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元婚約者のお値段 ~してくれていた仕事に値段をつけたら~

作者: 林はるる
掲載日:2026/09/26


「ベランジェールエ。僕との婚約を解消して欲しい。僕はこのアニタを愛してしまったんだ。結婚は彼女とするつもりだ」


 クロードは、別の女の肩を愛おしそうに抱いている。


「それで……済まないが、今後も僕を支えてくれないか? 別にいいだろう? 金を払ってやってもいいから。頼む。なっ」


 いつものように、ベランジェールエをのぞきこんで笑った。


◇◇◇◇◇◇



【 婚約解消するけど、今まで通り働いてよ。別にいいでしょう? 】



「婚約を解消して欲しい。結婚はアニタとするつもりだ」


 クロードにそう聞かされた子爵令嬢ベランジェールエは、手にしていた書類を取り落とした。顔色は真っ白だ。


「申し訳ありません。ベランジェールエ様。私がクロード様に愛されてしまったばっかりに」


 伯爵令息クロードに肩を抱かれ、男爵令嬢アニタはぴったりと寄り添っている。本人は抑えているつもりのようだが、その目には嘲笑が浮かび、口元は奪い取った勝利でゆがんでいた。


「君の献身的な愛情に応えたかった。だけど自分の気持ちにもう嘘はつけない。僕たちは真実の愛をつらぬくつもりだ」


 とうとう立っていられなくなったベランジェールエを、侍従のダヴィド=ドニが支えた。さすがに良心が咎めたのか、クロードも手伝ってソファに座らせる。


「婚約の解消は、カリエ伯爵閣下もご存じなのですか?」


「ああ、条件を満たせば許可して下さるそうだ」


「そんな…………もう話し合いは終わっているのですね」


 そうつぶやいたベランジェールエの声は、さびしそうだった。しかし次の言葉に、ダヴィド=ドニまで首を傾げる。


「条件は、今後も君が、僕たちを支えることだ」


 ベランジェールエの真横に立っている、ダヴィド=ドニの眉間のしわがみるみる深くなっていく。


「どういうことですか? 私たち婚約を解消するのでしょう。あなたは別な女性と結婚する。それでどうやって、今までのように婚約者としてあなたを支えるのですか」


「だから、ほら、頼む。なっ」


 いつものようにクロードは、のぞきこむように顔を近づけて来た。婚約したばかりの頃は、こう言われてほいほいと引き受けてしまったものだ。そして今も、彼の学園での課題から始まって、家での仕事まですべてやらされている。きっとその内、アニタの分も。


「父上がどうしても、君との婚約解消を認めないんだ。将来、家が立ちゆかなくなるからって。でもそれって君がいれば問題は解決するだろう。だから結婚はアニタとして、君には僕のために働いてもらうことにしたんだ。今まで通り」


「え?」


 ダヴィド=ドニが、独り言にしては大きな声でつぶやく。


「それって許可が出たとは言えないんじゃ……」


「君がこんなに働いてくれるほど、愛してくれているのはわかっている。だから結婚してあげられないことに心が痛むけど、僕のために働く場所は作ってあげるから。そうだなあ……もちろん、それ相応の給金を支払ってもいいよ」


 無理筋なお願いの自覚はあるらしく、後ろめたそうに目をそらしている。そのやましさを隠すために金を払うことを思いついたのだろう。ベランジェールエはちらりと、ダヴィド=ドニを見た。


「…………わかりました」


「いいのですか。ベランジェールエお嬢様」


「わかってくれると思っていたよ。さすが僕のベランジェールエ」


「ですがお嬢様。私は反対です。こんなの非常識ではありませんか」


「ダヴィド=ドニ。でもクロードは言いだしたら引かないから」


「今すぐ旦那様に早馬で知らせます。思いとどまって下さい」


「でも……」


 二人の間に、クロードは割って入る。


「ちょっと待ってくれよ。ダヴィド=ドニ。ベランジェールエは同意してくれたんだ。侍従の君が口を出す問題ではないだろう? お願いだからさ」


「クロード卿。それでしたら私が旦那様に早馬を出すのも、卿には関係がないのではありませんか」


「う、それは……」


「とにかく納得できないのは、今のやり取りが書面になっていない点です。クロード卿の署名も頂けないようでは」


「…………」


 いつものとおりまわりが気を遣って引き下がってくれたり、ベランジェールエが代わりに面倒ごとを片付けてくれるのを期待して、クロードは目を泳がせている。その間にやりとりを書面に起こしたものを、ダヴィド=ドニはクロードの前にすべらした。


「まあ、ダヴィド=ドニ。これではそういった提案があったというだけの、ただの記録のようなものだわ」


「はい。お嬢様。もっと責任能力を持たせたいのですが、それは両家で話し合う時でいいでしょう」


 不自然に大きい二人の会話を聞いたクロードは、それぐらいならいいかと、しぶしぶ確認書に署名した。二人がクロードの屋敷から足早に立ち去ると、早速、新しい仕事を侍従が持ってくる。


