51 二心相律
扉越しの声を聞き、その内容に私は慌てた。
許可無き者の入室は許されない執務室から急いで出ると、メイドのステラが途方に暮れた顔で立っていた。途方に暮れた顔に、どうしたのかと思う。お客様に依っては手早く着替えて、お迎えしないといけないのに。
スカートの裾を摘み持ち、足早に廊下を歩き、階下へと向かいながら問い掛ける。
「お客様は、どなたなの? 応接間へ、お通ししたのでしょう?」
「はい。応接間に、お通ししております。それで、あの…」
普段からは考えられない歯牙の悪さに、首を傾げた私の脳裏には嫌な予感が横切った…
つと、立ち止まり、まじまじとステラの顔を見る。
「どなたの、お越しなの?」
目が泳ぐステラの口が開いて、答えた人名に納得した。
そして、廊下を歩く私の歩みは完全に止まり、行く気が失せた。 …もう、着替える気も起こらないわ。
ステラが悪い訳ではないのだけれど、どうしても口調が尖ってしまう。
「どうして、あの人は来たのかしらね…?」
「あの… 奥様とお約束して、いらしたようでして…」
その返事が、予感の的中しか生まなかった。
「お母様と? …三週間以上も前からの約束だと言うの、あの人」
「はい。幾らなんでも今はお忙しいので、お断りできないかと私共の方でお話させて頂きました所、奥様とのお手紙をお持ちでして… それが、間違いなく、本日のお約束でございましたから… 」
顔と体全体から 『申し訳ありません!』 の一言を体現して、頭を下げるステラは全く悪くない。悪くないのだけど、イラッ!としてしまう。
…………… あああああああああっ!
「謀ったわねぇぇ、お母様ぁぁ!!」
周囲を憚って、小声で毒突いた。
この場に居ない母の読みの良さに脱帽するけど、良過ぎで怒りたいのよ! お兄様の代わりに夜会へ行くのも踏んでたわね!
あ。 〜〜違うわ。 初めから見越してる。
今の時期に夜会へ行くなら、私に決まってるじゃない! お兄様がハージェストを行かせるわけないわ! この忙しいのに!
行きたくないけど〜 私が行くしかないか。私に会いに来てるのだし。まだ、お忙しいお兄様に声を掛けても仕方ない。どうしようもない。
もう、ゆ〜〜っくり歩いて深呼吸して、応接間の前に立つメイド頭のマーサに頷いてから入った。入った部屋で座って待っていた年配の女性は相変わらず、あまり似合っていない派手な衣装に身を包んでいた。
「お久しぶりです、エレイン小母様」
私が声を掛けるまで、気がついても素知らぬ振りをする根性も相変わらずだわ。だから、この人好きじゃないのよ。
「ええ、お久しぶりですね。元気そうで何よりです。リリアラーゼさん」
腹の読み合いなんかしなくても、何の用事か見当はついてるわよ。人の粗を探す様にジロジロ見ないで貰えるかしらね? 自分の粗に気がついてよ。
「リリアラーゼさん、私に対して大歓迎をしろ等とは言いません。言いませんが、その服装は何です? 貴族の娘として人を出迎えるのに、その様な服装で。恥ずかしいとは思わないんですか? 今時の子は、とも言いませんけどね。それにしても、もう少しなんとかしようと考えないんですか?
それに今日は、お母様とお約束をしていましたのよ。あなたも、ちゃんと聞いているでしょう? 聞く気があるから、ここにいるのでしょうに。そんな格好で。
自由に奔放に、と言うのも良いでしょう。ですが、それは時と場合に依ります。もう少し、自分できちんとしようと思わなくて、どうするのですか」
嫌みったらしく、言ってくれるわねぇ。
あなたの口調は心配して言ってる様に全然、全く、本当に、これっぽっちも聞こえないのよ。
大体、今日来るなんて聞いてないわよ。聞いてたら、お兄様にお断りして、どっか出掛けてたわよ。家のお客様をお迎えするなら、ちゃんと着替えるわよ! 腹立つわね。あなただから、着替える気も起こらないんじゃないの!
