もう悩まなくていいんだよ
晴れた陽に照らされた明るい木立を進むと、通い慣れた正門が視界に入った。昨日は少し夜更かししてしまったせいで頭が重い。欠伸を一つ無理矢理に噛み殺したら、じわりと涙目になった。
「おはよう、玲奈」
「あ、おはよ。」
同じクラスの美里が後ろから追い付いて隣りに並んだ。そのまま一緒に歩いて登校する。
「今日の小テスト勉強してきた?」
「あ、やっば。忘れてた」
「え…うーん、でも大丈夫。ちょっと教科書見れば余裕だよ」
美里が明るく慰めてくれる。どうだろうか。簡単そうに相手は言うけどあまり自信がない。
「それよりさぁ、昨日の配信見た?」
「あ、見た見た」
最近はまっている人気YouTuberの話題に変わって直ぐに会話のスイッチが切り替わる。
小テストの事は一旦忘れて、昨日の推しはどうだったか、しばし夢中になって語りあった。
教室に入ると半分くらい既に登校していた。始業まで少し時間があるので荷物を置いてトイレに一旦駆け込む。前髪が今日は気に入らないので直したい。
「玲奈、おはよー」
トイレの鏡に向かっていると、隣りに並んだ梨央から声を掛けられた。お互い鏡に視線を向けたまま会話を続ける。
「小テストの勉強してきた?」
「やってないよー、どうしよ」
「マジかー」
大して深刻さもなく、お互いすっかり忘れていたらしい。小テストは10回のうち7回合格すれば大丈夫だ。今日落としても次やれば何とかなる。
「先に教室行ってるね」
梨央がそう言ってトイレから離れる。うん、と生返事をして前髪をもう一捻りしてみる。やはり少し気に入らない。けれどそろそろ授業が始まってしまうので、切りをつけて教室に戻る事にした。
廊下に一歩足を踏み出した時に、変な立ち眩みがして一瞬視界が揺れた。
あれ?普段から健康な方なのに珍しい。今日は調子が悪いのかな。
そう思ったら軽い地震が起きた時の様に足元から揺れを感じた。真っ直ぐ立てずにぐらりとする。
思わずその場でぺたりと座り込んでしまった。朝は何とも無かったのに、貧血なのかな?と思って廊下の先に視線をやった。
異様な景色にぎくりとする。
視界の届く端のずっと奥まで廊下が長く延びていた。終わりとなる地点が暗く沈んで全く見えない。
まるで地平線の彼方まで果てしなく延々と廊下が続いている様だ。
おかしい。自分の知っている学校と違う。
異様な景色を前にしているのに、普段の日常を求めて呟いてしまう。
「早く教室に行かないと…遅刻になっちゃう」
意識をはっきりさせようと頭を軽く振る。目を開けると玲奈の腰よりも低い大きさの獣がいる事に気がついた。レッサーパンダがこちらを見ている。
学校の廊下にレッサーパンダが居るとはどういう状況だろう。動物園から脱走して来たのだろうか?
「おい、お前」
玲奈は目の前のレッサーパンダが言葉を喋ったのに驚いた。幻聴かと思う。
けれど、少し面白がる気持ちもあったので試しに返事をしてみた。
「なに?レッサーパンダ?」
相手に対する呼称がそれで良いのか疑問はあるが、こちらからも呼び返す。
「お前は悩んでいる」
何を言い出すのか。
「私が悩んでいる?」
少し警戒して繰り返した。ここでレッサーパンダ相手に悩み相談を持ち掛けるつもりは無い。
「お前の悩みを解消してやる」
レッサーパンダは上を見上げて玲奈に視線を合わせて言った。声が意外と低くイケメン風に語るのも何故か可笑しみがある。レッサーパンダなのに無駄に格好付けているみたい。
「レッサーパンダくんが、私の悩みを解消してくれるの?」
「ああ」
「どうやって?」
「お前はもうこの先悩まなくていい。くよくよしなくてもいい」
どういう事だろう。何かの催眠療法かな?
でも自分としてはこんな風に人に言われてしまうほど悩んでる姿を見せて心配させてるつもりは無い。多少悩んでも一晩寝たらケロリと忘れてしまうと言われるくらいにはさばさばしている、筈だ。
「じゃあ、この先悩みの無い人生を送れるって事?」
少し挑戦的にハードルを上げた内容に繰り返してみる。悩みの無い人生って、普通は有り得ない。レッサーパンダが大袈裟に話を盛っているなら嘘つきだって言ってやれば良い。
そう思っていたのに、レッサーパンダはあっさりと頷いた。
「ああ。お前の人生は悩みとは無縁だ」
有り得ない話の展開ではあるものの興味が出てきたので、前のめりになった。
「どうすれば良いの?悩みの無い人生の為に?」
「これを…」
レッサーパンダが差し出したのは向日葵の種だった。肉球のある小さい獣の手の平からそっと種を受け取る。
「食べれば良いの?」
レッサーパンダが頷いたので、殻を割って中身を口に入れた。奥歯で噛み砕いて飲み込む。
「では、よく聞け」
レッサーパンダは悩みの無い人生を送る為に今から試練を与えると言う。
だいたいこんな様な内容だ。
1、試練の間は悩んではいけない
2、試練の最中には自分と同じ仲間を探さなくてはいけない
3、仲間を見つけたら確認のために合言葉を言う。もしも相手が仲間では無かった場合はお手付きとなる(お手付きは三回まで)
4、仲間を見つけたら自分の試練は終了になる
「私と同じ…試練を受けている人を探せば良いの?」
「そうだ。但し試練中に違反をして失敗したら悩みの無い世界にお前を連れて行く事になっている」
玲奈はレッサーパンダの説明に理解が追いつかない。
「悩みの無い世界?」
「ああ。そこへ行けば二度と戻って来る事も無い」
「ふぅん…」
悩みの無い世界ってどんな場所だろう。
玲奈は日頃深刻に悩んでる事は無いけれど、例えば今日の小テストどうしよう、とか文理どっちにしようか、とか小さい悩みや迷いみたいなものはある。
そこまで考えてから、急に恐ろしい想像に思い至って慌てて聞き返した。
「これって、ちょっとくよくよしたりしただけで違反になっちゃうの?」
もしそうなら、あっという間に悩みの無い世界行きだ。小さな悩みなんて日常の中に溢れている。
「いいや。そういった感情がじわりと湧いてきた時に上手く打ち消せば無かった事になる。安心しろ」
じゃあ、どんな深刻な悩みを抱えた場合に違反になるのだろうか。少し想像してみたけれど、上手くいかなかった。
でも玲奈は薄々わかってきた。この試練は怖ろしく自分に不利だ。
こんな状況を何も警戒せずに受け入れてしまった自分を恨めしく思う。レッサーパンダの肉球が可愛かったからつい油断してしまった。
「どうした?怖気付いたか?」
まじまじと見返せば愛らしいレッサーパンダも今となっては凶悪そうな顔に見えた。
「まあ…不安はあるけど仕方ないよね。とにかく仲間を探せばいいんでしょう?」
「ああ。試練が終わるまで宜しくな」
励めよ、と言い残してレッサーパンダは姿を消した。突然居なくなったので一瞬驚いたものの、もうそういう存在だと思って受け入れるしかない。
廊下の先を見ればいつもの教室が並ぶ風景に戻っていた。喋るレッサーパンダとの邂逅はどうやら唐突に終わったらしい。それぞれの教室が静かに落ち着いているところを見ると、教師が既に出席を取っているのだろう。
「遅刻する!」
現実に引き戻され、慌てて自分の教室に向かって駆け出した。
試練の最中は悩んではいけない。これは思ったよりも神経を使う。
玲奈は取り敢えず卒業後の進路とか片思い中の青柳陸斗君の事とか、悩みに直結しそうな事について考えるのをやめた。
小テストの点数がぎりぎり一点足りなかった時はくよくよしそうになったが、気持ちを切り替えて直ぐに忘れる事にした。何なら次の小テストで合格したらご褒美に寄り道してアイスでも食べようと思っただけで気が晴れた。美里と梨央を誘ったら二人に笑って呆れられた。
「玲奈、余裕だねー」
「あと一回落としたらペナルティの課題増やされるでしょ?」
「そうだっけ?」
「まぁ良いか。次の小テストの後はアイスね。合格出来なかったら食べれないって事で」
「いやいや、次の小テストの景気付けの為にも不合格者こそ食べるべきでしょ」
玲奈はあははと笑いながら、この二人は試練を受けている最中だろうかと様子を伺って見ていた。
屈託なく笑う二人からは深刻な悩みの様子は見られない。
多分二人とも試練とは無関係だろうと結論付ける。でも、玲奈自身も他人からどう見えているのだろうか。
悩みが無さそう?
確かに今はくよくよ悩む事から自分を遠ざけている。それは意識的にだ。
そうやってカラ元気を振り撒いていないと、試練の重圧でつい落ち込みかけてしまう。試練について悩んでいたせいで、悩みの無い世界へ追放されたら笑い話にもならない。
「玲奈、最近良い事あった?」
へらへらしていたら、美里と梨央にそう聞かれた。
ちょっと傷ついた気がした。こんなに試練で苦しんでいるのにと恨んでしまう。
でもそこで落ち込むと悩みを引き寄せてしまうので、直ぐに切り替えて明るく返事をした。
「まあね。解る?」
「おおー、さてはフォロワーでも増えたのかな?」
最近始めたインスタの話題に自然となって、ひとまずとぼける事に成功した。
悩みのないキャラを演じれば良いと初めは軽く思っていた。放課の合間に美里と梨央を相手に他愛ない話題で盛り上がる。玲奈はいつもよりも軽やかに声を上げて笑い転げる。
心から楽しい、と思って笑ってる訳では無い。かなり無理をして明るく振舞っているのを自分でも自覚していた。
でもふと真顔になった時に表情が抜け落ちて黙り込んでしまい、すかさず美里に指摘された。
「玲奈、何か悩みでもあるの?」
一瞬で背筋がざわついた。
やめて欲しい。悩みなんてないから。
強い声音で否定しそうになって、いけない、落ち着かなきゃ、と気持ちを切り替える。
「そうそう。ちょっと太ったみたいなんだよねぇ」
自虐ネタに紛らわして何とか誤魔化そうとした。
「あ、玲奈も?私も最近二の腕がやばいんだよねー」
全くやばく無さそうな細い腕を持ち上げて梨央も会話を盛り上げる。
「もう、二人とも全然太ってないじゃん。私の方がやばいってー」
美里が梨央の腕を軽く叩きながら笑った。
「えー、じゃあ皆でダイエットしよう。痩せる動画探さなきゃ」
「見るだけで痩せるやつが良いなー。キツいダンスの動画とか無理だよ」
最後は上手く誤魔化せた様だ。
でも知らず知らずのうちに玲奈の神経はすり減らされていた。悩まないのは難しい。
このままではいずれ限界が来てしまう。
家に居ても出来るだけ一人にならない様に気をつけた。自分の部屋に籠ると、くよくよ悩みそうになる。
それでも家族の誰かが暢気にテレビを見て笑っていたりすると、平和で良いよなぁと羨んでしまう。自分はうっかり悩む事も出来ないのにいい気なものだ。
肩を揺らして笑う弟に後ろから声を掛けた。
「何見てるの?」
「あ、姉ちゃん。お笑い芸人がドッキリに嵌められるやつだけど、コレ見てよ」
そう言って画面を指差すと、全身粉まみれになった芸人を指差して笑い続けている。
「えぇ…、これ、面白くなるの?」
玲奈が疑わしそうに画面を見る。こんな単純なドッキリで今時笑い転げる視聴者がいるなんて驚きだ。
「いやいや。そんな真面目にじっくり見てないで、もっと素直に受け止めてよ…」
な?と言って弟は右眼の目尻を拭いながらひいひいと笑い続けている。
「なるほど…」
試しに隣のソファに座って一緒にテレビを見る事にした。
次のドッキリは可愛い女性アイドルを暗闇の中で急に驚かす心霊ものだった。お化けに扮したお笑い芸人が逆にアイドルに反撃されて叩かれている。痛がって逃げ惑うお笑い芸人がまた弟のツボに入ったのか大笑いしている。
玲奈も何となく見ていたのに、弟の爆笑に吊られたのか少しずつ面白くなってきた。お笑い芸人が落とし穴に落ちたところで吹き出してしまう。弟も笑いの沸点が低く簡単に笑い転げた。
二人してげらげら笑っていたら、母親が部屋に入ってきて言った。
「珍しい。優弥だけじゃなくて玲奈までテレビ見てるなんてね」
玲奈は母の言葉に、そうだったな、と思い返す。
最近は部屋に篭ってスマホばっかり弄っていた。時間はあっという間に過ぎるし、退屈していた訳でも無いけどこんな風に声を上げて笑う事は無かった。
いつの間にか玲奈の目尻にも笑い過ぎたせいで涙が滲んでいた。軽く人差し指で拭いながら、こういうのも良いなと思う。
気が付けば試練を始めてひと月ほど過ぎた。
その間、くよくよと悩まない事をずっと心掛けている。美里や梨央と話している間もそれほど楽しくなくても声に出して笑うようにしている。周りのクラスメイトに悩みなんて全く無さそうに見えていると良いなと思った。
どんなに明るく振舞っていても、急に前触れも無く不安がよぎる事もある。悩みの無い世界ってどんな場所なんだろうかと、嫌な想像が浮かんだ。
「玲奈?」
わたしの顔のすぐ前に自分の顔を寄せて美里が覗き込んだ。心配そうな表情をしている。
駄目だ。悩んでる様に見られてはいけない。
「ん?」
精一杯口角を上げて笑いかけた。
「どしたの?」
梨央もわたしの顔の前で手の平をぶんぶんと振って視線を追う。
「んー、寝不足…」
「そりゃ不味いね。次の授業で確実に寝るよ」
「お弁当の後の授業は無理だよねぇ…。わたしも寝たい」
どうにか上手く誤魔化せた様で、ほっとしていた時だった。
教室の真ん中辺りでがたがたっと机が派手な音を立てた。何事かと皆の注目が集まる。
割と目立たないタイプの男子、河井くんが青い顔をして立っていた。机と椅子が弾き飛ばされたように乱れている。
「おい、河井?どうした…?」
河井くんと一緒にお昼を食べていた友人、原田くんが訝しげに声を掛けた。彼も不安そうだ。
河井くんは激しく二、三度、頭を振ったと思うと低い唸り声を漏らした。
「う、うぁ…」
突然、教室の境界が消えて無限に拡がる机と椅子の並ぶ空間へと変化した。
レッサーパンダに会った時と同じだ。狭い教室が一瞬にして無限の空間を含んだ広間になる。
玲奈は両手で頭を抱える河井くんから目が離せない。すると、河井くんの周りを取り巻く空気が白く煙ってきた。左右に濃い霧の様な物影が現れてしばらく渦を巻いていたと思うと、巨大な人型が両脇に一体ずつ生まれ出た。
人型の口元が裂けてにやりと微笑んだ。
教室内の空気が一瞬で冷えて凍りつく。
玲奈は声を上げない様に口を右手で塞いだ。
人型から、もしくは天井から、空間全体に響く低い声が聞こえた。
「悩みの無い世界へ、ようこそ」
人型は河井くんの脇を左右から抱えて、瞬く間に闇がぽっかりと空いた空間へと飛び去ってしまった。
「やめろぉ!嫌だぁーー!!」
河井くんの絶叫が響く。
彼は何とか逃れようと目を血走らせ必死に藻掻いていたが、あっという間の出来事でどうする事も出来なかった。
河井くんが小さな点になって見えなくなると、元々の教室の音が戻って来た。玲奈は周りを見回した。
教室のそこかしこで他愛ないお喋りが繰り広げられていた。まるで河井くんという人がこの教室には元々居なかった様だ。
「河井くん…、皆には見えなかった?」
青白い顔をした河井くんの表情が目に浮かぶ。玲奈は恐る恐る周囲の反応を伺った。
「え?河井くん?早退したの?」
「うん。ていうか、私も気付かなかった。居ないの?」
美里と梨央の二人が教室をぐるっと眺めた。
「玲奈、よく気付いたね」
「あ、うん…」
二人には河井くんが居なくなった場面は見えなかったのかもしれない。
もう一度、教室の中を用心深く眺めてみる。前方の女子グループの中で玲奈に視線を向ける生徒がいた。
西川望だ。
普段なら挨拶程度しか交わさない相手だ。今はあからさまに玲奈の事をじっと見ている。
彼女は河井くんが悩みの無い世界へ連れ去られてしまったのに気が付いたのだろうか。玲奈の中で確信に近い直感がよぎる。
「休み終わったぞー。席に付けー」
教師がやって来て昼休みの生徒達のざわめきを治めた。皆、緩緩と気怠そうに机を直して着席する。
西川望と話をしたい。玲奈は強く思った。
下校時刻になり、美里が玲奈を呼んだ。
「帰るよー、玲奈」
「あ、今日はちょっと用事あるから…。先に帰ってて」
「おっけぃ。梨央、帰ろー」
「うん。玲奈、また明日ね」
美里と梨央はいつも通りに連れ立って教室を出て行った。他の生徒達も部活へ行ったり、下校したりとばらばらに教室から居なくなった。玲奈は途中で教室を去る西川望の後ろ姿を捉えていた。彼女の少し後方から尾行する様について行く。どのタイミングで話し掛けようか。教室を出てから階段を降りて昇降口を抜けてもまだ迷っていた。
そもそも、どうやって声を掛けるべきなのか?