「ベランジェールエ様はいらっしゃらないのですか。急ぎで対応をお願いしたい仕事が。それとご助言を頂きたい重要案件が立て続けに」


「ああ、婚約解消したから帰った」


「なんですって。大変だ。では、どなたが業務を?」


「明日、また来て、やるんじゃないか? たぶん」


「はあ?」


 すぐに騒ぎになりクロードは父親に呼び出された。


◇◇◇◇◇◇



【 金で片付けば 】



「ベランジェールエお嬢様。今日は早退なさるのですか。大好きなコモン教授の歴史学がありますのに」


「そうよ。出席したいのは山々よ。でもあれから一週間。そろそろクロードが私を探して騒ぐ頃かと思うと」


 その声にはそうなったら面倒だという疲れと、悲しいかな、そうなってほしいという未練が込められているのがダヴィド=ドニにはわかり、胸が痛んだ。


「上手く署名させましたから、婚約解消を進めるのは問題ありませんが、問題はお嬢様のお心のようですね。あんな男に……」


「…………頭ではわかっているの。でも気持ちが」


 いつも自分のことのように、クロードに対して怒ってくれるダヴィド=ドニに、申し訳ないという気持ちがあるが、どうにもならなかった。


「ベランジェールエ。探したぞ。一週間もさぼって、たるんでいるんじゃないか」


「噂をすれば」


 普段はほがらかなクロードが、めずらしく怒っている。


「君のせいで仕事がたまってきているし、今週分の学園の課題はどうなっているんだ」


「課題の方は、請求書と一緒にご自宅の方へ送っておきましたわ」


「なんだ、そうだったのか。あ、それと……その、今度から……」


「アニタ様の分もですか」


「そうだ」


 クロードは良心が咎めるのか、怒ったようにそっぽを向いたが、期待を込めてちらっとベランジェールエを見た。


「相応の給金を支払うとおっしゃいましたよね」


「なんだっけ」


「私の働きに相応の給金を支払うと。つまり課題をやったら賃金が発生します。ですから今回、請求書を送っておきましたよ」


「なんだそうか。そんなことか。あはは」


 ベランジェールエが怒ったり泣いたりしたらどうしようと、心配していたが、請求したのは金だった。そんなものならいくらでもくれてやる。クロードは内心でそう思ったようだ。


「それならいいんだ。そっか、そっか。では、また」


◇◇◇◇◇◇



【 最初の請求書 】



「クロード様。わたくし初めて課題で優の上の秀を取りましたわ。これもベランジェールエ様のおかげです。それなりに……いえ、血のにじむような努力をしてきた自負がありますが、さすがに敵わない点が多いです」


「ああ、ベランジェールエは昔から優秀だったからな」


 アニタは五人兄弟の三女という、親に持参金を用意してもらえるか微妙な立ち位置だ。苦労を努力で挽回しているのだから、ベランジェールエのようななんでも持っている人間からは、婚約者を略奪するぐらい許されると勘違いしていた。


「あら、なんですの。この書類。……請求書?」


 アニタは反射的に金額を読み上げた。


「課題四本で二十ポンド。法学の課題二本で三十ポンド。歴史学の課題二本、五ポンド……? 料金体系がわかりませんわ」


「ああ、ベランジェールエは歴史好きなんだ。課題がなくてもなにか書いて提出しているくらいだから、料金が安いのだろう」


「いえ、そこではなく。一週間分でしめて五十五ポンド。庶民の年収分ではありませんか」


「確かにちょっと高いな。うーん」


「……あのう。よろしいのですか」


「うーん」


「……」


「手間をかけさせているのは確かだし、払うと言ったのはこちら側だからなあ」


「でも……」


 この時、金額に引っかかったものの、後ろめたさが先に立ち、クロードは波風を立てないままにしてしまった。


◇◇◇◇◇◇



【 わかったよ 】



「クロード様。この間の委託業務の請求書が届きましたわ。三十…………桁が違うわ。なんなのこの額。血統馬が一、二頭買えますわ」


「なんだこれは、書き間違いか? なになに、顧問料に事務手数料、関係者協議費用、外交対応にそれから……。あ、二枚目がある。引き継ぎに関する請求…………なんだこの金額は」


「なんですの、これ。国際会議でも開いたのですか」


「どうだったかなあ。確か、通行料に関しての定例会議で、接地している領地との契約を更新するだけの作業だ」


「だったら」


「ああ、こんなにかかるはずはない」


「それなら抗議しないと」


「うーん」


 それきりクロードは黙ってしまった。


「クロード様。こんな金額を請求されて黙っているのですか」


「でもなあ。ベランジェールエの機嫌をそこねたくない」


「わかりました。それでしたらこの明細について伺いましょう。それなら」


「うーん」


「…………面倒なんですね。クロード様。カリエ伯爵家がいくら大きくても、こんな金額の請求書を毎回、送られたらすぐ破産します。真剣に考えないと」


「でも」


「クロード様」


「仕方がないなあ。わかったよ」


 しぶしぶうなずくと書類を手に取らず、クロードは部屋を出て行った。


◇◇◇◇◇◇



【 そんな大したことしてないでしょ? 】



 図書館にいたベランジェールエと、ダヴィド=ドニの元へ、不安げなアニタが一人で訪れてきた。


「ベランジェールエ様。お忙しいところ大変申し訳ありません。少しだけお時間、頂けないでしょうか」


「請求書の件ですか」


「はい。わたくし、詳しいことを知らないのですが、料金がどうしても。このままではカリエ伯爵家がたいへんなことになってしまうと思うと、いてもたってもいられず……」


「こちらへおかけになって下さい」


「ありがとうございます」


「まず通行料の件ですが毎年ほぼ決まっています。お互いに手間をかけたくないので、事前に取り決めて、さっと会って、さっと署名して終わりです」


「それでしたらなぜ……」


「周囲の領主と会うのです。重要な情報交換の場だと思いませんか?」


「あ……」


「その時にこれから数年、数十年先の情報を時間をかけてやり取りし、それをこまめに他の仕事に反映する。そうやって一件一件、丁寧に作業し、全体の作業量が減るよう努力しています。それを請求書に反映しています」


「…………『当たり前』のことですわね」


 アニタは恥ずかしそうにうつむいた。


「今の私は請負の身。しなくてもいいかとも思いました。だから雇用主に問い合わせをした。その結果は……、言わなくてもわかりますね」


「……はい」


「そうです。当たり前のことです。でもそれをクロードもアニタ様も、請求書を見ても思いつかなかった。それはなぜですか」


「……」


 横からダヴィド=ドニが口を出した。


「『大変かもしれないが、だからといって、そんなにたいしたことはしていないだろう』。こんな感じにお嬢様のことを見ていたんじゃないですか。請求書をつきつけられて初めて、これだけの金額のことをしていたって驚いたんでしょう」


「……」


「アニタ様。引き継ぎに関する請求書の内訳は」


「もう結構です」


 アニタは感情が高ぶるあまり、音を立てて椅子から立ち上がった。その耳が赤くなっている。


「お時間をさいて頂きありがとうございます。失礼します」


 恥ずかしさから足早に立ち去るアニタを、まったくすっきりしていない顔で、ベランジェールエは見送った。


「お嬢様。アニタ嬢がわかっても意味がないですよね。クロード卿が理解してくれないと」


「……そうね」


◇◇◇◇◇◇



【 婚約の解消 】



「ベランジェールエ。クロード君との婚約を解消するけど、本当に良いのかい」


 カリエ伯爵と話し合ったブリュワ子爵は、娘のベランジェールエを執務室に呼び出した。ベランジェールエの脳裏に、クロードと仲が良かった、幼い頃の思い出が蘇る。もうどうしようもないとわかっていても、切ないものだった。