お腹の中で延々延々、文句を垂れても事態の進展は見込めない。さっさと帰って貰う為にも、従順な振りして終わらせてしまうに限るんだけど。
いやーねー、私、聞きたくないのよ。
「今時分は大変忙しいものですから、お兄様のお手伝いをしておりましたの。昨年はお兄様の一件に、時期が重なりましたでしょう? あの時は本当に大変で。ええ、今年も変わらず大変忙しく。
忙しかったからでしょうか? お約束していた覚えが私にはないのですわ。小母様とお約束をしていたお母様に聞こうにも、出掛けて居りませんのよ。込み入ったお話でしたら、申し訳ないのですが次回にして頂きたいのですわ」
私は淑女として嫌いで苦手な相手にも、笑顔でちゃんと対応してます。できてます。自分の意見も言ってます。ご心配には及びませんから、お帰り下さいません? いえ、帰って下さい。
……私が頑張ってるのに、なによ。自分はあからさまに嫌な顔して、やめてよね。
「…聞いていないのですか? あなたは留守を預かったのでしょう? お母様がお出掛けになられる際に、何かご用事はないか、きちんと自分で確認を取るのが留守を預かる者の最低限の行為でしょうに。その様な初心ですら行えないだなんて、まだまだ何もできない子供ではないのですか。あなたは」
…………………小さな子供を叱る口調で誤摩化して、人を小馬鹿にするの、やめてくれないかしら? 最後の口調なんて優越感丸出しじゃないのよ。
そのお母様が黙って行った場合は、どうすればいいわけ? 経過を言えば、 『まぁ、人の所為にして』 とかなんとか言うじゃない。
しかも、お母様へは言えないくせに。
お母様が忘れてたとか言ったら、忙しいのにご無理をさせてしまってとか、適当にそこら辺のこと言って持ち上げるじゃない。
…ええ、そうね。
確かに親戚ではあるけれど、ラングリアの血族でもないあなたに私は重い比重を置いてはいないの。目に見える程にはしてないけれど。そんな、はしたなさなんてしないけど。総てに置いて、均等になんてできないの。あなたの言う子供の私は。
それでも淑女の私は何も言わず。すこーしだけ困った風情で微笑んでみせた。
ところで好い加減座りたいのよ、私。
「よろしいですわ、お話を済ませましょう。お母様にはお話している事ですからね、さぁ、こちらに来て、ご覧なさい」
えー、そこは終わってよ。人の心の機微を読むのも貴族の心構えでしょうにぃぃ。 まぁね、自分を押し通すのも貴族だけどね。貴族だけど〜、自分の力量を考えなさい、よね。
粗を見せぬ様に優雅に見せる向きで座った私のテーブルの前に、相手の絵姿を挟んだ見合いの釣り書きが並べられた。
私は並べられた釣り書きの表を、手に取る事なく黙って眺めた。
話の内容なんて、ええ、初めっから見当ついてたけどね。今の私には、 それしかないものね。
「失礼致します。お茶をお持ち致しました」
「入りなさい」
絶好のタイミングで茶と茶菓子を持って来たマーサとステラが素敵だわ。きっと、計ってくれてたわね。茶を並べるのに合わせて、さっと釣り書きをテーブルの端に寄せるのも素敵で良いわ〜。
「小母様、お茶をどうぞ」
笑顔で我が家の茶を勧めるわ。
あ〜、同じお茶でもお兄様と飲む方が、ず〜〜〜〜っと美味しいわぁ。一緒に飲む人って大事だわ〜。でも、お茶は変わらず美味しいけどね。水腹になるかしら。
「控えておりますので、御用の際には御呼び下さいませ」
一口、茶を飲み、マーサとステラが控えの小部屋に退出した所で切り出す。
「小母様。お気持ちは確かに有り難いのですが、この様に持って来られましても… 今はまだ、その気にはなれませんの。見ること無くと言うのは不躾とは思いますが、遠慮させて下さいませ」
「まぁ! あなたと言う人は。わかっているのなら、きちんとご覧なさい。相手の方に失礼でしょう!」
いやだ、誰も頼んでないわよ。失礼も何も絵姿だわよ。その前の話の段階でしょうが、これは。 まさか、勝手に向こうに回してるんじゃないでしょうねぇ? こっちは前々から、お断りって言ってるのよ?
