暗殺対象の侯爵が今日も元気に復活してる件
「……なんで?」
目の前の光景に思わず声が漏れ出た。
ハッと口を押さえて辺りを確かめるが、朝の食堂では誰も彼もが忙しなく仕事に励んでいて、他の使用人たちは私の呟きに気が付かなかったらしい。
いつもと同じように、侯爵邸の広い食堂では当代のモンフォール家当主であるフェリクス・ド・モンフォールが優雅に朝食をとっている。
光に当たるとキラキラ輝く金糸の髪、澄んだ青空のような青い瞳、白くとも血色を感じさせる肌は健康そうで、頭の天辺から爪先まで完璧な王子様みたいな容姿の侯爵である。
──けれど。
(どうして……っ)
背中に冷や汗をかきながら、私、アンジュ・メルシエは使用人のお仕着せの長いスカートの陰で強く拳を握った。
拳の中にはじわりと手汗が滲んでいる。
(どうして生きてるのよ!)
そう。問題はそこだ。
目の前で優雅に朝食をとっているこの男は、私が昨日、──確かに殺したはずの男だった。
***
事の発端は、家に投げ入れられた一通の手紙だった。
商会を経営しているので我が家にはそれなりの数の郵便物が届く。
普通の郵便物であれば宛先ごとにまとめられ、他の手紙と共に麻の紐に括られて郵便夫によって届けられるのだが、その手紙は玄関ドアの下の隙間から差し込まれていた。
もしかして届け漏れでもあったのかしらと、軽い気持ちで封筒を拾い上げて中を改めたまでは良かったのだが、なかなかに良い便箋に綴られた文面を見て、私はその場で眉根を寄せた。
『メルシエ家の長男と次女は預かった。
二人の命が惜しくば、フェリクス・ド・モンフォールを暗殺しろ』
簡単にいえばそんな内容の手紙だったのだ。私は当然イタズラだと思って気にも留めなかった。
だって弟と妹はそれぞれ寄宿学校にいて、例え家族であっても面会の申請には厳しい審査をクリアしなければいけないし、許可証がない限り校内には入れない。
そんな場所にいる(しかも弟と妹は違う寄宿学校だ)二人を、外部の人間が一体どうやって攫うというのだ。
うちはメルシエ商会という、この界隈ではそれなりに名が通った商家なので、手紙の差出人は商売敵の誰かだろう。
そう結論付けて手紙を暖炉に焚べようとした、その時だった。
「アンジュ! 無事か!」
父が三通の手紙を手に勢いよく部屋に駆け込んできたのである。
普段なら父はまだ商会で仕事をしている時間なので、この時間に帰ってくるのは珍しいことだ。
驚いて暖炉に手紙を焚べようとしていた手を止めて振り返れば、父はあからさまに安堵した様子で息を吐いた。
「どうしたのよ、父さん」
「あぁ、お前が無事でよかった。しかし、ジュールとマノンが……」
そう言うなり、父は床にへたり込んでしまった。
かなり憔悴している父を見て、二人が一体どうしたというのだと首を傾げる。
どうにも説明が出来そうな状態ではない父から事情を探るべく、私は父が持っていた手紙を彼の手から抜き取った。
指先にも力が入っていなかったらしく、それはするりと容易く私の手へと移動する。
「この封筒……」
三通のうち一通は見覚えがあった。
というか、先程まで私が読んでいた手紙と全く同じ封筒で、封蝋も同じだった。
残りの二通は弟たちの通っている学校からの手紙。
内容は病気のお見舞いと、家族の危篤で休んでいる間の授業は補習で振り替えるのでご安心下さいといったもの。
「は?」
手紙を読んで思わず眉をしかめる。
まるで意味がわからなかった。
宛先が間違っているのかと確認するが、生憎どちらも間違いはない。
ではこの手紙は一体なんだろう。
家族の危篤とあるが、母は二年前に他界しているからあの子たちの家族は父と私だけで、そのどちらもピンピンしている。
訳がわからないわねと思ったその時、頭の中で繋がるものがあった。
「あ、あぁ……、まさか……!」
弟と妹を預かったという手紙。
学校から届いた二人の休学に関する手紙。
そもそもの話、外部の人間が学校の中に入るのは難しいと言っても、手紙であればどうだろうか。
検閲まではしないだろうし、宛名と差出人に不備がなければ、それは容易く本人の手に渡ってしまうのではないか。
私はゴクリと息を飲んだ。
二人はおそらく家族の危篤という報せを受けて自ら学校を出てしまったのだ。
もしかしたら誘拐犯が商会の人間のフリをして馬車でも用意していたのかもしれない。
……ならばこの脅迫状は『本物』ということになる。
先ほど父が私の無事を確認したのも、もしかしたら私も誘拐されているのではないかと思ったからだろう。
私はブルブルと震える手で、もう一度例の手紙の文面に目を通した。
(なんてことなの)
しかし、何度読んでも文面は変わらない。
私の可愛い弟と妹は、誰かも知れぬ相手に攫われて命を脅かされている。
今この瞬間も、怖い思いやひもじい思いをしているかもしれない。
警吏に泣きついたところで、差出人もわからないこんな手紙ひとつで捜査が出来るようにも思えない。
それなら、私がやらなければ。
「……父さん」
床にへたり込む父の肩に手を添えて、静かな声で私は告げた。
「私が侯爵を暗殺するわ」
「お前、何を言って……」
「私なら使用人でも何でもなって潜り込めるもの。だから父さんは私が屋敷に潜り込んでいる間に、二人が何処で姿を消したのか、相手に気づかれないようにこっそりと手掛かり探して。手掛かりと二人が攫われた証拠があればきっと騎士団だって動いてくれるわ」
私たちは既に相手に監視されている可能性が高い。
実際に誰かが侯爵暗殺に出向かなければ人質の命が危うい。
侯爵に近付くのであれば父より私のほうが適任だ。
いかな侯爵家とはいえ、下級使用人であれば平民の私でも潜り込める。
メルシエ家は商家として貴族にもそこそこ名が知れているから、少なくとも門前払いということはないはずだ。
そういう訳で、私は伝手を頼って無事に使用人として侯爵家に潜り込んだのである。
幸いにもモンフォール侯爵家とメルシエ商会は以前に取引をした実績があり、嫁入り前の行儀見習いに上がりたいのだと言えば話は容易かった。
平民の娘が嫁入り前に箔をつけるために貴族の使用人として働くことは珍しくなかったし、メルシエ商会の娘として身元がはっきりしているのも強かったらしい。
弟たちを攫った奴らがそこまで考えて私を選んだ可能性もあるのが癪だが、脅迫の手紙には侯爵の死亡を確認次第、攫った弟と妹を解放するとあった。
故に、今の私はただ侯爵暗殺の機会を待つのみだった。
──しかし、私が当初想定していたよりもずっと早く、その機会はやってきた。
「あぁ、君」
「私ですか……?」
侯爵邸での夜会の晩、自室に戻るモンフォール侯爵本人に声をかけられたのである。
まだ新人で、本来なら貴族の前になど出られない立場であるのだが、夜会の日は空いたグラスや軽食の皿を回収する作業を手伝っていた。
その時も空いたグラスをかき集めて洗い場へ運ぶ途中だった。
そんな私を呼び止めた侯爵は、いつものお伽話の王子様のような微笑みで、寝室に寝酒を用意してほしいと言い付けたのだった。
「少し疲れてね、寝る前にホットワインを持ってきてほしい」
「かしこまりました。メイド長にお伝え致します」
「いや、彼女も忙しいし飲み物を運ぶだけだろう。持ってくるのは誰でもいいよ」
普段は侯爵の部屋に寝酒を運ぶのはメイド長か彼の侍従と決まっているのだが、侯爵はそう言って煌びやかな夜会服の裾を靡かせながら廊下を歩いていってしまった。
侯爵という、国内においてほぼほぼ最上位の貴族であるというにもかかわらず、随分と気さくな人である。
その背中がすっかり見えなくなった頃、私はぽつりと呟いた。
「……誰でもいいなら、私でもいいってことよね……」
備えあれば憂いなし。私のエプロンの隠しポケットにはこんな時のために致死量の毒物が入っている。
少量でも熊すら殺す毒だ。解毒薬など服用する間も無く絶命するというその毒を使えば侯爵暗殺は完了する。
今しかない。
でも、本当に殺すの?
