05 梓 in 狭間
「どのような子がくるのでしょうか?」
虚空を見上げる女の声はうきうきと弾んでいる。実に楽しみで待ちかねている声だ。
女は座っていた絨毯から立ち上がって靴を履き直し、少し離れて衣服にさっと風を通し入れて汚れを払う。手を体の前で軽く一振りすれば、手鏡が握られていた。そんな女の様子を横目で見て苦笑する年を経た男は濡らした手巾で手と口元を拭っている。
かなり酒を飲んだはずだが全く酔っていない風情で男は泉に足を入れ、冷たい水に手を突っ込んで適当に洗い、次いでに顔も洗った。濡れたその手でぞんざいに前髪を後ろになで付け、手に残る水分を振って払う。
泉から上がれば滴り落ちる雫はそのまま滑り落ちるが、玉にもなれぬ水滴は自然に男から離れて小さな小さな一つの玉と変わり浮かび上がっては気化していく。無数の小さな水玉が瞬時の内に形成と蒸発の循環を繰り返すが目に留まるものではない。
結果、濡れたはずの足元やその衣服に水気はなく乾いていた。
自身が作り出した泉の上に浮かぶ水鏡の中、一点の揺れる光を食い入るように見つめる人の姿にニッと笑う。
「まぁ、もうちっと待てや。俺らが先に見てからだ」
悪怯れる事なく言い切って水鏡に背を向ける。
「さぁて、こちらに来るようには仕向けたがの」
「ああ、さすがにこの宴会の場じゃあ… 不憫だな」
当然の仕儀だが、たった今も続行中の宴会場所だ。絨毯の上には食べ物がのった皿から、食べ終えた空き皿に空いた酒瓶がそこかしこに転がる。まだ酒が入った杯とどう見ても食べかけの一品に量が残る酒瓶、そして何より香る酒気。
一目見て何をしていたか理解できない方が不思議な状況だ。
男達が降ろし場所について一応の確認を取り合う中、身支度を済ませた女が振り返ってきっぱり言う。
「もちろん、このような場で会うのは私は絶対に嫌でしてよ。さっ、移動しましょう」
女の様子に男二人は肩を竦めて声なく笑う。
三人は隣の部屋に行く気軽さで歩く。
男は歩いて空間を仕切り、大きさを限定し新たな場を構築して形状をぐるりと整える。手を滑らせるだけの流れるような一連の所作の後には先ほどの花咲く泉の風景などない、完全に隔絶された白い空間が存在した。
新たなその場に女が薄く花の香りを振り撒いた。
それはここに来る者に対する気遣いであると同時に、歩いた際にきっちり落とした三人分の酒臭さに対する二重の用心である。
「うむ、時じゃ。来るぞ」
年を経た男の声と同時に、正三角形の位置に立つ三人の真ん中に光が発生して人の形が生じた。
「意識は… ありませんわね」
「ないな」
「ほうほう、これが喚ばれたか」
三人揃って、しげしげと現れた人物を観察した。
「…年の頃は近かろうて」
「ああ、それはそうだな。 しかし、これは」
「ええ、はっきりしませんが、どことなく… 似てます、ような…」
年を経た男は見た目だけを言う。男は首を捻った。女の顔も微妙だ。
三人が見ているのは一つに魔力。二つにその身体性。三つに能力である。
三人は一つめについてはそのまま流した。二つめについても多少心配な気もするが流した。気にしているのは三つめである。
「目がいいのは間違いない。だが、目がいいことはなんの問題でもない」
「ええ、目がいい者はいくらでも居りますし」
「突き詰めれば、こやつ。化けるんじゃないかのぅ」
「あー、突き詰められん気がするな」
「ちょっと、弱い子のようですわね。 …これでは身体の方が先に参ってしまいそうですわ」
「突き詰める前に体がもたんか。軟弱というより、脆弱かのぅ?」
「そうですわねぇ… 鍛える方が何もしないよりは良いとしたものですけど、これはこれで普通だと思いますわよ。脆弱とかとは違うんじゃありませんかしら?」
「ん〜、なんだ。こう見る限りじゃ鍛える鍛えぬの問題じゃねぇな。これは」
口調が軽い感じでありながらも、見定めようとしている三人の眼差しは非常に静かである。
やがて見定め終わったのか面を上げる。
三人は互いの目を見交わし、確認し、揃って頷いた。
「ま、なるようになるじゃろ」
「そうですわね。なんとかなりますわよ、きっと」
「こいつの人生だしな。ああ、なんとかなるもんだ。俺達が勝手にしゃしゃりでるようなもんじゃねぇ」
「年寄りが出過ぎれば、若い衆には嫌われるもんじゃしの」
「要らぬ差出口などして、自ら成長する場を奪うような非道をしてはいけませんものねぇ」
「喚んだのはあやつであって、儂らではないからの」
「関与する気も理由もないしな」
三人揃って優しい微笑みを浮かべているが、どう見ても嘘臭い笑みだった。
「あら、気がつきそうですわ」
「お、そうか」
「そろそろ送ってやらんとな。あやつが待ちくたびれておるやもしれんの」
起きていれば話しをしても良かったが起きてはいなかった。そして起きる前に確認することは終わってしまった。見ることを目的として引っ張っただけだ、もういいだろう。
目覚める気配にこれ幸いと、いそいそと動き出す。
ーーなんだか、いい香りがする。
どこからか漂う有るか無きかの薄く淡い柑橘系のような香りによって、たゆたうような意識の中、とても心地よい面持ちで目が覚めたと思った。
実際に瞼が開いたわけではなかったが。
力強い男の声が静かに入り込んできた
「喚ばれるということは、選ばれたということだ。お前は他の者達には見えなかった光が見えた。波長があったともいえるだろうが、数多の中で己だけであるというのは違う事無く選ばれたことに他ならない。 それは晴れやかなる重畳」
ーーえ、 だれ です か?
