26 願う
キーン・コーン………
規定の音が、小さく鳴り響いて授業が終わった。
とある講義室の中にも、ざわめきが徐々に広がっていく。
教鞭を取っていた教授が教壇を降り、
「以前に言っておいた課題、期日までの提出がないと単位が出せないから忘れないようにな〜」
そう、声をかけてから出て行った。
それに各々が返事をしたり、呻き声を上げたりと様々な態度で聞いたことを表す。
その中でも、気楽な返事をした人間に呻いた奴が声をかける。
「梓〜 もしかして、お前。あのレポートもう終わってんのかぁ〜?」
かけるその声は羨ましそうでもあり、道連れの仲間が減って残念な様にも聞こえる。
「ん〜、あのレポートならだいたい終わってる〜」
至極あっさり答えたが、続いた口調は重く顔は遠くを見ていた。
「でも、山田センセの課題の方は、なーんにもしてない… マズい… 」
悲しいかな。物事は、なかなか並行には進まないものらしい…
苦手なモノを最後まで後に回して泣く口だろうか?
「ああ〜、あの先生の課題も面倒だよな〜」
「あの先生の話でさ…」
同じ教室にいて話を耳にしていた同級生達が口々に同意する中、一人が上級生から仕入れた情報を披露し始める。
レポートは仕上がらなかった。
出欠を落とせなかったその生徒は、最終期日の授業中に仕上げて授業終了後に出そうと目論んだ。だが、出欠と同時に先に提出しろと言われて、期日中だからと粘ったが後も今も変わらん授業終了までだと、あえなく撃沈した。授業中仕上げますの声は小さい。
そんな間抜けな話だった。遅刻しても終わらせて上げてきた奴が正解だ。
いやもう、レポート等で大活躍の実に便利なコピーアンドペーストだが、某ニュースで「某論文に書かれた文章の盗作疑惑が浮上し各大学は、見直しや、その傾向の対策に…」とアナウンサーが残念感満載の真剣な表情で語っていたが、あんなものは今更ではなかろうか?と思える話題であった。
遥か以前に、同内容で対策ソフトは各校既に導入済みであるという話を某ニュースで聞いたのは、空耳であっただろうか?
生徒の人数分のレポートの採点をしていれば、基本形に少し手を加えたコピペ文など対策ソフトを使用する前に、「これと同じ内容の文言さっきも見たぞ」と、同じ過ぎて記憶に残って目に付きまくる。加えて対策ソフトを使えば、そりゃもうばっちりだ。
文章内容そのものの傾向が似過ぎで返って気を引き、バレてしまう。
その事実に思い至れない生徒が実に残念至極。しかし、それでも通過するものは通過する。
それが良いのかどうだか不明だが、数年後に資格剥奪に繋がれば楽し過ぎる話なもので笑えるものだ。
歩むその道 刻むその跡 傷か誉れか意味など無いか。
「ところで、梓。お前、今晩は暇?」
「暇っていうか… さっき言った通り課題上がってないんだよな〜」
友達の一人が声をかけてくる。
「だめか?」
「なんかあるわけ?」
今晩、コンパをするが面子が足りないからお前も来ないか?のお誘いだった。
「女の子ばっちりだぜ!」
力説する友達の妙なガッツポーズを横目に、頭の中で仔細を弾く。
課題はある。コンパに行くのも悪くない。課題期限は確実に迫って来ているが、まだ時間はある。ここしばらく騒いだ遊びをしていない。今日は一応財布の中味もある、二日前なら無理だったが。
カチカチと弾いて考える。
課題終わるのかぁ…?
一抹の不安が過るが、人生に遊びも大事だよな… せっかく友達が誘ってくれたんだし〜と、自分自身を丸め込んで了承する。
「よし、一人確保!」
え、ナニそれ?