河井くんが連れ去られてしまったのに気付いているのか、と先ずは聞きたいけれど不審な問い掛けに思われるかも知れない。美里達の様にただ男子が早退しただけだと思っている可能性もある。
そして、今こうして迷っている事が悩んでいると認められるのも怖かった。悩みを抱えていると見なされたら、河井くんの様に連れ去られてしまう。「悩みの無い世界」へ行けると言われても、口元の裂けた巨大な人型に羽交い締めにされて問答無用で拉致されるのは恐怖以外の何物でもない。河井くんの絶望に満ちた表情を思い出してぞっとした。
ぼんやりと河井くんの事を考えていたら、西川さんを見失ってしまった。
「あ、まずい」
彼女が真っ直ぐ下校していれば、急げば校門を通るタイミング辺りで追い付けるかも知れない。そこで会えなければ見失ってしまったという事で今日は諦めるしかないだろう。
小走りで校門を抜けると、死角になった位置からにょきっと西川望が現れた。
「わっ」
慌てて駆け出す玲奈とぶつかりそうになり、急停止する。
「西川さん…」
「ああ、会えたね。二人きりで話したかったんだ」
待ち構えていたのかもしれないが、ごく自然に玲奈に話し掛けてきた。西川はそのまま玲奈の隣りに並んで歩き出し、道を右に折れ駅に向かって進む。そういえば、お互いに電車通学だったと思い出した。
西川は話したかったと言っていた割には駅まで無言で歩き続けていた。駅に着いて改札の近くまで来ると横に道を折れ、駅前の小さな緑地広場に入っていった。
広場のひとつしかないベンチの前に着くと、くるりと振り向いて西川の口が開いた。
「もう悩まなくていいんだよ」
玲奈は放心してその場に棒立ちになり、西川の顔をじっと眺めていた。
ーもうなやまなくていいんだよ
それは玲奈が誰かに言いたかった言葉だ。
近頃ずっとその事ばかりを考えていたのに…
「西川さん。貴女も試練を受けていたんだね」
西川は硬かった表情をほっと緩ませて頷いた。
突然、玲奈は西川の右隣に白い毛皮の獣が控えているのに気付いて驚いた。大型犬よりも大きい猛獣だ。
「に、西川さん!そそ、そ、その獣って…!」
「ああ、私のバディだよ。どうやら人によって違うらしいのね」
早瀬さんのバディは?と聞かれた。
「ええっと…、最初に試練の説明をしてくれたのはレッサーパンダだけど…」
西川は頷いた。
「そうそう。最初に試練の説明をしてくれた生き物が自分のバディだよ」
なるほど。私の相棒は可愛い種類で良かった。玲奈はちらりと西川の隣りに控えている白い毛皮の獣を盗み見る。
多分、ホワイトタイガーだ。実物を見た事が無いので間違ってるかもしれない。成獣というにはやや小さい気がするので、もしかしたら赤ちゃんタイガーなのだろうか。仮に赤ちゃんだったとしても玲奈相手なら一撃でノックアウト出来そうだ。機嫌を損なわない様に細心の注意を払おう。
西川のバディに気を取られてしまったが、玲奈は落ち着きを取り戻して言った。
「さっき、西川さんもう悩まなくていいって言ってくれたよね?それって試練を受けている者同士の合言葉だよね?」
「うん。そうだよ。私が試練を受けている仲間を見つけ出せた事になるから、私の試練はもう終了した。それで良いよね?」
最後の部分はホワイトタイガーに向かって喋った。隣りに大人しく控えるホワイトタイガーは獣らしくグルルッと唸り声を上げた後、当たり前のように喋りだした。
「ああ。これでお前は試練を乗り越えた。この先…お前は悩みを抱えて苦しむ事は無いだろう」
西川さんは肩を竦めて苦笑した。
「どっちかと言うと、私はこの先大っぴらにくよくよ出来るし、悩みを誰かに相談出来るし、何よりも悩み無さそうって人から言われたりしなくて良くなったのが一番嬉しいんだけど。悩める方が良いと思えるなんて、変な試練だったな」
まぁ良いや、とさばさばした表情で西川さんが言った。
「すごい…。私の気持ちそのものだ…」
感心してつい声に出してしまった。
西川さんは私の方を向いて、少し気まずそうに言った。
「ごめんね。何だか私の試練を終わらせるのに利用してしまったみたいで申し訳ないな。お詫びと言ってはなんだけど、早瀬さんが試練を受けている人を探すのを私も手伝うよ」
「え!うそ、嬉しい!」
今まで試練に苦しんでいた人の助言が貰えるのは心強い。玲奈はこの先の見通しが明るくなり、希望を持ち始めた。
「お手付きは怖いけど、早く試練が終わる様に二人で頑張ろう。よろしく、早瀬さん」
「ありがとう!西川さん」
あ、私の事は望で良いよと言ってくれたので、これからはお互いに下の名前で呼び合う事になった。
試練を始めてから1ヶ月、ようやく何とかなりそうな道筋が出来て久しぶりに心から明るい気分になれた。そのまま二人並んで駅の改札を抜け、反対の電車に乗る望と別れてホームに向かう。線路を挟んで向かい合わせになり、お互い控え目に手を振り合った。ホワイトタイガーのしっぽがぱたぱた揺れるのも可愛く、こちらもレッサーパンダが二本足立ちをして挨拶を返した。
心がぽかぽかして久しぶりに悩みの無い自分を実感出来ていた。いや、試練が始まってから悩みは無かった(はず)だけど、無理矢理打ち消したり深く向き合わなかったり、誤魔化していたのがやはりじわじわとこたえていたらしい。
今日の出来事を経験したら、このまま望に続いて試練が明日にでも終わる様な変な自信が湧いてきた。
その根拠の無い自信は直ぐに打ち砕かれる事になるのだけれど。
休日に莉央の家に集まって動画を撮ることになった。最近流行っているアイドルの楽曲に合わせて踊りの振り付けを練習した。
「よし、練習終わり!今から本番撮るよー」
固定された莉央のスマホに向かって順番通りに画面にインしながら踊っていく。数秒間の短い動画を録画して、三人で額を寄せ合って出来栄えを確認した。
「お、良いんじゃない?」
「どう?」
「キレッキレだね。よし、あげちゃお」
莉央がスマホを操作すると、三人の動画がアップされた。早速いいねを自分達でも付け合う。
「あ、違う人からもいいね貰えた」
「やったね。もっと延びろー!」
願いは虚しくなかなか数字は伸びなかった。テーブルに広げたお菓子を摘みながら、気が付けばお互いに好き勝手に別の動画を見ていた。
今度これやってみたい、と莉央が見せてくれた動画を見て、うん、やろうと相槌を打つ。
ポテチの袋を開けながら、美里が玲奈をじっと見た。
「ん?コンソメの気分じゃなかった?」
「うん、限定のしょうゆバターが食べたかったんだけど…。いや、そうじゃなくてね」
美里が一枚目のポテチを口に放りながら玲奈に言った。
「最近、西川望と仲が良いね」
後ろめたい事は無いのに何故かぎくりとした。
「あ、うん。時々一緒に帰ってるからね」
「ふぅん。電車一緒の方角だったっけ?」
「逆だけど、駅まで…」
美里はつまらなそうな顔で、そうなんだと相槌を打つ。
何となく場が白けた空気になり、玲奈はペットボトルのお茶を取って少し飲んだ。
望とは夜LINEでメッセージを送りあっていた。今は試練をしていそうな人の目星をつけているところだ。
二人で話し合った結果、怪しい人の特徴が何となく見えてきた。
ある日を境に急にカラ元気を振りまく様になった人。
これは自分でも覚えがあって望に指摘された時、何だか居心地が悪くなった。私もそう見えたの?と聞いたところ、望は迷いなく頷いた。
「普通の人は玲奈が最近明るくなったと思ってるよ。悩んでる姿を人に見せない様に無理してるなんて、誰も想像してないはず」
なるほど。明るく見せかける事には成功していたらしい。けれど少し痛々しい自分が恥ずかしかった。
望は別の意味で特徴的な人として、全く感情を伺わせないタイプも怪しいと言っていた。「多分、自分の心の振れ幅を少なくして安定させようとしてるんだと思う。すごく楽しいとか嬉しいと思わない代わりに、めちゃくちゃ落ち込んだり傷付いたりしない様に気持ちを落ち着かせてる人」
夜、LINEでやりとりしながら望は鋭い観察眼があるなと感心した。素直にそう伝えたら、意外な返事が戻って来た。
「3年くらい試練やってたから…」
「えっ?!そんなに長い間悩みを持たずに頑張れたの?」
「中学3年の時に始まったんだよ。受験生なのに悩むなって、酷いよね」
望は明るいトーンで説明しつつ、所々緩いスタンプをLINE上で挟んでくる。ここのタイミングではホワイトタイガーがうるうる泣いているスタンプが押されていて思わず笑ってしまった。
「でも、どうすれば良いか暫く分からなかったから、ずっとくよくよ悩まない様に気を付けて過ごしてた。お手付きも怖かったから、ずっと誰にも声を掛けなかったよ」
望はさばさばして直ぐに行動してそうなのに、意外だった。
「ちなみに、お手付きの回数は何回使ったの?」
「2回」
「えぇ!」
それは玲奈に声を掛けた時に失敗していたら、即、悩みの無い世界行きだったと言う事だ。
「…ぎりぎりだったんだ」
「そうだね。でも、河井くんが連れ去られてしまったのを見て玲奈が真っ青な顔をしていたのが解ったから、かなり確信持てた」
玲奈は河井くんの名前を聞いて、少し心が重くなる。
望はその現場にいた時に明らかに恐怖を抱いた表情をしていたから、という理由で玲奈が試練を受けていると解った。
自分も同じ方法で試練の仲間を見つけられたら良いのかもしれない。でもそれは一人仲間を失う時だ。
あの時、自分か望のどちらかが河井くんを救ってあげていたら…
彼が連れ去られる前に、誰かがもう悩まなくていいんだよと言ってあげれていたら…
そうすれば、河井くんを助けられた。
「あれ?黙っちゃった、玲奈。ねぇ、くよくよしてないよね?」
玲奈はまたLINEの画面を見てはっとした。
いけない。暗い思考に嵌ってしまうと、悩みのある人になってしまう。
「くよくよしてないよー。大丈夫!」
今度は玲奈から、レッサーパンダがぐっと親指を立てているスタンプを送った。
望と話し合っているうちに、ある一人の男子生徒が怪しいのではないかと浮上した。
剣崎悠真。彼は今学期は不登校でずっと学校に姿を見せていない。
「今日もいないね」
「うん。会うのも難しいな」
悠真については、自分が推測を立てて候補にあげた。
「不登校でずっと家にいたら、ストレスゼロで思い悩む事が無いんじゃない?」
「そうかな?普通に考えて毎日悩んでそうだけど。学校行かなきゃ、とか、将来このままで良いのかな?とか」
望は首を捻っているけれど、私は自分の思い付きにまあまあ自信を持っていた。
「きっと、試練を受けたせいで学校に来るのが嫌になったんだよ。それで不登校になって家でのんびり過ごしてるってわけ」
どうかな?と、様子を窺うようにちらっと見ると、望は納得していない雰囲気だった。