「リリアラーゼ、あなたの婚約者は亡くなりました。亡くなった方を忍ぶのは悪いことではありませんが、何時迄もそのままではいけません。もうすぐ一年になるのでしょう? 婚約者であったのは過去の事です。結婚をしていない縁の無い娘が、一年近く喪に服する必要はありません。
相手側にすれば嬉しいでしょうが、限度があります。こんな場合は半年もすれば充分過ぎるほどです。それでもお釣りがきますよ!
ましてや、あの家は格下ではありませんか。 あなたは伯爵家の娘なのですよ? それも力のある家です! 相手を選ぼうとすれば選び放題なのですから、家の為にも亡くなった相手は忘れるなり、心の底に仕舞うなりして、次の相手を探すべきなのですよ」
………………感情がぷちんとキレそうだったけど、淑女の私は頑張ったの。忍耐力だけが向上しそうなの。
「小母様、お言葉を返す様ですが… 半年を過ぎたからと言っても、心に区切りがついてない以上、選べませんわ。自分が伯爵家の娘である事は自覚していますが、私は駒になるつもりで生きてきたわけでもありませんの」
「気持ちですか? 気持ちなど新しい相手に寄り添って、新しく生まれるものです。何時迄も鬱々と思っているからいけないのです。こうやって選ぶことができるのも、あなたが伯爵家の娘だからですよ? 本当に自覚しているのですか!? 口先だけなら、なんとでも言えるのです。誰も言わないから、私がわざわざ言って上げてると言うのに!」
………………だから、その口調がムカつくんだけど。
「さぁ、ちゃんとご覧なさい! あなたの義務です」
『忍耐力、忍耐力、忍耐力、私の忍耐力が試されているこの瞬間!』
薄い笑顔の下、ひたすら唱えて目元の険に気をつけつつ、 『別件の情報収集、情報収集、情報収集、絶好の個人情報収集機会』 と自分自身に暗示をかけた。
こんなものに大した情報なんてないはずだけどね。
絵姿には触れずに釣り書きを眺めた。
名前、年齢、現在の状況に居住地。家族構成。簡素な系譜。
当たり前過ぎて、何も言えない。自慢するなら系譜の書き方を、もっと凝るんじゃないかしらぁ?
私は複数の釣り書きを見た。見た系譜を頭の中で再構築する。微妙に覚えていない部分もあるけどね、けどね。 ねぇ… 小母様。御自分の親戚筋を押し付けようとするの、やめてくれません?
見たから私は義務を果たした。
「どうです、良いと思える方はいましたか?」
「心に留まる方はおりませんでしたので、この度はご遠慮致します」
「何を言っているのです。会う前からでは、わからないでしょう!? 誰か一人とは、お会いなさい!」
……………… 私に命令しないでくれるかしら? しても良いのは、お父様とお兄様だけよ。
「亡くなった者を思っても帰って来ません。それに、あの家は格下です。人が良かったとしても、あなたは絶対に苦労したでしょう。私としては不釣り合いだと常々思っていたのです。次は、そんなことを考えずに済む様に良い相手を選ぶべきです。
ネイルゼーラの結婚も私は反対だったのです。貴族家の娘であると言うに、許される伯爵様も伯爵様です。リリアラーゼ、あなたは間違いのない結婚をするのです。
大体、格下の家如きが延々と結婚を引っ張った挙げ句に、コロッと死んで。リリアラーゼの結婚適齢期をなんだと思っているのか! あっちは死んで終わりでも、こっちを考えていないじゃないの! 適齢期を外した娘だなんて外聞が悪いったら、ありゃしないわ!