何人足りないんだ? もしかして、早まった? ……いいか。
最終時間の講座を終えて、一緒にコンパに行く友達数人と連れ立って歩きだしてから思い出した。
「あ、いけねっ」
姉に急いで、今日の夕食は要らないからと連絡をした。
「そう、コンパ。ん〜、そのくらいには帰ると思うけど」
電話を切ったら、「わざわざ電話入れてるんだ? まめだね〜っ」て友達の一人が言うんだけどさ。夕食不要の連絡って、普通いるんじゃないのか? 作る手間暇考えると、家に連絡入れるのは当然だって思うんだけど。
ま、「そ?」で、終わらせたから気にしなーい。
「今日来るのは、どんな子かな〜? 好みの子がいたらすっげぇいいのにー」
「可愛い子が一番だよな!」
「可愛い子も良いけど、好みのタイプかどうかが引っかかんじゃね〜?」
様々に自分の好みを力説する皆と、しゃべりながら歩いて待ち合わせ場所に到着した。
女の子二人が、まだだったので待つ。その間に、ダチは居る女の子に攻勢を仕掛けていた。はえぇ… ほーんとあいつ力、入ってんな〜。
「遅れてないですよね?」
女の子二人が連れ立って小走りで走ってくる。スカートの裾が、ふわって広がるのがイイネ!
うん、大丈夫。遅刻じゃないよ。全員集合。
店に集合すればいいんじゃないかと思っていたが、ちょっと入り組んだところにある隠れ家な店だから一緒に行こうってことだった。
しかし、本音は別にあった。
店で会って、話始めて話が弾んだら席替えなんてしたくねーよ。それなら、最初に待ち合わせの場所から一緒に店まで歩いて行った方が、全員と話せるじゃないか!という、涙ぐましいのか合理的なのか? その意見に賛同票が入って集合場所が決まったらしい。
話ができるかもという点では頷くが、歩きながら話して本当に全員と話せるもん? まじ、店内でローテーションするのか? ある意味微妙じゃねぇの? 誰が率先して仕切って「はい、席替えね」って動かすのか知らんけど… ってやっぱ、あいつか。
にしても、肝心な女子の方が、どう思っているか不明じゃね? …そんなもんだと割り切って、気にしないか? 嫌なら切り上げて帰るよな〜、多分… それか、もう来ないかだろーなー。
グループ内で後方に位置する場所を歩く。
いや、先導してくれないと店わからんし。調べんのめんどくさい。隣を歩く初めて会う子と、初めまして〜の挨拶を交わす。お互いちょっ〜と遠慮しつつ話し始めて、その子を見る。
うん、可愛いと思う。
だけど、好みかといわれたら〜 どうかな? ちょっと違うかな? なーんて余裕かまして思ってみるが、俺よりこの子の評価の方が厳しいんじゃないかなぁ…
なぜなら、姉がいろんな事を言っていたからだ! あんまり聞くことはなかったけど、聞くとその内容になんとなーく横を向きたくなったりした気がすごくする。
今、思い出さなくても良いような、そんな事を思い出した。
たわいない話をして歩く。後方で騒ぐ声に、すぐさま悲鳴が混じった。
何事かと振り返った。
一緒にいた友達や女の子達も足を止めて、声の出所を探そうと周囲を見渡す。
通り過ぎたばかりの十字路の右手から人が走って来た。
手に血が付着した刃物があった。
は?と思う。これ現実? そんな感じ。
走ってくる奴と目があった。
その場にいた俺達全員を見ているのか、いないのか。刃物を手に、まっすぐ向かってくる。
「きゃ、きゃあああああ!」
俺の隣の女の子が上げた悲鳴をきっかけに、即座に逃げを打って走ろうとした。
動きが鈍い隣の女の子の腕を引っ掴む。
相手との位置が近い。いや、最初からの立ち位置が悪い。始めから距離がなかった。無さ過ぎた。
至近距離が計れて嫌過ぎ。
女の子を、もっと引っ張り立ち位置を変えて押し出す。押し出す勢いで自分も逸れる様に動いた。
背中に熱を感じた時に、変な音聞いた。
熱さを感じる。
熱さの中に掻き回されるような痛みが起こり、何かが抜け出る感覚に風を感じる。
痛いと思う前に、体がふらついて前のめりになった。
アスファルトが近くに見えた。
「痛いっ、嫌ぁっ!」
誰かの悲鳴に友達の怒声、名前を呼ぶ声が耳を掠めた。
声が出なくて、すぐに訪れた意識の途絶に何を想う間もなく目を閉じた。
寒い
熱が 逃げる
痛い痛い 痛い
熱くて寒い 瞬間的に跳ね上がった熱が消えて 残ったのは寒さだけ
寒い
さむくて つめたい
