河西の決断【最終話】
河西が私の部屋にやって来たのは、春一番が吹き荒れる、朝だった。
午前9時20分。珍しくスーツ姿の河西の風貌は、まるで、一流商社マンのように精悍な顔を見せていた。
『どうした、今更、面接でもないだろう』
『ありがとうございました』
『・・・・・?』
奴に礼を言われるようなことなど、何かしたか・・?。
ああそうか、映画のチケットか。
『どうだったあの映画、まあ、お前にとっては退屈だったろうな』
『面白かったですよ、とても』
そう言いながら、ポケットからするっと、何やら取り出した。
『お世話になりました、これ』
取り出したそれは、退職願だった。
どうりで嫌な予感がしてたはずだ。
『で・・、どうするつもりだ』
『一人でやってみようかと、思います』
『そう簡単には、いかんぞ』
『社長だって、昔そう言われたんでしょ?』
『ああ・・・』
しまった、奴のシナリオ通りに演じさせられている。
『親父の夢、継ごうと思いました』
そう言って、父親の手垢にまみれた原稿を、私に突きつけたのだ。やはりそうか、奴にとってはそうなる方が自然だ。
取って付けたような引き留めの言葉など、無用。
何処までも、突っ走ってもらいたい程だ。
『まだしばらくは、出て来るよな』
『ええ、荷物の整理もありますから』
『また、ゆっくり話をしよう』
『上木屋の、カレーですか?』
『お前さえ、よければな』
『はい、喜んで!。失礼します!』
きっちりとお辞儀をして、奴は出て行った。やれば、出来るじゃないか・・。
“退職願”か・・・。会社にとってはもちろん痛手だ。私としても、奴がいないのでは出社意欲が薄れてしまう。
つい、封筒を握りつぶしたい思いをこらえ、吹き荒れる、風の様子を見守るしかなかった。
午前中の会議が長引いたおかげで、昼食も中途半端になってしまった。
要領の得ない会議だった。もっとスマートな会議の運営が出来れば、我が社もレベル・アップ出来よう。
さて、河西は相変わらず外出だろう。そもそも純ちゃんは、このことを知っているのだろうか?。奴の覚悟を。
それも気になって、私は備品課を訪ねた。
『純ちゃん、奴のことだが・・』
『もう、社長!、聞いて下さいよ!』
なんだ、どうした、いきなりこれか?。
『う、うん?、どうした・・』
『昨日、社長からもらったチケットで、観に行ったんです。映画』
『ああ、ちゃんと二人でか?』
『はい、・・』
『そうか、それはよかった』
『よくないです!、全然、よくないです!』
もしや河西の奴、映画批判に終始したか・・。
『落ち着いて、ゆっくり話そうじゃないか、なあ』
『あいつ、開演前にわたしに訊くんです。主演のMどう思うって。だから、わたし言ったんです。格好いいし、誠実そうねって。そしたら黙っちゃって、不機嫌そうに・・』
はて、どこかで聞いたような・・。
『そして始まったの、映画が・・。そしたら、どうしたと思います?、あいつ!』
もしかして・・、あの野郎・・。
『急に立ち上がって、ダーって走り出して、ステージに上がって、もう最低なの!。皆さん、この映画は観る価値がありませんって、訳の判らないこと叫んで、そしたら係の人があいつを取り囲んで、降ろされて、それでもずっと叫んでるんです』
何とも、退屈のしない・・、それどころか、とんでもない男だ!。
まさか本当にやるとは・・・。私が、うかつだった。
『社長!、聞いてますか?、ねえ!』
『ああ、・・・』
『きっと、誰かにそそのかされたんだと思います!、絶対!』
『ああ、純ちゃん、ごめんよ・・、午後からの会議、思い出したよ。また今度、ゆっくりとな・・』
長居は無用、退散だ・・。
逃げるように、備品課を飛び出した。
『ふうっ!』
驚きの連続とは、こう言うことだな。
好きなようにやれ、お前の思うように、この国の映画を掻き回してやれ。
そして、お前しか持ち得ない“発想”で、奴らを、そして私を、笑い飛ばしてみせろ!。
その時まで、私も受けて立つぞ。いいな!。
そう思いながらも、笑いが込み上げてきた。映画館で叫ぶ河西の姿が見えてくるようで、堪え切れずに笑ってしまった。
待ってるぞ、お前を!。
映画人、河西 拓、をな。
ぼんやりと窓の外の景色に目をやった。
気が付けば私の心の中にも、“春一番”が吹き荒れていた。
職業、映画人。河西 拓。 “完”




