【心に小さなスイートペイン】
『………ふっ………』
精神集中。それを更に一段階引き上げた私は、弓と渾然一体になり新たな領域へと足を踏み入れる。自身の能力、弓の性能、過程と結末。それら全てが手に取るように分かり、同時に全てが私の支配下となる。この一射は間違いなく中る。自信ではなく確信だ。予め決められていた事を再現するだけの単純作業。そこに疑いの余地などある訳がない。
この一射が決まれば、全国優勝。練習と努力の全てがこの一射で報われる。気負いはない。心に満ちるのはむしろ楽しさ。外す筈のない弓を引く事に、楽しみを感じない道理などない。研ぎ澄まされた神経は刃の如く、的を見据える瞳は鷹の如く、操る指は機械の如く精密さを増して行く。定められた結末に向かって、時が動き出す。
『―――っ』
矢が解き放たれる。風切り音を纏い、引力に反発して、文字通り一直線に滑空する。予定通りの進路を描き、予定通りの位置に中る。タン、と小気味良い音を立てて、矢は納まるべき正鵠に突き立った。
『やったわ梨羽ーーー!!』『うおおおおすげえッスよ桜木先輩!!』『やってくれるって信じてましたーーー!!』『きゃあああセンパイカッコイイーーー!!』『ぜ、全国制覇なんて夢みたい……!!』
喝采は雨のよう。降り注いでは染み渡る。溺れそうな程の歓喜の中で、積み重ねた努力も選んだ道も間違いではなかった事を再確認した。……ああ、何て素敵な気分。私は遂に成し遂げたんだ。これがもしも夢なら、いっそ永遠に醒めないで欲し―――
「ドゥフフwwwそれは残念ながら夢でござるwww夢オチとはかくも芸達者でござるな梨羽殿www現実逃避乙www」
「きゃああああああぁぁぁぁぁ!!?」
聞き馴れた変態の声で現実に引き戻される。勿論そこは弓道場でもなければ大会中でもない。歓声の渦中にいた筈の私は、その実、自室のベッドで不貞寝中だった訳だ。……うーわー、私ってば痛い……と、それよりも重要な事が……
「あ、あ、あ、アンタが何で私の部屋にいるのよぉぉぉぉ!?」
私を現実へ引き戻した声のバカ主に怒りの矛先を向ける。ついでに弓を引き絞り鏃も向ける。
「クポォwwwケガを負っているとは思えぬバイタリティでござるwww部活禁止されたのに弓を引いてはいかんでござるwwwござるござるござるwwwデュクシwww」
「やかましいぃぃぃぃぃぃ!! 避けるんじゃないわよ、今その狂ったドタマに射ぁブチ込んで…………いっっったぁぁぁぁ…………!」
指に走る鋭い痛みで怒りが冷める。勢いで弓を引いたら傷口が開いてまた血が滲んでしまった。ガーゼが赤く染まり、嫌な色が浮かび上がる。うう……悔しい……。弓が引けないのも、このバカにそれを見られたのも。
「……何しに来たのよ。もしかして大会前にケガしちゃった私を笑いに来たの? そうよ、大事な最後の大会前にケガしちゃったのよ私は。滑稽でしょ? 笑いなさいよ。バカだって笑えばいいじゃないのよ」
私はベッドでクッションに頭を埋めながら、自虐に自虐を重ねまくる。
「と、取り付く島もないでござるなwww別に笑いに来た訳ではござらんwwwホレ、新海嬢に頼まれて梨羽殿の荷物を学校から届けに馳せ参じた次第でござるwww」
「あ…………」
そう言えば荷物の事をすっかり忘れていた。……そこまで頭が参っていたとは、自分でも驚き。
「あ、ありがと。……じゃあそこに置いて行って」
「デュフフwwwそう言う訳にはいカンザキ・H・ア○アwww」
……? 琉依が変な事を言い出す。……や、今更クオリティの低いギャグにツッコミを入れる気はないけど、持って来たのが目的なのに渡さないって何なんだろう。コイツの言っている事は相変わらず理解出来ない。
