本編
「絵、うまいね」
最初の一言はそれだった。
(え…?)
そう思って顔を上げた先には、彼がいた。
さらりとした前髪からは、キラキラと輝く瞳が見えた。
それは雨上がりの良く晴れた日に、太陽の光が水たまりに反射するのと同じくらいの眩しさだった。
わたしが憧れてやまない光。
彼のキラキラと輝く視線を追うと、それはわたしのノートだった。
それも、恥ずかしいことに落書きを。
(み、見られた…)
そうとわかった瞬間、わたしの思考は停止した。
耳の奥がキーンてして、顔に熱がじわじわたまっていくのがわかった。
思わずわたしは俯いて、口を引き結んだ。
(なんか言わなきゃ…)
でも、何の言葉も思いつかなかった。
見られた恥ずかしさと、彼に初めて話しかけられた恥ずかしさとで、わたしの脳みそはあの時ぐつぐつと煮えたぎっていたから。
そのうち彼は沈黙に耐えきれなかったのか、もう一度「絵、うまいね…」そう言って背を向けた。
教室のドアへ歩いていく彼の後姿を、わたしは無言で見送った。
次が移動教室なんだって気付いたのは、授業のチャイムが鳴った時だった。
急いで鞄から理科の教科書とノートを取り出した。
立ち上がった時に、自分の机の上を見る。
そこには、開かれることのなかった教科書と、本来の目的には使われなかったノートがある。
――授業中。
あくびをしながら、ほとんど無意識に彼の方を見た。
時々やってしまうわたしの癖だ。
(…また見てるよ)
自分で自分に突っ込みを入れる。
不毛よね~って我ながら自嘲した、その瞬間だった――。
息がとまった。
わたしは食い入るように彼を見つめた。
揺れるカーテンとこぼれる光。
輝く黒髪と真剣な横顔。
あの瞬間、本当に時間が止まって見えたんだ。
全身の血がどくどくいって、自分が壊れてしまうんじゃないかってくらいに…。
気付いたらノートの端っこに描いていた。
――彼を。あの瞬間を。感じるままに。
あれは何だったのか。
惹きつけられるあの感覚は。
初めての感覚だった。
わたしは、その落書きを指でなぞった。
パッと見だけでは何の絵かもわからないそれ。
心の衝動のままに描いたそれを。
「絵、うまい、か…。うまい…?」
誰もいない教室にぽつりと響く声。
わたしはうっそりと笑った。
そんなわたしを誰かが見ていたら、確実に不審者として通報されていたと思う。
その自覚はある。
でも、込み上げてくる笑いを止めることはできなかった。
それが、最初だった。
「絵、うまいね」
その一言は今でも大事に、わたしの胸の中にある。
それからだ。
彼を見ていると、わたしはおかしくなった。
指の先がジンジンと痺れ、体がふるえた。
目の奥が引っ張られ、頭に熱がたまった。
もどかしい疼き。
わたしという入れ物を破壊して、内側から何かが弾け飛ぶような、そんな感覚。
そして、そんな時に浮かぶ、ぐちゃぐちゃとしたイメージ。
言葉でなんて到底表せない。
吐き気すら感じるほどの奔流。
でも、毎回最後に出てくるのが。
彼のあの言葉…。
ある日、わたしはそっと教室から校庭を見下ろした。
夕焼けに染まる校庭に、人の影が折り重なっていた。
ここからじゃ誰の顔かもわからない。
でも、わたしにはわかった。
彼がどこにいるのか。
校庭のトラックを駆け抜ける彼。
その姿は、普段の雰囲気とは一変していた。
野性の肉食獣を思わせるギラギラとした眼光。
しなやかに跳ねるカモシカのような足。
生き生きといた命を感じさせる誰よりも輝かしい存在感。
見ているわたしの体温が、どんどん上昇していくのが分かった。
きっと顔が赤いのは、夕焼けのせいだけじゃない。
はぁ…と、熱いため息をついた時。
わたしは思わず叫んだ。
なにしろ、校庭を風のように走り抜ける彼が、勢い良く倒れ込んだからだ。
遠くからでもわかった。
野球のボールが、直撃したのが。
…あ、頭に。
校庭から、たくさんの叫び声が聞こえた。
わたしも、すぐに彼の元へ走った。
が、できなかった。
なぜって…、足が止まったから。
その時、またあの感覚がわたしを襲ったから。
それは、いつも以上に強く、とても強く、わたしの中を駆け巡っていった。
全身の血が沸騰して、目から血が出るんじゃないかってくらい、どくどくいってた。
イメージが頭をショートさせて、何も考えられなくなった。
ただ、描きたかった。
それを。
衝動のままに。
今すぐに――!