結婚した途端に未亡人となる事は避けられましたからね、それが本当に幸いだわ。口さがない者なら、簡単に家を乗っ取れたなどと言うかも知れませんが… あの程度の家なんかで。財産目当てとは言われないだけ、良いですけれどね! 話し合い後に、出戻りとされて、そう言われるのもどうだと思っているのか。全く気の効かない者達のお喋りになると… ああ、もう、忌々しいったら!」
………………普段なら抑えて流して躱せる私の中で、何かがぶつんとキレて弾けて飛んでいったの。
ここ暫く、忙しかった事。終わった安堵感に、先ほどお兄様とお話した内容。死んだ検査官に墓ができたと。
死んだと告げたお兄様の声音に、死んだと繰り返す小母様の声。
先日の夜会でーー
彼女は婚約者が死んだのだと。純粋に心配をくれる声に、不憫を装う中で小さく揶揄する声は。
そうね。久しぶりの夜会は楽しかったけれど、友達との会話に気分も浮上したのだけれど、煩わしい声も聞こえるのよ。
『次のお相手は?』
いるはずだったいない相手を。わかり切っていた現実が。こうやって流して忘れた振りをしていけるのかと。 …忘れていけるのだわと。
ふぅん、あなたの心配は外聞なの。いろいろ混ざってるから。
どれも偽らない本音でしょうから。そう、本音。 だから、心底嫌いではないんだけど。 顔も見たくないほどには嫌いなのよ。
私は考えることを放棄した。
茶を飲み干して、好みでもない茶碗を遠慮なく壁に叩きつけた。
ガシャン!
「それを持ってお帰りになられたら、よろしくてよ」
「何をしているんですか! あなたはーー!!」
小母様の金切り声に合わせて、私の声も引き上がる! 当たり前でしょー!!
「さっさとお帰り下さい!! もう、来なくて結構です!」
腹癒せに、茶碗皿も叩き割る!
ガチャンッ!
テーブルの足を魔力を込めてドカッ!と蹴り飛ばし、テーブルクロスもグイッと引っ張れば!
茶器に菓子皿も勢いに従う。引いたクロスの流れに会わせて、一つがガチャン!と良い音を立てて倒れたら、隣を巻き込んで床に落ちていく。
そうよ、落ちなさいよ。落としてるんだから!
流れたお茶がテーブルクロスに染みを作り、菓子は絨毯の上に転がり落ちて駄目になる。
音を起てて、落ちて割れた所で。
落ちた所で。
ふん! 少し割れた位じゃ、ちっともスッキリしないわね!! 治まらないわよ!!!
「誰か! お客様がお帰りです。お見送りしてちょうだい!」
「あなたは子供ですか! 好い加減になさい!!」
「子供? 小母様の子供の定義はなんですか!? 自分の言う事を聞かないのが子供なの!? 自慢したい手駒が欲しいだけなら、他所でやって下さいな!」
「何を言い出すのです!」
そこから、私と小母は怒鳴り続けた。
女の金切り声を上げて怒鳴り続けた。お互い罵ってる内容が内容だから部屋に入り難かったでしょうねぇ。わかってるわよ。
「ええ、ええ。わかりました。帰りますわ。帰りますとも! 子供には、もったいないお話ですからね! まぁまぁ、飛び抜けて良いお顔ですこと! 自分のお顔を鏡で、よぅくご覧になってはいかが? そのようなお顔では、どんな殿方とて飛び逃げることでしょうね! あなたの死んだ婚約者も嫌がる、二目と見られないお顔ですよ。ほほほほほ!」
「早く帰ればいかがぁ!? 自分だけが良い顔して笑いたいだけの自己満足でしょう! あなたなんか、ほんとに人から好かれるわけないじゃない! ああ、嫌だ。振りで自己欺瞞すら消し飛ばした人なんかと一緒に居たくないわ! ステラ、玄関まで付き添って差し上げて!」
「まぁぁ、何と言う言い草ですかっ! 人の配慮を無にする言い方は、どこまでも子供ではありませんか! 自分だけの考えこそ単なる満足でしょうに! 違いますか!!」
タイミングを計っているだろう、扉の向こうの気配を呼び付ける。 もう、いいから来なさいってば!