人の命を奪うということを考えると頭がガンガンして吐きそうになったが、脳裏をよぎる弟妹の顔にグッと奥歯を噛み締める。
この先、こんなチャンスがあるかわからない。父が間に合うかもわからないし、大切なジュールとマノンを助けるにはこれしかない。
表情を落として、私は厨房に侯爵がホットワインを希望していることを伝え、何食わぬ顔で渡された陶器のカップを盆に乗せた。
「銀製のカップではないのですか?」
「あぁ、侯爵様は銀製のカップにワインを入れると香りが変わってしまうからと、ホットワインは絶対に陶器なんだ」
「そうなんですね」
銀製の器を好まないのは私にとっても都合が良かった。
私のポケットに入っている毒が銀を曇らせるかもしれないという不安要素が消えるのは大きい。
ホットワインを溢さないようにと注意深く長い廊下を進んだ先にある侯爵の部屋は広く、何度か声を掛けて続き間の寝室へと踏み入る。
大きな肖像画や豪奢な家具。その中にいる侯爵は、彼自体がまるで一枚の絵画のようだった。
ベッドに腰掛けた侯爵は、私に気がつくとふわりと微笑んでカップをサイドテーブルに置くように指示した。
「君が持って来てくれたのか。見ない顔だが、新入りかな」
「はい。先週こちらに。アンジュ・メルシエと申します」
「アンジュ。良い名だね」
侯爵のすらりと長い指がカップに伸ばされる。その所作から私は目が離せない。心臓は今や口から飛び出しそうなほど暴れ、嫌な拍動を繰り返していた。
陶器のカップを手にした侯爵は、固唾を飲んで見守る私に一瞬だけ視線を向けて、どうしたの?という風に目を細めた。
その視線に、どき、と心臓が一際強く鳴った。
ホットワインには各種のスパイスが入っているから匂いでは気付かれないはず。大丈夫。大丈夫よ。
呼吸が浅くなる中で私は必死に声を絞り出した。
「っ、あ、あの、持って来るのに時間がかかったので、冷めていないかと」
「そんなことか。……うん、適温だよ」
こくりと侯爵の喉が上下し、彼は私を安心させるように微笑む。
続けてもう一口ホットワインを飲んで、彼は何かを言おうとして唇を開き、言葉の代わりに赤黒い血を吐き出した。
「ひっ!」
悲鳴をあげそうになる口を両手で強く押さえる。
私は震えながら、目の前で血を吐いて床に倒れ、ビクビクと痙攣する侯爵を凝視していた。見たくなんてないのに、どうしても目が離せなかった。
やがて痙攣は小さくなり、ついに侯爵の身体がくたりと弛緩する。
しんと静まり返った部屋では私の押し殺した呼吸音だけがただ、異質だった。
「……侯爵、さま……?」
呼び掛けても返事はない。
床に倒れた侯爵の青い瞳はもう何も見ていないのだと、離れていてもすぐにわかった。
彼の口の端には血の混じった泡が残り、自ら吐き出した血の海に沈む侯爵は、すっかり事切れていた。
「あぁ……っ!」
私だ。私が彼を殺したのだ。
こんな、下級使用人にまで気遣いを見せるような優しい人を、私が。
その事実に、私の胸は烏滸がましくも張り裂けそうに痛んだ。
「……ごめ、ん、なさ……。ごめんなさい……!」
ぼろ、と目尻から涙が一筋溢れる。
それでも私は私の仕事を遂行しなければならない。
例え自分の手を汚し、その罪で死後地獄に落とされようと、私にはやらなければいけないことがある。
無意識に謝罪の言葉を繰り返しながら、震える指で侯爵の首筋に触れて脈がないことを確認し、念のために手首でも脈を確認する。
呼吸も止まっていることを確認して、私は幽鬼のようにゆらりと立ち上がった。
侯爵は殺した。
あとは弟と妹の無事を確かめるだけだ。
程なくして侯爵の死体が発見されれば、国中を揺るがす大ニュースになるだろう。
そうすれば本当に奴らは弟と妹を解放してくれるのかしら。
もしかしたら犯人として私が処刑されるまで何処かで捕まったままかしら。
あぁ、どうか。お願いだから、二人ともどうか無事でいて。
そして一睡も出来ないまま迎えた翌朝。
少しでも偽装して時間を稼がなければと、いつもと同じように使用人の仕事をして、静かな屋敷の様子にまだ侯爵の死体は発見されていないのかと思った矢先のこと。
給仕の補佐のために食堂に入ったその瞬間、徹夜の目には痛いほど眩いキラキラの金髪が飛び込んできた。
そこでは、昨夜殺したはずの男が、キラキラを振りまきながら優雅にパンを食していたのだ。
(なんでよ!)
私は胸の中で絶叫した。
実際に言葉に出さなかった自分を褒めたい。
そこで話は冒頭に戻るのである。
***
──夢かと思った。
だって、昨夜確かに私は成し遂げたはずだったから。
それなのに目の前の侯爵は、爽やかな朝日の中で貴族の特権とも言える柔らかなパンを実に優雅に口に運んでいた。
その光景があまりにいつも通り過ぎたので、もしやと思って手の甲を抓ってみたらちゃんと痛い。……現実だ。
(まさか、失敗してたの!?)
昨晩殺したアレは影武者だったのか、それとも毒の量が少なかったのか、本人が毒に耐性を持っていた可能性もある。
だらだらと冷や汗を流す私は、壁に並んだ使用人の列の一番端っこに並び、これからどうすべきかを必死に考えていた。
昨晩侯爵にホットワインを運んだのは私で、その際に侯爵にも顔を見られているどころか会話まで交わしている。
これから私はどうなるのだろうか。屋敷から放り出されたら少なくとも暗殺の機会なんてもう巡ってこない。そもそも此処から無事に生きて帰ることが出来るのだろうか。
考え過ぎて吐き気がしてきたが、これだと思える解決策などひとつも浮かばない。
ただひとつ確実なのは、少なくとも今、この瞬間、私はこの場にいてはいけないということだった。
(逃げよう)
じり、と周りに気付かれないように食堂を出ようとしたところで、急に侯爵が視線をこちらに向けて口を開いた。
「アンジュ、どうしたんだい。顔色が悪いよ。寝不足かい?」
軽い声音で名を呼ばれて身体が硬直する。
視線の先の優しい笑顔と穏やかな口調が今は何より恐ろしい。
私は立て付けの悪いドアみたいに、ぎこちなく頷くのが精一杯だった。
「寝不足なんていけないよ。あぁ、そうだ。昨夜はホットワインを運んでくれてありがとう。お陰で死ぬほどぐっすり眠れたよ」
にっこりと告げられたトドメの一言に、喉からヒュッと音が鳴った。
バレてる。しかも、これは間違いなく本人だ。
でも、だったら何で生きてるのよ!
激しい混乱の中で逃げることも出来ず、私はそれでも雇われた使用人という立場から、粛々と仕事を続けるしかなかったのだった。
***
「……次こそちゃんと殺さなくちゃ」
その日の夜、建物の陰で、私は深く息を吐いていた。
弟と妹を助けるためにも迅速かつ確実に侯爵を殺さなければならないのだ。
毒が効かなかった理由はわからないが、そもそも熊すら殺せる毒なんて触れ込みが怪しかった。
私だってあの時は気が動転していた訳だし、侯爵が気絶でもしていたのを死んだと勘違いしてしまったのかもしれない。
確実に脈はなかったし、呼吸も止まってたし、瞳孔も開いていたけど、現実に侯爵は生きてるのだから仕方ない。
しかし、今回のことがあると、私にとって切り札でもある毒という手段は今後使いにくい。
ちゃんと人間を殺せるか、毒の効果を自分で試す訳にはいかないのだから当然だ。
「もっと確実な手段はないかしら」
下っ端使用人の私が侯爵に近付く機会だってそうそうないというのに、これは難易度が上がってしまった。
こうして私が悩んでいる間にもジュールとマノンは怖い思いをしているかも知れないのに!
焦燥感に胸を焼かれながら次の手を考えていたら、背後から不意に声を掛けられて文字通り飛び上がる。
恐る恐る振り返ると、声の主は私の反応に驚いたように青い瞳を見開いていた。
「アンジュ? こんなところでどうしたんだい」
「エッ、イヤ、アノ……、侯爵様コソドウナサッタンデスカ……」
「僕? 僕はただの散歩だよ。星が綺麗だしね」
「星」
「うん。今夜は新月で月がないから星がよく見えるよ」
夜空を見上げる侯爵につられて私も空を見上げる。
「わぁ……」
夜空は上等な天鵞絨のように広がり、そこには無数の星が宝石にも負けじとばかりに煌めいていた。
私の住んでいた場所は夜も明かりが絶えない、というか夜明けから夜中まで騒がしい工業地区に近かったので、昼でも夜でも空はくすんでいて、それこそこんな風に星を見たのは初めてだった。
「もっと星がよく見える場所に行ってみるかい?」
「え?」
侯爵に言われて首を傾げる。
彼は屋敷の端を指差して続けた。
「ほら、あそこに塔が見えるだろう? 昔は物見台として使われることもあったんだけど、今は使ってなくてね。でも、あそこならもっと星が綺麗に見えるかもしれない」
「あ、あぁ、確かに……」
屋敷の一番高い屋根よりも塔はもっと高い。
夜空に黒いシルエットのみを浮かび上がらせた塔を見つめ、同時に私の頭の中にはもう一つの考えも浮かんでいた。
(あの高さなら、確実、よね……)
屋敷の敷地内だからか、侯爵は護衛も連れず一人きりだった。
私が見たいと言えば彼は私だけを伴ってあの塔へ登るだろう。
あの場所ならば誰の邪魔も入らないし、星を見ている時なら無防備に違いない。
今度こそ、と私はギュッと拳を握り、出来るだけ自然になるように気を付けながら上目遣いで微笑んで見せた。
「是非、見てみたいです」
そして、私は──。
***
(だからァ! どうして生きているのよ!!!!!)