「私の気持ちなんて、いつだって関係ありません。クロードはそうすると……」


 黙ってしまった娘を見て、ブリュワ子爵は迷っていた。


「カリエ伯爵閣下は、婚約解消に猛反対している。だからこちらが譲歩すれば、解消しなくても済むことは済むよ」


「でもクロードはアニタ様と……」


 ブリュワ子爵はきっと顔を上げ、厳しい声を出した。


「人のせいにするのはやめなさい。ルエちゃんは、どうしたいんだい? ……今回の事をどう思っているんだね? パパはルエちゃんの気持ちが聞きたいんだ」


 ベランジェールエは目に涙を浮かべ、下を向いた時にそれがぽとっと落ちた。長い間、黙りこくっていたため、ブリュワ子爵が顔をのぞきこもうとすると、小さいがはっきりとした声で言った。


「クロードに、復讐したいです」


「…………えー」


 子爵は弱り切った顔になり、額には汗がびっしょりと浮かんでいる。


「聞きたくなかった…………」


「ひどい! 勇気を出して言ったのに」


「……」


「だって」


 ベランジェールエはクロードの愚痴をこぼし始めたが、その顔に先ほどの深刻さはなかった。その間、ブリュワ子爵は黙って聞いているように見えて、どこか遠くを見ている。腕を組んで顔を上げ、そして下げるを繰り返した後、まだ愚痴をこぼすベランジェールエの前に来て視線を合わせた。


「ベランジェールエ。そんなに不満があるなら、クロード君への復讐計画を立てて、私に提出しなさい」


「どうしたの。お父様。なにかの冗談?」


「いいや。パパは本気だ。ルエちゃんも真剣に計画を立てなさい」


「お父様ったら、今のはただの冗談で」


「そんな風には見えなかったし、それをルエちゃんだってわかっているだろう」


「お父様?」


「とにかくやるんだ。いいな」


◇◇◇◇◇◇



【 あらゆる言い訳で目をそらす 】



『きみがベランジェールエか。よろしくね』

『はい。クロード様。選んでいただけて、こうえいです』


 憧れていたクロードと、十歳の頃に婚約が結ばれ、ずっと尽くしてきた。しかし成長するにつれ他の女性に興味を持つようになり、何度も裏切られた。結婚すれば、子どもが出来れば、いつか変わってくれるだろうと信じる日々が、つらくないはずない。


 だからアニタを連れて来た時は、やっぱり駄目だったんだと、胸の痛みを感じると共に、もう頑張らなくていいんだと、どこかほっとする気持ちもあった。それなのに婚約を解消した後も、働いて欲しいと言ったのだ。


 自室に戻ったベランジェールエは、なにも手につかなかった。


「旦那様がそんなことを……」

「わけがわからないわ。ダヴィド=ドニ」


「でもやるしかないんじゃないですか。お嬢様」

「でも馬鹿馬鹿しくない? どうしてそんなことを?」


「旦那様がそうおっしゃったからです」

「でも、普通じゃないわ」


「ご命令なのだから、仕方がないでしょう」

「でも常識的に考えても……」


 ダヴィド=ドニにも、子爵の思惑はわからなかった。だがベランジェールエと話していて、やろうとしていることがわかる気がした。


「やらなくて済む、あらゆる言い訳を並べますね。適当にこなして、提出すれば終わるのに」

「それはそうだけど、でも、まともでないとしか思えなくて」


 ベランジェールエは、いかにおかしいか、ぺらぺらとよくしゃべった。


◇◇◇◇◇◇



【 楽しそうに愚痴をこぼす 】



「隣国からの貴賓のお相手を、歓迎会で務めるのですか。クロード」


「ああ、まだ学生ということで、同世代の僕がとつぜん呼ばれてね。下手なことは話せないし」


「ベランジェールエ様を呼んで欲しいと、主催からは言われたのですが」


 アニタはそう言いつつ、屈辱に顔を赤くしているが、同時に大役に焦ってもいた。


「それなら……」


 ばたばたと対応を始めたベランジェールエを、父親のブリュワ子爵は、黙って見ていた。ダヴィド=ドニが確認書を書いたのは、クロードの非常識を利用して、婚約解消を円滑に進めるためだ。ベランジェールエにだって、それはわかっているはずだ。だが……。


「どうしてこんな簡単な確認も、クロードはしてくれないのかしら。だいたい……」


「お嬢様。引き受けなければいいんじゃないですか」


「…………そうね」


 まるで無粋なことを言われたように、ベランジェールエはむっとした。


「それとお嬢様。旦那様への復讐計画の提出をどうなっていますか」


「あんなもの、作れるわけがないでしょう」


 なぜか痛いところをつかれたように怒って言い返す。


「ですが、お嬢様」


「もう。ダヴィド=ドニなんか大嫌い」


 そういってぷんぷんと怒りながら、他のことを始めてしまった。ダヴィド=ドニは他の誰にも言わない、強い言葉を使われて、ついつい優越感に浸ってしまう。


「はい。この請求書を送っておいて」


「すごい金額になりましたね」


「外交に対する助言だもの」



 そしてまた引き受けて、クロードの愚痴を言うことを繰り返した。




 そんなことが三回続き、ベランジェールエ本人もとうとう、進んで頼みを引き受け、そしてその愚痴を楽しそうにこぼす自分の姿を認めるしかなかった。




「ダヴィド=ドニ。私、どうしたらいいのかしら」


「旦那様からの命令に従えばいいじゃないですか」


「でも……」


「やれば済むことを、どうしてかたくなに拒むのですか」


「でも……。わかったわ。復讐計画、か」


◇◇◇◇◇◇



【 復讐計画 】



「そんなことを言われても思いつくのは、つまらないことばかりだわ。例えば……」


『カリエ伯爵閣下に仕事で怒られ、ベランジェールエに助けを求めるクロードを眺める』

『社交界で教養ある人々の中に押し込めて、ベランジェールエにおろおろと助けを求めるクロードを眺める』

『王宮で…………』


 みじめな気分になり、ベランジェールエの目に、じんわりと涙が浮かんだ。


「嫌だわ、私ったら、どれだけクロードにとって重要な存在か、わかって欲しくて仕方がないのね。私がいないと、クロードはなんにもできないでしょう、と。わたし……」


 心の中で叫んでいる。


(わかって。クロード。私の気持ちを……、私がいないとなんにもできないでしょう?)


