139 三遍、回る
七度目の十三日の金曜日。
間に合ってないが間に合った。良かった。遊び書きしたかったが余裕なし〜。
「ちゃんと寝てなよ?」
「ん〜 寝てまーす」
返事と一緒に毛布から手を出しひらつかせる。
それに小さく笑って部屋を出た。
廊下を行くが、手にした二通の手紙に目を落とす。手の内にある事に込み上げる感情が笑顔を浮かばせ、足取りを軽くかる〜くさせてくれる。
言い表すに足る言葉が見つからない。が、ここは『嬉しい』で合っている。
「ふ、ふふふ」
更に積み重ねられたあの嬉しさ。
アズサが俺の名前の練習書きをしてくれた。名前のスペルがわからないと言われた時点で、「抜かったあ!」と叫んだ。あれは馬鹿だったなー。
思案に言葉を詰まらせながらの口述を筆記し、内容に質問して話を詰め、手本書きをし、単語の説明をしながら内心ニヤニヤしてた。嬉しくてニヤニヤしてた。
アズサの手で自分の名前が手紙に書かれる、書き込まれる。
くぅっ! これにニヤつかずに何時ニヤつくとゆーのか!? 着実に足並みを揃えて進み始めているこの現実に!! ニヤつかいでか〜 ははははは。
カサッ…
手紙。
俺の方には「素志を忘れず貫く事を」「所懐忘る事無く」とかガチガチ書いたから、意を汲んでくれるだろう。その程度はしてくれるだろう、しないんなら土産を拒否れよ。
「間違えても煩いのは来るな、呼んでない。誰が呼ぶか、呼ぶ訳ねーだろ」
廊下で立ち止まり、自分の手紙に向かって強く強く念じておいた。
「さ、一番にする事は」
辿り着いた部屋の前で手紙を懐に仕舞い、扉を眺める。兄さんに持っていくより、こっちが先だ。
「ふうっ… 」
気持ちを入れ替え、神経を澄ませ、意識を集中する。始めるからには手早く確実にが基本だ。 息を整える。
カチャ…
静かに扉を開き、中へ。
扉は閉め切らず、少し開けたままに。その場を動かず視界に映るモノから視点をズラさず切り替える。感受の目に手を伸ばして、周囲をより把握する。
視えるモノの力を計りながら、歩む。
バタン、ガチッ。
ガチャン。
洗面所から始めて最後に寝室に入る。
とても綺麗になっていた。
真っ先に目に付く絨毯の泥汚れは、あった事さえわからぬ程。それ以上に嘗ての在りし姿を取り戻した感がある。 …作られた当初に匹敵すると思える。
壁に飛んでいた泥も見当たらない、そこも以前より綺麗になっていると思える。
「さーすがぁ」
それでも日焼けだけはどうしようもない、直焼けの有色変化を戻すのは時の重みの覆し。 …この覆しを望むなら、そこで生活しなければ良いだけだ。常に新しく変えてそれが己の思い出と、記憶に留めねば良い。そうすれば何時だって身軽で居られる。
代わりにその手に残るモノがなくても割り切れだ。思い出すモノも割り切れ。
ダラダラと適当な思考を垂れ流しながら部屋を歩く。出来るだけ壁に添って歩く。物置の扉を開けて、ザッと一瞥。この扉は開け放ち、再び添って歩く。開いている窓は全て閉める。
ガチ、キィ…
テラスへ出る扉は少し開ける。
室内を一周し、寝室を出る。寝室でもイケると思うが用心を怠る気はないので、入り口の扉の前まで戻る。
ここで始めて、ここで終える。
それが本来の正しい結びだが、入り口が重要とも言うが、普段使いこそが大事で重要なので寝室へ戻る。はい戻ろう。そう戻ろう。さぁ戻るぞ! がっちり決めるなら寝室でないと駄目だ、俺が嫌だ。
気は急いても歩みは変えず。
寝室の扉を半開きに。脳内で過程と現状に頷き扉に背を向け、部屋の中央へ 二歩、進む。
この位置だ。
「はぁあああ〜〜〜 ふーーーーーーーーっ…… キッツイなー、兄さんのアトは」
軽く言ってみるが、ちょっとだけ虚しい。
そんな気がなくても視るだけで半眼になる、舌打ちの一つもしたくなる。こういう時に力の差を思い知り、痛感する。したくもないのにしてしまう。わかっているだけにムカつく、理解していてもムカつく。