どこともしれない場所 人など誰もいない暗い場所
痛覚に従い痛みにのたうちまわっているか 震えているはずなのに
体はぴくりとも動かない
自我があるのに意思で体が何一つ動かせない
身の外に狂える冷気が這い寄っているのに 逃げ出せないでいる
冷気が擦寄り身の内の熱を引き剥ぐように取り込んでゆくのを甘受する以外に術が無い
生きながら喰われているようだと思う
触れられるその都度どこかが凍てつき感覚が喪失していく
自分の体が速やかに何かに明け渡されていくことに恐怖を感じたが その恐怖すら凍えていく
自分の一部が硬質な音を立てて割れ砕け 落ちた先から呑まれるように溶け落ちてゆくのをみた
混じるのだと
取り巻く世界の中にお前も還るのだと
欠片一つ残さず
あるがままに なされるままに
凍える身に囁く声は
羊水の中で微睡むように静寂にたゆとうて眠れと
いつか歩む道行きを いま歩むだけだと諭される
溶け落ちる先は昏く重く澱んで見通せず 怯えが先に立つ
何処も同じ 何時かも同じ お前も同じと背中を押される
押されて落ちるこの身に締め上げられる心が落ちゆくさきに恐怖する
真の道でもこの道行きは嫌だと叫び上げる
上げた声は どこにも波紋を広げることなく場に呑み込まれて消えた
願う
落とされた重い澱みの中
体が四方に流れて失われていくのを感じながら 消えたくないと震えて願った
重く体に纏わり付く澱みをそのままに、何かに掬い上げられて倒れ込んだ。
倒れた頬に痛みを感じる。開いた目に指が見えた。
体が震える。腕があった。
震える体が動く。意思で動く。
吐いた息に息をしたと気がついた。
堅い地面を手で押せば、自分の体が持ち上がる。
地面に座り込めば、ぬめる澱みが滑り落ち流れていく。徐々に澱みの重さから解放される自分の体を抱きしめ、抱きしめる体があることの安堵から涙が滲んだ。
身が少し、楽になった。
それでも、震えて暫く動けなかった。
気持ちがようやく落ち着いて、周囲を見渡せば、さっきの場所とは全く異なる場所だった。
少し離れた所に、ぼんやり光るものがある。
光に救いを求めて、転ぶようにそこに行くと数本の花が咲いていた。花弁から葉から、薄ぼんやりと発光してた。
仄かな光が灯りのようで。
しゃがんで恐る恐る茎に触れてみれば、ほろりと落ちた。
慌てて花を受け止める。手にした花を、しげしげと眺めて臭いを嗅いでみたけど何の臭いもしなかった。
とりあえず、握り潰さないよう大切に持つ。
見たこともない花を手に、立ち上がり遠くを望めば、同じようなぼんやり光る場所が点々と続いている。後ろを振り返れば、暗く光はどこにもなかった。周りをみても何も無い。
誰か! そう、声を上げて助けを求めようとした。声を張り上げようとした時、不意に怖くなって声が上がらない。
『ここで声をあげて良いのか?』
どうしてそう考えたのか、わからない。
でも、声を上げて呼んだら、何か… ナニか違う救いではないナニかが、大喜びでやってきそうな気がした。お前が呼んだと、喜んでやってきそうな。
そんな怖い気が、ものすごくした…
先の見通せない暗い中を目を凝らして、じっと見た。真っ暗闇ではないけれど、何も見えない。何もない。けど、ナニかが怖い。怖さから、ごくりと喉が鳴った。
ぐるっと方向転換!
声を上げずに足元に注意して、ぼんやりした光に向かって移動した。怖いのは見たくない!
花灯りを手に道を行く。
同じ暗い中でも、昏く澱んだあの場所とは比べられないほど清涼な気配と、手にある花灯りに気持ちが和らいでいく。
一番近くに見えた光る場所には、同じように光る花があった。
花の一つに目が止まる。
形の違うその花に、
「いいかな? いいよね? ください、ね?」
と、小さく声をかけて茎に触れた。
同じように触れただけで、ぽろっと手折れた。
しっかり押えて二本目を手に入れた。灯りが増えた。
花を見ていれば、発光する不思議より安心する。気持ちがすごく落ち着く。
この暗がりを照らすものがあり、慰めるように存在する花が、荒涼とした暗い場所に一人であるという恐怖と事実を薄れさせてくれる。
二つの花を手にして再び歩き、次の光の場所に着いた。
しかし、次の花は触れても手折れてくれなかった。
欲をかくなということだろうか? どうしよう…? 花灯りはもっと欲しい。力ずくで引き抜いたらヤバいだろうか?