マーサとステラの顔を見て、早くして!としか思わない。
「お召し物が… 汚れは飛んでいないと思いますが、一度別室でご衣装を整えさせて下さいませ」
「エレイン様、どうぞこちらへ… 」
「まぁ、そうね。乱れていますか? 確認に整えましょうか」
「はい、お任せ下さい」
「足元にお気をつけて、お通り下さいませ」
ああ、うるさいったら。やぁっと出て行った。はあああぁぁぁ……
それでも、「今回のお話の内容と、あなたの態度! お母様にも、ご連絡致しますからね!」とか、なんとか捨て台詞を吐いた上で、一々騒ぎながら遠ざかるのが忌々しい。募る苛立ちが全く収まらない、腹が立つ。
苛立ちのまま顔を上げた先の壁には、鏡があった。
映った鏡には、私が居る。私が映る。
金の髪を編み込んで一つに纏めて背に垂らした蒼い目の女。
仕事用にと動きやすさを重視した簡素な形の、明るい緑色の生地に濃い緑色で描いた花と植物の図柄のワンピース。それでも、ワンピースの裏布にはレースを覗かせて華やかに。開いた襟元には、二連の金の首飾りを連ねて。
明るい衣装に比べて、鏡に映った私の顔は確かに醜く歪んでいた。
目を吊り上げ手を握り締め、怒りの感情を露わにした私の顔は。
優しくもなく、可愛らしくもなく、百年の恋も冷めるだろう私の顔は。 とても醜い表情をしていた。
これが、私の顔なのかと。私は、こんな顔をしていたのかと。
こんな顔で夜会に出たら、誰も寄って来ないわね。
でもね。
だから、何だと言うの?
そんな自分の表情にショックを受けて、こんなの私じゃないとでも? それとも、自分の醜さで正気に返るとでも?
いやぁだ。 馬鹿抜かさないで。 始めから正気よ。
これが私よ。
こんな醜い顔をしているのも、この私、リリアラーゼよ。この醜い顔の一つとて、誰に恥じ入る事も無い、このリリアラーゼの顔なのよ?
今の私のこの感情が、私が生きるのに、不要なモノであると、 誰が決めたと言うの?
そう思って、もう一度笑った。
鏡に映る私の顔は。 …まぁ、醜いわぁ。
鏡に映るこの私。もう一人の私。双子に生まれた私達。
どちらも相手を見つけたけれど、どちらも家格は釣り合わなかった。けれども、一人は幸せに。望んだ結婚を手に入れて、喜びを露わにしたけれど。もう一人は掴み損ねた。
どちらも同じで、どちらも一緒だったのに。どちらも同じ条件だったのに。
片方だけが。
片方だけが、掴み損ねてーー
ほーんと、幻滅する思考だわ。あれだけ片方の幸せに喜んだのに、こうなったら妬むだなんてね。最低。そうよ、最低。こんな私、嫌いよ、嫌い。大嫌い。 でも、これも私よ。
痛みを感じ、遣り切れなさに身を捩っても、 恥だなんて思わない。
喜びに妬み。
二つに気持ちが別れても、私の心は恥では無いわ。
「 ……私なのよね。この顔の私を見て、逃げ出す程度の男なら要らないわよ。この顔に文句を言うくらいなら、言いに帰って来なさいよ! そうよ。帰って来てみなさいよ! 帰って来て… みなさいよ… あんの、馬鹿ぁ!! 」
震える唇を、ギリッと噛み合す。
ダンッ!!
拳を握り締め、足を上げて壁を蹴る。
鏡から目を逸らして壁をガンガン蹴り付けた。スカートが捲れた所で、どうでもいいわ。
右足で平衡を取り、上げた左足の靴のヒールをガツッ!と音を起てて、壁に突き当てる。当てたヒールを機軸にグリッと捻ってもみた。
「リリー、そろそろ止めとけ。壁に穴は空かんでも、ヒール跡がきっちり残って、お前の良い思い出になってしまうぞ?」
「 っ! お兄様… 」
突然の声に心臓が吃驚して振り向いた。
扉に凭れ腕を組んで、お兄様が立っていた。仕方が無いな、そんな顔をして立っていた。
「話は齧る程度に聞いたけどな、暫く来んで良いと断っておいたから気にするな。 …リリー、家の為にしてくれる事は嬉しい。その事で助かるのも事実だ。真実、助かっている。
だがな、その為にお前の結婚を決める必要性はない。そんな事で結婚を決めなくていい。その事でなら気にせずにいろ。きっと、親父様もそう思っているだろう。