現実に揉まれて術を無くし、方を違える道を描いた。為尽したから違えるしかない。
あの時の気持ちは覚えている、その前には泣いたしな。
だが、それはもういい。ほんとーにもういい。
決して忘れはしない、俺が踏み締めて歩いた道。イタかった思い出は流せても完全な記憶の忘却には至らない。できん、するか。
積み重ねがなくて、どうして強く有れるのか。
俺が成すべき事は決まってる、今を幸運と縋る気も無い。
自助努力なくして進むモノなど薄い。
片手で顔面覆って指の間から室内を睨み付け、呼気を回す。目を閉じ、己の内なる力を更に意識する。片手を横へと突き出し、小指から順に折って拳へと変える。腕を捻って握った己の拳を視つめる。顔を覆う手を下ろし、踏ん張る為に脇で固める。
もっとだ、もっと要る。
此処に在る事を、この場へと引き出す事を、己の意図を譲らないと決めて、俺の全てを持って溜めて撓めて力を回す。
握り固めた拳を天へと上げる。
想いの丈は拳に乗せる。
正直な気持ちは言葉に託して口にする。それで勢いがつくと言うもの。 そんじゃぁまぁ〜〜
「あ〜〜〜〜〜! どちくしょう、散りやがれぇええ!!」
拳に纏わせた力を思いっきり絨毯に向けて叩きつける!!
叩いて叩いて叩き続けて、殴る、蹴る。
それができたら、ほんとーに良いのにな。何も組んでないから思いっきりやったが、これで破壊音が響けばもっとスッキリしたろーに。 …しても響いた音にアズサが震えたら最悪だ。
『な、何がぁ!? 見に行こう! …いや待て、危ないかも!! でも、何があったかは〜 見に、見に、見にい〜〜 あ〜〜、どーしよう。 ああっ、どーしたら! あ〜〜 でも危ないのは嫌〜〜 』
こんな感じでぐるぐるぐるっとしてる顔が浮かぶ程度にはアズサを把握してる。 ああ、してる。してるから、心配させない配慮に気配りを選ぶ!
「あ〜〜〜〜〜〜〜 はぁ… 」
力が流れを生み、生まれた風を見映えと引き連れて部屋中を巡る。吹き荒れるとはいかないが、勢いのままに出口を求めて渦を巻き、力の光りを撒き散らす。少しだけ開けた扉から瞬間の勢いで急流と等しく外へと光りが滑り出る。
「ま、逃がしの程度はこんなもんだろ。計算通りにイケてるな」
自分の力が良い感じで全体を巡っているのを把握する。一回ぽっきりだから安心した。 …したが、疲れたと言えば疲れたか。
「飯食って一緒に昼寝して、気分も上がって上々でもこの程度ってのがなー… 気力の問題じゃないからなー、そっちでならイケるのになー」
力の消失に気怠さを感じる。
血の降下ではないが、体内を巡るモノの放出だから仕方ない。少ないんだから仕方ない。 仕方が、ない。
「血の気は多いのになー」
倒れはしないが倒れると不様だから、ちょーっとその場で腰を落として楽にして、室内に満ちる自分の力を眺めていた。
力が散って消えていく。
部屋の其処彼処を煌めきで彩って消えていく。
何気なく手を伸ばす。
消えゆく光りが手を掠め、僅かな明滅であっさり消えていった。こうなると元は俺の力でも、還元の意には程遠い。
目を閉じても閉じなくても思い出す。
煌めき溢れる連続の光りに「すごい!」と目を見張って喜んでた。手を出して受けたそうにしてた。手をさ迷わせて止めた顔に思うところはあったとも。
「……俺がやりたかったなー あ」
知らず、ぼやいてた。
…誰も居ないから、なのかどーかはわからんでも今のは本音だな。俺の力は兄さんと似ている。よく似ている、だから見捨てられずに済んだ。
ああ、似ている。似ているからより見られる。 …ふ、似ていようがいまいが人は比べるけどな。それが現実。
「己に問う。 今の自分は 嫌いか?」
目を閉ざし、光度はどうでも清流全体に満ちる己の力を感じ続ける。感じる内に、張られている結界も感じ取れて苦笑する。
答えを出すより感じる方が先にくる。
心に、先に響いてくる。
…なんだな、これはアレか? 考えるな、感じろってか? それが一番の正解だってかあ?