「とりあえず、剣崎悠真本人に接触してみないと何とも言えないな。学校に来ない相手に会うには家に行くしか無いけど…」
「あ、そこまでは考えてなかった」
玲奈がへらっと誤魔化し笑いをすると、望はやれやれという仕草をして言った。
「彼は南中学校出身だから最寄り駅は南達川駅だね」
他にも同じ学校出身者で自宅を知っている人がいないか探してみようということになった。
昼休み、普段通り美里と莉央と一緒にお弁当を囲んでいた。それぞれお弁当を食べ終わったタイミングで莉央がお菓子を取り出す。
「グミ食べる?」
「うん。新味っぽいね。レモンアボカド味って…美味しいの?」
恐る恐る変な名前のグミを口に入れた。想像通り、微妙な味がする。ハード系の噛みごたえあるグミをもごもごと咀嚼していると、美里が小声で言った。
「そういえば、芽衣が青柳陸斗に告ったらしいよ」
「…本当に?」
美里と莉央が頷いた。どうやらまだ知らなかったのは自分だけらしい。二人は言いにくそうに目配せすると、決定的な事を言った。
「来週末に映画見に行く約束したんだって。涼華が皆んなに言いふらしてたから…」
なるほど。美里は他の女友達とも色々と繋がってるから情報通だ。でもこんなネタは出来れば知りたくなかった。
玲奈は青柳くんの席をちらりと見た。いつもと様子が変わらない。彼女が出来たからといって昼休みで惚気たり浮かれたりする事も無いか、と思い視線を逸らす。
駄目だ。悩んではいけない。
別に青柳くんが誰と付き合おうと辛くも哀しくもない。無理矢理そう自分自身に言い聞かせた。
ふと自分の右側に気配を感じて視線を向けると、レッサーパンダがじっと玲奈を見上げていた。普段は姿を現したりしないのに、何故現れたのだろう。
「悩みはあるか?」
レッサーパンダの声が聞こえて、冷やっとした。ぶんぶんと首を横に振って否定する。
失恋したのにちゃんと落ち込む事も出来ないなんて辛すぎる…。
でもこれ以上青柳くんの事を考えるのはやめよう。最後にちらりと見たら、本人とばちっと視線が合ってびっくりした。不自然にならないようにさり気なく目を逸らすが、心臓の音が急に早くなる。
「玲奈?大丈夫?」
美里と莉央が心配してくれた。二人には以前から青柳くんが好きだとうち明けてあった。玲奈がショックを受けていると思って気遣ってくれているのだろう。
「あ、うん!全然、普通だよ」
慌てていたのでよく分からない返答をしてしまった。へらっと笑ってその場を誤魔化し、グミをひとつ口に入れた。
翌週、何の進展も無いままぼんやり下校支度をしていたら、担任が斜め前の長谷川真凛の席に来て茶色い封筒を渡していた。
「長谷川、この書類をまた剣崎に渡してくれ。いつも悪いな」
玲奈は剣崎の名前が聞こえたので集中して会話を聞き取ろうと耳を澄ます。近くの席にいる望も動きが止まっているので、同じく聞き耳を立てていそうだ。
担任は当たり前の様に真凛に頼んでいる。不登校の剣崎の家へわざわざ生徒を行かせる事をたいして悪いと思って無いのだろう。反面、真凛はあからさまに嫌そうな顔をしている。
「持っていくのは良いんですけど…」
「ああ。出来れば顔を見て渡してくれたら助かる。このままだと出席日数不足で退学になりそうだから、何とか戻って来れたら良いのにと考えてはいるんだが…」
じゃあ、頼むな、と軽々しく押し付けて担任は去って行った。
玲奈はちらりと望の方を見ると、力強く頷いていた。どうやら望も今のやり取りをしっかりと見ていたらしい。
長谷川真凛が茶色い封筒を鞄にしまい込み教室を出る。玲奈達二人は目立たぬ様にそっと彼女の後を追った。
真凛が学校の駐輪場で自分の自転車の鍵をポケットから取り出した時に、玲奈は慌てて声を掛けた。
「長谷川さん!」
「え?」
真凛が振り向くと、玲奈と望の二人が立っていた。自分とは普段関わりの無いクラスメイトから声を掛けられた事に戸惑っている様だ。
二人はずいっと距離を縮めて真凛の前に立ちはだかった。
「あのね、落ち着いて聞いて欲しいんだけど…」
「な、何?」
「さっき担任から渡されたの、あれどうするの?」
「明日、剣崎の家に届けるけど…。どうしてそんな事聞くの?」
「よかったら、一緒に行っても良い?」
「何で?辞めておいた方が良いと思う。担任は剣崎と直接会って学校においでよ、って誘って欲しそうだったけど、私はポストに入れて帰るつもりだし」
長谷川真凛はこのミッションをかなり不服だと捉えているらしい。普通に考えて尤もだと玲奈も思った。不登校の生徒の家に訪問するのはどう考えても気が進まないだろう。余程の仲でもない限り。
望がもう少し詳しく聞いた。
「何で担任は剣崎くんの家に行く役を長谷川さんに頼んでるの?」
「最初に聞かれたの。不登校になって直ぐに剣崎の家は解るか?って。同じ学区で割と近所に住んでいたから、はいって答えたら、それから定期的に書類とか渡される様になって…」
玲奈は探していた人材に出会えて興奮していた。これで剣崎に会うことが出来る。望も玲奈に力強く目配せをした。
「じゃあ、私達も一緒に行っても良い?」
「え?良いけど…っていうか、代わりに持って行って貰うのはどう?私もそろそろ行きたくないし、頼めるならその方が助かる」
今どき人づてに他人の住所を教え合うのもどうかと思ったが、結局剣崎の家の場所を教えて貰った。地図アプリを開き、剣崎の自宅を送信してもらう。
長谷川真凛は明らかにほっとした表情で茶色い封筒を渡してきた。玲奈は最近の剣崎の様子を念の為に聞いてみる。
「初めの訪問の時だけしか会ってない。それも二ヶ月くらい前。」
「それから後は家に何回行ってるの?」
今回で三回目だと言う。前回はインターホンを鳴らしても誰も出なかったので、ポストに書類を入れて帰ったらしい。
「今日は剣崎家の住所をしっかり聞き出して帰ろうと思ってた。次からは切手を貼って郵送するつもりだったから」
玲奈と望もこれには頷いた。
担任は真凛が剣崎と会って学校へ行くように説得してくれないかと期待しているのだろう。高校の教師としてはかなり珍しく、そんな風に親身になってくれるのは熱心な教育者と言える。
でもきっとそのやり方では剣崎は動かないし、真凛も負担に思うだけだ。
「ところで、内緒にしておいてあげるけど…どっちかが剣崎の事好きなの?」
真凛は去り際に悪戯っぽく聞いてきた。
玲奈は望と顔を見合せて、どうしようか、と迷う素振りを見せた。確かに試練を受けている同士を見つけるためだと言うよりは、剣崎悠真の事を好きだから家に押し掛ける、という風に考えるのは自然だ。
二人が迷っていると真凛が小さく吹き出して言った。
「ごめん、言いにくいよね。変な事聞いちゃった」
真凛はじゃあよろしくお願いします、と軽やかに言うと、自転車で去って行った。
「望…、剣崎くんの事で覚えてる事ある?」
「あんまり、印象無かったような?二学期から不登校だったから、名前と顔を覚えた頃にはもう居なかった」
「私も、そんな感じ」
大体のクラスメイトにとって、剣崎悠真は影が薄く印象に残らない相手だったと思う。後でクラスの集合写真でも見直してみよう。
玲奈は受け取った茶色い封筒を鞄にしまった。
「いつ行く?」
「土曜日にしようか。お互い達川市に住んでる訳じゃないから、電車に乗って行かなきゃ」
「了解」
望は少し考える様にしてから言った。
「玲奈は本人に会ったら試練中かどうか見分けれると思う?」
「そうだなぁ…」
何となく勢いでここまでやってみたけれど、顔を合わせて会話してみなければ分からないと思う。
「とりあえず、会ってから考えよう」
最近のくよくよしない行動理念のせいで、深く考える事を放棄しているな、と苦笑する。
これは自分にとって良いのか、悪いのかすら分からなくなって来た。
くよくよしない、けれど深く考えない。
「試練の間は歴史上の哲学者はどうしてたんだろう?」
玲奈がぼそっと言った。
「きっと哲学者は隣りの哲学者仲間に悩まなくていいよって言って、直ぐに解決しちゃったんだよ」
「そっか。彼等は悩みたい気持ちが溢れてただろうから試練なんてさっさと終わらせたかったよね」
「我悩む、故に我ありだよ」
どこか間違ってそうだけど適当に言いたい事を言っていたら、倫理のテストが嫌だなあという話になった。またくよくよ悩みそうになって、慌てて話題を流行っている猫の動画の話に切り替えた。
剣崎家は一般的な一戸建ての家だった。表札の文字を確認して望と頷き合う。
インターホンを押すと、母親らしき人が直ぐに答えてくれた。
「悠真くんの同級生なんですけど、担任の先生に頼まれてプリントを持ってきました」
二人で礼儀正しく訪問の意図を告げると、母親が玄関口に顔を出した。あっさりと茶色い封筒を受け取ると、気まずそうにそそくさと告げる。
「ありがとうございます。先生によろしくお伝えください」
ここで渡して終了になってしまいそうになり焦った。何とか剣崎悠真を引っ張り出して様子を探らなくてはならない。
「あの…悠真くん、いますか?」
控え目に玲奈が聞いた。母親は意外そうな顔をしたが、ちょっと迷ってから言った。
「本人に聞いてみますね。このまま玄関の中で待ってて下さい」
そう言い残すと家の奥へ消えた。階段を上がる音が聞こえたから、悠真は二階の部屋にいるらしい。
殺風景な玄関でしばらく待たされた。望と顔を合わせて、どうしようかとお互い目で語る。
かなり時間が経ってから、階段を降りてくる人の気配がした。初めになんて言おうか緊張しているうちにどんどん心音が速まる。
部屋と玄関の間にある扉がそっと開かれた。
「…」
剣崎悠真だ。伸びきった髪が目にかかっているが、その奥の表情は険しい。片手をスウェットパンツのポケットに入れたまま私達二人を睨み付けている。
何か言わなきゃ、と焦る気持ちはあるものの普通の会話なんて無理だろうなと直感的に思った。
ずっと不機嫌を隠さない悠真を前にして、今すぐ逃げたい一心で玲奈はまさかのあの合言葉を口にした。
「もう悩まなくていいんだよ!」
悠真は一瞬ぽかんとした後、顔を真っ赤に染めて怒り出した。
「はぁ?もう一遍言ってみろよ!」
片手をポケットから出して振り上げそうになったが、そもそも人に暴力を振るうタイプでは無いのだろう。右手の行き場に困った様に拳を宙で震わせている。
「わっ!あっ!ご、ごめんなさい!あの、これは!間違いで…」
玲奈も完全に度を失ってまともな会話が出来なくなっていた。微かに冷静さの残る望が場をとりなす様に言った。
「ごめんなさい、剣崎くん。もう私達帰ります」
「待てよ!お前らも河井と同じか?!俺を笑いに来たんだろうよ!」
玲奈ははっとした。何故、河井くんの名前がここで出てくるのだろう?