俺の代で家を潰す気はないし、どこかに潰されるつもりもない。家の財が傾いているわけでもない。…確認に地獄を見たが。
幸せな顔で結婚するリリーを見たいのは本当だ。皆そう思っている。今の現状で、リリーに結婚を強制する気はない。家の拡大の為に結婚なんぞせんでいい。困っとらん。
なぁに、嫁に行き損ねて壁を蹴る妹に、魔力が少な過ぎて竜舎の壁を蹴破った弟の面倒を見た所で、この家の財が傾くわけなかろう? 傾いたら、異常だぞ」
「…おにい さま。 リオは?」
「あ? リオか? リオネルは大丈夫だ。あれはなんだかんだと言っても、できるからな。格別要領が悪いわけでもない。まぁ、年が年だから、まだ今ひとつだが、現状で俺に何かあれば後を継ぐのはリオネルだからな。 …しっかし、リオはもう少し絞ってやらんとなぁ」
お兄様のお言葉に、泣き笑いになってしまいますわ。
そうね、そうだわね。私もハージェストを見習って、もっとちゃんと立たないと。
私に子犬はないけれど、思い出に品なら山ほどに。 ええ、私と同じ条件の女性は過去に何人もいるんですものね。私は、私として立っていたいんだもの。
でも… もう少し、もう少しだけ、甘えさせて下さいね。
忘れる事はできないし、でも、このままではいけないとも思っています。けど、まだ、 飲み込めないの。 私。
泣き笑いで顔を上げる妹に思う。
あの馬鹿、本当に一人で逝きやがってと。
あいつの家は確かに格下で、家格で言えば釣り合わん。本人同士は出会った当初に大喧嘩した。その後、見事な大恋愛に変貌を遂げた。
いや〜、あれは驚きの連続だった。実際、目の前でやられたら、こっちが悶えるな。変に新鮮で。
それでも、結局。
幸せな結末には至らなかった。それだけだ。そして、あれっだけ望んでいたのに、逝ったあいつには馬鹿の称号で十分だ。
本当に、俺も楽しみにしてたんだけどな。俺のが嗤えた分だけ、本当に。
「リリー、今日か明日中には仕上げるからな。出掛けようか。親父様達が帰ってくるのは、四日後の予定だ。帰ってくる前に出るか」
「お兄様、素敵ですわ! お兄様のお心に私の心も賛同します! ですが、数日とは言え、居なくなるのは良くないのでは?」
「爺様に願おう。こんな時くらい願っても良いだろう? ほんとに爺様も笑って見ているだけで…! リリーが頼めば、留守番程度引き受けてくれるさ。後で俺も話すが、先に根回しをしておいてくれ」
「はい! どこに行きますか?」
「リリーはエルト・シューレに行った事がなかっただろう? これが終わったら、行かねばならんと思っていてな。何にもない田舎だが、その分、人目は気にしなくていい。ハージェストの先行に、リオネルも追いかけて逃げたしな。
田舎過ぎて嫌だったら、リオネルと一緒に王都に行ってくれば良い。王都に登ってネイに会いに行くのも手だな。そのついでに王都の家の様子の確認も兼ねれば助かるか。 いや、待てよ? リオネルの予定の時間を考えると… 一緒に王都に行くとなるとギリギリか? いや、間に合わんか?」
「そうですね。王都に行くかはともかく… 何にもせずに田舎で、のんびりするのも良いですわ。ええ、お母様の声を聞かずにいるのが一番です! 私、エルト・シューレに行ってダラダラしますわ!」
固く拳を握り、スカートの裾を翻して部屋を出て行った妹に思う。
泣き顔より今の顔の方が、よほど良い。
しかしだ。既に行っているハージェスト達や俺は仕事に行くんだぞ? あそこまで力を入れたダラダラ宣言は、しなくても良いんだがなぁ…
いや、気が晴れるなら構わんか。
さぁて、仕上げて爺様に後を頼んで、俺も逃げるか。
仕上げた後に修正が入るはずだが。…本来なら、そこまでやってなんぼだが!
これ以上の追加に俺の嫁話は耳にタコができるわ。
女側からの思考が理解できんとは言わんが、あんな状態からの結婚なら、ちっとは怪しいと疑って欲しい。俺としては。
あ〜、自主的に適度な休みを入れんとやっとれんわ〜。
ハージェストは、よく保ってんなぁ。……まだ十代だからか? 若さって良いなぁ。兄は疲れるわ。
リリー Stardust Rev*e 「木蘭*涙」 自分としてはこの歌 なんですけどねぇ…