翌朝、やっぱり今朝もキラキラした王子様然として優雅に朝食をとる侯爵を前に、胸の中で絶叫していた。
(絶対殺した! 絶対に死んでた! なのに! 何故!!!!!)
人目がなければ一心不乱に壁や床を殴りつけて地団駄を踏んでいただろう。
だって、昨夜私は侯爵と一緒に塔に登り、夜風の冷たさに身体を冷やさないようにと自身の上着を貸してくれた優しい侯爵を、確かにバルコニーから突き落として殺したはずなのだ。
水の入った皮袋が叩きつけられるような独特の音が耳の奥にこびりついているし、侯爵の背を突き飛ばした時に感じた彼の体温だってまだこの手に残っている。
ちゃんと突き落とした後、石畳の上で手足や首が曲がってはいけない方向に曲がっているのだって見たし、なんなら侯爵の体温と香水の匂いが残る上着を着たまま侯爵を突き落とした時の、気が狂いそうなあの一瞬がまだ肌に纏わり付いている気さえするのに。
「やぁ、おはようアンジュ。良い朝だね」
「オハヨウゴザイマス……」
何故。
何故この男は生きているのか。
あれは絶対に即死だった。それなのに、何故。
まるで悪い夢でも見ているようだ。
擦り怪我の一つもなく、ピッカピカの五体満足状態で美味しそうにスクランブルエッグを食べる侯爵を見ていると、なんだかひどい脱力感に襲われるような気がした。
けれど確実なのは私はまた失敗したということで、大切なのは次こそちゃんと彼を殺さなければいけないということだった。
「……毒とか転落死とか、やっぱり生き残る余地を残してしまったのがいけないのよ」
もっとちゃんと殺すべきだった。
死亡確認だってもっとちゃんとするべきだった。
なんならトドメだってきっちり三回くらい刺すべきだった。
私は一人で腕を組み、うんうん唸り声をあげる。
「となると、もうなりふり構っていられないわね。刺し違える覚悟で挑まないと……」
私はどうなっても構わない。弟と妹の命には換えられない。
侯爵には悪いが、彼にはさっさと尊い犠牲となって貰わなければいけない。
「刺し違える覚悟……」
やるしかない。
そうよ。偽装だとか言っていられない。とにかく殺さなければならないのだもの。
気合いを入れ直して私は決意を新たにした。
毒や転落では奇跡的に生きている可能性はあっても、心臓を貫いて生きている人間はいない。
例え刃が心臓を貫かなくても、人間は大量に血を流せば確実に死んでしまうはずだ。
使用人として働く内に何度か厨房にも手伝いに行っていて、刃物の保管場所は覚えている。
銀食器の棚は執事が毎晩鍵をかけるが、それ以外の食器や調理器具は施錠されない場所に保管されることも知っている。
──今度こそ、自分のこの手で侯爵の息の根を止めよう。
そして全てを終わりにするのだ。
その夜、私はこっそりと棚からナイフを一振り持ち出して、侯爵の寝室に続く廊下を歩いていた。
(今度こそ。今度こそ……!)
胸の中で何度も同じ言葉を繰り返す。
今度こそ彼を殺すのだと繰り返す度に、たかが平民の使用人でしかない私にも優しくしてくれた侯爵の姿も思い出してしまってひどく胸が痛んだ。
侯爵は穏和で人当たりが良く、使用人にも領民にも好かれている領主としてもとても立派な方だ。
そんな素晴らしい人を私は今からこの手にかけるのだ。
(家族の命には換えられない。だから、仕方がないの)
自分自身に言い聞かせて止まりそうになる足を叱咤し、屋敷中が寝静まった深夜の廊下の隅で隠し持っていたナイフを取り出す。
料理人の手によって手入れがされたそのナイフは実によく切れることだろう。こんな目的に使用して本当に申し訳ない。
廊下の明かりに照らされて鈍く光る刃に無言で頷く。
もう後には引けないとナイフの重さに現実を突きつけられるようだった。
そして私は侯爵の寝室に忍び込み、音を立てないように細心の注意を払って静かに大きなベッドに身を乗り上げた。
侯爵のベッドはお貴族様らしく無駄に大きい。
彼はその真ん中で寝ているものだから、私は嫌でもベッドに上がらなければならなかった。一人寝ならもう少し小さいベッドで寝てくれたらもっと簡単だったのに。
今ほど小柄な自分の身体に感謝したことはなかったかもしれない。
息を潜め、すぅすぅと静かな寝息を立ててぐっすりと眠る侯爵の身体にそっと跨る。
「……ん、何……?」
違和感に気付いて侯爵が掠れた声で呟いたのと、私が全体重を込めて勢いよくナイフを振り下ろしたのが同時だった。
「ぐ、ぁ……っ!」
痛みに呻く侯爵の胸に深々と突き立ったナイフを四苦八苦して引き抜けば、間欠泉のように熱い血飛沫が辺りに飛び散った。
至近距離では避けることも出来なくて、私はあっという間に侯爵の血で真っ赤に染まる。
鉄臭い液体に塗れながらも、私は何度も何度もナイフを振り下ろした。
今度こそ、生き返ってもらっては困るのだ。
「アン、ジュ……、どうして……」
「ごめんなさい……! ごめんなさい!」
苦悶に歪む侯爵の頬に、ぽたぽたと私の目から溢れた涙が落ちる。
侯爵が腕を上げたので抵抗でもされるかと思ったが、彼は指先で私の頬を拭っただけで、その腕はぱたりと力無くベッドに落ちてそれきり二度と動かなかった。
その後も念のためにと何度もナイフを刺して、気付いた時には飛び散った血に染まった彼の顔からはすっかり血の気が失せていた。
ぼんやりと宙を見るような青い目はまるで私を責めているようで、横たわり沈黙する侯爵を見下ろした私の目からは再び涙が溢れていた。
「ごめんなさい。あなたは何も悪くないのに……」
私はそのまま一頻り泣いて、その後どうやって自室に戻ったかすらはっきり覚えてはいなかった。
(……今度こそ大丈夫。確実に殺したもの)
──翌朝、私はいつもより少しだけ遅れて食堂へと向かっていた。
これまでの経験が私の足取りを重くさせたのである。
今度こそ侯爵の死体が発見され、その報せが広がってくれなければ弟たちの命が危うくなる。
もしまた失敗していたら、いいえ、ちゃんと殺したわ。
そんな自問自答を繰り返し、緊張に身を強張らせながら私は恐る恐る食堂へと入り、
「あれ、今朝は少し遅かったね。寝坊かい」
爽やかな笑顔をこちらに向けながらお茶を飲む侯爵を見て硬直した。
(どうして。どうしてどうしてどうして)
あぁ、また失敗だ。
また殺さなくちゃいけない。
また。今度はどうやって。あと何回繰り返したらいいのか。
「……もう、やだ……」
ポロリと零れた呟きに、侯爵が「ん?」と首を傾げた。
その仕草にさらりと美しい金髪が額に流れる。
口に出してはいけないと思うのに、一度零れた言葉はもう止まらない。
「もうやだ! なんで! なんであんた死なないのよ!」
周りにいた使用人たちの視線が一斉にこちらに向くが、もう構ってはいられなかった。
「えっ、ごめんなさい……?」
「ごめんで済んだら私はこんなに何度もあんたのこと殺してないの! あんなにっ、あんなにたくさん刺したのよ!? 少なくとも生死を彷徨うとか、なんか具合悪そうにするくらいしなさいよ!」
ダシダシと怒れる兎よりも力強く床を踏み鳴らして喚く私に、侯爵はひどく申し訳なさそうな顔をして言った。
「あぁ、それもそうだね。君には何度も手間を掛けさせてしまって本当に申し訳ない」
「手間とか! そういう問題じゃ! ないでしょ!? 私ちゃんと殺したのに! 今日もまた生き返って呑気に朝ごはん食べてるし!」
もう嫌ぁああああああああ!!!