「はん。 感じるだけで術式を構築展開できるか、ボケ」
力の沈みに目を開き、ゆっくりと立ち上がる。
「足掻く自分を善しとした。そこに好きも嫌いもあるかよ」
立ち上がった事で視点が変わる、見る位置が変わる。
「これからだ。 …望みはする、だが叶わなくても良い。先に立てるは己が努力。 ……俺は殺していなかった、その事実を知れた事に重きを置く。
時の決断に、何を是としたか忘れない。是とした事が、いや、是でなくともそれが今の己が礎。 想いを引き摺るだけの己など見たくもない。そんな者でありたくない。 …いってぇ〜」
…しまったな。 こんな時にあんなカッコで座るもんじゃないな、立ったら足にキたじゃねーか。 か〜〜〜〜〜。
ダンッ!
「だーーーーーっ! あ〜〜 早よ、治れ〜」
痺れた足で踏み締めて、綺麗になった絨毯を見てればこのまま素足で居させてあげてもと思う。しかし、そしたら一緒に買いに行く楽しみが。しかし、部屋全体を考えるとだ〜〜
「どっかに使ってないの仕舞ってないか? …あっても使い古しだろーからな〜。 うーん、執事に一応の確認を取るか」
部屋は綺麗になった、これで迎え入れる準備はできた。安心してアズサをこっちの部屋に戻せる。自然に任せたら何時まで経っても戻せんわ! まったくよー、兄貴の力はよー。
「アーティスと遊ぶにしても、こっちの方が便利だからな。ああ、利便性は重要だ。 …そうだ、跳び乗るなと教え直さないと」
テラスから庭を眺めれば、静けさの中にも人の気配を微かに感じる。感じるがこれは悪くない、間違いなくこっちが良い。
カチッ…
扉を閉めるが見えた庭は見なかった事にしておく。足跡で酷い事になってるが、ああ、見なかったと。 違うな、あそこ一緒に均すと良いんだ。 …果たして時間が取れるだろーか? いや、それこそ違う!ナンの弱気だ、どーした俺は!勝ち得ろよ!!
ゴツ、ゴッ。
ん、痺れは消えたな。
寝室を出て廊下へ向かい、ふと気付く。思い出した頭に手をやってガリガリ掻く。指輪を見て、入れたくない気分でも仕方ないから指輪に力を回す。
終わったし、アズサから離れているから入れんとなー。 あー、きやがったー。入れた途端にきやがったー。
指輪の中で巡る力が告げてくる。
「…はぁん? 執事が馬鹿やっただあ? ……おかしいな、ハズした易しい誓約なんぞしてねーぞ。とりあえず、兄さんトコに行くか」
ガチャン。
部屋を出ながら聞き続けるが続く連絡はうざかった。
「入るよ」
軽いノックをするが返事がない、気にせず入ればちゃんと居た。執務机を指先で小突きながら渋面してた。
「兄さん」
「ああ、来たか。手紙は書けたのか?」
「はい、これで」
書類から顔を上げた姿に手紙を差し出す。懐に入れて変な座りをした所為か、気持ち縒れた気もするが気にしない。兄さんも気にしないから問題ない。
「明朝出立させる。 …お前のも入れるか?」
「入れます、人選も何も終わってます」
「俺のだけでも連絡は回せるぞ?」
「小回りが違うと思いまして」
机に肘を付き、両手を組んで顎を乗せ、笑顔で見てくるから俺も笑顔で返す。にっこり笑う。
「ハージェスト、お前逃げる気だろ」
「はい、もちろんです!」
「逃げてどーする、正面切って立ち向かわんか!」
「それとこれとは話が違う!! 兄さん、俺に面倒押し付けようとしてるでしょーが!」
「何を言うか! 試練は有り難い積み重ね、それが人と己の差を生む経験と言うのだ!」
「そりゃ、実地の叩き込みがモノを言いますけどね! それは大事ですけどね!」
