの石垣を登り、入城すると、魔王からヒト缶『ロイヤルクレスト』を振る舞われた。人肉の缶詰だ。魔王に缶切りを渡された。魔王は小沢さんに似ていた。ゾウちゃん、ボアちゃんが頑張って缶を開けてくれた。私は見ていただけ。私はヒト缶『ロイヤルクレスト』を平らげて、すぐに小舟に乗り、再び地上に出た。下水道に長く居てはいけないような気がしたから。
私は外灯に照らされた灰色の変圧器を見上げる。隣に新月が耀く。黒い月が隣で耀く。変圧器の中、溜まる油は羊水。何かが電氣を喰って育っていた。
「……灰色の箱から……小さな……変な声が聞こえて来るね……」子象の脳ぐるみがヒソヒソと喋る。蟒蛇の脳ぐるみが優しく答える。
「……あの灰色の箱の中に赤ちゃんが育ち始めてるんだよ……」
「……ふぅ~ん……赤ちゃんのお父さんは誰なの?」
「……電氣だと思うよ……全てはみんな電氣みたいなもの……」
「……僕たちも電氣なの?……」
「……電氣みたいなもの……」
その胎児は、やがて母親を殺すだろう。母親とは玉堂電力株式会社のことである。
霧が深い。深い。とても……。
頭の中で線香の匂いがする。誰か知っている人がこれから死ぬという時、頭の中で線香の匂いがする。
「……万聖節の翌日は、死者の日だよ。蠟燭を灯してお墓参りに行こうよ……」
「……うん、僕も一緒に行くよ……お墓の石には、お水溜めるための窪みがあるでしょ……お水溜める前の乾いている時に僕たち、あそこに一緒に座ろうよ……」
「……うん、そうしよう……」
私は、くるっと踊るように回って、そして言った。
「……レンジでチン……ポップパンプキン……あはは……」
私の側を背の高い電波塔が二本並んで歩いていた。霧の中に聳えて、ぼんやりと赤と青に光り、浮かんでいる。二本の電波塔は、きっと、デートしてるに違いない。
『了』