私の渾身の絶叫が食堂に響き渡る。
そして、度重なる侯爵殺害のストレスと不眠の連続で精神的にも肉体的にも限界を迎えていた私は、散々泣き喚いた挙句、その場でふっつりと意識を飛ばしてしまったのだった。
(あぁ、全部悪い夢だったら良かったのに)
床に倒れる瞬間、そんなことを思う。
意識が闇に沈む端で、侯爵の慌てた声が聞こえたような気がした。
***
「ん……?」
すっと引き上げられるように目が覚める。
目が覚めた時に一番最初に感じたのは暖かさだ。そしてほのかな香水の匂い。
(この匂い、どこかで……)
重い瞼をやっとのことで開ければ、ぼんやりと周りの景色が見えてきた。
美しい天井絵、豪奢な家具、そして──目に眩しい金色のキラキラ。
「あっ、目が覚めたかい? 大丈夫?」
「大丈夫じゃ……ない……」
段々視界も意識もはっきりしてきて、何だか見覚えのある部屋だなとぼんやり思った次の瞬間、私は全身のバネを使って跳ね起きた。
何故なら私が寝ていたその場所は、他でもない侯爵のベッドだったからだ。道理で暖かいはずである。
「まだ顔色が悪い。もう少し寝ていなくてはいけないよ」
「だとしてもどうして私がここに寝かされているのよ!?」
身分差なんてかなぐり捨てて、いつもの口調で使用人部屋に連れて行けばいいのにと言う私に、侯爵はポッと頬を染めて答えた。
「君には安眠してほしくて。ここが屋敷の中のベッドで一番寝心地が良いと思うから……」
侯爵の言葉はもっともだった。
ベッド自体も、寝具も、侯爵様の使うものはどれも最高級で特別な品揃いだからもちろん寝心地は良いだろう。
ただしそれは此処が昨夜の犯行現場でなければ、の話である。
何が悲しくて侯爵を殺したベッドに自分が寝かされなくてはいけないのか。いや、本人は目の前でピンピンキラキラしているけれども。
見たところ、私の犯行によって血に塗れた寝具やら何やらは全て取り替えられて綺麗になってはいるが、私は確かにここで犯行に及んだのだ。思い出すと何だか香水の香りの裏に薄っすら血の匂いが漂っている気さえする。
嫌がらせだとか精神的な拷問であるなら納得は出来る。
けれど侯爵の様子を見るに好意でしかないのが余計にたちが悪い。
「あ……」
まだ完全に回復していなかったのか、はたまた侯爵とのやりとりで追加ダメージを受けたのか、目の前がぐらりと揺らぐ。
倒れかけた私を抱き止め、侯爵はそのまま手際良く私を再びベッドに寝かしつけた。寝心地が良いのが悔しい。
諦めて身体から力を抜くとやたら真面目な顔をした侯爵がこちらを見下ろしていた。
普段穏和な笑顔ばかり見ているので、初めて見る表情になんだか緊張してしまう。
侯爵は形の良い唇をそっと動かして静かな声音で言った。
「さて、アンジュ・メルシエ。君には大切な話がある」
「何よ。生憎だけど、あなたの暗殺を依頼してきた人の名前なら知らないわよ」
「え? 別にそんなことどうでもいいけど……」
「ど、どうでもよくはないでしょ?」
「でもあんまり興味ないし……。そんなことよりも、もっと大切な話だよ、アンジュ」
自分の命を狙う相手の名前よりも大切な話とは何だろうか。
何度も侯爵殺害を企てながら失敗した私に対する断罪か、はたまた叱責、これまでの恨みつらみ?
いずれにせよ、私には耳を塞ぐ権利はない。
ごくりと息を呑んで言葉の続きを待つ。
「アンジュ・メルシエ。……僕と結婚してくれないか」
きっかり十秒の沈黙。
パチパチと二回の瞬き。
……今、この人は何と言ったの?
思わずぽかんと口を開けた私に、頬を薔薇色に染めながら侯爵は続けた。
「一目惚れなんだ」
「ひとめぼれ……」
「うん。ほら、覚えているかな。君が僕を初めて殺した時だよ。泣きながら謝罪する君の姿にグッと来てしまって」
「待って」
「うん?」
片手を額に当て、もう片方の手のひらを突き出して言葉を制止する。
待って。待ってよ。
今、私は何て言われたの。え? さっきのも、実は気のせいじゃなかったってこと?
フゥー、と大きく息を吐けば、ベッドサイドの椅子に座った侯爵が心配そうに眉尻を下げた。
いついかなる時でも、例えどんな角度でも、本当に御伽話の王子様のように絵になる男である。
ここまで来ると何だか腹が立ってきた。
「アンジュ? 大丈夫かい? 結婚する?」
「する訳ないでしょ!? 一目惚れって何!? そもそもその流れでどうしてグッとくるのよ! おかしいでしょ!」
「えっ、そうかな。乙女の涙にグッとくる男はそれなりにいると思うけれど」
「それにしたってタイミングが最悪すぎるでしょうが! もう! 何回殺しても死なないし! かと思えば突然プロポーズするし! 何なのよ一体!」
「ごめんよ、僕が不死なばかりに君に迷惑をかけてしまって……」
「不死」
「うん。あっ、でも安心してほしい。君は毎回ちゃんと僕を殺していたから、殺し損ねてはいなかったよ。殺し損ねたんじゃなくて、死んだ後で僕が生き返っただけだからね」
「安心出来る要素が何一つない!!! 不死って何!? 何で生き返るの!?」
「それは……僕も詳しい仕組みまではわからないのだけど……」
うーん、と悩ましげな表情を浮かべて侯爵、フェリクス・ド・モンフォールは語り始めた。
曰く、かつて初代モンフォール侯爵は、王の命を受けてこの地を支配していた邪悪な魔女を討伐したのだという。
しかし魔女は絶命の間際にモンフォール侯爵に呪いをかけた。
それこそが当代まで続く『死に拒まれる呪い』である。
「まぁ、最近では呪いを発現したものなら死ななくてちょうどいいからって当主にされる伝統まで出来てしまって、結果僕が爵位を賜り当主などやっているという訳だよ」
「絶対そんな軽い感じで語って良い話じゃなかった……。あれ? じゃあ最初に仕込んだ毒は本当に効いていたということ?」
なんだ、あの毒は紛い物じゃなかったのね。
ベッドに横たわったままそんなことを思えば、侯爵はニコニコしながら頷いた。
「あぁ、あの毒はすごかったね。あそこまで早く効く毒も珍しいよ。酒に混ぜたからかな? でもアレ、おそらく何かの植物が原材料だろうけど、ものすごく苦かったから二度目はないと良いな。苦くない顔しながら飲むの大変だったんだ」
「毒のテイスティング評価やめてくれる?」
「え? そう? あ! 二回目の転落死は全身の骨が複雑に折れた上に内臓も破裂したから再生に少し時間が掛かったよ。さすがだね、アンジュ」
「何故褒めた」
「え、だって、あの、じゃあ……三回目の刺殺は目が覚めたら君がいてちょっとドキドキしたし、あぁいうのは躊躇いがあると傷が浅くて死なないから、むしろしっかり殺してくれて助かったな。何度も丁寧に刺す君の覚悟の深さと容赦のない刺し傷に感服したよ!」
「感服するな! もう、どうして殺害方法のフィードバックなんて受けないといけないのよ! もっとこう、断罪とかなんかないの!?」
良心の呵責に耐えかねて叫ぶ私に、侯爵はただ美しく煌めく青い瞳を細めて「ないよ」と微笑んだ。
「だって君、僕を殺す度に謝ってくれたじゃないか」
「……え?」
「僕も割と殺され慣れているから、相手の傾向というものがわかるんだけどね。報酬のためか、僕が憎いのか、そういうのがある相手って僕を殺した後でホッとした顔をしたり、笑ったりするんだよ。……でも君はそうじゃなかった」
毎回僕のために泣いて、謝ってくれた。
そう語る侯爵に、あの殺害現場で泣き顔諸々を見られていたのだと知り、恥ずかしいやら恐ろしいやらでひどく複雑な気分になる。
そんな私に構わず侯爵は続けた。
「それに、毎朝復活する僕を見ても、君は一度も僕を化け物だと言わなかった。君は意識していなかったかもしれないけど、僕はそれが本当に嬉しかったんだよ」
侯爵は本当に幸せそうに笑っていた。
その笑顔を見ていると、私は何故か悔しくて、悲しくて、ボロボロと涙が溢れて止まらなかった。
「アンジュ? どうしたの」
「なん、なんで、笑ってるのよ……!」
「なんでと言われても……」
「もっと怒りなさいよ! 生き返ったとしても、毎回死ぬんでしょ! 殺されるのだって痛かったり苦しかったりするんでしょ! そんなのを一人で何度も繰り返して……それなのに笑っていないでよ!」
こんなの詰られた方がまだマシよ。