「なら、兄を手伝え」
「俺はアズサと居るんです! 一緒に居て遊んで羽を伸ばすと決めてます!!」
「遊ぶ為に手伝え」
「……俺、それでずっと休んでないですよ? わかってます? わかってますよね。 もーイヤですって〜 俺はアズサと一緒に居るんだあ〜 兄さんだって期待してると言ったでしょーが〜〜」
ヌルーく突っ込みを入れると、ヌルーく突っ込みが返ってきた。
「イイトコを見せたいんだろーが? ああ? しっかりやれ」
「……違ってて違わないトコ突かんで下さい」
反論できないやりたいコトへの突っ込みはやめて欲しい。 …だけどなー、そっちでの姿を特に見せたいとは思ってないから微妙なんだよ。
「やらんのならな?」
理路整然と話す今後の展開予測に否定ができない。軌道を敷かれた感しかしない。その上を走るのが一番早いのを理解する自分の頭の出来が悲しい。 …わかってたけどな、遊ぶんだ宣言したからいーけどな。意思表示をしないままだと終わるからな。
放り投げるのも趣味じゃない。
「基本は変えませんよ、当初の予定通りで良いですね」
「ああ、この夏の間中に決めて終える。それは決定項だ。 体調を整えねばならん者を夏場に動かし回る馬鹿もおらんだろ」
「……それはそうですが」
「シューレの紋で与える。今はどう思おうと愛着も少しは湧くだろう。何より此処は我が家の領地で二度と来ない事もなかろ? 嫌な思い出だけでは詰まらん。だから、その為にお前が働け」
「あ〜〜〜〜〜 やだやだ。 ほんとによー、この兄貴はよー。 アズサの気持ちを質に取るとか〜〜〜 は、そこそこにはしますよ」
「おう、しとけ」
「で、さっきの渋面の原因は?」
見たくも聞きたくもないがしょーがない、やると決めたらやるしかない。
笑顔で差し出す書類を受け取り眺めれば思案の必要性もない。直ぐに弾かれた答えに兄貴の思考が読めて「それで正解」と普通に思った時点で終わってる。
「兄さん… 」
「この前のリリーが出向いてくれた件だ。相手の顔を見てくると楽しそうに行ってくれたが、キルメルが寄越したのは使いの者でな」
「あーあ、姉さんが行かなかったら話は違ってたろーに」
「それはそうだ、しかしそんな事に可哀想とは言わんぞ。リリーは楽しく楽しくやってくれたようでなー、あっはっは」
『お初にお目に掛かります』
『ええ、初めまして。先に確認をしましょう。正使であるとしても、どれだけの権限を持ってお出でたのかしら?』
『 …お待ち下さい。そちらは権限のない者とは話さないとされてのお越しなのでしょうか?』
『あら、先に伝えましたでしょ? 私はエルト・シューレ伯爵セイルジウスの妹で称号を有すると。私はお兄様からこの場を預かって参りましたの。話をせずに帰るだなんて… 無能の誹りを受ける愚かな行いはしたくもないわ。
このシューレの問題は我が家の有事であるのだもの。私とて貴族間争議を厭いませんことよ。
此の度、そちらにて不可解な恐ろしい殺人が上がった事は聞き及んでいます。それがこちらの駆除と時期が重なった事も知っています。ええ、魔具の設置があった事も、そちらがこちらの仕掛けた罠だとお言いな事もね』
『その話を致す為に私共は参りました』
『ええ、こちらも色々言いたいわ。言う為に、権限はどこまでお持ち?と聞いているのよ。同じやり取りをするにしてもねぇ? 話をしても話をしても進まない擦り付け合いは嫌いなの。 うふ、決断も判断も下せないのに長引かせるだけのお話なんて許し難い事だわ。違いまして?