「皮肉ね。クロードが私のことを、重要だと思った事なんて、一度もないのに」



 クロードにどんな思いをさせたいのか。

 それはどんな風に傷つけられたからなのか。



 過去とひたすら向き合う作業はつらかった。その時の無力感、理不尽さ、踏みにじられた心と、もう一度、向き合わなければならない。それを何時間もしている内に、目の前の霧が晴れていく気がした。


「どうして好きだったのかがわからない。………………あんなに好きだったのに」


 思いどおりになってくれないクロードに対する不満で、以前は頭の中が一杯だった。だが具体的な復讐を計画する度に、心の底に埋めて、無かったことにしてきた、つらい体験が次々に思い出される。


 そんな思い出を次々に生み出すクロードと、なぜわざわざかかわってきたのかわからない。


 こんなにも自分は、………………疲れ切っているではないか。


「クロードのことを…………もう考えたくない」


 ベランジェールエは背中で、なにか大きな音がするのに気づかず、勢いよく立ち上がると父親の元へ向かった。


「お父様。クロードとの婚約を解消したいです。彼との婚約はなんの実りもありませんでした。長い間、お手数をおかけして申し訳ありません。復讐計画を出せというのなら提出します。でももう彼について考えるのは終わりにしたいのです」


「そ、そうか。良かった。パパはルエちゃんに、ちゃんと自分と向き合って欲しかったんだ。そうしなければ絶対に後で後悔すると思って。新しい縁談の目処は立てているから」


「それより王宮女官になりたいです」


「昔から言っていたな。結婚しないで済むならとは。早速……。そうだコモン教授に相談してみろ」


「確かに教授は、宮中行事の権威ですが?」


「そうだ。権威だ。きっと相談に乗ってくれるぞ」


◇◇◇◇◇◇



【 私が選ぶの 】



「ららら、らーら、ららら」

「ご機嫌ね。ダヴィド=ドニ」


「いえ、なんでもありません。お嬢様。なんですか。この荷物」

「クロード様の課題と仕事よ」


「本当に送ってきましたね。正式に婚約を解消したのに。どうするんですか」

「これとこれを引き受けて、こっちは返して」


「え」


 機嫌が良かったはずのダヴィド=ドニは、ベランジェールエを三度見した。


「お嬢様。目を覚まして下さい。もうクロード卿からは解放されましょう」


「落ち着いて。もう、解放された……つもりよ」


「なんですか。その自信がなさそうな返事は」


「自分ではよくわからなくて。歴史学の課題だけはやりたいの。だってコモン教授が添削して下さるのよ。滅多にない貴重な機会よ。それにやりたいことをやって、代金が入るのはお得かもと思って」


「うん?」


「それとこちらの課題集は、あなたの妹のディール=ドニに、やらせようかと思って。来年、高等科に入学するでしょう。こういう課題って、改めて用意すると、意外と手間も費用もかかるのよね。やったら代金がもらえる上に、高等科の教授が添削してくれると聞いたら、きっとやる気が出るわ」


「確かに一番目の妹は控えめに言って、金の亡者ですから」


 金が稼げるという点でも、出費が節約できるという点でも飛びつくに違いない。


「こちらのカリエ伯爵家の仕事は、お父様と相談するわ。婚約が解消される前の、両家の業務提携の名残があるの。以前の私だったらクロード様のお家に得になるよう、彼の手柄になるよう処理したけど、もう関係ないものね。だったら常識の範囲内で我が家の利益になるよう……」


「…………そんなことを聞かされると、血の気が引きます。クロード卿は競合他家に仕事を任せて、おそろしくないんでしょうか」


「よし、じゃあ、請求書を作りましょう。まず顧問料を別にとって、事務処理と手数料に」


「とんでもない金額になりそうですね」


「それだけの努力をしてきたつもりよ。だから自分の能力に安い値段をつけたくないの。文句があるなら他に頼めばいいわ」


 口できりりと言いつつ、自信がないのか請求書の作成に何度も失敗している。しかし以前と同じことをしているのに、ベランジェールエがまとう空気はからっとしていた。


◇◇◇◇◇◇



【 無能なアニタ 】



「クロード。お前は一体、なにをしているんだ。ブリュワ子爵家からとんでもない金額の請求書が次から次へと届いておるぞ」


「ああ、父上。これには理由が」


「言ってみろ!」


 クロードの説明に父親は、怒ったら良いのか呆れたらいいのかわからなかった。


「クロード……。お前は自分がやるべき仕事を他人に任せ、金を払えばそれで済むと思っているんだな」


 カリエ伯爵はしばらくうなっていた後、こう提案した。


「わかった。それなら今後は、お前に与えられた予算の中で処理しろ」


「それは困ります。こんな大金」


「駄目だ。任せているのはお前なのだから。まずはそれでやってみろ」


 しかしそれを聞かされたアニタは、返って張り切った顔をした。


「ベランジェールエ様は確かに優秀かも知れませんが、努力でしたらわたくしだって負けていませんわ。クロード様。私たちで片付ければ良いのです。これからは二人で頑張りましょう」


「アニタ……。ありがとう。ではこの課題を頼む」


「え……。あの……?」


 違和感を覚えたが、身分差もありそれ以上は言えなかった。だがアニタが片付けている間、暇そうにお茶を飲んでいるクロードが、つまらなそうに「まだあ?」と聞いてきた。


「……クロード様。二人で。二人でやりましょう」


「え、でも、ベランジェールエは……」


「関係ありません。それにそのほうが早く終わります」


「……………………確かにそうだ。さすがだな。アニタ」


 クロードはティーカップを片手に廊下をのぞいた。


「すぐに戻る」


 室内に時計の音と、アニタのペンの音だけ響く。


「あ、あの、クロード様はどちらに? もう三時間近くお戻りにならなくて」


「お坊ちゃまなら、ずいぶん前に遠乗りに出かけました」


「……」


 夕方になってやっと戻ってきたクロードに話しかけようとすると、後ろ暗いのか怒りっぽく、アニタのほうが下手に出て機嫌を取る始末だった。


「あ、あの、戻ってきて頂いて良かったです。政治学の課題がまだ……」


「はあ? あんなに時間をやったのに、まだ終わらせてないのか」


「ですが、[帰属する貴族家の議会における今後の展望]という課題です。お父上のカリエ伯爵閣下に聞き取りをする必要があります。提出先を考えたらいい加減なものは出せません」