しゃくり上げながらそう言えば、侯爵はますます笑みを深くする。
「君のそういう、僕のために怒ってくれるようなところが、僕はとても愛しい。だからね、アンジュ」
「っ!」
侯爵の指先が、三回目の殺害時にしたように私の頬に触れる。
反射的に私が身を強張らせる中、その指先は私の涙を優しく拭った。
──あぁ、あの時、彼は私の涙を拭おうとしていたのか。
その事に気が付いてまたポロリと涙が零れた。
目の前の優しい人は、私の涙を拭いながら言った。
「僕が君を助けるよ。だから、全てが終わったら、僕との結婚のことを考えてほしい」
「結婚……」
「うん。あ、もしかして、君は僕が殺したいほど憎くて嫌いかい? だから何度も殺しに来たの?」
「違う! そんなことない!」
「なら良かった。君の様子を見ていれば、君が誰かに脅されているんだろうというのはわかったけど、もしもという事もあるからね。僕が嫌いだと言われたらどうしようかと心配だったんだ」
涙を拭った侯爵の指先が、今度は私の栗色の髪を一房掬い上げてくるくると指先に巻きつけては解くを繰り返す。
「僕に任せて、君は安心してもう少しお休み」
「でも、私……」
「あとは僕がやるから大丈夫。君に今必要なのは休息だ」
耳に優しく響く侯爵の声に、不思議と瞼が重くなっていく。
ダメだと思うのに、抗うことさえ出来ずに、私の意識はそのままストンと落ちてしまったのだった。
***
「……侯爵様……?」
再び目が覚めた時、侯爵の寝室に部屋の主人は不在だった。
ゆっくりと上体を起こして周りを確認するが、部屋の中には自分の他に誰の気配もしない。
ほんのりと侯爵の纏う香水の残り香だけが漂う寝室は、広さもあってか一人でいると妙な心細さを覚え、私は逃げるように先ほどの侯爵との会話を思い出していた。
(……そういえば、任せろとか何とか言っていたけど……)
彼は私を助けると言っていた。
侯爵が誘拐された弟と妹を助け出してくれるという事だろうか。
確かに平民の私が足掻くよりも、地位も権力もある侯爵が動いてくれた方が二人の救出は確かかもしれない。
私だって解ってはいたのだ。私が侯爵を殺したところで人質が解放されるとは限らないということくらい。
けれど私はやるしかなかった。出来ることが他になかったから。何もしないでいる方が気が狂いそうだったから。
「だからって……」
侯爵が動いてくれているとしても私一人がここでのうのうと寝ている訳にはいかない。
深呼吸をしてからベッドから降りて軽く身支度を整える。
部屋の姿見で確認した自分の顔はひどいもので、侯爵もよくこんなひどい顔の女にプロポーズが出来たものだと思わず笑ってしまった。
(あの王子様に私なんかが似合う訳ないのにね)
私は自分のために何度もあの人を殺している。
殺す度に謝っていたのは自分の抱える罪悪感を少しでも払拭したかったからに過ぎない。
こんな女は、あの人に助けてもらう価値なんて、ない。そんなのは私にばかり都合が良すぎる話だ。
これ以上あの優しい人に迷惑をかける前に、身の振り方と家族を助ける方法を模索しなければ。
そう決意して部屋から出ようとしたところで不意にドアが開いた。
ひょこりと顔を出したのは、私が屋敷に来てから指導係にもなってくれているメイド長だった。
「あら、アンジュさん。起きていたの? お水を持ってきたけれど飲めるかしら」
「メイド長! すみません。私、大丈夫ですから」
入ってきたメイド長は盆に水差しとコップを載せている。
貴族の出であるというメイド長自ら、私などのために水を運ばせてしまったと恐縮して頭を下げる私に、彼女は良いのよと優雅に笑っていた。
「でも、本当に大丈夫なので! 私、すぐに自分の部屋に戻りますから」
「あらそれは困るわ」
「えっ」
背後で聞こえた、ガシャン、と陶器が割れる音に振り返るよりも早く、布で鼻と口元を覆われる。
思わず身を捩るも、強い力で押し付けられた布から嗅いだことのない匂いがしてくらりと目の前が回った。
「な……ん……」
「私、旦那様にあなたのことを任されているのよ。勝手をされては困ります」
驚くほど冷たい声と、緩むことのない手の力。
嗅がされた薬品のせいか手足から力が抜けていく。
(旦那様って、侯爵様? どうして……)
メイド長に何故を問うことすら出来ず、そのまま私の意識は再び闇の中に落ちていったのだった。
***
「──姉ちゃん! アンジュ姉ちゃん!」
「ねえ、目を覚ましてよ! お姉ちゃん!」
「……っう、う……」
ゆさゆさと身体を揺らされ、無理やり叩き起こされる不快感に眉間に皺が寄る。
もう、朝ごはんならもうちょっと待ってよ。
目を閉じたままそう言い掛けてはたと思い直す。
待って、今の声って。
「ジュール! マノン!?」
「姉ちゃん!」
「お姉ちゃん! 起きた! 良かったぁ」
がばりと身体を起こした私の目に飛び込んで来たのは、少しやつれてはいたけれど、それでも元気そうな弟と妹の姿だった。
「あぁ! 二人とも無事で良かった!」
両腕で二人を抱き締めればちゃんと二人の体温を感じられる。怪我をしている様子もない。
生きてる。それが嬉しくて涙が溢れてくる。
ぎゅうぎゅうと抱き締める私の腕の中で、ジュールとマノンが口を開いた。
「それはこっちの台詞だよ。突然マノンと同じ部屋に連れて来られたかと思ったら姉ちゃんまで……」
「ねぇ、お姉ちゃん、その服何? どこかのお屋敷にでも出稼ぎに出されてたの?」
「この服は……。いや、そんな事より二人ともひどいことされてない? 怪我は?」
「俺たちは大丈夫。部屋に閉じ込められてはいたけど、食事もちゃんと出たし」
「部屋にトイレもシャワーもあったの。寄宿舎より快適だったわよ」
「しゃ、シャワーまで!? ということはかなりの金持ちが誘拐犯ってこと?」
「……多分?」
「そう、かも?」
二人から聞いた話をまとめると、学校にまず父の危篤を知らせる手紙が届き、その後で病院に向かう馬車を手配したからその馬車で向かうようにという手紙が届いたのだという。
手紙には病院で姉、つまり私が待っているとあったので、二人は手紙の内容を信じて学校まで迎えににやって来た馬車に乗ったという。
そして先ほどの私と同じように薬で眠らされ、目が覚めた時には窓のない部屋に閉じ込められていたのだとか。
よくよく周りを見てみれば、今いるこの部屋にも窓はなく、絨毯は敷かれているようだが床は他の天井や壁同様に石造りだった。
窓がないのでここが地上なのか地下なのか、今が昼なのか夜なのかもわからない。
出入り口となる扉は鉄製で食事などを入れるために小さな口がついているものの、当然ながら首すら外に出せない大きさである。
これだけ厳重だからこそ、手足を拘束されることなく部屋に放り込まれているのだろう。
問題は私が連れて来られた理由の方だ。
人質が無事だったのは本当に良かったけれど、私までここに連れて来たということは誘拐犯は侯爵暗殺を諦めたのか、それとも私たち全員を始末するつもりなのか。
嫌な予感に冷たいものが背筋を流れ、私はますます強い力でジュールとマノンを抱き締めた。
「姉ちゃんが二人を守るからね……!」
絶対にここから逃げ出して騎士団に駆け込んでやる。
そう決意した時、重い金属音を立てて鍵が開いた音がした。
「──目覚めたか。アンジュ・メルシエ」
部屋に入って来たのは、厳しい顔付きの老人だった。
ひどく顔色が悪く、時折咳き込むその老人は、身なりから察するに相当な上位貴族であるのだろう。
杖をついた歩き方ひとつとっても威厳に満ち満ちている。
メルシエ商会の跡取り候補でもあった私の目は、相手はただの成金などではなく、明らかに人に命令し慣れた、支配者層に確固たる地位を築いた人物であると察していた。
「あなたは……」
「ふむ。流石に平民では儂の顔は知らぬか。良い、せっかくだ。雇用主の名くらい明かしてやろうぞ」
老人は蓄えた髭を撫でながら、ざらざらとした声で自身をオーギュスト・ド・ボーモン公爵と名乗った。
モンフォール侯爵ですら本来私たち平民には雲の上のお方なのに、ここに来て公爵まで出て来て目を丸くする。
(公爵? 公爵って、王家の分家みたいなもんじゃなかったっけ? そんな人がどうして侯爵様を殺そうと企んだりするの?)