試しに別の花に触れてみたが、こっちも手折れてくれない。
迷う内に、昔話の強突く張りの話を思い出した。話の内容と結末に、周囲の異様と表すべき雰囲気。引き抜こうかと思う気持ちを、未練がましく引っ張りながらも諦めた。
諦めた矢先に、空に立ち上る一条の光を見た。
立ち上った光は、周囲に淡く光を振り撒いている。暗い中に立つ白い光は救いに見えた。その光に理由無く出口だと思った。
立ち上る光にちょっと見惚れていれば、だんだん薄れるような。
光が消えてしまわない内に、あそこに行かないと!
思った瞬間から花を手に走った。
走って、走って、走って、辿り着いたその場所は、また違う花で綺麗に円形に囲われていた。
「はっ、はっ、はぁぁ… 間に合った。 セーフ!」
息を切らして近づくと、花の円がはっきり見えた。
その円線上には一本の若木が生えている。ひょろりと伸びた若木は俺の肩の高さくらいで、その若木こそが円の始まりで終わりのように感じる。その幹から葉から光をはっきりと放ち、花のぼんやりとした光とは力の一線が違っている。
白い光の元は若木だった。
若木が発する光は、目に痛くないけど… 近くでみた光は、綺麗だけど痛いような怖いような。それでも光に安心する。何より、光が消えない内に着けた。
二本の花を手に、若木と花で出来た囲いの内に慎重に入る。
真ん中辺りで立ち止まって周囲を見渡すが、なんにも起こらない。
あれ?違った… のかな?
真ん中じゃなくて木の方に行くべきなのかな?
そう考えた時、衝撃がきた。
「え? あ、あ …っ!! はっ、 うあ、 あ い… っっ!」
痛い、痛い 熱い!
痛い、痛いぃぃぃっ !!
訪れた重みによろけた途端、悶絶するような痛みが襲う。
先ほど走ってここに辿り着いた体とは、全く別物になった体の痛みに悲鳴を上げる。
かかる痛みに呻けば背中に熱を感じ、そこから新たな痛みが生まれて熱を持つ。熱さが冷たさを帯びて流れ出した。
地に伏した体は重く、痛みから刃物が迫るあの時の記憶が甦る。時が巻き戻って、今その続きが始まったと体が勝手に震え出した。
若木と花からできた優しい囲いの真ん中で、痛みに呻く者など知らぬ気に若木の光が力を増し、その光に追随し連なるように花の光度も力を増していく。
円の中は白い光で満ち溢れた。
白く煌めく光は拡散することなく円形を明確に生み出し、その輝きは若木の背に倍する高さで天に届くというほどではなかったが、それでも完全に円の外と内を光の力で隔ててみせた。
「生きたいか?」
何か聞こえた。薄く反響して何の音かわからない。
「生きたいか?」
音が声だとわかった。言葉と意味に目を開けて、視線で探した。
花囲いが白く光る向こう側、俺の頭上にある若木とは正反対の足元になる方向に影があった。見えた影に、必死で頷いた。
後からよくよく考えれば、円の内側から光が出ていて他から照らし出す光源はない。逆光がない。なのに、どうして影だけが白い光にくっきりと写し出される? でも、その時はそんな疑問これっぽっちも出なかった。生きたいか?と聞いてくる影が見えることが救いだった。
「助けることは可能だ。だが、その身をそのまま保てばお前に難が残る。それを善しとするのは… 哀れだろうなぁ。 そうだな、お前が望む場所では生きられずとも、お前は生きたいか?」
痛みで考えられない。問われた意味さえ理解できない。
「生きたければ、ここまで来い」
言われた言葉が素通りする。
なんとかもう一度頭をあげれば、動かない影があった。
白く光る若木に背を向け、起き上がることも出来ない体で黒い影に向かって這いずった。痺れるような下半身に歯を食い縛り、腕で這う。地面に立てた爪先が、欠け折れた。
どれだけ時間が過ぎたかわからない。
這ってるつもりでも、全く動いてないんだろうか。