 クロードが視線を送ると、控えていた侍従が寄ってきて、ベランジェールエに送るために課題を持っていった。


「クロード様。どちらへ……」


「……」


 クロードも黙って部屋を出ていく。


 暗くなった部屋に残されたアニタは、たった今、まわりから「無能」の烙印を押されたのがわかった。


◇◇◇◇◇◇



【 足を引っ張られるアニタ 】



「アニタ様。クロード様とはいかがですか」

「要領の悪いベランジェールエ様とは違って、上手くやっていらっしゃるのでしょう」

「伯爵家への嫁入りも、内々に決まったそうですね」

「さすがそつのないアニタ様は違いますわ」


 友人だと思っていた女生徒たちに、ちくちくと嫌みを言われ、ベランジェールエを見下してきた日々が胸に蘇った。


『クロード様をただお世話するだけで、あんなにお忙しそうになさるなんて、ベランジェールエ様はそうとう要領が悪いのね。優秀という噂だけど、本当かしら。案外……。フフフ』


 誰よりも優秀で目立つ自分は、令嬢たちの中心だとアニタは思っていた。しかし伯爵家に縁づいたことがわかると、最初に引っかけた男性の名前から始まって、あらゆる失態が友人たちによって広められた。今ならわかる。下流の男爵令嬢がきゃんきゃん吠えていると、見過ごされていただけだった。


◇◇◇◇◇◇



【 決めるのは私です 】



「ベランジェールエ」

「ベランジェールエ様……」


 まるで幽霊のような声かけに、図書館のベランジェールエと、ダヴィド=ドニがぎょっとして振り向くと、顔色の悪いクロードとアニタがいた。


「ど、どうなさったの? 顔色が……」

「お茶会で主賓に失礼を働いてしまって」


「あら、そうですの」

「軽いな。……頼む。今度からつねに側にいてくれないか。伯爵家に住み込んで欲しいくらいなんだ」


「どんな役割で? それに出張費用はお高いですよ」


 クロードがうなり声を上げ、近くの司書に怒られる。


「招待状にはベランジェールエの名があったが、深く考えずにアニタと出席したんだ。そうしたら主催者から招待したのはベランジェールエだと言われ、てっきり侮辱されたのだと思い、代わりに来たと言い張った。相手は名代だと勘違いしたみたいで、主賓の前に出されて……二時間近く、会話がはずまず地獄のような接待だった」


 隣のアニタも憔悴している。


「お相手は歴史マニアのバチスト特別顧問ですか。それは厳密には主催者の確認不備ですね」

「あの人、苦手……」


 以前だったら、身を乗り出して話を聞いたベランジェールエが、まるで他人事のようだ。ダヴィド=ドニは嫌な思い出でもあるのかげんなりしている。


「そ、そうだよな。僕たちの責任ではないよな」


「いいえ。クロード様とアニタ様の責任でもあります」


「そうだよな……え?」


「例え知らなかったとしても、責任ある外交の場だったのです。全身全霊を傾けて、事に当たらねばなりませんでした。あなた方はそれを怠って、カリエ伯爵家とオーレ男爵家、そして我が国の体面を潰したのです」


「そんな、大げさな」


 クロードの横で、顔色の悪いアニタがうつむいていたが、厳しい物言いに、反省するように小さくうなずくのが見えた。


「そう思うのなら次の招待状を待ってはいかがですか。二度と来ないと思いますが」

「そんな……」


 クロードは足元に目をやり、落ち着きなく彷徨わせた後、決心したように顔をあげた。


「な、なあ、ベランジェールエ。父上に頼んで金は払うから、前のようにつきっきりで、僕のために働いてくれないか。つまりは専属ということで」


「それはできません」


「どうしてだ。金は……払うから、多分」


「専属の場合は、カリエ伯爵家といえども払えない金額になるでしょう。本来なら跡継ぎに任せるような、高度に政治的判断が必要な仕事です。それを外注するのですから」


「それなら、頼む。まけてくれ」


「まける気はありませんが、仮にまけたとしても払えない金額です。今までの請求書でおわかりでしょう」


「頼むよ」


「それにそもそも金額は関係ありません。だって私はその仕事を引き受ける気がないのですから」


「なぜだ」


「いずれわかります。このやり取りに意味がないことを。それだけの仕事をただ外注し、その責任を取らないままだったらどうなるか」


「冷たくないか。一体、いくら支払ったと思っているんだ。それなのに……。なあ、僕が婚約を申し込んでから六年間、ずっと尽くしてくれたではないか。もう少しくらいいいだろう」


「尽くしましたけど、なんのお返しもなく、裏切られ続けました。空しいものです」


「……確かにそうだが。どうしても駄目か。値下げくらいいいだろう」


「よくありません。ずっと自分を安売りしてきました。自分で選んだこととはいえ、そうさせたあなたに、これ以上、同じことを続ける気はありません。もうこういったことは終わりにしたいのです」


「安売りなんて、そんな、大げさな。ちょっとくらいいいだろう」



 ベランジェールエは急に立ち上がると、両手をぎゅっと握りしめ、うわずった声で言った。


「いいかどうかは、私が決めます。あなたが決めることではありませにゅ」


 後ろの方から、「お嬢様。頑張れ。かっこいいですよ」と声援が聞こえる。


「ベランジェールエ……。とつぜんなにを言いだしたんだ?」


「とつぜんではありません。ずっと考えていました。いいかどうかを、決めるのは私です。あなたではありませ……ん」


「生意気な……。こちらが大人しく、金を払っていれば調子に乗りおって」


 クロードは歯を食いしばった。


「帰るぞ。アニタ」

「……は、はい」


 足音荒く出て行くクロードの後を、いつも活力に満ちあふれていたアニタが、おどおどしながら付き従う。立ち去り際に、小さく会釈した。


 足をがくがくさせて、ベランジェールエは後ろへ手を伸ばす。床に座り込みそうになったところを、ダヴィド=ドニが伸した手を握り、力強く引っ張って椅子に座らせる。そして前に回って両手を取った。