望に右腕を引っ張られて、玲奈は剣崎家を後にした。
駅前のマックでウーロン茶を飲みながら、暫し呆然としていた。先に気を取り直したらしい望が追加でポテトを頼んだので、匂いにつられて分けて貰った。
ポテトを空箱にしたところでようやく落ち着いて話し出せた。
「剣崎悠真は違ったね」
「うん」
望は苦笑して言った。
「でも、少しくらい話して試練と関係あるかどうかゆっくり探ろうかと思ってたのに…。玲奈があっという間に玉砕しちゃった」
玲奈は肩を縮こまらせて項垂れた。
「顔を合わせたら頭が真っ白になって…。さっさと言って終わらせたいって思ったら、あんな事になっちゃった」
「まぁ、これでもう一度来る手間も省けたから良かったけど…お手付き一回は痛いね」
お手付き、というワードに反応したのかレッサーパンダとホワイトタイガーがぬうっと姿を現した。
玲奈のバディであるレッサーパンダが重々しさを装うが、可愛さが勝っているのであまり偉そうに見えない様子で告げる。
「お手付き1だ」
「うん…気を付けないとな」
「まぁまぁ。お手付きで学ぶ事も多いよ」
短い訪問だったが、その間に心に引っ掛かった事もあった。
「そういえば、河井くんの名前を言っていたのが気になる。友達だったのかな?」
ごそごそと望がクラスの名簿一覧を鞄から取り出した。
「ほら。河井…剣崎…番号順になると前後だね」
「本当だ」
そうなると、高校二年の一学期の間に二人が友達付き合いをしていた可能性もある。残念ながら、玲奈も望も男子の交友関係までは把握していなかった。その前後の男子の誰かに聞けば二人の関係も解るかも知れない。
前後の名前を見ていただけなのに、青柳くんの名前が目に飛び込んで来た。考えない様にしないといけない。彼は今は芽衣と付き合っているはずだ。
芽衣は可愛い。クラスで人数最大の目立つ女子グループにいる中心メンバーだ。あんなにキラキラしているのに、青柳くんみたいな少し控えめなタイプが良かったなんて意外だった。ちょっとだけ芽衣もなかなか見る目があるなと見直した。どんな上から目線だと言われそうだが、玲奈の心の中だけの話だから大目に見てもらいたい。
望がぼそっと話し始めたので、ぼんやりした回想から引き戻された。
「河井くんも剣崎くんに同じ言葉を言ったんだろうね」
玲奈もはっとした。
「そうか…。うん、私もそう思うよ」
きっと、もう悩まなくていいと河井くんにも言われた事があるんだろう。
「剣崎くんが試練と何の関係もないとしたら、さすがに二度も言われたら傷付くかもね」
望の言葉はグサッと私を抉った。
「う…、確かに」
不登校の男子の家に、いきなり面識の無い同級生が現れて、もう悩まなくていいと言われるなんて…。考えるだけでも申し訳なくて恥ずかしい。顔に血が上って赤面した。
「想像力が足らなかった。試練とは何の関係も無い人との絡み方も想定しておかないといけなかったんだね」
望がよしよしと頭を撫でてくれた。
「でも決めゼリフを言ってみないと分からない事があるからね。勇気を出せた玲奈は偉いよ」
ありがと、と感謝してぺこりと頭を下げた。
「またリセットして考え直してみよう。他の誰か、悩み無さそうな人がいるかも知れない」
と言ってから、あ、と気付いて望が言い直した。
「悩み無さそうな人、じゃなくて悩んでるのを必死で隠している人、だね」
確かに、と玲奈も相槌を打った。
週が開けて月曜日、今日は美里と莉央を誘って帰ろうと思ったら、長谷川真凛に引き止められた。
「早瀬さん、ちょっと来て…」
「え?う、うん」
昨日の今日なので、何だろうと思いながらも大人しく着いて行く事にした。美里達には二人で先に帰ってもらう。
階段を降りた先に望も待っていた。二人一緒に呼ばれた事で、ますます土曜日の出来事で何か不味い事が更に起きたのかと訝しむ。
「悠真がね、家に来た女子二人を連れて来てくれって」
そう言って真凛は足を止めた。
「保健室に居るからって」
どうぞ、と横の部屋を指差してから、真凛は帰って行った。
保健室の扉をそっと開くと、カーテンの閉められた寝台があった。奥に一人、中年の保健師が座っている。
「剣崎くんに会いに来たの?こっちよ」
保健師は穏やかな小声で開けていい?とカーテンの内側に声を掛けると、中から返事が来た。
「どうぞ」
きっちりと制服を着た剣崎悠真が寝台に胡座をかいて座っていた。保健師は職員室に用があるからと、三人を残して行ってしまった。
適当な丸椅子に望と二人並んで腰掛ける。
「聞きたい事があって来た」
剣崎悠真は素っ気なく切り出した。緊張しているのか声が少し掠れている。
「河井がもう学校に居ないって本当か?」
私達に聞くよりももっと適した人がいそうな気もするけれど、今の剣崎悠真には他に聞ける人も居なさそうだと思うと少し切なくなった。
「うん。もう来ていない」
私と望は河井くんが悩みの無い国へ連れて行かれた事を知っているけれど、学校では自主退学した事になっている。河井くんの不在はクラス内ではごく自然に受け止められていた。
「…そうか」
剣崎悠真はぽつりぽつりと自分の事を話し出した。
二年生に進級してから河井くんと席が前後になって友達になった。同じゲームをしていたので、オンラインで夜一緒に遊んだりする仲だったという。
「会話しながら二人で寝不足になるまで遊んだりしたよ。親友になれたと思ってた」
悠真は時々ゲームにのめり込む事があって、朝起きれなくなった翌日は学校をサボるようになった。河井くんは心配してたのか、夜はちゃんと寝た方が良いとチクリと言われた。悠真にはそれも少しカチンときて時々面倒に感じていた。
「段々、勉強も解らなくなってきて…要するに怠けたくなったんだよな」
暫く家に籠ってゲームばかりやっていた。親には怒られたけど逆ギレしたら何も言わなくなった。
「真凛が家に来たって聞いても、別にそれで学校行こうとか全然ならなかったし」
ゲームのアカウントは変えて無かったので、不登校になってからも河井くんとは時々オンライン上で遊んでいたらしい。ずっと家でゲームばかりしていたから悠真が圧倒的に強くて相手にならなかった。
「でも、河井は負けてもずっとへらへらしてた」
ところが、ある日突然不登校のままで良いのかと真面目に聞いてきた。そんな話はしたくなかったので、少しキレ気味に遮ったらあの言葉を言われたらしい。
「もう悩まなくていいって…あいつが言った」
自分は毎日面白おかしくやってるつもりだったのに、あいつは俺が今の状況に悩んでくよくよしてると思ってたのが解って、無性に腹が立った。
「余計なお世話だって、怒鳴りつけてやった」
「そうだったんだ…」
悠真は自嘲気味に言った。
「なかなか面倒な奴だろ?河井に甘えてたんだと思う。あいつが唯一親身になってくれた相手だったのに全然そんな事に気付けなかった」
玲奈も望も言葉が見つからない。
それが起きたのは河井くんが悩みの無い国へ連れ去られる直前の事だった。
河井くんはお手付きを重ねたせいではなく、深い悩みに沈んでしまった事で連れ去られてしまったのだろう。
彼の悩みが悠真との友人関係の事だったとしたら。
彼が連れ去られた決定打は悠真との喧嘩のせいだったとしたら。
河井くん本人に聞いてみないと解らない事だ。でも玲奈は悠真の話を聞いて多分そうだったろうなと結論づけた。
「河井くんは…剣崎くんがきちんと悩みに向き合える様に救ってあげたかったのかな」
望が独り言めいた呟きをぽつりと漏らした。
きちんと悩みに向き合える様に。
それは試練を受けている間は不可能だ。
だから河井くんは剣崎くんを解放してあげたかったのだろう。
「もう行くわ」
剣崎くんは寝台から降りて、伸びをした。髪は長かったけれど整えられていて、制服もきっちり着こなしている。これなら明日から学校へ通って来ても違和感が無いだろうに、残念だなと思った。
「学校はもう来ないの?」
望がずばっと聞にくい事を聞いた。剣崎くんは案外平然と答えた。
「おう。辞めるよ」
フリースクールか、通信制か。はたまた転校か。とにかく環境を変えたいらしい。
「逃げてると思われるだろうけど、随分悩んで辞める事に決めたから。もう迷わない」
「そっか。頑張ってね」
「ああ。さんきゅう」
剣崎くんは少し考えるようにしてからぽつりと呟いた。
「河井のお陰かな」
元気でね、と送り出そうとしたら廊下をばたばたと駆け寄ってくる足音が聞こえた。
保健室の扉をがらりと開いて、二、三人の生徒が騒がしくなだれ込んでくる。
「せんせーい、冷却スプレーある?此奴が脚挫いちゃったみたいなんだけど…、と?」
あ…と、入って来た生徒達が気まずそうに私達を見た。見てはいけないものを見た、マズい、と顔に書いてある。
脚を挫いたらしい生徒を真ん中にして両脇を二人の男子生徒が肩を貸して支えていた。皆ジャージ姿だから運動部の練習中なのだろう。
右側にいたのは青柳くんだった。
「…剣崎?」
「あぁ…、ええと。じゃあ帰るわ」
剣崎くんは慌てて保健室を出て行った。
挨拶も言えなかったと、ちらりと思う。ひょっとしたら名乗ってすらいなかったかも知れない。剣崎くんは私と望の名前を知らないだろうな。
「早瀬さん。保健室の先生は?」
青柳くんに名前を呼ばれて驚いて跳ね上がる。あ、今職員室に…などと慌ててしどろもどろで答えた。
「呼んでくる」
青柳くんは足を捻ったらしい男子ともう一人の支えて来た男子を残して行ってしまった。
その後ろ姿を呆然と見送る。
「帰ろうか?」
望の言葉で我に返って、保健室を後にした。
結局、その月の終わり頃に担任がひと言「剣崎が退学届を出した」と言ったので、玲奈も彼が学校を辞めた事を知った。
気が付けば秋になっていた。朝夕は涼しくなって、時折冷たい風が吹く。
玲奈の試練を受ける仲間探しは暫く何の進展もない。
「もう一度、お手付き出来ると思えばあと一回くらいは大胆に行動しても良いと思うけど…」
望はそう言うが、なかなか次の相手に選ぶほどの決め手が無い。部活もしていないので、クラス内の生徒しか探せないのも問題があるのかもしれない。探す対象が狭すぎる。
家でゴロゴロしていると、レッサーパンダがぬうっと姿を現した。
「なぁに?別に今、悩んで無かったよね?」
レッサーパンダは玲奈がちょっとでもくよくよし始めると牽制する様に姿を現す。まるで、今ちょっと悩んだか?と監視されている様で落ち着かなくなる。
そうは言ってもレッサーパンダが現れたのは危険信号が灯った証拠なのだと思い、直ぐに考え事を辞めるようにしている。なかなか便利だ。
「決め手に欠けているようだな」
「まぁね」
せっかくレッサーパンダが現れたので、今まで疑問に思っていた事を聞こうと思った。
「ねえ、何でレッサーパンダなの?望はホワイトタイガーなのに」
「そんな事か。バディの好みの獣を形どる様だがはっきりとは解らん」
「あー、確かにレッサーパンダ好き。どうせなら好きな動物の方が仲良く出来ていいよね」
そういえば…と、前置きをしてもうひとつ聞いてみる。
「望みたいに、試練が終わってからも一緒にいられるの?」
「いいや。通常は試練が終わったらバディも居なくなるものだ」
「そう。じゃあ、なんで望のホワイトタイガーはずっと一緒にいるの?」
「…さあな」
あれ?と引っ掛かった。いつも割と即答で返事をしてくれるのに歯切れが悪い。
気になったが、もう一つの疑問も聞いてみた。
「今までの試練を受けていた人で、自分の大事な人を救おうとした人いる?」
「何だそれは?」
通じないか。無理もない。
試練をしている間に日に日に感じるのは、思いっきり悩めない事への苦痛だった。
毎日学校へ行って家に帰って…ただそれだけを繰り返していても時々落ち込む事がある。
最近は試練のせいで自分が悩んでいると思わなくなった。でも意外とこれがキツい。
もっと、深く悩みたい。
自分の悩みから逃げたくない。
そう考えていた時に、ふと青柳くんは試練を受けていたとしたら大丈夫なのかな?という心配が湧いた。
進路や部活、恋愛だって悩む事はあるだろう。思いっきり悩めないせいで苦しんでないかな?
