【朝露煌めくディプレッション】
「――――――――」
静謐。明鏡止水。穏やかに、けれど極限まで神経を研ぎ澄まし、雑念・雑音を小さく小さく折り畳んで体内の一点に集中する。見据える先は28mの距離にある僅か一尺二寸の円形。的の真中、白の点。
「………ふっ………」
的から視線を逸らさずに、短く息を吐く。精神集中、それをもう一段階上に引き上げる為の儀式。排除する為に掻き集めた雑念を吐き出す所作。射の動作に入る前の私の癖だ。この仕草を以て、私は弓と一体になり射を行う為の最適な身体に切り替わる。
足踏み、胴造り、弓構え、打起こしから引分けへ。射法八節を踏襲し、一連の動作を淀みなく組み上げる。この道場に通うようになった8年前から、万を超える回数をこなして来た動作。そこに不自然さや違和感など何もない。
「………」
変わったのは精神の方か。出し尽くした筈の雑念が再び首を擡げる。会に至るその刹那、28m先の的にある見知った顔が映り出した。数年前から、まるでトラウマのように浮かび上がる丸い顔。引分けまでを終え、いざ会に至ろうとするその瞬間に発生するトラウマ。無論、実際的に落書きが書いてある訳ではない。それは私の精神が見せている幻影なのは明白。……だがどうにも消えてくれないし、引分けを行った状態では目を逸らす事も出来ない。
「……………ちっ」
礼節を弁えない舌打ち。溢れ出す雑念……というより、怒り。あの顔を見ているだけでムカムカする。他に人がいる時や大会時は流石に自重するが、朝練で道場に私一人しかいない時は遠慮なく打つ事にしている。そしてその勢いで会を成す。やっぱりストレスの貯め過ぎって身体に悪いと思うんですよ、ハイ。
「………。死ね」
ぼそりと発した物騒な言葉と共に、引き絞った弓から矢を解き放つ。離れ。矢を引き絞っていた右手は肘を固定している為、殆ど動かない。代わりに弓を持つ左手が僅かに下がり、矢の行方を見守る為にその道筋を空ける。
ヒュン、という幽かな風切り音。引力に反発し地面とほぼ平行の軌跡を描いて、矢は的に中る。中心点・正鵠よりもやや上、浮かんだ顔のちょうど眉間を打ち抜いた格好だ。その中り矢を以て、憎々しいトラウマ顔は掻き消える。
「………やっぱり怒りが原動力じゃダメか。正射必中には程遠いわ」
残心もそこそこに、溜息混じりで自らの射を省みる。一応二手四射は皆中。つまり四本放って全部的に命中したって事だ。その程度はまあ……私の実力からすれば普通と言った所。でもその四射全てが微妙に狙いを外している。こんな事がここ数年、ずっと続いていた。アイツの顔が的に浮かぶようになってから、中りは劇的に増えたが微調整が出来なくなった。
「うん、今日はこんなもんかな。大会は今週末かぁ……。それまでにはもうちょっと調整しないと……」
私は『桜木 梨羽』、17歳。近所の学校に通う至って普通の高校3年生……とは言い難く、自分の家の真向かいにある『林原弓道場』で弓を習い始めて早8年、大会に出れば全国でも少しは知られる存在になる迄に上達してしまった。元々はここまで入れ込む気ではなかったのだけど、まあ弓を引くのは楽しいからその辺は結果オーライ。
ポニーテールに纏めていた長い黒髪を解いて胸当てを外し、手早く後片付けを開始する。……この長い髪と佇まいから『大和撫子』だの『美少女弓道家』なんて見出しで知らない内に雑誌に載っちゃったりなんかするんだけど、射以外の所で注目を浴びてもねえ……。そりゃ私だって女の子ですし、褒められれば嬉しいんだけど……何か釈然としない蟠りが残る。
「ん……っと。さて」
一頻りの片付けを終え、朝露で輝く射場の草木を眺めつつ爽やかな気分で身体を伸ばす。服装は既に高校の制服だ。朝練はあくまで朝練、これから女子高生の本分である学校の授業がある。……なーんて、そんな殊勝な心掛けではないにしろ、学校は学校で楽しいし友達もいるし、別段サボる必要もない。荷物一式を持ち上げた所で、道場に響く一つの声。
「お早う、梨羽ちゃん。今日も頑張ってるわね」
この林原弓道場の師範代であり私の師匠であり、そして幼馴染の母親である『林原 あかり』さんだ。おばちゃん化が激しい私のお母さんと2つ3つしか違わない筈だけど、凄く若々しくて羨ましくなる。勿論射の腕前は一流だし、優しくてその上料理も上手、と。……まあ長く接しているだけに短所も知っているけど、その辺は割愛って事で。
「あ、おばさん、お早う。いつもゴメンなさい、使わせてもらっちゃって」
「ふふふ……いいのよ。今更遠慮なんてするんじゃないの。それよりそろそろ朝ご飯よ。早くいらっしゃい」
「はーい」
私は毎朝、朝練の後にこちらの家で朝食を戴いている。家は両親が共働きでしかも夜勤・早番などが入り乱れて家族の時間帯が安定しない為、朝食だけはこちらの家で食べさせてもらっている。あかりさんは私の家の事情も知っているから、好意に甘えている内にいつの間にか習慣化してしまったという訳だ。
弓道教室は夜間週二回。私も元々はそのあかりさんが教えている教室に通っていたが、高校の弓道部に所属するようになってからはそちらの練習に重きを置いている。その代わり、と言っては何だけど、朝早くの誰もいないこの時間を掃除と的貼り替えと貸出道具のメンテ+αを条件に貸して貰える事になった。早起きは結構大変だけど、一人で集中して練習出来てしかも朝食まで付けてくれるなんて私にとっては至れり尽くせり。そりゃあ上達もするってものです。……まあ、完全に良い事ばかりって訳ではないのだけど……。
先行するあかりさんは振り返り、さも申し訳なさそうに口を開く。
「………それじゃ、今日もお願いね」
「………はーい」
これがプラスアルファの条件。朝の清々しい気分が一気に吹き飛び、陰鬱にさえ反転する。激しく気乗りしないけど、最早『作業』と割り切って事に臨む。あかりさんと別れ、道場がある離れから少し遠回りして階段を上る。2階の一番手前の部屋。ここに私の気分を落ち込ませる元凶が住まう異次元が存在するのだ。
「…………………」
ドアノブに手を掛けて、一瞬躊躇する。ああ……今日もまたあのおぞましい異空間に入らなければならないのか……。この作業は数年前からほぼ毎日続けていて昔は楽しい事の一つだったのに、今では苦痛の事の最たるものの一つになってしまった。出来れば放棄したい。でも毎朝道場を貸して貰い朝ご飯を食べさせてくれるあかりさんと義雄さんに報いなければ、申し訳が立たない。『この』二人は本当にいい人達なのだ。あ、義雄さんはあかりさんの夫で、この家のお父さんね。至って普通のサラリーマン。
「…………さて」
早くしなければ朝ご飯を食べる時間がなくなる。『ヤツ』に付き合って遅刻なんてまっぴら御免だ。深呼吸して射を行うのと同じくらいの気合を入れ直す。そうでもしないと取り込まれてしまうかも知れないのだ。
私は意を決して、異空間へと足を踏み入れた―――