「お嬢様。練習の甲斐ありましたね。よく言えました。立派です」

「……」


 なにか言おうとしているが、あごががくがくと震えている。「言い過ぎたかしら」と言いたいようだ。緊張を紛らわせようと、ダヴィド=ドニの手を強く握っている。


「大丈夫です。もう大丈夫です」


 ダヴィド=ドニは応援するように、優しく声をかけ続けた。


◇◇◇◇◇◇



「ということがあったんだ。信じられるか。元婚約者の頼みを断ったんだぞ。しかも二言目には金、金、金と」


「へー」

「そう」

「それはまた」


「どうせあんな女、嫁に行けるわけがない。そうなったら愛人として引き取ってやってもいいがな」


「そうはならないんじゃないかなあ」


 引いている者は多く、男同士のおしゃべりの場で、はっきりと反論するものが現れた。


「なぜだ」


「だってブリュワ子爵家の三女ベランジェールエ嬢だろう。婚約がなくなったことで、王宮女官の研修を受けているよ」


「え、この時期にか?」


「なんでも歴史学のコモン教授が推薦したとかで、派手に噂されていたよ。在学中に採用された才媛だって」


「そんな馬鹿な……」


 気軽に使い走りにしてきたベランジェールエが、国の中枢である王宮で高く評価されているのを聞いて、急に手が届かなくなってしまったような恐怖をクロードは感じた。


「女官は仕事柄、結婚も早いしな」


「そんな……そんな……」


 結婚なんてされたらと強い焦りを覚え、たまらない気持ちになる。

 しばらく黙っていたクロードは、恐怖を誤魔化すように、机を叩いて立ち上がった。


「関係ない。そんな仕事をする暇があるのなら、頼みを聞いてくれたっていいはずだ。こっちは金を払っているんだぞ」


 そう言って部屋を出て行った。


「あいつ、もう駄目かもな……」


◇◇◇◇◇◇



【 ベランジェールエの裏切り 】



「今日の所は、切り上げますか」

「ええ、午後から王宮に行かないといけないし」


「それなら馬車の準備を…………。クロード卿」

「また?」


 図書館に現れたクロードと、まるで諦めたような顔をしているアニタを、困った顔でベランジェールエは迎えた。


「ベランジェールエ。頼む。女官なんてしている暇があったら、僕のために働いてくれ。いいだろう」

「お断りします」


 ダヴィド=ドニが隣で「今度は言えましたね」と口パクで誉めてくれている。噛まなかったベランジェールエは、急に気持ちが軽くなり、堂々と胸を張った。


 にべもなく断られ、不安そうにクロードは見る。


「なあ、ベランジェールエ。ひどく叱責されたのだが、頼んだ仕事を父上がチェックしたら、ブリュワ子爵家や関係筋が有利になるよう、手数料や内容が変更されていたというのは本当か」


「はい」


「そんな…………どうして裏切ったんだ? あのまま契約が締結されたらとんでもない事態に」


「別に裏切ってなどおりません」


「裏切ったじゃないか」


「どの書類も正規の承認手続きを踏んでおります。ブリュワ子爵関係者と公式に協議し、その議事録も残し、すべてにクロード様、あなたの署名がされています」


「そんな、それは、でも、今まで、なんともなかったじゃないか」


「婚約を解消すれば、私は子爵家の者ですから、子爵家に有利になるよう働くのは当然です」


 追い込まれたクロードは、逃げ道を見つけ、ほっとしたように怒った。


「金を、僕は君に金を払った。だったら君はカリエ伯爵家のために働くべきだろう」


「いいえ。私はブリュワ子爵家の者です。確かにお金は頂きましたが、あれは外注仕事を受ける対価でしかありません。むしろ大事な仕事を外注したのに、中を改めなかったのですか」


「これはだまし討ちだ。裁判で訴えてもいい。例え勝てなくても汚いやり口のブリュワ子爵家と、君の評判を落としてやる」


 ベランジェールエはこれから口にすることを思い、そしてそのことを頭ではとっくにわかっているのに、胸に鋭い痛みが走った。ずっと目をそらしてきたことだ。だが不思議なことに、胸が痛むのに、平気だった。なぜならもう終わったことだからだ。


「手紙を………………読んでは下さらなかったのですね。もちろんわかっています。私からの手紙を読まなくていいと思っていらっしゃること」


「なんの話だ」


「クロード様は書類を読まないだろうとわかっていたので、わかりやすいように変更点や注意点だけまとめた、短い手紙を同封しておきました」


「そんなもの。書類にまぎれて気が付くはずないだろう。………………言ってくれれば」


 追い詰められたクロードは、最後の逃げ道を見つけた。ベランジェールエを言い負かすことのできる最後の砦だ。良心をつつけば、優しいベランジェールエは結局、言うことを聞いてくれるはずだと。


「そうだ。言ってくれれば良かったんだ。言ってくれれば。そうしたらわかったんだ。どうして言わなかったんだ。言われなければ、そんなことわからないに決まっているだろう。…………これは、君の責任だ。言わなかった君の責任だ。全部。全部。君が悪いんだ」


「言いました」


「嘘をつくな!」


「本当です」


「そんなの聞いていない。だいたい屋敷に来てないじゃないか。でたらめを言うな」


「手紙だって読まないだろうと思ったので、そちらの侍従にベランジェールエからだと言って、クロード様に読み上げるように頼んでおきました。荷物を送る度に毎回」


「え…………」


 まったくクロードの記憶にはなかった。


「そんなのは嘘……だ。…………本当なのか?」


 反射的に否定したクロードは、ベランジェールエの顔を見て、本当だと察したようだ。


「まったく覚えていない」


「そうでしょうね」


「どういう意味だ」


 なにが起こったかベランジェールエには、わかっていた。側に控えるダヴィド=ドニにも。そして青い顔をしているアニタにすら。


「『ベランジェールエからの手紙です』と聞いた途端、クロード様は面倒だと思い、聞き流したのでしょう。ずっと昔からそうしているから、記憶にも残らないのです」


「そんな……ことは」


「言ってくれたら気が付く…………ですか。クロード様。浮気をやめてというのを、聞いてくれたことはありますか。仕事の判断まで丸投げしないでというのを、聞いてくれたことはありますか。あなたはずっと面倒で、無視してきたではないですか」