あたしは、黒板に飛び付いた。
白、赤、青、黄のチョーク。
黒板消し。
自分の手。
制服。
使える物、全てで描いた。
はっと気付いた時には、教室は真っ暗で、下校の放送が流れていた。
手も顔も制服もチョークまみれだった。
(何してたんだっけ。なんで、こんなに汚れて…)
わたしは不思議に思って顔を上げると、そこには黒板いっぱいに描かれた絵があった。
息をのむ。
何度か瞬きして気が付いた。
(ああ、わたしが描いたんだ…)
わたしの意識も体をものっとって、何かがわたしからあふれ出て、生まれた。
それがこれ。
ずっと、わたしから飛び出そうとしていたもの。
――それが、これ、なんだ。
わたしは、唇に笑みが浮かぶのが分かった。
可笑しくて楽しくて。
声をたてて笑った。
「これを見てくれるかな。また、ほめてくれるかな…」
彼がまたあの言葉を言ってくれるのではないかって、わたしは期待した。
最後に白のチョークでサインを書いた。
y・h
わたしはすごくすっきりした思いで、教室を出た。
明日が楽しみだった。
一番乗りで教室に入ろう。
そして彼に見てもらおう。
でも、次の日。
教室に入り、わたしは全身の血が下がったのが分かった。
黒板には何もなかったから。
きれいに消されてしまっていたから。
放心した。
そこへ教室で待ち構えていたのか、先生がコツコツと靴音を響かせながら目の前に立ちはだかった。
「あの落書き、hさんでしょう。黒板への落書きは禁止です」
(落書き…)
「全く…。中学の2年にもなって、あんなおかしなものを描くなんて」
(おかしなもの…)
「消すのにどれだけ時間がかかったか」
(……)
わたしはただ黙って先生の言葉を聞いていた。
いや、実際は先生の言葉なんて耳を素通りしていた。わたしは、彼に見てもらえなかったってことにすごくダメージを受けていたから。
先生はしばらくすると気が済んだのか、「もうしないこと」と言って教室から出ていった。
私はとても悲しかった。
彼に見てもらいたかった。
またほめてもらいたかった。
ただそのためだけに描いたのに。
――彼のためだけに。
まだ誰も来ていない教室。
そっと彼の机の上を見る。
可笑しなことに、花瓶が置いてあった。
菊の花が活けられた…。
その時わたしは悟ったんだ。
あぁ、彼はもうわたしの絵を見てはくれないんだって。
一生見ることができなくなってしまったんだって。
自然と笑いが込み上げてきた。
クッ、クッ、クッ、クッ…
本当に可笑しかった。
何がって、わたし自身が。
酷く滑稽に見えて、可笑しかった。
止まることのない笑み。
その無様な顔の上に、温い筋が垂れていった。
頬を通って口の端に来たそれを、ぺろっと舌を伸ばして舐めとった。
しょっぱい。
何これって不思議に思って、手の甲で拭うと、それは目から溢れてきたものだってわかった。
涙だって。
あぁ、わたしは泣いているんだ。
泣けるんだ…。
そして確信した。
わたしは、やれる。やっていけるって。
絵を描いていける。
これから先、ずっとずっと。
彼のために、彼のためだけに、ずっとずっと。
わたしの絵を…。
決して実ることのない永遠の彼への愛を。
笑える。
何て滑稽。
そして、なんて美しいのだろう。
わたしは、そう思った。
***
あの時、抱いた気持ちは今も昔も、全く変わっていない。
よく、「絵の原動力は何でしょうか」と質問されることがある。
私はその度に、こう答えるんだ。
「彼への永遠の愛です」