もし、私が救ってあげたら…
そこまで考えて、一人でぶんぶん頭を振った。青柳くんから「もう悩まなくていい」を聞き出すにはどうすれば良いだろう?かなり難しい。
それよりも、的外れな「もう悩まなくていい」を人に言うのはやめた方がいい。剣崎くんの時で懲りた。
ふと、彼女になれたらお互いに言えるのかも、と思った。付き合っている同士なら悩みを打ち明けられそうだし。その流れで自然に言えそうだ。
芽衣が青柳くんを救えばいいんだ。そうか。いや待てよ、芽衣は試練を受けていなかったらやっぱり私か…等と悶々としていたら、レッサーパンダの左手につんつんとされた。
「そんな事よりも、次の候補を話し合うんじゃなかったか?」
「そうだった。望と通話繋げなきゃ」
約束の時間が迫っていたので、慌ててスマホを手に持った。
祖母が入院しているというので、週末に家族揃ってお見舞いに行くことになった。父の運転する車に乗せられて隣町の総合病院へ向かう。
祖母は風邪を拗らせて肺炎気味らしいので、暫く病院で入院して回復を待つという事だった。聞いていた話よりも元気そうで、顔色も良くほっとした。
お見舞いを終えて病院の正面ロビーまで戻った。そこでロビーを横切ってずんずんと大股で歩き去る男子に気がつく。
「姉ちゃん。どうした?」
弟の優弥が足を止める私の視線を追う。
「ううん。何でもない」
適当に誤魔化して返事をしたが、今のは見覚えのある相手だった。多分隣のクラスの男子だ。
「ちょっと用事を思い出したから、先に帰ってて」
母親にそう言って、慌てて男子の後を追った。病院に居るだけで気になるというのはどうかと思う。けれど偶然に頼りたくなるくらいには今の状況に焦っていた。
望は三年間ずっと試練を受けていたらしい。私はまだ数ヶ月しか経っていないが、まあまあ限界だった。
さっさとお手付きをし続けて失敗を重ね、悩みの無い国へ行ってしまおうかと時々考えるくらいには追い詰められてきている。
そしてふとそう考えている時にはレッサーパンダがすうっと現れるのも癪だった。やけを起こしてはいけないと釘を刺されているようだ。
彼がエレベーターに乗るのを確認して、降りた階を確かめた。次のエレベーターで目的の5階病棟へ上がる。
そこは小児病棟だった。
看護師ステーションで目指す相手の背中が見えた。ここまでは上手く追い付いた。
後は何となく話し掛けるだけだが…ほとんど初対面の相手に病院で話し掛けるのは非常識だとさすがに思いとどまった。
とりあえず、一旦冷静になる為に望に連絡してみる。直ぐにLINEが返ってきた。
「誰か解るかも」
「え?何で?」
「私たぶん去年同じクラスだったはず」
学園祭のスナップ写真が送られてきて、一人の男子に丸がつけられていた。さっき会った相手と似ている気がする。
「小森良翔」
「ありがとう。でも辞めた方がいいかな?」
少し間があってから、望から返信が来た。
「ちょっと直接話したいから、今からそっちの病院に行くね」
フットワークの軽さに驚くものの、来てくれるのは有難かった。画面を覗いて写真をアップにしてみる。
通路のベンチに座る私の前に人が立った。望にしては早すぎるな、とぼんやり考えて顔をあげると不機嫌そうな相手と目が合った。
「それ、俺?」
相手はスマホを指差して言った。小森良翔だ。
「えっと…これには訳が…」
「何で俺の事探してるの?あんた誰?」
全く心の準備が出来ていなくて、頭がパニックになっていた。
病院内のカフェらしき場所へ移動して、机を挟んで正面に座った。
ひとまず、写真の事は正直に望に送って貰った事を告げる。
「ああ、西川か。去年…居たな」
同級生という身元を証明する事が出来て少しホッとした。けれどまだそれだけでは相手をつけ回す(と思われているに違いない)理由にはならない。何とかここに居るのに怪しくない理由を捻り出さなければいけない。
望にカフェにいる事を伝えようと慌てて返信した。画面を眺めて時間稼ぎをするが、長くは持たない。
「ところで、名前は?」
「早瀬玲奈、5組です」
「俺は4組だから隣のクラスだな。西川も今5組か」
「小森くんは…何故あの場所にいたんですか?」後ろめたさが変な敬語に現れている。きっとこんな事聞かれたく無いだろうなと申し訳なく思う。病院にいる理由は人それぞれだろう。
玲奈が内心申し訳なく思っているのに反して、相手は意外とあっさり話してくれた。
「幼馴染が入院してるからな」
「入院?」
「腎臓が悪くてずっと治療入院している。同い年なんだが…学校はほとんど行ってない」
思ってた以上に深刻な話だった。
小森は淡々と幼馴染さんの病状を教えてくれた。中学入学した頃から体調を崩しがちになり、学校を休み始めた。初めは家族も気にしていなかったが、自宅近くの内科クリニックから紹介された総合病院で検査を受けたところ異常が見つかったという。
「今日も見舞いに来たけれど…さっきは寝ていた」
「退院はいつ出来そうなの?」
「さあな。多分決まったら教えてくれるだろうから、まだなんだろう」
小森くんも、幼馴染さんも、どれほどの悩みを抱えて来ただろうか。体調が悪くて入院中は一人きりで。学校にいけないし友達にも会えない。
「初対面だけど…お見舞いしても良いかな?」
そこで玲奈の携帯に連絡が入った。望が病院に着いたらしい。そう小森に伝えると、彼は立ち上がって言った。
「病室は521だ。四人相部屋で右側奥にいる。先に明莉に会っても良いか聞いてみるから、もし無理そうなら帰ってもらうよ」
幼馴染さんは明莉さんと言うらしい。
玲奈からひととおりの説明を聞くと、望は唸った。病室に行くべきかどうか迷っていたので望に相談する。
「それは…難しいね」
「うん…」
同級生として会うのは良いけれど、小森くんや明莉さんに「悩まなくていい」なんて、絶対言っちゃいけない言葉だ。
「いったいどんな状況ならそう言えるだろうね」
「相手を元気づける時?そんなくよくよしなくて良いよ、みたいな」
どう考えても、入院中で苦しんでるだろう明莉さんや、彼女を気遣って一緒に辛い思いをしている小森くんに言う言葉じゃない。
「前みたいに勢いに乗ってさっさと言っちゃうのも有りなのかもね」
望が冗談めかして言うのをジロリと睨む。
「もう…あんな気まずい失敗は嫌だよぉ」
不登校の剣崎に掛けた言葉は思い出すと今でも顔から火が出る程恥ずかしい。
「そういえば、何で直ぐに小森くんだって解ったの?」
「私も去年のある時期に試練してるんじゃないかって疑ってたからね」
「そうなの?」
「何回か小森に悩まなくていいって言おうと思った。病院に誰かをお見舞いに行ってるって聞いたから、てっきり家族かと思ってたんだけどね」
そこで望は隣りで大人しく座っているホワイトタイガーを撫でた。
望は玲奈に声を掛けて終了するまで、ずっと試練を受けている人がいないか探していた。何人か怪しい人がいたらしい。それは誰か聞くと、5人くらい候補が上がった。
「去年同じクラスだったのは小森良翔、片岡璃沙、今年同じクラスでは青柳陸斗、柳田蒼、遠田莉央、かな」
玲奈はぎくりとした。
密かに想いを寄せている青柳くんと、親友の莉央が候補になっている。それぞれどうしてそう思うのか聞きたいが、今は時間が無い。
「取り敢えず、病室に向かおう。明莉さんも会ってくれるかもしれないし」
二人で立ち上がって、エレベーターホールに向かった。
結果として心配し過ぎだった事が分かった。明莉さんは今日は調子が良いのか、元気で朗らかに笑っている。小森くんも先程までの警戒心増し増しの態度が嘘だったみたいに優しい。
高校ではこんな事があったとか、先生があんな失敗をしたとか、他愛ない話を聞きたがって明莉さんはころころ笑った。玲奈はつい調子に乗って美里達と踊った動画まで見せていた。
明莉さんは楽しそうに眺めていたが、小森くんがそろそろ疲れたかと聞くと、小さく頷いた。
「あ、ごめんね。長居しちゃった」
「ううん。楽しかった。良翔の話してくれる事だけだと同じ歳の女の子の事は分からないから…すごく新鮮で良かった」
また遊びに来てね、と明るく手を振って送り出してくれた。
一日で仲良くなれたから、玲奈はかなり自信が持てた。この調子なら自然に友達関係になって、もう悩まなくていいと言っても不自然じゃないかもしれない。
数日後、その予想は簡単にくじかれた。
玲奈は小森くんと明莉さんとLINEを交換して時々連絡していた。大抵は明莉さんに「調子どうかな?」「今日は何してる?」などと他愛も無い内容を送っていた。
数時間待っても既読が付かない時は小森くんに送り直した。「今送ったLINEに明莉さんから返事が来ない」「大丈夫かな?」という様な内容で玲奈が一方的に落ち着かなくなっている事ばかりだ。大抵は暫くしてから小森くんが「大丈夫そうだ」「明日には返事あるよ」などと送ってくれるのだけど、結局は明莉さんからの返事が無いと落ち着かない。身体の事だけに、何かあったのでは無いかと心配してしまう。
望に相談したら、あまり感情移入し過ぎると苦しくなるよと素っ気なく言われた。確かに明莉さんの病状について詳しく知っている訳では無いので、想像だけで色々考えてしまうのは結局無駄な事なのかもしれない。
「玲奈どうする?二人は試練を受けてると思う?」
「明莉さんに…もう悩まなくていいよって言ってあげたいけどな」
望は通話中のLINE画面の中で考え込んだ。
「どうしたの?」
「うん。玲奈が客観的に冷静な目で見る事が出来ていれば問題無いけど、情に流されると良くないな、って思ったから」
今度は玲奈の方が考え込んだ。レッサーパンダがぬうっと現れて、玲奈の瞳を覗き込む。
「辞めて。私の心を見透かさないでよ」
つい苛立ってレッサーパンダに当たってしまった。相手はさして気にもしてない様子でふんと鼻を鳴らす。
「悩んでなければそれで良い」
「悩んでるのは私じゃ無いでしょ」
そうだ。ちょっと知り合って解った気になってたけど、明莉さんと小森くんの辛さは本人達にしか分からない。ほんの気紛れに横入りした私に理解出来るはずも無い。
「あの二人が悩みを抱えていないはず無いよね」
玲奈から結論付ける様に断言した。彼等が悩めないという試練に耐えれる訳が無い。
「決めた。私の結論は二人とも試練とは関係なし、という事にする。もう無理に追い掛けない」
望も画面の中で頷いた。
「玲奈がそれで良いなら」
「せっかく友達になれそうだから、関係は続けたいけどね」
出来るだけ明莉の力になりたい。玲奈は心の中でこっそり決意を固めた。
朝、学校へ登校すると正門付近で小森くんに会った。
「よ、おはよ」
「おはよう、小森くん」
二人で並んでいると自然と明莉さんの話になった。
「昨日は大分良くなったみたいだ。最近は日によって体調の浮き沈みが激しいからだいぶ辛そうに見えるな」
「どれくらいの頻度でお見舞いに行ってるの?」
「平日は病院の近くのコンビニでバイトしてるから働きに行く前に顔見せてる。だいたい、週3日くらいバイトの日があるから、それに土曜日を合わせて週4だな」
それは凄いね、と思わず尊敬の眼差しで見上げた。
「出来るだけ一人にしたくないからな」
小森くんの中では明莉さんの事が生活の中心になっているのだろう。
好きなんだな、と何だか胸にぐっと迫る。
「明莉が二人がまた遊びに来ないかなって待ってるよ。何時でも顔を見せに行ってやって」
「うん。そうするよ」
昇降口でお互い別々のクラスへ向かって別れた。
「おはよう」
玲奈の後ろからさっと青柳くんが通り過ぎて行った。他に生徒はいないので、自分に挨拶したのだと気付いて慌てて返事をする。
「お、おはようっ」
既に先に行っていて後ろ向きだったけれど、彼の首がぺこっと折れたのが解った。ちゃんと声が届いたみたいだ。
こんな事で一喜一憂している自分、子供みたいだと情けなくなる。
でも手が届かない相手なら、これくらいで嬉しくなって丁度いいのかも知れない。
それから数日後、明莉とのLINEがずっと既読にならなくなった。
小森くんにも「どうしたの?」と様子を尋ねるLINEをしたけれど、此方は既読は付いてもスルーされてしまった。
望に連絡して様子を聞いてみると、暫く連絡してなかったらしい。とりあえず望も急いで送ったLINEはやはり既読が付かない様だ。
「どうしたのかな…」
「心配だけど、待つしかないね」
望は冷静に可能性のある事をあげていく。充電が切れてるとか、検査や退院で忙しいとか…。
お互いに明莉の病状が悪くなった場合の話は避けていた。そんな事は考えたく無い。
「あ、小森くんから返事が来た…」
偶然、望と連絡し合ってるこのタイミングで来たLINEには不安な気配が纏っていた。
「明莉がかなり調子悪い。明日には緩和ケア病棟のある北関東の病院へ転院するらしい」
玲奈は無言で画面を見つめた。
望も一緒に入っているグループLINEで返信が来ているので、同じ内容を見ているだろう。
望はどう受け止めているのだろうか。
玲奈が返信しようかどうか迷っていたら先に望から返ってきた。
「そっか。お大事にしてと伝えてね。明莉さんのLINEにもこちらから連絡しようと思うけど、それくらいは大丈夫?」
「ああ。元気付けてやってくれると助かる。ただ、もう見る気力も無いかもしれないから、返事が来なくても大目に見てやってくれ」
「了解」
二人のやり取りを見て私も何か気の利いた言葉を言わなくてはと焦るけど、こんな時に何を話せば良いかなんて分からない。
緩和ケア病棟?そこは元気になったら退院出来る場所なの?