「意味分かんない。そこに置いて行ってくれるだけで目的達成でしょ? 何で寄越さないのよ。そこで反抗する理由あるの? 私は一人になりたいの。早く荷物置いて出て行ってよ」
「拙者は『梨羽殿に』荷物を届けに来たでござるwww部屋に置いて行ったのではミッションコンプリートとはならんでござるwww従って、きちんと荷物を『受け取って』下さらねば拙者はこの部屋から出られんでござるwww」
「………………」
……もう本当に分からない。ベッドからジト目で抗議するが、ドヤ顔のオタクブタは何か変な信念があるのか一向に部屋から出て行こうとしない。ああもう面倒臭い。何だってコイツはこう………
「分かったわよ、受け取ればいいんでしょ受け取れば。用が済んだらさっさと帰ってよ?」
仕方なく、私はベッドから身を起こす。コイツにいつまでも居座られたら困るし、さくっと言う事聞いて追い払おう。一応荷物を持って来て貰った恩はある訳だし。
因みにこの荷物というのは通学用のバッグの事で、弓道用具の事ではない。そっちは無意識ながらきちんと持ち帰っていた。……まあ、着替えまでは頭が回らなかったから学校から道着のまま帰って来たのだけど。冷静に考えると心ここに有らずな精神状態の道着姿の女子高生とか、かなり高レベルの不審人物だったろうな、私……。
いつもながら無駄にニヤニヤしている琉依の顔を極力視界に入れないようにしながら、目的のバッグだけに手を差し伸べると唐突に手を引っ張られて―――
「わぷっ!?」
突然、目の前が真っ暗く染まって何も見えなくなった。
「ちょっ……な……!?」
頭が動かない。働かないのではなく、物理的に押さえつけられていて動かせられない。あまりの出来事に混乱しかかるが、この顔に当たる奇妙な弾力のある感触と後頭部を押さえつけている力強さなどの状況を鑑みると一つの結論に到達する。そう、私は―――
琉依に抱きしめられたのだ―――――
「ちょっと!! 何してくれてんのよアンタは!! キモイ!! 臭い!! 鬱陶しい!! 早く離しなさいよ!! 私にこんな事して、覚悟は出来てんでしょうね!?」
「………………」
私は琉依の胸に顔を埋めるような状態で抗議する。が、琉依は一向に離そうとしない。結構な勢いで暴れているのに、全く振り解けない。昔から身長が高かったけど、今は何の運動もしてない筈なのに妙に力強くて正直驚く。……あんまり意識してなかった、というかわざと目を背けていたけど、やっぱりコイツも男の子なんだ……。
「何よ……何なのよ……どうしてこんな事してるのよアンタは……もう全然理解出来な……」
「だってお前、オレの顔なんて見たくねえだろ?」
「ッ…………!?」
突然琉依の口調が一変する。いつもの『拙者』なんてふざけた一人称でもない。その喋り方は昔の……大好きだったあの頃の琉依そのもの。声は流石に昔と違って低くはなっているけど、心の芯に響くトーンは変わっていない。何故か安心するような、同時に心臓が飛び出しそうなくらいドキリとした。
「全部……全部アンタの所為なんだから…………私がイライラするのも、射に違和感があるのも、ケガして大会に出られないのも……全部……全部……」
頭が熱を帯びて、身体も熱くなって、もう何がなんだか分からなくなった。本当はこんな事思ってないのに、堰を切ったように口を突いて言葉が溢れ出す。自分の不幸を他の何かの所為にしたがっている。それを今、格好の捌け口である琉依に不条理にぶつけてしまっている。これが私の弱さ……なのかも。
「……そうだよ、それもこれも全部オレ所為。オレがヲタ化しちまったのが原因だよ。オレがしっかりしてれば梨羽がこんなに思い詰めなくても良かったんだ」
「………………」
「……でもお前が欲しいのはこんな言葉じゃねえだろ? オレに責任を押し付けて楽になれるんなら幾らでもしてくれて構わない。オレがヲタ化して梨羽がイライラしてるのも事実ではあるしな。でもそれじゃ心は空虚なままだ。何の解決にもなりゃしない」