この老人こそがジュールとマノンを攫い、私に侯爵暗殺を命じた人物なのか思うも、ボーモン公爵から発される威圧感に、私は自分の背に弟妹を隠して相手を睨みつけることしかできなかった。
「あ、あなた様のようなお方が、どうして侯爵様の暗殺など企むのですか」
「ふん。儂は奴の命が欲しい訳ではない。アンジュ・メルシエ、そなたも知っておろう。奴には他にはない特別な祝福の力がある。儂が望むのはその力だ」
生き返りのあの不死の力のことを言っているのだとすぐにわかった。
しかし『祝福』と言ったことが気になって首を傾げる。だってあんなの呪いでしかない。
私の反応をどう思ったのか、ボーモン公爵はどこか熱に浮かされたような目で私を見つめて口を開いた。
「……さぁ、アンジュ・メルシエ。お前は幾度あの男を殺した? お前はあの男の力を少しでも奪えたのか?」
「ッ!」
「姉ちゃん、殺したってどういうことだよ」
「お姉ちゃん、まさか……!」
公爵の言葉にも、ジュールとマノンが私の背で叫ぶ言葉にも、私は何も答えることが出来なかった。
二人の命と侯爵の命を天秤にかけて、私は二人の命を選び、侯爵を手に掛けた。
そんなことをこの場で口に出来るほど、私は強くはなかったのだ。
口を噤み顔を伏せる私に、公爵は引きずるような重い足取りで近付き、杖の先で無理矢理私の顔を上げさせた。
「まぁ良い。お前を殺せばわかることよ」
言葉と共に杖の先端から刃物が飛び出し、私の喉元を浅く掠めた。
一拍遅れて熱に似た痛みと、首筋に何かが流れる感覚を知覚する。
仕込み杖なんて初めて見たし、その刃が向けられるなんてことも初めてで恐怖にハッとして身を引く。
弟妹を背に隠してじりじりと壁際に後退する私を逃すまいとするように、公爵はストンと杖を振り下ろした。
「あぁあああっ!」
「おや、少しずれたか」
瞬間、感じたのは先ほどの比ではない熱と痛み。
スカートごと太腿を縫い止めようとしたらしい刃は、幸か不幸か太腿の外側を掠めて石床を刺したようだった。
「姉ちゃん! 姉ちゃん、大丈夫か! くそ! 姉ちゃんに何すんだよ!」
「やめて! お姉ちゃんにひどいことしないで!」
「二人とも後ろに隠れてなさい! 私は大丈夫だから!」
出て来ようとする二人を何とか押し込め、痛みを堪えてボーモン公爵を見上げる。
見上げた先の公爵の灰色の目は、暗く澱んで底知れない狂気を秘めているように見えた。
「やれやれ。元気の良い娘だ。あまりこの老体を疲れさせるな」
いつの間にか公爵は、杖を持つのとは反対側の手に大振りのナイフを握っていた。
部屋の明かりを反射して、てらりと刃が光っている。
怖い。自分を殺すために振り上げられた刃とは、こんなに恐ろしいものなのか。
(……フェリクス様……)
こんなことなら、あの時殺した事をもっとちゃんと謝っておくんだった。
脳裏に浮かぶフェリクス様は「慣れてるから平気だよ」といつものようにのほほんと笑っていたけれど、それでもきっと傷だけでなく心も痛かったはずだから。
(謝れなくて、ごめんなさい)
死を覚悟して、きつく目を閉じる。
その時だった。
「──そこまでだ、ボーモン公」
窓のない部屋の中に凛とした声が響いた。
聞き慣れた声に恐る恐る視線を上げれば、開け放たれたドアからモンフォール侯爵、フェリクス・ド・モンフォールが立っているのが見えた。
いつもの爽やかな王子様然とした姿ではなく、腰に剣を提げて精悍な騎士のような出立ちである。
「ボーモン公爵。屋敷は制圧させて頂いた。貴公が囲っていた呪術師連中も既に捕縛済みだ」
「モンフォールの小僧か。ここは王族直系のボーモン公爵家の本邸だぞ。儂の許可無しに武装し踏み入るとはどういう了見だ」
部屋になだれ込むモンフォールの騎士たちに動じる様子もなく、ボーモン公爵は威厳を失わずに周りを睨み付けている。
この場に満ちる威圧感の中で、まず口を開いたのはフェリクス様だった。
「そちらこそ、僕の婚約者とその家族を勝手に連れ出すとはどういう了見です?」
「姉ちゃん?」
「お姉ちゃん、どういうこと?」
「事実無根!!!!!」
こんな緊迫した場面にもかかわらず、フェリクス様が突然おかしなことを言い出すものだから、背後から感じるジュールとマノンの視線が痛い。刺された太腿より痛い。
「僕のアンジュを返して頂きますよ」
「ならばさっさと貴様の力を、『不死の祝福』を儂に差し出すことだな。社交界では幸運のモンフォールなどと呼ばれているが、その幸福とは不死の力の事だろう。力さえ手に入ればそのような小娘に用はない」
「祝福? あぁ、あなたはそんな言葉で踊らされてしまったのか」
「何だと」
「ボーモン公爵。残念ながら、この力はそんなに良いものではありませんよ」
フェリクス様が肩を竦めてやれやれと苦笑する。
今までに同様の誤解を受けたことがあると続けるが、ボーモン公爵がそれを信じる訳もなく、むしろ話をはぐらかされたと激昂してしまった。
無理もない。あまりにフェリクス様の口調も態度も軽過ぎるのである。
「戯けたことを抜かしおって。良いか、儂は長年この国のために仕えてきたのだ! まだだ! まだ死ねぬ! まだこれからなのだ! 儂には生きる権利がある! 貴様が祝福を渡さぬと言うのなら、貴様の気が変わるように目の前でこの小娘の手足を一本ずつ切り落としてやろう!」
公爵が勢いよく杖を横薙ぎに払ったので、身体をのけぞらせて間一髪で何とか躱わす。間近で聞こえた刃が空を切る音に、背中を嫌な汗が伝った。
「公爵。それ以上はおやめ下さい。これはお願いではなく──警告です」
「モンフォールごときがこの儂に生意気な口を利くな! よほどこの娘らがどうなっても構わんと見える」
「痛っ!」
一撃目はなんとか躱わしたものの、脚の痛みで反応が遅れ、二回目の攻撃がピッと頬を掠める。
反射的に手の甲で拭うとピリピリした痛痒さがあり、手の甲にはべったりと血が付着していた。
年頃の娘の顔に何をするのか。
しかし、顔の傷に激昂したのは私ではなくフェリクス様の方だった。
「……ボーモン、貴様ァ……!」
ぶわりと吹き出す怒気。
同時に彼の周りに赤黒い霧のようなものが漂う。
見た目が毒々しくて一目で有害だとわかるその霧を纏ったフェリクス様が右腕をボーモン公爵へと向ければ、霧はフェリクス様の意思に従うかのようにボーモン公爵を覆った。
「な、なんだこれは……! うわぁあああ!!!」
赤黒い霧に触れたボーモン公爵が苦悶の声を上げる。
肌にじわじわと霧と同じ色の痣が滲む様子を見ながらフェリクス様はにっこりと微笑んで答えた。
「……何だとはお言葉ですね。貴公が望んだ『呪い』ですが?」
「違う、儂が望んだのはこのような不気味な力ではない! 儂が望むは不死の……」
「不死はね、ただのオマケですよ」
フェリクス様は変わらず微笑んでいた。
しかし、人はあんなにも冷たく微笑むことが出来るのかと思うほど、その笑みと声音は冷え切っていた。
「これは秘密なんですが、特別に教えて差し上げましょう」
そう言い置いて淡々とフェリクス様は言葉を続ける。
「詳細は省きますが、かつて初代モンフォール当主は、その身に魔女の放った国を滅ぼす呪いを封じ込めることでこの国の平和を守った。以降、モンフォール家の当主は代々その身に呪いを封じる『守りの器』となった。これが真実です」
「ならば、不死の力とは……」
「我々モンフォールの当主は器ですからね。不慮の事故で器が壊れて呪いが漏れ出さないように、器には自動修復機能が備わっている。死なないのではなく、安らかに死ねない身体。ただそれだけの話ですよ」
何百年も経つうちに、こうして僅かに呪いの力を引き出して行使する術も確立しました。
フェリクス様がクッと拳を握ると、赤黒い霧は消え失せて、後にはところどころ肌に赤黒い痣が刻まれた公爵が残った。
よろよろと床に膝をつく老公爵に、フェリクス様は毅然とした態度と声で告げた。
「王より賜った剣と守護者・モンフォールの名において、オーギュスト・ド・ボーモン公爵、貴殿を拘束する。私欲に溺れ厄災を呼び込んだその罪、残りの命で償うがいい」
「儂は……、そのようなつもりでは……、あぁ、そうだ。儂は国を危うくするつもりなど……」
「えぇ、わかっていますよ。貴公はただ呪術師連中に利用されただけ。しかしこの国において禁忌である呪術師を招き入れて囲い、奴らの力を増強させた罪は重い」
フェリクス様の合図でボーモン公爵はあっという間に捕縛され、騎士たちによって部屋から連行されていく。
威厳を放っていた公爵の背中は先ほどまでの威圧感が霧散し、何だかとても小さく見えた。
部屋から公爵が連れ出され、ようやく解放されたのだとホッとしたのも束の間。
フェリクス様がボソリと低い声で呟いた、
「……僕のアンジュを傷付けた罪はもっと重いぞ」
という言葉が耳に飛び込んできて「誰が侯爵様のですか!」と反射的に叫んでしまった私は悪くない。もちろん傷にはしっかり響いた。
「アンジュさん」
「め、メイド長……!?」
そんなことをしている私の前に騎士たちに混ざってひょいと顔を出したのは、見慣れた侯爵家のお仕着せ姿のメイド長だった。
彼女の顔を見るなり、侯爵様の部屋でかなり強制的に眠らされたことを思い出した私は、背中に弟妹を隠しながらふしゃ!と子猫を守る親猫よろしく威嚇体勢に入った。
しかし、突然メイド長がその場で深く頭を下げたので、私は威嚇を続けることもできず、どうして良いかわからずにひどく困った顔になってしまった。猫だったらイカ耳になっていたところだ。
背後で弟妹も何事かと困惑している。
「お守り出来ず、申し訳ありません」
「へぁ?」
「放っておくと勝手に抜け出して自ら危険に突っ込んで行きそうなアンジュさんが、まさに今から無茶をしに行きます!という顔をしていたので咄嗟に薬で眠らせたまでは良かったのですが……」
「良くないですけど!?」
「まさかボーモン公の手のものが旦那様が騎士を連れて外に出た隙にアンジュさんを回収にくるとは思わず。多勢に無勢であったとはいえ、このような油断、わたくしの不徳の致すところです」
「待ってください、メイド長。そもそも私を眠らせるところからおかしくないですか?」
「? 使用したのは、オーガニック素材の体に優しい薬でしたが……」
「んぐぅううう、そうじゃないんだよなぁあああああ」
深々と頭を下げられはしているのだが、さて、私はどう反応するのが正しいのだろうか。
背後では弟妹が「確かに姉ちゃんならやりかねない」「縛り上げて床に転がしておかないだけ優しい」なんて会話をしている辺り、姉の立場や威厳というものが既に危う過ぎる。
しかし、確かにメイド長はあの時『旦那様から頼まれている』と言っていたので、危なっかしい私を安全に保護するために眠らせるのは理に適っているような気も……いや、やっぱりおかしくない? おかしいよね? どうして皆「それは仕方がない」みたいな顔をしているの? あれ? おかしいの私じゃないよね?