既読をつけてしまったけれど、返す言葉が分からずに玲奈はスマホの前で息を潜めていた。
週末を利用して明莉の居る緩和ケア病院へ見舞いに行くというので、良翔は彼女の両親と一緒に車で乗せて貰う事になった。
「良翔くん、すまないな」
「いいえ。というか、俺まで一緒に乗せて貰ってすみません」
「…大丈夫、明莉が望んだ事だから」
明莉の母親である遠藤のおばさんが力無く笑った。おじさんもおばさんも普段は快活な人達だと知っているから、余計に痛々しい。
「良翔くんが来てくれるとあの子も元気づけられるから…。ごめんなさいね、こんな遠くの病院に転院になってしまって…」
「なかなか良翔くんにも会えなくなるな。明莉も淋しがる」
「そうですね…」
高速道路も使って片道一時間半の場所に今度の病院があるらしい。電車では行きにくい場所で、高校生の良翔には交通手段が無い。自分の力で行く事は無理だった。
こうして幼馴染という立場を利用して遠藤のおじさんおばさんに甘えて車に同乗させて貰えたが、次はもう無いだろう。
明莉にとってはこの先一秒一秒が残された大事な時間になる。踏み込めるのは家族という絆に結ばれた間柄の者のみだ。良翔が入り込む権利は無く、今でも立入りすぎだと解っている。
それでも、明莉を一人にさせるのは嫌だった。そう思ってずっと側に居ようとしていたけれど、もうそれも叶わない。
急に込み上げる感情があり、瞼が熱を持つ。
良翔は目を閉じて眠ったふりをした。
車の振動が止まり、良翔は目を覚ました。知らないうちに眠ってしまったらしい。
「良翔くん、着いたよ」
明莉の両親が慣れた様子で病棟を目指して歩いて行く。良翔は静まり返った白い廊下を進みながら、明莉はどんな気持ちでここにいるのだろうと重苦しい感情に襲われた。
病室は個室だった。おばさんが先頭でノックをしたが返事は聞こえない。構わずにそのまま扉をがちゃりと開ける。
明莉は眠っていた。
「…眠れてる時間の方が、幸せかもしれないわね。悩みが無くて…」
おばさんがぽつりと言った。
隅に避けてあった椅子を俺に勧めて、おじさんが言った。
「先生の説明を聞いて来なくてはいけないから、良翔くんここで明莉を見ていてくれないか」
そう言うと、二人で連れ立って部屋をそっと出た。もしかしたら気を使ってくれたのかもしれない。
良翔は明莉の顔を覗き込んだ。青白く生気が無い。腕に点滴の針が刺さって痛々しく、身体には幾つもの管が繋がっている。
反対側の手をそっと握った。体温が低くてそれも心配になる。
「よしと…?」
「うん」
「もう来なくていいのに…」
明莉が聞き取れない程のかすれ声で呟く。
「無理して話さなくて良いから。今日は側にいるから寝てな」
口の動きで明莉はうん、と呟いた。
無意識に握る手に力を込める。どこにも行かないで欲しい。
「よしとが来てくれたのに…寝てたら、もったいない…な」
大丈夫だよ、と耳の近くに顔を寄せてそっと告げた。まだ明莉が元気だった頃、周りに隠れて病室で初めてキスをした事を思い出した。まだ完治する事を信じていたあの時は幸せだったと思う。
明莉が深く息を吐き、うっすら目を開いた。
「よしと…。わたしにずっと、言いたかった事…ある?」
俺は無意識に表情が強ばった。でも動揺しているのを明莉に気付かれたくない。
「ある…よね?」
ぎゅっと両眼を閉じて、心を落ち着かせる。明莉に今言いたい事は色々溢れているが、彼女が言わせようとしている言葉はひとつだ。
「…明莉。お前も…」
言いたいけれど、言えない言葉がある。お互いに。
良翔の右肩にぼうっとイヌワシが浮かび上がった。
そして明莉の枕元にはヒバリがちょこんと乗っている。
明莉は良翔の右肩に目を向けて、ほうっと息をついた。
「あの子達には、イヌワシ…見せなかったね」
「ああ。明莉も…ぽっと現れた相手に、わかった様な事を言われたくないだろ?」
明莉がうっすらと笑った。
「明莉…」
俺は躊躇っていた。
明莉は俺の気持ちに気付いているのだろう。震える手で俺の手を握り返して言った。
「もう…今日しか無いよ?良翔…自由になりなよ」
そのイヌワシみたいにね。
「俺はお前が楽になってくれた方が良い」
「よしとが…残された時間で…苦しむのは嫌…だな」
お互い譲り合っているのは分かった。でも良翔本人にもどうするのが正解か分からない。
暫く無言で迷っていたら、明莉がぐっと上半身を持ち上げて良翔の顔を両手で挟み込んだ。手が震えている。痛みを堪えているのか眉間の皺が深い。
一度深呼吸をしてから、明莉は力を振り絞って告げた。
「言っていいよ…おね……、が、い……」
良翔は観念して言った。
「ありがとう、明莉。…もう悩まなくていいんだよ」
明莉の目の力がふっと抜けた。支えていた力を無くした上半身がすとんと寝台に落ちる。
俺は両手で顔を覆った。自分が卑怯過ぎて心底嫌になった。
玲奈は自分の部屋でごろごろしながら次に撮る動画の事を考えていた。曲は決まっているけど、少しアレンジをしたい。二番目の美里のパートのところで何かメッセージのある動きをするのはどうだろう?
真剣に悩んでいたら、すうっとレッサーパンダが現れた。試しにどっちのダンスの動きが良いか見てもらった。
「どちらでも」
「…だよね」
レッサーパンダに聞いた事を後悔した。
「そういえばさ」
何だ?とレッサーパンダが上目遣いに視線を合わせた。とても可愛い。きゅんとする。
いかん、ほだされてる場合では無い。
「気になってたんだけど、何であの言葉なの?」
「あの言葉、とは?」
「もう悩まなくていいって言う…あれ」
ふむ、とレッサーパンダは思案げな顔をする。
「悩まなくていいって言われた方は、結局何も状況変わらないんだよ?気休めだよ」
いや、もしかしたら嫌がらせか煽りにも受け取れる。
「それに、その台詞を言った方は試練から解放されるから、これからはもう悩み放題。ずっと悩みが無さそうな道化のふりをしてたのが解放されるんだよ?」
実際は悩まなくていいのは言った側だ。
「これからも悩まないように頑張ってねとか、私も悩めない仲間だったんだよ、とか…あれ?」
結局、どれも言われても嬉しくない言葉ばかりだ。
レッサーパンダも苦笑した。
「結局は、相手の気持ちに寄り添う事が出来なければ何を言っても虚しいという事だ」
「そっか…そうだね」
もしも、青柳くんが試練の最中だったとして私が掛けれる言葉があるだろうか。
想像してみた。
もう悩まなくていいよ、なんて彼女か親友じゃなきゃ言えない言葉だ。
「難しいね。相手に申し訳ない気持ちが先に立っちゃう」
「そうだな。自分だけが試練から解放される訳だからな」
「小森くんと明莉さんは…大丈夫かな」
ぽつんと呟いた。でも直ぐに考えるのはよそうと慌てて頭を振った。くよくよしそうになるからだ。
明莉さんとのLINEは相変わらず玲奈の一方通行だった。ずっと既読がつかないまま、こちらからの通信だけが溜まっていく。
相手の様子が分からないのは不安だった。
何か玲奈が嫌な事をしてしまったのか、スマホを見る事も出来ないほど明莉の調子が悪いのか…
既読が付かないのを見ると気が塞ぐので、暫く放置していた。ふと携帯を手に取って確認する。
明莉とのLINEに返事があった。
ほんの数分前に相手から送られていた様だ。
画面を開いて、玲奈は凝視した。
「もう悩まなくていいんだよ」
「…なに、これ」
暫く呆然としていた。
これが何を意味しているのか理解したくない。
レッサーパンダに画面を向けると、落ち着いた様子で頷いた。
「相手の試練が終わった、という事だ」
「こんな…」
まるで明莉に利用された様に感じた。
裏切られた気分が酷い。
そのままベッドに倒れ込み、枕に突っ伏してじっと涙を堪えた。
毎日変わらず登校していた望は、欠席者の机をちらりと見た。玲奈は二日続けて休んでいる。
二日前の深夜に、玲奈からLINEが来た。明莉から玲奈に試練の仲間を見つけた時の合言葉が送られてきたらしい。
淡々と事実を述べるLINEだった。
望からは、「大丈夫?」と玲奈を心配する返事を送ったが、「うん」と気の無い返事が来ていた。
望は明莉へはそれほどLINEを送っていない。病身の彼女を煩わせてはいけないと思ったからだ。それに玲奈と仲良くなってくれなくては困る。お互いに試練をしている事が分かり合うくらいに近い関係になれば都合が良い。
「上手くいかないな」
隣りのクラスの小森良翔も少し前からずっと休んでいる。何かあったのかな、と望も心配していた。
教室の後ろの扉が空いて、その当人が顔を見せたので驚いた。
望に軽く目配せをしてそっと立ち去った。
小森から放課後に駅前で待つとのLINEが入っていた。初めて玲奈と会った緑地広場のベンチで並んで腰を降ろす。
そこで明莉は緩和ケア病院へ転院している事を初めて知った。
「もう回復の見込みは無いんだと思う。短い間だったけど、今までありがとうな」
「ううん。何も出来なかった。ごめんね」
小森は落ち着いて見えた。本当は今も明莉の近くに居たいだろう。
望は傍らに控えるホワイトタイガーをちらりと見遣った。軽く首を横に振る。
望にも既にイヌワシが見えなくなっていた。
小森は私と玲奈のいる時に用心深くバディの姿を見せないようにしていた。それに望は気付いていた。
以前、病室で何となく小森の様子を覗いていた時に偶然イヌワシが見えた。玲奈は見ていなかったので、自分だけ小森が試練中だとその時に知った。
ただ、もう小森と明莉には近付かない方が良いと思った。
若くして入院してばかりの明莉を元気づける方法が思い付かない。小森良翔との時間を邪魔するのも嫌だった。早い段階から望はそう結論付けた。
「病院が離れた場所だから、もうお見舞いはいいよ」
「小森くんは明莉さんと会えるの?」
「いや。もう、俺も遠慮してる。かなり悪いみたいだ」
LINEも返ってこないし、と淡々と告げた。
「そう。明莉さんは最後の瞬間まで小森くんに会いたいだろうと思うけど」
素っ気なく言う望に、意外だったのか小森は目を丸くした。少し目が優しく笑う。
「そうだと良いけどな。でも俺は家族じゃないから」
じゃあ、と先に小森が立ち上がった。
「早瀬さんにもよろしく言っておいて」
「うん。分かった」
先に駅へ向かって歩き去る背中を見ていた。
ホワイトタイガーが横に立って言った。
「イヌワシの事は聞かないのか?」
「うん。試練の仲間を見つけて言葉を掛けたから、消えてしまったんだね。小森くんが言葉を掛ける相手は明莉さんでしょ?それしかいない」
明莉は最後に小森を自由にしてあげた。
同い年なのに病気で亡くなる存在がいるという事が辛い。学校なんていい場所でもなんでも無いけど、きっと明莉は来たかっただろう。
「明莉さんこそ悩みの無い世界へ連れて行ってあげたいね」
ホワイトタイガーが小さく吠えた。
目的の電車が来て良翔は乗り込んだ。もう病院前のコンビニバイトは辞めたから、真っ直ぐ家に帰るしかない。
望には良翔から明莉に悩まなくていいと言った事を打ち明けるつもりだった。結局出来ずに帰ってしまったが。
そして、明莉との最後の面会の時に良翔がした事も言えずじまいだった。
数日前、既にベッドの上の明莉は意識が無く目を開ける事も無かった。明莉の両親は家に一度帰っていたので、良翔は一人で夜まで明莉に付き添っていた。
良翔は明莉の顔をじっと眺めた。頬が痩せこけて、顔が青白い。見ているのも痛々しい様変わりをしていた。
そっとベッドサイドにある明莉のスマホを手に取って開く。寒々しい病室でスマホの画面が冷たく浮かび上がった。
LINEを開き、溜め込まれた通知を読む。
明莉に悪い事をしているという自覚はあったが、玲奈からのメッセージを見て何故か怒りが湧いてきた。
玲奈が明莉を利用する為に近付いたと思うと、急に許せなくなった。
良翔は明莉のふりを装って、玲奈に最後のメッセージを送った。
これで玲奈は明莉にも良翔にもあの言葉を掛ける事が出来ない。良翔はこれで良い、と目を閉じた。
季節がまた巡って、寒い北風が制服の上から容赦なく吹き付ける冬になった。学校へ向かう朝の空気が冷たく、息が白い。
玲奈は明莉のメッセージを受け取ってからショックで学校を三日サボった。こんな事は滅多に無いので、両親も弟も心配したけれど寝たフリをしてやり過ごした。
レッサーパンダはずっと現れて玲奈の様子を見守った。多分、悩みが深くなれば玲奈を連れ去るつもりなんだろう。
こんなに傷ついてるのに…悩んでない事になるのは不思議だった。理不尽な仕打ちを受けた事に対する怒りが少し混じっているからかもしれない。
登校し始めて間もなく、望から明莉が亡くなった事を告げられた。
「大丈夫?玲奈?」
「うん。ショックだけど…」
少し感情を押し殺す必要があった。
この短期間にあった出来事に正面から向き合うと、悩みが深くなりそうだった。まだ私は悩みの無い世界へ逃げ込むつもりは無い。この世界で抗おうと思う。
ただ、もう少しだけ心が回復するのに時間がかかりそうだ。
毎朝、昇降口で挨拶の声が行き交う。
「おはよう、早瀬」
「あ、青柳くん…おはよう」
登校時間が近いみたいで朝はよく会えるのが嬉しいな、と思っていたら声を掛けられた。
「帰り、教室に残れる?」
玲奈は硬直して、頭が上手く回転しない。なに?教室に居残り?
「無理なら…」
「ううん。わかりましたっ」
変な敬語になってしまい、焦る。青柳くんからお誘い?いったいなんだろう?