「それは……だって……ベランジェールエが良いように処理してくれると思っていたから…………」


 目を泳がせていたクロードは、さすがに悪かったと謝罪の言葉を口にした。


「すまない」


 そうは言いつつ、自分の責任だとは、どうしても本心から思えなかった。そして謝っても要求することに変わりはなかった。


「すまなかった。ベランジェールエ。だが本当に困っているんだ。頼む。謝るから僕のために働いてくれ。なんでもする」


 もう一度、はっきりとベランジェールエは断った。


「お断りします」


「どうしてだ。謝ったんだからもういいだろう? 今度は話を聞くから。こんなことになるとは思わなかったんだ。…………そうだ。だったらもう一度、婚約し直そう」


「お断りします」


 これなら絶対に大丈夫だと思ったクロードは、当てが外れたという顔をしている。


「はあ? え、え? どういうことだ?」


 理解できないとばかりに、首を傾げた。


「僕が婚約してやると、言っているんだ。嬉しいだろう?」


 ベランジェールエは、はっきりと首を振った。


「いいえ。クロード様とはもう婚約を解消しました。関係ない……もう、終わったのです。私の心はあなたにありません。だから嬉しくもありません」


「よく言った! あ、なんでもありません。お嬢様」


 隣からいつもの通りダヴィド=ドニの声がする。


「クロード様。私に婚約を申し込んで下さった時、友人のように大事にして下さいましたね。とても嬉しかったです」


「それなら」


「でもその後、クロード様は好きな人が次々にできて、終いにはアニタ様とご結婚なさるとおっしゃいました。同じように私も心が移り変わり、クロード様のことを好きではなくなったのです」


「なんだと。裏切ったのか!」


 強い焦燥感に襲われ、思わず大きな声で罵ったクロードは、「しまった」と口をふさいだ。


「済まない。理不尽なことを言って。自分でもわけもわからず。…………僕は。ああ、そうか。婚約を解消しても、ずっと側にいてくれると思っていたんだ。僕の頼みを聞いて、話を聞いてくれるものと」


「残念ながら……」


「どうしよう。どうしたらいい? そうだ。やっぱりベランジェールエと結婚しよう。アニタは愛人でいいや」


「なんですって……」


 クロードに対して、ずっと様々な感情に襲われてきた。不満や、苛立ち、憎しみ、諦めなど。だが離れてみて初めて、「こんな発言を、人として許してはいけない」という、厳しい怒りの感情が湧き上がってきた。


「クロード様! いい加減にして下さい。目の前でそう言われる、アニタ様のお気持ちをお考えになったことはありますか。ご自分の発言に責任をお取り下さい」


 隣で目に涙を浮かべ、唇を噛みしめているアニタから、ベランジェールエは無理矢理、視線をそらした。痛ましくて見ていられなかったからだ。


「ベランジェールエ様。私なんかのために」


 かばわれて胸が温かくなるのと共に、男を奪って、勝ったはずの女から哀れまれたアニタは、身の置き所がなかった。今の立場を誰が羨むと言うのだろう。


「あなたは婚約を解消しました。そして新たに選んだ方と婚約を結び直しました。これ以上の醜聞をカリエ伯爵閣下は望まない以上、変更はできません」


 クロードはちらちらとベランジェールエを見ていたが、「そんなつもりではなかったのに」と、とぼとぼと出て行った。そこへ憔悴しきったアニタが近づいてくる。


「ベランジェールエ様。わたくし、取り返しの付かないことをしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」


「これから大変でしょうけど、頑張って下さいまし。アニタ様」


「あの、どうしてこんなにご親切に……」


 そう聞かれたベランジェールエの目が泳いだ。


「お願いです。教えて下さい。わたくし、世の中のことをなにもわかっていなかったようで」


「お嬢様はアニタ様のような、略奪女を何人も見てるのです。だからどうせアニタ様も捨てられるだろうし、そうでなければ大変な苦労を抱え込むだろうと予想して」


「こら。ダヴィド=ドニ。そんな言い方」


「ふ、ふふふ」


 泣きべそをかいているアニタの口から、乾いた笑いがもれる。


「わたくしはその他大勢の一人だったのですね。そして最後に貧乏くじを引いたと」


「……」


「でも…………、自分で引いたくじなら、責任を取って大事に人生を歩みたいと思います」


 深々と頭を下げるとアニタは出て行った。


「逃げてもいいと思うんですけどね」

「アニタ様。努力家だから」

「お嬢様。上手く言えてましたよ」


 今日のベランジェールエは緊張もせず、自然体で立っていた。


「なんだか途中で、すらすらと言えるようになったの。言葉が借り物ではなくなって、本心から出てきたわ。段々、クロードも、自分のことも、冷静に見えるようになったの」


「ふうん」


「ダヴィド=ドニが隣で励ましてくれているのも、よく見えたわ」


「そうですか。良かった」


◇◇◇◇◇◇



【 廃嫡 】



「養子を取る?」


「正確には甥のキリアックを引き取るんだ。前から考えていて」


 カリエ伯爵の顔をクロードは不安そうに見た。


「それって……」


「なんだ、ようやく気が付いたのか。そうだ彼が次の後継者になる」


「……」


「お前がベランジェールエに頼んだ仕事が、ブリュワ子爵家に有利になるよう、変更されていただろう。あれに気が付かなかったのが決定打だったな」


「ベランジェールエが裏切ったなんて」


 息を吸うように吐いた言葉を聞いて、カリエ伯爵はクロードをじっと見た。


「裏切ったのはベランジェールエなのか?」


「………………いいえ。僕です」


 気が付いたクロードは恥ずかしさに消え入りそうだった。


「お前は重要な書類の数字を決めるのすらベランジェールエに丸投げし、あまつさえそれを確認もしなかった」


「はい」


「正直な話、正統な血筋のお前を、跡継ぎのままにしておいても良かった。そのほうが支持率を調整するのは簡単だ。権限を限りなく小さくし、次の世代に望みをつなげる。そのためには信頼の置ける右腕を置いて、父親である私が長生きして支えればよい」