疑問は尽きないけれど、刺された脚も切られたほっぺも痛いし、今になってずっとピンと張っていた緊張の糸が切れて身体中恐怖で震えてくるしで、私は結局メイド長の「ともかく早く手当てしましょうね」という聖女のような優しい微笑みと温かく柔らかい手に絆されて、「ひゃい」と気の抜けた返事ひとつで自分の身を任せてしまったのだった。
***
「あぁ、アンジュ。僕がもっと早く助けに来ていれば君にこんな怪我をさせることなんてなかったのに……!」
メイド長がせっせと傷の手当てをしてくれている間、フェリクス様はずっと私の手を握って、先ほどまでの凛々しさが嘘のようにボロボロと大粒の涙を溢していた。
泣き顔もやっぱり絵になる男である。
でも、元はと言えば自業自得のようなものだし、脚の傷ならスカートで隠れる。顔の傷だって、多少残ったところで貴族のご令嬢でもあるまいし、治ってさえしまえば気にもならない。
周りにモンフォールの騎士たちもいるのだから主人がそんなに泣くのはどうなのよと、私は苦笑しながらフェリクス様を宥めにかかった。
「こんなの大した傷じゃないわ。泣かないで、侯爵様」
よしよしと金糸の髪を撫でてやると、もっと撫でろと頭を押し付けてくる。
だが、私の一言が余計に彼の涙腺を刺激してしまったらしく、フェリクス様は私の手にぐりぐりと頭を押し付けながら子供でもそんなに泣かないんじゃないかというくらいの号泣を始めてしまった。
「大した傷じゃないなんて言わないでくれ! 僕が代わってあげられたらいいのに、僕の呪いの力では君の傷ひとつ癒せない。自分の無力さが嫌になる」
このままでは、今におんおんと声を上げて泣きそうな勢いである。
そんなことになったら侯爵様の美しい目が涙で腫れてしまう。
私は彼の澄んだ青い瞳が好きなのだ。腫れた瞼で瞳が隠れてしまうのは頂けない。
泣かせたのが私なら、泣き止ませるのも私の役目だろう。
ちょうど傷の手当ても終わったので、侯爵様に握られた手を軽く引いて、こちらを見てと合図する。
涙で濡れた青い瞳が何だか宝石のように光って見えた。
「侯爵様は私を助けに来てくれたわ。それで充分よ」
「でも! 元はと言えば君はうちの事情に巻き込まれただけで」
「そうかもしれないけど、私だって三回もあなたのこと殺しちゃった訳だし。だからね、助けに来てくれただけで、良いの」
おあいこということにしましょう、と言えば、フェリクス様がスンと鼻を鳴らした。
子供っぽいその仕草に思わず笑みが溢れてしまう。
フェリクス様は両手でぎゅうと私の手を握り、怒ったような、拗ねたような、けれどとても可愛い顔で厳かに口を開いた。
「……アンジュ。結婚しよう」
「えぇ? 私、見ての通り物理的に現在進行形で傷モノなんだけど、まだ私にプロポーズする気なの?」
「君が頷いてくれるまで毎日でも結婚を申し込むよ」
ワンチャン気の迷いを願っていたが、フェリクス様のキリッとした顔は意思を曲げるつもりはないと言っているようだった。
やりかねない。フェリクス様ならやりかねない。毎日隙あらばプロポーズしてくるフェリクス様が容易に想像出来てしまう。
脚を怪我しているからと、フェリクス様にそのままひょいと横抱きに抱え上げられながら、どうやったら彼の気が変わるだろうかと思案する。
だって、どう考えても私は侯爵家の奥様なんてガラじゃないのだもの。早めに考え直してもらうのがお互いのためだ。
それは、わかっているけれど、それを言って簡単に気持ちは変わるものだろうか。彼も。そして、……私も。
フェリクス様は殺せても、わずかに芽生えたこの恋心を果たして私は殺せるだろうか。
そんな悩める私の後ろで、騎士やメイド長に保護されていたジュールとマノンがひそひそ声などではなく、隠すつもりもない声量で言った。
「姉ちゃん、アレでほんとに侯爵様と婚約してないのかよ?」
「そうよ。むしろこの流れで婚約しない方が問題じゃない? 大丈夫?」
「僕は本気だよ、アンジュ!」
「えぇい、全員黙って!!!」
確かにフェリクス様に横抱きにはされているけど、それは私が怪我をしているから致し方なくそうしているだけだ。
他の騎士が代わりますと言っても笑顔で受け流しているけど、それもきっとたまたま騎士の声が聞こえなかっただけだ。
私とフェリクス様の間には殺し殺された程度の関係しかまだないのだから。
──だからこれは、ただの不慮の事故だ。
「フェリクス様、ありがとね」
「えっ?」
横抱きにされて移動する際にそっと呟く。
次いで落ちないようにとフェリクス様の首に回していた腕に力を込めてグッと顔を寄せ、私はその頬にちゅっと軽い音を立ててキスをした。
泣いていた名残なのか、ほんのり涙の味がするキスだった。
「アンジュ、今……」
「事故です。揺れたのでぶつかっただけです」
しれっと素知らぬ顔で視線を逸らしたけれど、顔から火が出そうなほど熱くなっているので私の顔は相当赤くなっていることだろう。
数秒間の沈黙があり、相手の反応が気になって逸らしていた視線をチラとフェリクス様に向ける。
フェリクス様は顔を真っ赤にさせて硬直し、こちらを見つめていた。空中でばちりと視線がぶつかる。
「……心臓が、止まるかと思った。あ、本当に止まったかも知れない」
「なっ! なんでキスして死ぬのよ! 普通逆でしょ!」
「なら今すぐ生き返るから改めてキスして貰えないだろうか」
「勝手に生き返りなさい! そもそもキスで死なない努力をしなさいよ!」
ニッコニコのフェリクス様と、その腕の中で横抱きにされたままギャンギャン喚く私を見て、ジュールとマノンが呆れたように
「自分でキスって言っちゃってるよ、姉ちゃん」
「そういうところだよ、お姉ちゃん」
と溜め息を吐いていたのだけど、私はそんな事にはついぞ気付きはしなかったのだった。
***
さて、事件から一週間ほどが経過して、私は何とフェリクス様の寝室で療養生活を送っていた。
公爵邸から保護された後、私は使用人を辞めて弟と妹を連れて自宅に戻ると言ったのだけれど、フェリクス様が泣いて嫌がったのでメイド長から雇用の継続をお願いされ、弟妹からも「姉ちゃんは侯爵邸に行きなよ」とあっさり送り出されてしまったのだ。
仕方なく侯爵邸に戻った私は自分の使用人部屋で大人しく療養をと思ったのだが、一時間に一回、いや多くて三回くらいフェリクス様が執務室を抜け出して様子を見に来てしまうので、家令とメイド長の判断によって療養場所をフェリクス様の寝室に変更されてしまった。
流れるようにまたあのふかふかのベッドに寝かされ、婚約もしていないのに同じベッドで眠るのはいけないと全力で抗議した結果、フェリクス様はご自分のあの無駄に大きなベッドを撤去して、代わりに新しく二つのベッドを並べて設置するように指示を出した。
頷いた家令とメイド長の手際が良過ぎてベッドの交換は半日もかからなかった。魔法でも使ったのかと思ったくらいだ。
しかし新しいベッドというのも、二つ並べるとちょうど以前のベッドと同じくらいの幅になるので、これはこれで大きなベッドである。
そして私は割り当てられた方のベッドの上で療養生活を送っているという訳だった。
美しい彫刻の施されたベッドボード前にクッションを積み、背凭れにして上体を起こしているスタイルが最近の定番である。
「アンジュ、傷は痛まない? 大丈夫かい?」
「うわ、またお仕事抜け出して来ちゃったんですか」
「ううん、今はちゃんと休憩中。……手紙?」
「はい。ジュールとマノンから」
ひょいと寝室に顔を出したフェリクス様は、私が手にしている手紙を見てパチと長い睫毛を瞬かせた。
そのままいつものように私のベッドに腰掛けて「二人とも元気にしている?」と尋ねるフェリクス様に、私は肩を竦めて手紙の内容を伝えた。
「無事に寄宿舎には戻ったようですが、休んでいた期間の課題と補講で毎日大変みたいです。……次の長期休暇、帰って来られるのかしら」
「僕たちの事情を知ってもすぐに受け入れてくれた寛容かつ柔軟な考え方を持つ子たちだから、課題も上手い事こなしそうだけどね」