…そうね、言い方を変えましょうか。伯爵家の私が来ているのに、そちらはどうしてあなたなの? あなたが私に応じるのでしょう? いやぁね、こちらを軽んじているのかしらあ?』
『軽んじる等と恐れ多い事でございます』
『そうよね、そんな事はしないわよね。普通は。 あなた、女に要務は勤まらないと思ってなくて?』
『は? その様な事は考えもしておりません』
『実務が何より大事であるけど、それ以外はどう思っていて?』
『全てが大事だと思っております』
『ああ、嬉しいこと。 だから、ね。あなたの実質上の権限は? お答えなさいな、私と話をする為に』
『お待ち下さい、先にと言われる続けるそのお言葉。それこそ、こちらへの軽視であるかと』
『あら、あなたその為に来たのでしょ?』
『…は?』
『答えるべきを答えない、ならばそれは軽視の役割。 違って?』
「話に入る前から相手で遊ぼうとしている姉さんが思い浮かびます」
「あ? 程度の楽しみに目くじらを立てるものではないわ」
「相手を立たせ席に着かせなかったのも浮かぶなー」
「それは許容範囲だ、同等を履き違える者が正使なら嗤うぞ」
「そーですね、相手が喚き散らして怒鳴れば愉快ですよねー。わざわざお楽しみに行った姉さんも姉さんだけどなー」
「此処には遊びに来たのだから良かろ?」
「……そうでした、姉さんは気晴らしの遊びで来たんでしたねー。 いいなー、俺と代わってくれればいいのにー」
「ハージェスト、逃避するな」
「その遊びの結果がこれでしょー」
「遊んでも遊ばんでも同じだ」
「………そうですねー、わかってますけどねー」
「あそこはもう使えんから、どこにするかとな」
「ええ、他を宛てがって下さい。次でいーでしょ? 部屋を空けろと言われても拒否します、そんな事の為に俺はやったんじゃない」
本気で言っといた。
相手に対し一番でないといけない理由は何か? 二番では駄目なのか? これに対して俺は言おう、一番が既に消えた後なのだから二番が繰り上げ一番部屋だ。そっちの部屋に入ってろ。
…これが人材育成に対する姿勢なら話は違うけどな。『二番でいーだろ』と突き放す教育の原理に悖る阿呆は要らん。断固として要らん。切り捨てとけ。
「はは、部屋を動けとは言わんさ。しかし、本当によく倒れて… 体の弱さではないと思うが… 今は落ち着いたのだろ?」
「はい、不安は払うものです」
「……ああ、そうだな。 払うもの、だな」
思案に目を閉じ頷いた兄の姿に何かを感じる。心の何処かで引っ掛かりを覚える。何にと思う先に、それが何時かを思い出した。
外されるのではないかと思った、あの頃。
瞬きを繰り返して見つめ直す。
沈んでいた記憶の突然の浮上にギリギリと締め付けられる痛みに襲われる。感じる痛みを感じぬと流して平然と見続ける。
どう見ても普段と変わらない姿であるのに、頭の中で警鐘が鳴り響く。大きく鳴る中で叫び声も聞こえる。『取られる!』と聞こえる。『何を?』とするは愚の骨頂。鈍さなんて要らない。
「兄さん」
「ハージェスト、向こうが来ても特に宴会なぞ開く気はない。話し合いの場にはお前も出ろ」
「はい、それはもちろん」
「リリーの振る舞いから予測は絞られるが相手も馬鹿でなかろうし」
「それはそうでしょう。姉さん、次も出るんでしょ?」
「ああ、場に笑顔を提供して貰う。男ばかりだと華やぎに欠けて仕方ない」
「向こうから来ないですかね?」
「見込みは薄そうだぞ」
「あっは」
どうでも良い話も交えて笑っても、頭の片隅で繰り返される。
『疑え、疑え、疑え、自分の為に疑え』
一瞬見せた、あの顔。
判断を下せば迷わない、引かない。芯を揺るがさない姿勢が信を集め、心気を寄せられる。それを苦にせず束ねられる兄さんは強い。
だからこそ、疑う心に是と返す。
迷わず、応と答える。
一瞬だろーとナンだろーと気は抜かない。どーいう理由であっても取られてなるか! アーティスをべったり構って躾の邪魔をした前科があるからなあああああっ!! 被害妄想でも取られるかと思ったわ!!