その言葉で、急に思考がクリアになる。頭から冷水を掛けられた気分だった。
「……ッ、アンタに何が分かっ……!」
「分かるよ。お前も知っての通り、昔オレも同じ目に遭ってるからな」
「…………う…………」
全て見透かされていた……。私は琉依の事全然分からないのに、琉依は私の事を分かってくれている。
琉依は心なしか、懐かしむように言葉を続ける。
「あの時は凹んだなぁ……。バスケが出来なくなったのもそうだけど、梨羽に何も言ってもらえなかったのが何気に一番効いたんだぜ? あん時はオレもまだガキだったしな」
「う……ご、ゴメン」
「いやいや、昔の話だ。オレも荒れてたし、そんなんで慰められようなんて虫のいい話だって。……だからさ、ケガをした梨羽を放って置けなかった。オレと同じようになって欲しくないからな」
「あ…………」
その言葉で、数年振りに琉依の本質を垣間見た気がした。幾ら風貌が変わろうとも、趣味が、口調が、関係が変わろうとも、琉依は琉依だ。私の事を思ってくれて、私を見ていてくれて、私の欲しい言葉をくれる。その在り方は昔と何ら変わりない。心にあった何かがストンと落ちたような気がした。
「ケガして大会に出れなくなったのは残念だけど……それで梨羽の人生が終わっちまった訳じゃねえだろ? ケガも大した事なさそうだし、その気になりゃあこれからだって幾らでも弓道出来るだろ?」
「………うん………」
「梨羽は強い子だ。こんな小さな事で躓いたりはしないだろ? 弓道だけが、大会に出る事だけが梨羽の全てじゃない。梨羽は梨羽だ。たかがケガ一つ程度で潰れるなんざ許さない。梨羽はいつだって一生懸命で、輝いていて、皆の憧れにまで成れる女の子だった筈だ。そうだろ?」
「うん………うん………っ」
「オレはいつでも梨羽の傍にいる。誰が梨羽を貶めようと、オレはいつでも梨羽の味方だよ。今のオレなんぞ頼りないかも知れないけど、昔そう約束したからな」
「…………る、……るー……くん……」
「へへっ、久し振りだなその呼び方。辛い時は吐き出したっていいんだよ。誰も咎めたりはしない。その為にオレは今、ここにいるんだから。我慢なんてすんな。オレに遠慮なんてしてくれるなよ? オレ達は……『幼馴染』なんだから」
「……ゴメン、ちょっとだけ……ちょっとだけ泣いてもいい……?」
「ああ、いいよ。ちょっとと言わず思う存分泣け。泣いて泣いて、涙が枯れたらまたいつもの梨羽に戻ればいい。それまでは……離さないでおいてやるから」
「うん……うん……ぐすっ……う……うう……うわあああああああぁぁぁぁ…………!! るーくぅぅぅぅぅぅん!!」
堪えていたものが溢れ出す。大会に出れなくなった悔しさ、大事なものを失った虚脱感、そして……胸に沁みる琉依の優しさ。自分でも分からないくらい色んなものが涙となって流れ出て、琉依の胸を濡らして行く。流れた涙の分だけ、心が、身体が軽くなっていくような気がする。
気付けば私は、泣きながら笑っていた。涙でぐしょぐしょになりながら、それでも口元だけは緩んでいる。顔は琉依に押し付けたまま、何年か振りに心の底から笑っていた。琉依が変わってしまったと思い込んだあの頃から、いつだって本気で笑顔になれた事なんてない。それがこんなにも簡単に、呆気なく、ごく自然に。笑わなくなった理由が琉依なら、笑う理由もまた琉依なのだ。やはり私の中で……琉依はこんなにも大きな存在だった。そんな事を今更ながら、琉依の腕の中で思い知らされた。
夢が散り、絶望に打ちひしがれたその先に、暖かな光が差した。それはきっと、希望という名の道標。その確かな温もりを感じながら、私は再び自らの足で歩き出す決意を胸に刻む―――――