玲奈は一日中帰りの事が気になってそわそわ落ち着かなかった。
美里と莉央に先に帰ってもらい、教室に残った。スマホを弄りながら青柳くんを待つ。
間違いだったのかな?と不安になっていると、後ろの扉がそっと空いた。
「待った?」
青柳くんが玲奈の方へ近付いて来た。何だか待ち合わせをする人みたいな会話だ、と変にときめいて、不自然にぶんぶん首を振った。
「あのさ…」
そこまで話して、青柳くんは言葉に詰まってしまった。
「座る?」
「あ、うん」
玲奈は変な確信めいた直感が働いた。
先手を取って先に話し出す。
「青柳くん、今も芽衣と付き合ってるの?」
「え?いいや。」
みんな、誤解してるみたいだけど…と、前置きしてから青柳くんが言った。
「一度映画に一緒に行っただけだよ」
そうだったのか…、と腑に落ちた。教室でも二人が仲良く話している様子を見た事が無かった。付き合ってなかったんだ。
玲奈はならばと踏み込んだ一言を告げた。
「じゃあ、私ともどこか行かない?」
「え?う、うん」
青柳くんが勢いに押された様に頷いた。押したもん勝ちだ。
「じゃあ、今週末にハピネスモールに行くのはどう?」
「…ん、了解」
玲奈は握っていたスマホを取り出して、お互いのLINEを交換した。よろしく、のスタンプを送り合う。
「じゃあ、11時に集合ね」
「…うん。ありがとう。早瀬」
軽く青柳くんに手を振って、さらっと教室から帰って行った。
待ち合わせ場所に着くと、青柳くんが先に待ってくれていた。遠くから見ても、私服姿がかっこいい。胸がぐっと捕まれた様に痛む。
「ご飯、どうする?」
「青柳くんの食べたいのは?」
「いや、早瀬が決めて良いよ?」
などとやり取りした後に無難にマックに落ち着く。お互いに注文を済ませてトレイを持ち、ぎこちなく席に座った。
「いただきます」玲奈がおどけて手を合わせた。
クスッと青柳くんが笑ってくれる。嬉しい。
会話はほとんど玲奈から質問攻めにするような形になった。この後、映画を見ようか。何のジャンルが好き?アクション?私も好き。今やってるのは…日本映画なら大ヒットシリーズ物で、ハリウッド系ならスパイアクション物だね。アニメの名探偵シャロクはアクションに入るかなぁ?などと一方的に早口で喋った。
青柳くんは穏やかににこにこ話を聞いてくれている。時折チラッと視線を合わせる瞬間があって嬉しい。
ちゃんと飽きずに話に付き合ってくれているみたいだ。良かった。
映画館に行って、無難に日本のアクションシリーズにする。さすがに涙が止まらなくなるような若者の恋愛ものを選ぶ勇気は無い。
すっきりとハッピーエンドに終わった映画を見終わって、並んで映画館を出た。
「あ、クレーンゲームやろ?」
普段は直ぐにプリクラを撮るけれど、そちらはスルーした。思い出は残せない。
プチかわのぬいぐるみがあったから、玲奈が硬貨を入れて率先して始める。
「よし、こい!」
三回チャレンジするも、ころんと転がるばかりで全然取れなかった。
「…やっていい?」
控え目に青柳くんが申し出ると、そっと身体を入れ替えた。結構真剣に身を乗り出して取ろうとしてくれている。慎重にフックを止めると、上下に動かして持ち上げさせた。
「あっ…!」
やはりころんと転がって、プチかわのぬいぐるみはゲットならず。これ以上硬貨を投入するとお小遣いが厳しくなるので、大人しく諦める。
「残念だったねー」
「俺、あんまりやった事無くて…。ごめん」
「ううん。他のも見よう?」
ぶらぶらとクレーンゲームやカーレース、シューティングゲーム等を眺めて歩く。
デートみたいだなぁ、とぼんやり幸せに思った。
疲れたので休憩しようと、チェーンのコーヒー店に入った。
自分は気に入っているフレーバーがあるので迷わず決まったが、青柳くんがメニューを見て悩んでいる。思わず、そんなに悩まなくてもいいよ、と言いそうになって慌てて止めた。
こんなシチュエーションで合言葉を言いそうになる事があるんだ、と驚いた。
気配を感じたので、ちらっとレッサーパンダを見た。うんうん、と小刻みに頷いている。
結局、青柳くんは普通サイズのアイスコーヒーを頼んで、私はモカフラッペの小を頼んだ。
映画の感想を話し合って、期末テストの予想をしあって、クラスの皆の噂話をしあった。
青柳くんの部活の話を聞いて、引退した時の悔しい思い出も聞けた。
今日一日で少しは近付けたかな、と思う。
会話が途切れた辺りで、ちらっと表情を窺う。
リラックスしている様に見えた。素の青柳くんを見せてくれていると思いたい。
でも今日の時間はそろそろ終わる。
残念だけど、次は無い。
玲奈は覚悟を決めて、切り出した。
「青柳くん。ひょっとしたら言いたい言葉…、ある?」
あ、やばい。少し声が震えた。
目元に力を入れないと泣きそうになってしまう。
涙目なのを見られたくなくて、俯いて黙った。頭頂部辺りに彼のかすれ声が聞こえた。
「うん、ある…」
やっぱりな。玲奈は覚悟を決めた。
「どうぞ…」
小声で促す。
青柳くんが悩まなくて良くなるなら、私に出来る事をしようと思った。いや、悩んでも良くなる、だけどね。
とはいえ視線を合わせて待つ覚悟は無かった。泣いてしまいそうだからだ。
「早瀬…」
青柳くんが躊躇っている。
良いよ。言って。もう悩まなくて良いって。
「俺と付き合ってください」
「え?」
「え?って…え?」
「あ!ちょっ、違うの!待って待って!」
慌てて玲奈は手を振り回し、失言を打ち消した。
隣りでレッサーパンダがにやりと笑ったように見えた。
結局、返事ははい、と返した。
見ると、彼の周りには動物らしき影がいない。バディがいないなら試練をしていないのも当然だ。
「よろしく、早瀬」
「うん…」
夢みたいだ。告白されてしまった。全く実感が無い。
放課後に呼び出された時から、青柳くんから悩まなくてもいいよと言われるのを覚悟していた。
彼も試練に苦しんでいたんだな、と思うと救ってあげたい気分になった。利用されたとは思わなかった。
明莉さんからLINEを貰った時には、もう二度と誰も救ってやるもんか、と思っていたのに。不思議だ。
ただ、ほんの少し夢を見させて貰おうと一日デートに付き合って貰う事にした。
最後に今日の別れ際に合言葉を言ってもらってさっぱり別れようと思った。
「もう、悩まなくていいよって言われると思ったの?」
「うん…って、青柳くん、何で知ってるの?その言葉」まさか?
「俺も試練終わったから」
二度驚いた。
彼は既に試練を終わらせた一人だった。
ハピネスモールを出て、帰り道は並んで歩いた。夕暮れの風が冷たいけれど気持ちがほっこりしていて、気にならない。
「試練の合言葉を掛けたのは近所の同級生でさ。コンビニ行こうと思って偶然家の近くにいたから、久しぶりって声を掛けたんだ」
玲奈も不思議に思って聞いた。
「何で試練を受けていそうだと気付いたの?」
「お前は何か悩み無いか?って聞かれたから」
久しぶりに会ったにしては、いきなり重い問い掛けだ。
「俺は悩んでる場合じゃ無いけどな、ってあいつが言ってたんだ。ん?、と思って…」
勢いで、合言葉を言ったら当たったらしい。
「すごくがっかりしてたよ。まさか俺も試練を受けていたとは思わなかったらしい」
「そうだったんだ」
青柳くんは少し申し訳なさそうに言った。
「ごめんな。早瀬から俺に合言葉を言ってもらって、試練から助けてあげれたら良かったんだけど…」
「ううん。私も今日、青柳くんに合言葉を言ってもらおうと思ってたから」
青柳くんは驚いた表情になった。
「そんな事考えてたんだ?」
「うん」
「今度そいつに連絡取ってみるよ。試練がまだ終わってなかったら早瀬に協力して貰えるかも」
「ううん、良いよ。まだ自分で相手を探してみる」
ありがとう、とお礼だけ言ってその話はそこまでにした。
青柳くんと、私。
試練の相手を二人とも抜けさせて、自分だけはまだ取り残されるとなると、その近所の子も辛いままだろう。下手をすると青柳くんが恨まれてしまうかもしれない。それは困る。
青柳くんと両思いになれた事は嬉しい。
でも玲奈の悩んではいけない状況はまだ終わってない。
まだまだ先は見えない。
数日後、望に連絡をしてありのままに説明した。
「凄いね、望。以前怪しいかもしれないって言ってた中に青柳くんが入っていたでしょう?観察眼が鋭い」
「うん。自分もずっと真剣に探してたからね。でも今はあんまり分からないかな。勘が鈍ったよ」
少し間が空いてから、望から通話での連絡が来た。
いつもLINEのメッセージでやり取りするので、珍しいなと思う。直ぐに電話に出て、会話を続ける。
「メッセージじゃなくて話したい事が出来たの?」
「そうだね。直接話した方が早いと思って…」
「なになに?」
一瞬、躊躇する間があってから声が聞こえた。
「もう協力しなくても大丈夫かな、と思ってね」
「え?どういう意味?」
「今まで玲奈に解放して貰った分の恩返しと思って色々付き添って来たけど、もう良いかな?」
「試練の仲間探しの手伝いを、辞めるってこと?」
「うん」
「望に手伝って貰えたから…何とか頑張れたのに」
「でも、未だに解放されて無いでしょ?もう半年経ってるのに。ごめんね玲奈。あんまり力になれなかったね」
望がしゅんとして言うので、慌てて言った。
「ううん。こちらこそ、長い間ありがとう。色々手伝って貰えてすごく助かった」
見えないと分かってたけれど、電話口でぺこりと頭を下げた。
「うん、じゃあね。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ぷつんと通話を切る。
どうやらこの先は一人で悩まなくてはならないらしい。悩む、とちょっと頭に思い浮かべただけでレッサーパンダがぬうっと現れた。
「いきなり現れないでよ」
ショックが抜け切らず、つい八つ当たり気味に厳しい言葉を掛けてしまう。
「悩んではならぬぞ」
「悩んでなんてないってば」
レッサーパンダに枕を投げ付けた。ゴーストみたいにすり抜けてしまうのかな?と思ったのに、ヘディングでぼふっと跳ね返って落ちた。不意をつかれてぷっと笑ってしまう。
「笑っていれば大丈夫だ」
レッサーパンダが珍しく優しい言葉で慰めてくれる。見た目はレッサーパンダだけど、中身は案外と人なのかもしれない。
「そうだね。でも、やっぱり寂しい」
望に手伝って貰えて、そっと背中を押して貰えた事も数知れない。試練の仲間探しをこれからは一人でしなくてはいけないのだろう。
心細くなり、毛布にくるまってぎゅっと目を閉じた。
高校二年の冬は大学受験に向けて皆の気配が変わってくる時期だ。そろそろ真剣に選択を迫られ受験までの残り時間が限られてくる。
青柳くんと付き合えたといっても、たまに会う時はお互い勉強していたりする。得意教科が違うので時々教え合えるのが嬉しい。
「望が言ってたけど受験生の頃に悩めないのはつらいって…」
青柳くんも頷いて納得してくれた。
「くよくよしても始まらないけど、自分の将来の事だからな…。目を逸らさずに向き合いたい時に、悩む事が出来ないっていう状況はキツい」
玲奈ははぁっと溜め息を付いた。
「三年生になる前に試練を終わらせたいな」
望にはもう頼れないけど、彼女の残してくれた置き土産がある。望が試練を受けているかもしれない、と疑っていたメンバーだ。
確か、小森良翔、片岡璃沙、青柳陸斗、柳田蒼、遠田莉央と言っていた。
このうち青柳くんは既に試練終了しているので除外。小森くんはもう話し掛けるのも難しい。最近LINEを向こうから消されていたので、もう話す事はないっていう意思表示なんだろう。
気になってるのは莉央だ。
一緒に帰るし、休みの日は遊んだりしたけれど最近はお互い勉強していて二人で話す機会は無い。でも莉央も試練を受けているなら、楽にしてあげたい。
友達ならもう悩まなくてもいいよって、言いやすいよね?と青柳くんに言ったら首を傾げられた。
「会話の流れで自然に言うのは難しい。ていうか、無理」
「わかる。でもこの間、普通に言いそうになったよ」
コーヒーの注文をしようとした時に、青柳くんに言いそうになった話をしたら彼は苦笑いした。ちょっと恥ずかしそうにするのが可愛い。
「ダンス動画の投稿してるんだろ?振り付けとか、曲とか…迷って決めれない時にさらっと言ってみたら?」
玲奈は青柳くんを見てぱっと顔を輝かせた。
「すごい!それなら出来るかも!」
「ちょっと時期が悪いかもな。受験勉強したいし、動画どころじゃ無いから」
「私から、ちょっとバズりたいって言って誘ってみる」
頑張って、と励まされたので力強くグーを握って応えた。
数日後、テストや補講の合間をぬって集まろうとなった。簡単なサンタコスをして踊る動画を投稿しようと言ったら、二人とも賛成してくれた。
「ちょうど息抜きしたかったんだよね」
「あんまり時間掛けれないから…流行ってるので良いかな?」
「でも、コス以外にもクリスマス感出したいね」
二人とも勉強疲れしていたのか色々案を出してくれる。息抜きって大事だ。
「この時の振り、どっちが良い?」
莉央が迷っている二つのパターンを踊って見せた。美里は前の振り付けが良くて、私は後の方が良いと思った。決めれない。
「んー、じゃあそこは保留で…」
両方撮って見てみようと言う事になったので、いつも通り私、美里、莉央の順に踊っていく。
二通りの動画を再生してみて、私はやっぱり自分の好きな後の方が良いなと思った。でも先に美里が言った。
「やっぱり前の振り付けの方が良いよね、どうかな?」
少し押しを強めに言われる。
こういう場合は美里に合わせると大抵上手くいくので、私もうんうんと頷く。
「でも…、私はこっち押しだな」
普段は意見しない莉央が別の方を指して言った。
「えー、そうかなぁ?」
美里がもう一度再生する。けれど皆の意見に納得していない様に見える。
「ちょっと保留。ねえ、玲奈もこっちだよね?」
美里に振られてどきっとした。
振り付けだけなら自分の好きな方は莉央と同じだ。
でも、もう悩まなくてもいいんだよ、と莉央に言うには美里の意見に賛成して莉央を追い込む必要がある。
「うん。そうだね」
心にも無い返事をしてしまった。でも、あと一押しで試練が終わる。
そのとき、 莉央が無表情ですっくと立ち上がった。
「もうちょっと私の意見を聞いて悩んでくれても良いんじゃないの?もう帰る」
そう強く言い捨てて、自分のバッグをひったくるように持ってさっさと帰ってしまった。
残された私と美里はびっくりして呆然となる。
顔を見合わせると直ぐにお互い逸らして、しばし無言になった。気まずい空気が流れる。
私が衣装のサンタ帽を拾い上げて溜め息を付く。
「あんなに怒る子だったっけ?」
「…受験のストレスかもね」
最近は駅まで一緒に帰る間に話すくらいで、お互いの個人的な話を聞いていない気がする。莉央の悩みまで想像が及ばなくなってるのは事実だ。
「玲奈、青柳くんと付き合ってるんでしょ?」
美里にぼそっと呟かれて思わず飛び跳ねた。
「あ、ごめん…。言うのが遅くなって…」
そういうところじゃないの?と美里が詰め寄る。
「久しぶりに集まったっていうのに、大事な事は全然話してくれないし。私達って親友じゃ無かったっけ?って思う。莉央もいい気分じゃなかったよ、きっと」
「あ…ごめんね…」
強い言葉で非難されて、悪かったかなと思った。
でも、段々と美里の言う事は間違ってる気がしてきた。そもそも美里が莉央の振り付けに反対してたのに、何故か私が悪者になっている。美里、勝手じゃないか?