やっと、やっと目の前にみえた影の場所の光に手を伸ばせば、柔らかな弾力で光が壁を成していた。
手が届かない。向こうに行けない。…光が壁ってなんだよ。
理解不能と努力を無にしそうな隔てる壁に、一瞬心が折れそうになる。それを壁に対するムカつきに移し、ムカつきを根性に変換して、力を出し切って体を引き上げ壁を背にする。
壁にもたれて、目を閉じて細く細く息を吐き出した。壁が柔らかかったから、頭を打ち付けずにすんだ。けど、なんか、なんかこの壁が…
「では、この光を抜けろ」
なんて事ないと言わんばかりの声音で言われて、目の前が真っ暗になってもう無理だと諦めた。
壁にもたれて、そのままでいた。
つんっとした小さな感覚と並行して、頭に一瞬の痛みが走った。
その痛みで見上げれば、
「腕、いや、手だけでもいい。こっちに出せ」
叱られるように言われたけれど、もう動く気力も出なかった。
ぼーっと意識が薄れる。
「指。指先だけでもいいから、早く出せ」
その口調に焦ったような感じも少ししたから、手を持ち上げて壁に触れる。
手はずるずると滑って、もう持ち上げる気力なんかない。
「そうだ、良い子だ。そこでいい。押せ」
声に励まされて励まされる事実に、とにかく動け!と心が騒ぐ。
のろのろと座った状態で体勢を変え、無事な左手を壁につき、落ちないように体で挟んで光の壁を押した。指先が、なんとか少しは埋まったけど柔らかい光の壁に阻まれ、どうにも抜けられそうにない。
気が遠くなって瞼が下がり、身を委ねようと意識を閉ざしかけた時、腕を掴まれた。
意識が、ぱっと引き戻る。
感覚に驚いて目を見張れば、光の壁の厚みをそのままに、人の手のひらが俺の腕を掴んでいた。
人の手が、光の壁を物ともせずに突き込んでた。
突き込まれた手の形に光が歪んで伸びている。手のひらの光が薄い。間近で見る大きな手、白い光が手の形を際立たせる。
俺の腕を掴むその手から黒い黒い影が滲む。滲む黒が白い光をジリジリと浸食していた。
「えっ… 」
腕を掴まれたまま、力ずくで引き寄せられた。
俺の体が柔らかい光の壁を押して撓んだけど、光は薄くなっても境を揺るがさなかった。そして、反発からか白い光は強くなり、強さに俺の鈍くなった体が痛覚を思い出す。
痛みに顔を顰めて必死で耐える中、舌打ちした音が聞こえた。
自分で越えないと駄目らしい。
白い壁に黒い点が滲む。
反対側から突き入れられた人の手が、俺の腕を掴んでいる。しっかりとしたその感覚に意識が瞬きを繰り返す。掴まれた腕の力に自分の存在を教えられて安堵する。
次にどうしたらいいかと意識が回り始めれば、這いずった時に落としたか、潰れてなくなったはずの最初に摘んだ光る花があった。
なんとはなしに、壁に光る花を押し当てれば光の壁に溶けていく。溶けた花弁が焼き付けられたように跡をつけ、花弁の形だけ光の壁が薄れた。
「でかした!」
喜々を含んだその声に押されて、花弁の跡に手を差し入れれば、するっと突き抜けた。
突き抜けた俺の手を、大きな手ががっしりと掴んで引っ張れば、薄くなった光の部分はより薄くなって俺の肩まで簡単に抜けた。 さっきまでの強固な壁は、なんだった?
壁の向こうにいた人は、間違いなく男の人で見上げた顔は満足そうに笑ってた。
その腕に意識のない俺がいた。
さらに手を引かれて、下半身がゆっくりと光を抜けるのに合わせ、男の人が腕に抱える俺を光の壁へ押しやる。
合わせ鏡のような形で俺と俺がすれ違い、入れ違う。
光の円を抜け切ると、体がピリッとした後は、すうっと楽になり途切れがちだった意識が水を飲んだようにはっきりした。
不思議に驚き、傍にいるその人を見れば笑って向こうに顎をしゃくった。
振り返れば、何事もなかったように白く輝く円陣の中に倒れた俺がいる。
その背中に一ヵ所、影が見えた。
黒い影から流れて赤黒く凝固したものが、べっとりとこびりついていた。