「で、日程は決まっていますか?」
「確定ではない」
「じゃあ、決まったら。 …あの仕業はどうします?」
「犯人の目処が今以て立たん」
宙に目をやる姿に慎重だと思うが当然か、兄さんが絞れないなんて正直驚く。もっとそっちに注意を回さなくては思う端から無駄な気がして意識が削がれる。そしてアズサへと気が回ってしまう!
自分のできない感を強く意識するが〜〜
「犯人は見つかるでしょうか? 見つけられない気がしまして〜 自分の弱気に首を傾げますが… 実際どうします? あれはこちらの仕業としますか? 報復であるとしておきますか?」
不愉快と書いてある顔にじろりと見られても決定権は兄さんだし。
「薄れ過ぎてほぼわからんかったがな、似たモノを思う。 …この事に似た状況も思い出す。思い出す故に作為を疑う。疑うが疑いを何処へ回そうと決定打がどうしてもわからん、掴めん」
断言する苛立ちの中に交差する色を見た。わからない事に対する『不思議』と『安堵』。苛立ちはそれ程ではないと読める。ドコか楽しそうで嬉しそうでもある。
俺は兄さんの貪欲を知ってる。
読み取れた理解に、俺の中にも安堵が生じる。
生じる事が不思議だとは思わない、強さに従う以上は当たり前。それでも、『不思議』と思う気持ちは俺の中にも生じてる。
体の内から「沈めて眠れ」と優しく言われている様で、気概が薄れて鈍くなる感覚がある。
これが生じる理由を掴めない事が忌々しく、疑念と怒りを生むがそれらがあっても不思議と逆らう気が起きない。この事実がおかしくて不思議で、そしてその内から生まれる安堵に訳がわからんっ!! どーでもいい感じ迄してくるのに心中を疑う。
『考えるな、感じろ』
これが正解なら、この安堵を選ぶべき。
それでも事態をおかしいと囁く理性に『それが正解だ』と答えるモノも感じる。答えを感じるが故に安堵に身を寄せられない。
考え続けるだけ嫌になる、放棄したいが理性が駄目だと囁き続ける。意地になってる気もするが意地のはずがない。しかし、眠りに落ちそうになってる頭で考え続けろとする現状に拷問系の何かを思う。思わいでか!!
せめて考えねばならないのなら、可愛らしいものでもみたいと望む。望みたい、無駄でも。
…望んだ所為かどーしてか? 灰色の猫が見える、小さな子猫。
ちょこんと床に座ってこっちを見てる。この事実に全てを蹴り飛ばす納得を見た。 見た、見た、見た! 俺の和みが此処に在る!!
和みに心がホッとした。
思考が傾れて崩れるが頭の異常なんかどーでも良い。
に〜〜っとしたご機嫌顔が可愛い。可愛い可愛い、俺もう駄目だ。 心底和むが下を向いてナニかを咥えて俺を見た。咥えたモノに『正解』と書かれてた。
…何だろう? この非現実性は。俺は夢でも見ているのか?
咥えたままの楽しそうな顔。
俺を見上げて視線を外さず、楽しそ〜うにその場でちゃかちゃか回り出す。俺への視角に外さない流し目が可愛らし過ぎてどーしよう。違う、そんな事より心に刻みつけろ!!
三遍回ったら、「にゃあん」と鳴く感じで口を開けた。
すっげぇ可愛いかった。
そしたら消えた。消えた後には咥えてたモノだけが落ちていた。
『正解』と書かれたナニかに何が正解だと思うがそれより俺の頭はどうなっている?
瞬きを繰り返し、同じ場所を見ても何も無い。
兄さんも居る。
目だけを動かし室内を観察しても変わるモノはない。静かに伸ばす感覚に結界の揺らぎはない。
この事実に乾いた笑いが上りそうになる。
『正解とはどちらの事だ?』
自虐と自嘲に満ちた己の思考に、『どちらも共に』と湧き上がったモノに意識が圧された。
『共に・共に』と繰り返し湧き出るモノに圧されて意識が弾け飛びそうになる。飛びそうな中で繰り返されれば谺となって重なり揺り返される。それが更に響いて聞こえるモノが笑いに変わる。笑いに聞こえる。聞こえるが重なり過ぎて何かわからなくなった響きは高く低く、細く太く繰り返し響き続けて途切れない。
見える世界は変わらないのに 聞こえ過ぎる反響が煩い。
重なる相乗が煩い。
頭の中が 痛いほどに煩い。
ああ、煩い。 煩い。 煩いから もう、 沈めよ。
「 …っ」
きつく目を閉じ、再び開いた世界は何も変わっていなかった。執務室の中は執務室のままだった。
白日の中での夢も遠いというのに、俺は一体何を見たのか?