「もう良いよ。帰る」
結局美里はぷいっとそっぽを向いて帰り支度を始めた。そのまま一人で扉を開けて帰ってしまった。
週明けになって、学校で当然の様にお互い顔を合わせる。三人普段通り集まっているけど、お弁当中もほぼ無言で気まずい。
あれから莉央には青柳くんと付き合っている事をLINEで伝えた。素っ気ない了解のスタンプが戻って来たので、怒っているのかもしれない。普段穏やかなだけに心中どう思っているのか分からない。
その後で青柳くんと通話したら、大変だったねと慰めてくれた。
「二人にもっと早く付き合ってるって言わないといけなかったな」
「親友なら、そうかな」
ちなみに俺は嬉しくて付き合った当日に自慢した、と青柳くんは照れながら言った。
「え?誰?」
普段青柳くんが仲良くしている二人の男子生徒の名前を告げる。彼女として公認認定された事がこそばゆかった。
ぼんやり回想をしているうちに、お弁当を食べ終わってしまった。
クリスマス仕様のダンス動画は12/24過ぎてから揚げるのは遅い。今週末が最後のチャンスになりそうだから、揚げるならその日だ。
でもお弁当を食べ終わってからも三人に会話が無くて気まずい。予定を話したいのに隙が無い。
どうしようかと迷っていたら、後ろから声を掛けられた。
「早瀬さん、動画もうやってないの?」
「あ…」
望だ。
早瀬さん?という呼び名に違和感を覚えるが、美里たちの前では苗字で呼んでいた事を思い出した。
「西川さん…」
「あれ?見ててくれてるの?」美里が意外そうに言った。
「うん。前の動画は元ネタのファンだったし、すごく完成度高かったから参考にしてたんだ。いいねも押したよ」
「うわぁ、ありがとう。意外なところにファンいた」
「今度はクリスマスバージョンを揚げるね」
美里が喜んで言った。
「ありがとう。絶対見るよ!」
望が愛想良く言って、席を離れていった。
「他にも見てくれてる人いるかな?」
少し気分が浮き立ってきた美里に向かって莉央が言った。
「いるかも。それなら皆に受験勉強頑張れるようなメッセージも入れよっか?」
「良いね。拡散されるかもしれないし、喜んで貰えそう」
玲奈、いつに集まる?と二人揃って私の方を向いた。
さっきまで険悪だったのに人の苦労も知らないで…、と苦笑しながら返事をする。
「じゃあ、土曜の同じ時間で」
おっけーい、と二人声が揃った。
さりげなく望の後ろ姿を見ると、お付きのホワイトタイガーがくわっと笑った。
自分のバディであるレッサーパンダも片手を上げて合図していた。
週末、結局莉央の振り付け案を採用して動画を撮り終わると無事にアップ出来た。前回の動画の続きから見て貰えれば嬉しい。
早速、青柳くんからいいねが送られてきて嬉しくなった。
美里と莉央がわさびミルク味のグミを食べながら玲奈に言った。
「私達、いつも同じ順番で踊るよね。ループする時も…」
「ん?うん…そうだね」
部屋の真ん中で円座になって順番通りに並んだ。もうこうして動画を取ることも段々と無くなっていくのは寂しい。
「あのね、例えば…だよ?先ず玲奈から私に贈るの」
美里が私の手を持って告げた。何か卒業記念の品の話をしている様だ。
「それで…私から莉央へ」
「そうしたら、私から玲奈へ」
そこで莉央も話に乗ってきたのか、また玲奈へ手のタッチが戻って来た。これで一周。
「後は…同時にやる事だね。お手付き無しで」
「お手付き?」
玲奈はそのワードが出た事で目を丸くして驚いた。
「きっと、ホワイトタイガーも応援してくれてるよ」
美里がそう言うのを聞いて、またまたぎょっとする。
「待ってね。合言葉を忘れない様に思い出すから…」
莉央が一旦、目を瞑って考える。よし、と呟いて目を開く。
「せーの、の合図でやるよ。良い?」
二人がどんどん話を進めていくので玲奈は慌てて止めた。
「ちょ、ちょっと!何の話をしてるの?!」
「あれ?玲奈は聞いてないの?」
「西川さんから連絡あったよ」
「健闘を祈るって」
…どういう事?
玲奈の視界にLINEのホワイトタイガーのアイコンが見えた。
望は自室で受験勉強中だった。リスニングの過去問をイヤホンで流しながら、集中して長文を解いていた。
隣りからホワイトタイガーがのそりと机に前脚を掛けた。
「何、ウォーリー?」
「そろそろ、あやつらが挑戦している頃だろう…」
望はイヤホンを取って、首を振った。
「もう、出来る事は無いよ」
「動画を見ないのか?」
今更ダンス動画を見てもな…、という心の声は押さえて、三人の動画アカウントを開いた。
最終更新はクリスマスの受験生応援メッセージ付き動画だ。サンタ帽が可愛いが、これを喜ぶのは青柳くんくらいじゃないかな、と意地悪く思う。
「あ…」
見ている間に次の動画の更新が来た。
玲奈、美里、莉央が手を繋いで円座になって座っている。
画面の中で三人が緊張して頷きあっている。
「始めるよ?」
「うん…」
せーーーーの!!
「もう悩まなくていいんだよーー!」
見事に三人の声が揃っていた。
「やったね…」
望は画面の中の三人を見ていた。
誰も連れ去られて居なくなったりしていない。それに、三人一緒に声が揃った時にレッサーパンダと、シマエナガと、フェレットが見えた。揃いも揃って愛らしい小動物系だ。
「ああ。成功だ」
「難しかったね。事前にお互い試練を受けているって確認し合う訳にはいかないから…」
「それが許されていれば、さっさと試練してるかどうか、相手に聞き回ればすむ話だ」
「私もそれで失敗したし…」
ホワイトタイガーはふふんと不敵に笑った。
「一度目のお手付きの時だな。お前は何も知らずに相手に「試練してますか?」と直接馬鹿正直に聞いたせいで俺は青くなったぞ」
「そのせいで仲間探しが断然難しくなった…」
うむ、とホワイトタイガーも頷く。
望は玲奈の試練を終わらせるためにずっと協力していた。
誰が試練を受けているのか基本的には分からない。けれど試練が終わった望の前には時々警戒心の薄い不注意なバディが姿を現す事があった。
それを確認出来た時は名前を記憶に留めていた。
莉央のバディが見えた時は迷わず玲奈に伝えようと思った。しかし、それから暫く経った頃から美里にもバディが付いているのが見えるようになった。
「あやつらは三人共に試練を受けていた。これは誤算だったな…」
「うん。順番に合言葉を言うと、最後の一人はどうしても抜け出せなくなる」
玲奈が取り残されるのは嫌だった。
望は三人が救われる様に、同時に言えないか考え抜いた。
美里と莉央、二人別々に根回しをしてホワイトタイガーを見せ、それとなく試練を受けていそうな相手を示唆する。
その相手の名前の中に玲奈を含めておいた。
玲奈以外はそれぞれ試練を受けている相手に確信を持って、合言葉を言えたはずだ。
「良かった」
「そうだな…」
無事に終わった。
望はスマホ画面をそっと切り替えて、リスニングの問題に戻った。
三年生になって、受験シーズンが慌ただしく過ぎた頃、卒業式当日がやって来た。
玲奈は既に推薦で大学進学を決めていたが、青柳くんは最後の入試が残っている。
受験期の難しい時期を別れずに何とか付き合い続けてこれたのは嬉しい。でも進路次第では遠距離になる可能性もあり、不安は尽きない。
「玲奈ー、写真撮ろ?」
美里と莉央の二人がやって来たので、並んで写真を撮った。今日で高校生活ともお別れだ。
「ありがとう!絶対遊びに行くからね」
「離れてもずっと忘れないから」
お互いに別れを惜しむ言葉を掛け合う。
「あ、玲奈。青柳くんとの写真も撮ってあげるよ」
近くにやって来た青柳くんに気付いて美里が二人の写真も撮ってくれた。
他にもクラスの仲の良い子や、担任の先生を交えたりして皆と別れの挨拶をして回った。
時折、きょろきょろと辺りを見回す。
「玲奈、誰か探してるの?」
「あ、うん。いないなー、と思ってね」
さっきから探してるけれど見つからない。
望は何処にいるんだろう?
美里と莉央に、ちょっと離れるねーとひと言告げて皆の元を離れた。
別のクラスの群れの中に入ると、横からぽんと肩を軽く叩かれた。
振り向くと小森くんだった。
「卒業おめでとう。お互いに」
「あ、うん。おめでとうございます」
玲奈からは少しぎこちない態度になった。小森くんが苦笑する。
「早瀬さんには色々申し訳なかったと思ってる。もうこの先、会えないかもしれないから…謝っておこうと思ってさ」
言えて良かったな、と微かに微笑んだ。
「あのさ…」
「?」
「いや、何でもない」
「うん。あのね、西川さん見なかった?」
見てないな、と言うのでお礼を言って立ち去った。
望、何処に行っちゃったんだろう?
ずっと動いていないLINEはあるけれど、やっぱり直接伝えたい言葉がある。
散々歩き回ってどうしても探し出せなかったので、LINEを送った。
返事が戻って来たので、やっと居場所がわかった。慌ててそちらに向かう。
「早瀬。どこに行くんだ?」
追いかけてきてくれた青柳くんが隣りに並んだ。
「西川さんのところに。まだ教室にいるんだって」
教室内はもうがらんとして、人気が無い場所にぽつんと望が一人で立っていた。
「何で、2年のクラスに居るの?」
「一番辛かったから、かなぁ」
望は窓際の席に座る。玲奈も近付いて、隣りの席に座った。
「…あの頃は大変だったね。皆」
望は試練の事を話していると気付いた。
あの頃私達を苦しめていた試練を友達は全員、無事に乗り切れた。
「望のお陰だよ。ありがとう…」
親しかった時の様に名前で呼んだ。望は首を横に振ると、私と青柳くんを交互に見て言った。
「もう私達悩んでも良いんだね」
「そうだよ。悩みの無い国へ行かずに済んだんだから。若いし幾らでも悩もうよ」
望は少し迷ってから、玲奈の目を真っ直ぐ見て言った。
「私を解放してくれた玲奈には、ずっと感謝してた。ありがとう」
「どういたしまして」
「それから、玲奈には苦しんで欲しくなくて何とか協力しようとしたけど…玲奈は凄く不器用で次々と悩みの塊みたいな人達にどんどんアタックして行くから気が気じゃなかったな…」
「そんなふうに見てたんだ」
「うん、判る気がする」
青柳くんにまでそう言われてちょっと心外だった。
「でも、玲奈は間違って無かったと思う。本当に悩んでる人から先に救ってあげたいっていう気持ちと、自分の大切な人を救いたいっていう気持ちが強かったから、精一杯ぶつかっていけてたんだね」
望が立ち上がって改まって告げた。
「卒業おめでとう。玲奈」
「うん。望も。私から言ってなかった言葉を最後に言っても良い?」
「……、どうぞ」
「望の方から私に、先にこの合言葉を言ってしまったこと…もう悩まなくても良いんだよ?」
望は驚いて目を丸くした。
暫くぱちぱちと瞬きをして顎を撫でると、溜め息混じりにそうか、と呟いた。
「ひょっとして…自分でも気付いていなかったの?」
いたずらっぽく話す玲奈の言葉に頷いた。
そうだったんだ、と腑に落ちた。
私はずっと…玲奈に向けて先に合言葉を言ったことに罪悪感があったらしい。そして先に試練から解放された事に負い目があった。
だから苦しかったのか。
でも、もう悩まなくても良いんだ。玲奈が赦してくれたから大丈夫だ。
「ありがとう、玲奈。もう悩まないよ」
「うん。良かった」
上手く悩む事も出来なかった辛い教室を望はそっと後にした。
玲奈と青柳も一緒に続く。
「ねえ、ずっと気になっていたんだけど、なんで望のホワイトタイガーはずっと一緒にいるの?私のレッサーパンダは消えてしまったのに」
「ああ、それは…」
望が答えようとすると、ホワイトタイガーが自分で口を開いた。
「名前を呼んだからだ」
「名前?」
望が苦笑して言った。
「一緒にいる期間が長くて…ホワイトタイガーって呼びづらいから名前をつけたの。ウォーリーって言うんだけど…」
「お前はバディに名付けなかったのか?」
玲奈は頷いた。
「試練が終わってからも一緒にいられるのはそのせいだ」
なるほど。それは惜しい事をした。
でもほんの少しだけホワイトタイガーに向かって望がやれやれという仕草を見せたのを見逃さなかった。ずっとバディが居るせいで何かしらの気苦労もあるに違いない。
以前、玲奈のレッサーパンダにずっと一緒にいられる方法を聞いた事があった。
その時、レッサーパンダは返事を教えてくれなかったけれど、あの時無理矢理にでも聞いておけば今も一緒にいられたかも知れない。
校舎を出たら、名残惜し気に残っている卒業生の群れの中で、美里と莉央がまだ待ってくれていた。
「玲奈ー、遅いよー」
二人が見事にシンクロして手を振っている。ダンス動画の賜物だ。
玲奈も大きく手を振り返した。