重々しい年を経た男の声が降ってきた
「喚ばれるということは、俗にいえば運命が動いたということじゃ。今まで決してありえない道が開けたということなれば、そなたは稀なる道を歩むことができる。稀なる道など望んだところでまず歩めぬ。うむ、善きごとであろう。 なれば誉れるべき祝着」
ーーは? うんめ い?
華やかな女の声が響いた
「喚ばれるということは、願われたということ。願われたということは、望まれたということ。望まれぬより望まれる方が幸せ。幸せを求めるなら自らも努力をなさなくてはいけないわ。でも、それはどこにいても同じ。何も変わらないこと。あなたは喚ばれ望まれている。言祝ぎましょう。 されば天恵に等しい喜悦」
「「「 其は、めでたし 」」」
重なり降ってくる三重奏に何事かと理解が及ばない。
ーーえ、 ええと、まって ください なん のこと ですか?
ああ、残念だわ。私、万能ではないの。また、異なる場であれば。だから、全てのことなどわからないわ。あなたが私達との、この会話を覚えているかどうかも私にはわからないことですし。
華やかな女の声が答える中で、年を経た重い声が思案するような声を降ろす。
ふむ、魔力を求め力を願った者の元へ行くは、魔力を持たぬ者か。なれば一つ、ここはせねばな
まあぁ、この子がいるこのような場で、そのように言われるなどと このおじいさまは
その声に咎めるような言葉が飛べば、関係なく前へと促す声が重なって告げてくる。
うん? ああ、気にするようなことではないぞ さ、お前も、もう行くといい ほら 喚んでいるだろ? お前を
ーーあの え? 喚ぶ? あ…、 あの で も
体は動かず、瞼は開かず、唇から言葉は紡げず。しかし、意識だけはあった。あったが、そんな中での意識の会話は体を取り巻く気配に押されてしまい瞬きの内に消えていった。
あとはもう光に引っ張られた時と同じ感覚と体を取り巻く気配だけが残り、何か聞こえると思っていたあの音が、いまここでなら言葉としてはっきりと聞き取れた。
それでも聞き取れたのはわずかな時間。
後は波打つように繰り返される二つの言葉しか聞き取れず、総じて意味の成さないモノと成り果てた。
「よーし、行ったな。どうしたんだぁ、じーさん。あんな事いうなんざ珍しいな」
「あんまりですわ。言うに事欠いてあの子の前で言うだなんて。これから行くのですよ!」
「あー、すまんすまん。いやなぁ、もし、あの坊がここでの事を覚えとったらどうかなるもんじゃろうかと、ついのぅ。ああいった言葉なら妙に気を引くもんじゃろう?」
腰に手をあてて怒っている姿勢を取っていた女は、その返事であっさり納得した。
単なる失言ではなく芽を出すかどうかも不明だが種を蒔いただけなら、それはなんら問題ではないのだ。
「まぁ、そうでしたの。…そっちならいいですわ。何事もお試しはしませんとね。それにしても、一目見ればあの子に魔力がないのはわかりますものねぇ。あれだけ召喚を重ねに重ねてやっと来たのは魔力なし。なら… 契約するかしら?」
「実にもってこいの条件だな。しかし、現時点で魔力がないから力がないとは限らない。あれには確かに力があるし、器もある」
「力の質の違いか、世界の違いか。あの坊の能力にもよっておるやもしれんがのぅ。世界が異なる以上、あの世界の者達が魔力と認識する以外の力もまたあって当然じゃ。なんにせよ、目が肥えとったらええんじゃ」
「難しいんじゃないのかねぇ、てめぇが認識する以外の力なんざありゃしねぇってーか、最初の段階で思い込むっつーか。 あー、まぁなぁ… しかし、確かに似てはいるがはっきりしねぇのがなんだな。気にならんわけではないが、目覚めていないものに手ぇだしたらそんな気なくても歪んじまうことがあるしなぁ… 」
男は頭をがりがりと掻きながらぼやいている。そこへ女が問いかけた。
「それで、如何します? 賭けますの?」
「ん? いいのか?」
「何がですの?」
「賭けるなんていっちまって」
「………!! ち、違いますわ!」
「しとることは否定せんのじゃ。あとはやっぱり、慣れじゃの」
男達が笑う中、女はよろめき踞って頭を抱えている。顔を上げて男達を見る目はかなり恨みがましそうだ。
「それじゃ、内容は喚んだ方が破棄するか、否か。で、いいか?」
「…ええ、いいですわよ。私は喚んだ方は破棄しない。且つ、契約に成功する。ですわ」
女はどこか投げやりな落ちた声でしっかりと参戦した。
「ほ、ぶれんの。では、儂は破棄する。にしようかの」
「同じなら詰まらんなぁ。…よし、俺は破棄しない。しかし、契約には失敗する。だ」
「では、楽しみに続きを見るとするかのぅ」
男はいい顔で笑って言った。 「ま、最初の分は俺の勝ち。と」
三人は賑やかに笑ってしゃべりながら即席で作った場を取り崩し、宴会をしていた絨毯の方へと立ち戻っていく。
「いや、良さげな追加ができたのぅ」
「全くだな。ちびーっと動いたし、飲み直すか」
「食いもんもまだあったしの」
「…そうですわね。 ええ、そうね。飲み直しましょうか!」
三人は再び杯を握った。
女は額を指で押えつつも水鏡を見据え、酒瓶をどんっと手元に置き臨戦態勢に入った。
はい、来た・見た・送った。