いや、見たとするのがおかしいのか?
何も変わっていない自分、立っているのに蹌踉けるよーうな感じもしない。平気だ。何でだ? こんな時は心身に負担が掛かってふらあ〜っとするはずなんだが?
そんな感じが全くしない俺がおかしい? いや、何らかの精神干渉を受ければこんな状態でいられるはずがない。
ちらりと兄さんを伺えば、考える時の癖が出ている。ちゃんと起きている。
…どう考えてもおかしいのは俺か。しかし、体は何ともないぞ。
己の内に意識を回しても特に変わった気はしない。しないが何処かが違う気もする。思い起こせば何かに触れた気もする。何だったのか? 煩さに優しいと… そう思えるモノであった様な気もするがそれこそ異常じゃないか?
……ヤ・サ・シ・さ・だぁ? あ〜あああ〜? 俺の頭を潰そうとする煩さの中のヤサシさだあ〜?
一体、どーしたこの頭。 直感か?直感か? こんな直感持ってたか? いや、直感とか言って済まそうとしてるの変だろ? ほんとーに俺の頭は大丈夫か?
「あの、兄さん」
「時は待たん、仕方ない。どう捻くり回そうとこの手に関する事は首を絞める元だからな。あの仕業の明言はしない。しないが双方に禍根を残さんとするならば、なかったとする方向で動くがまし。
禍根、か。ふん。 『死したる者に』と思わん事も無いが守って然るべき対象と掛け離れた時点で固執する価値も無し。わかれば考慮しても良いがわからん以上は駆け引きの材料でしかない。どう考えても俺に殴られて当然の者共、俺にやられなかっただけで結果はそう変わらん。
ああ、全く以て大した事ではないな。 …大した事でなしと言われる道を歩んだ末とも言うか。 いや、違う。俺がやり損ねた事に遺憾の意を示そう」
「…そうですねー」
真顔で言うから真顔で返した。
俺と兄さんの意見を纏めると〜〜 身から出た錆で合ってんだろ。
不明な形で生が途切れて可哀想、しかしこちらでの捕縛も有り得た訳だ。そうなると兄さん直々の仕置きを食らうと、食らって悲鳴を上げないなんて嘘だしよ。仕置きで死ぬかどうかは不明でも「一息に」と懇願するのは普通にいるしなー、あっはっは。仕置きに一息なんかある訳ないのにな。
ん、そうだ。
後で剣の手入れをしよう、手入れは怠ってないが綺麗である事に不都合は無い。もっと綺麗にしておこう。
「あれは他の添えの出し札にしましょうか」
「それで良い」
兄さんと頷き合って話を詰める。
詰めて話せば思い出す。
「執事が馬鹿をしたと連絡が入ってました」
「ああ、あれか。聞いとるぞ」
「報告が上がりましたか」
「いや、まだだ。許可を取りにきてな」
「誰がきました?」
「アーガイルだ。お前が組んだ誓約なら見れば直ぐだが、張り切って実にイイ顔してたんでな。意欲があって良しと許可を出した。あれは良い、よく拾った」
「あは、拾ったと言うのはあんまりですよ。ですが誉められるのは嬉しいですね」
「はは、しかし石はまだ見つからん」
「見つかるといいんですが」
見つからなかったらアズサになんて謝れば… ちくしょう! 価値より何よりアズサの私物に手を出しやがって!!
うーん… そうだな〜。
三遍回って「わん!」と鳴かせたら、許さなくても笑う位はしてくれるかな? 溜飲下がるかな? いや、下品過ぎるか。上品に上品にとは言わないが、品性の無さは嫌いだ。
あー、でもなー。
…そうか、クロさんに鳴かされたあの男が使えるな。一度どんなもんか試してみよう、反骨心が残っていればまだ見られるだろうしな。
よし、あっちに回って顔を出すか。