「……」


「…………だがな」


「……」


「その右腕として婚約させたベランジェールエを、お前は裏切って捨てた」


「そんなつもりではありませんでした。僕はただ」


 自分で言いつつなんと空しい言葉かと、クロードは大きく口を開いたが、それ以上はなにも言えなかった。「裏切ったつもりは」とも「捨てたつもりも」とも。


「僕は……どうなるんですか」


「アニタと結婚させた後、今までと同じように家の仕事を手伝ってもらう。生活は保証してやる」


 そうして年下の従兄弟が伯爵になるのを、横目で見て人生を送るのだ。


「ああ、そうだ。嫌なら別に働かなくてもいいぞ」


 カリエ伯爵は、嫌みでも皮肉でもなく、淡々と言った。


「いえ、働かせて下さい」


「無理しなくてもいい。人には向き不向きというものがある。今度のことでよく分かった。私も色々、反省する点があった」


「いいえ、お願いします」


「……そうか。そういえば、アニタも一から勉強させてくれと、言ってきていたな。力を合わせることを、学ぶいい機会かもしれん」


「アニタが……」


 ベランジェールエを失い、跡継ぎの座も失い、そうなって初めて、なぜそんなに自分がなにもしたくなかったのかわかった気がした。どんな時もベランジェールエがなんとかしてくれる。大地のように大きな愛情に包まれた安心感は、格別なものだ。それが永遠に続くと思い込んでしまったのだ。そんな馬鹿なことあるわけないのに。


◇◇◇◇◇◇



【 特別な人 】



 ブリュワ子爵の机の上にあった釣書の中から、下になっていた自分の釣書を引っ張り出し、一番上に、ダヴィド=ドニは乗せた。


「こら、なにをしておる」

「なんでもありません」


「なにかしておったであろう」

「それなら言わせて頂きますが、なぜ私の釣書はいつも下に回されているんですか」


「ふん。お前のような小者など。ルエちゃんにはもっといい男がいるわい」

「…………クロード卿のような?」


 言った瞬間、ダヴィド=ドニは言い過ぎたと後悔した。クロードとの婚約に対する後悔は、ブリュワ子爵の心の傷になっており、夢でうなされるほどだ。


「言ってはならぬことを」


 ブリュワ子爵は、本気でダヴィド=ドニを追いかけ始めた。




 ベランジェールエがブリュワ子爵の執務室に向かっていると、向こうからドミニク=ドニがやってきた。


「あ、お嬢様。俺の釣書を置いたから見てね」

「ドミニクもなの?」

「そりゃあ、お嬢様は子爵令嬢だし、きれいだからね。金のなる木は捕まえないと。よろしく」


 からからと笑いながら、ドミニク=ドニは去って行った。親戚筋にあたるドニ家の人間たちは、明るくて、頭の回転が早く、金に汚…………いや、裏表のないのが特徴だ。


「お父様。あら、息を切らしてどうなさったの」


「なんでもない。なんでもない。そうだ。ベランジェールエ。新しい縁談の希望はあるかい」


「正直、希望がなんなのかすらわかりません。お父様はどう思います」


「可哀想に。そうだな。まずは人柄だな。それと女官になるのなら、身分は低くても良いから、身元がしっかりしているといいな。王宮に出入りしているとなお良い」


「ドミニクの弟の、ダヴィド=ドニのような?」


 どこかで、がたんと音がして、ブリュワ子爵がもぞもぞしている。


「お父様?」


「なんでもない。どうしてそんな奴、いや野郎を思い浮かべたんだ」


「ただ、ぱっと思い浮かびましたの。でも考えてみれば、幼い頃からずっと仕えてくれて、人柄は確かですし、ドニ家は王宮の事務官として有名ですから、身元は確かですね」


「確かにそうだけども」


 ブリュワ子爵は急に唸り始めた。


「悔しくない……悔しくないもん。うう、パパのルエちゃんが」


「お父様? あの、先ほどからどうなさいました」


「なんでもない。じゃあ、ルエちゃんはダヴィド=ドニなんかでいいのか?」


「現実的なことを言えば、婚約に一度失敗していますから、女ですし二度目はありません。それなら誠実でいてくれたダヴィド=ドニならと思いまして。まずは本人と話してきます」


 背後でがたがたと音がする中、ベランジェールエは部屋を出た。

 ブリュワ子爵の「こらー」という声が聞こえてくる。


 そしてダヴィド=ドニにする理由がすらすらと出てきて、なんのためらいもなく彼の元へ向かう自分を、不思議に感じた。廊下の向こうから細く刺す、日の光に照らされながら進んだ時、まるで水底の暗闇に沈められた中から、一歩一歩、水面に浮かび上がってきたような気がした。


 その時、ふと思い出したのだ。


 クロードとの婚約が決まったことが嬉しくて、たくさんのろけ話をしたら、幼い頃のダヴィド=ドニが泣いてしまったことを。


 あれがずっと引っかかっていた。


 ダヴィド=ドニは、面倒見が良く、いつも元気づけてくれる、頼りになる侍従だ。

 だがどこかでずっと、心配で放っておけないとも感じていた。


 胸の中にごちゃごちゃと散らばっている、クロードとの思い出がつまった、悲しいほど小さな引き出しを押しのけるように、ダヴィド=ドニの大きな引き出しが、次から次へとあふれ出してくる。


「ああ、そうか。どうして最初にダヴィド=ドニを思い浮かんだかなんて、そんなの」


 いつだって力強く声をかけてくれる、笑い顔が思い浮かぶ。


「私にとって特別な人だからだわ」


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伯爵は最後に息子を切り捨てたが、勝手によそのお嬢さんに息子を支えさせようとしたツケが回ってきただけでは。 心を鬼にしてクロードを鍛えるでもなくバカ息子に蔑ろにされるベランジェールエのフォローをするで…
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