「まぁ、要領の良さは姉の私も認めるところではありますが……」
フェリクス様の言葉に、公爵邸から保護された後、モンフォール邸に戻る帰途の馬車内で交わされた会話を思い出しなんとなく複雑な気分になる。
何も伝えない訳にもいかないだろうと、二人が攫われて監禁されている間、私は脅迫状に従って侯爵邸に使用人として潜り込み、三度も侯爵殺害を実行した話をすれば、ジュールとマノンはひどくショックを受けた様子だった。
姉が自分たちのために人の命を奪ったのだから無理もない。
だが、馬車の揺れが傷に響くといけないという理由で私を膝に乗せたフェリクス様が、キラキラかつ爽やかな笑顔を振り撒いて、
「でもほら、幸い僕は不死だからね。こうしてピンピンしてるのだし、実質無罪だよ」
と言ったら、二人とも「殺された本人がそう言うなら良いか」「生きてるしね」と、実にあっさりフェリクス様の不死の呪いも実の姉の殺人も受け入れてしまったのである。
そういえば二人ともボーモン公爵邸での監禁中、出された食事を平気で平らげ、しっかり部屋のシャワーを使い、それなりに快適に過ごしていた度胸の持ち主だった。
しかもあの時、目の前でど平民である実の姉が高貴なる侯爵家のご当主様の膝に抱き上げられていても、ジュールもマノンも当然のような顔をして顔色ひとつ変えなかった。
どちらかが指摘してくれたら、それを口実にして膝から降りようと思ってたのに、お陰で私は侯爵邸に到着するまでずっとフェリクス様の膝の上にいる羽目になったのだ。
閑話休題。
「……そういえば、あの時、どうしてボーモン公爵邸に?」
あの時のことを思い出したついでに、ずっと疑問だったことをフェリクス様にぶつけてみる。
彼の登場はあまりにタイミングが良過ぎたのだが、侯爵家の事情というものがあるかもしれないと今まで聞くに聞けていなかったのである。
フェリクス様も何かを思い出したのか、少しだけ苦い表情になって口を開いた。
「以前から度々ボーモン公爵から暗殺者を差し向けられていたから、公爵は僕のことが嫌いなんだなぁとは思っていたんだ」
「え? 暗殺者送ってるのが公爵なのは知っていたの?」
「一応暗殺者がどこから来たのかは調査してたよ。でも公爵の面目も考えると何度か殺されてあげた方が良いのかなと思って……。しばらくすると暗殺者の方がいなくなっていたし、毎回殺し疲れて諦めて帰ったのかなって……」
フェリクス様の口から語られる内容が初めて触れる概念過ぎて頭が痛い。
普通、殺されたら元も子もないので暗殺者は見つけ次第処分が鉄則だし、送り込む方だって重罪だ。
彼の言い方では女学生が嫌がらせの手紙を送るのと同程度にしか感じられない。実際フェリクス様にとってはその程度だったのかもしれないが。
「それで、今回君が来た。メルシエ商会のお嬢さんまで送り込まれてくるなんて、今度は何を企んでいるのかなぁと思っていたら、君は僕をめげずに立て続けに殺したから、何となくこれはおかしいんじゃないかなと気付いてね」
「そこで気付くの!? 気付くのが遅過ぎる……! これだから不死者は……!」
「そう言われると照れるな。僕はとても君を気に入ったから早めに公爵から解放したいなと思って色々洗っている時に、ボーモン公爵が呪術師に傾倒しているという情報が手に入った。呪術師関係の討伐はモンフォールの管轄だからね。裏取り後、サクッと制圧して陛下に引き渡そうと思ったら、その裏で君まで攫われていたという訳だ。あんなに焦ったのは生きていて初めてだったよ」
フェリクス様は私がボーモン公爵から送り込まれたと検討をつけて公爵周りを洗う際、秘密裏に私の父に接触、保護して事情を確認していたらしい。
お陰で父は侯爵家からの情報で私の無事を確かめる事が出来たという。
しかし、公爵が暗殺者を送り込む理由が自分を嫌っていたのではなく、不死の呪いを狙っていたのだと知って少なからず驚いたとフェリクス様は言っていた。
「いやぁ、こんな呪い、あっても良いことなんてそんなにないんだけどなぁ。まさか欲しがる人がいるなんてね」
「フェリクス様……」
「あ、でも最近とても感謝したことがあるよ」
「感謝したこと?」
「うん。この呪いのお陰で君に会えた」
「〜〜〜〜ッ! し、仕事に戻って!! 今すぐ!!!」
「ふふ。また顔を見にくるよ」
フェリクス様が執務に戻った後、静かな部屋の中で一人ぼんやりと天井絵を見上げる。
件のボーモン公爵は呪術師を国内へ招き入れて援助していた罪によって爵位を剥奪され、残りの生涯を幽閉されて過ごすこととなった。
けれど彼が長年に渡り国の為に尽くし、貢献したこともまた事実である。呪術師に傾倒したのも病による余命宣告で追い詰められてしまったからだ。
フェリクス様が王陛下にそう進言し、ボーモン公爵家は王家の監視下に置かれはするものの、傍系から新たな当主を迎え、取り潰し自体は免れた。ボーモン公爵自身も、表向きは幽閉ということになっているが、実際は宮廷医師による適切な治療を受けての療養生活である。
確かにフェリクス様は不死だけれど、不老ではない。
命の終わりは必ずやってくる。
それを知らず呪術師に唆されて生きるために呪いを求めた彼の執着は、これで絶たれたのだろうか。
弟妹を攫われ私自身も酷い目に遭ったけれど、不思議とあの老公爵を憎む気持ちはなかった。
(だって、何はともあれフェリクス様と出会えたのは公爵様のお陰だしなぁ……)
喉元過ぎれば何とやらというやつなのか、最終的に丸く収まったからなのか、今では願わくばあの公爵が安らかに余生を過ごせれば良いと、私はそう思っている。
***
それから一ヶ月ほど経って、怪我もすっかり良くなった私は侯爵邸の使用人の仕事に復帰した。
したのだが、私の日常は以前とはすっかり変わってしまっていた。
「アンジュ、僕と結婚してくれ」
真面目な顔で一輪の薔薇を差し出すフェリクス様の前で、私は視線も合わせず玄関前の掃き掃除を続けていた。侯爵邸ともなると玄関前も広くて大変だ。
「残念ながら私は平民なので無理ですね〜」
「くっ、昨日と違う断り文句……っ! これは陛下に法改正を申し立てるしかない……」
いつもはしょんぼりしながら帰るだけのフェリクス様に陛下の存在を出され、ギョッとして顔を上げる。
「いやいやいや、法の方変えようとしないでくれる!?」
「じゃあセオリー通りにどこかの貴族に養子に入って僕と結婚してくれる?」
「うーん、それはそれでちょっと……」
「ダメかぁ……」
こんな感じでフェリクス様は宣言通り、あれから毎日手を変え品を変え文言を変えては私にプロポーズしているし、私も毎日違う文言で断り続けている。
適当に言い繕っているだけの私と違い、フェリクス様のプロポーズのバリエーションの豊かさは貴族故の教養の高さなのか、それにしてもよくも毎日毎日飽きないものである。
今日もしょんぼりと去っていくフェリクス様を見送り掃き掃除の続きに取り掛かると、今度は別の声が掛けられた。
「アンジュさん」
「あ、メイド長」
このメイド長とも、以前よりも良い関係を築けている。少なくとも私はそう思っている。
そもそもこのメイド長、モンフォール家の傍系の貴族家出身で、昔はフェリクス様のナースメイドでもあったのだそうだ。
モンフォール家の使用人の多くはモンフォールの縁戚であり、フェリクス様が死亡した際は迅速に現場を片付ける仕事人集団だと知った時、私は「だから毎回犯行現場は翌朝きちんと清掃されていたのか」と感心したものだ。
ちなみにメイド長の家は薬草の取り扱いに長けており、あのオーガニック強制睡眠薬はメイド長お手製である。
スッと伸びた背筋や穏和な表情は年齢不詳の優しいお姉さんでしかないというのに人は見かけによらない。
そんなメイド長は右の頬に手を添えて困ったように小さく首を傾げた。
「アンジュさん、どうして旦那様の求婚に頷いて差し上げないんです?」
「あの、自分でも意地悪だなとは思ってるんですよ。でも、その……」
「何か理由が?」
至極真っ当な質問に、私は持っていた箒の柄を指先でいじいじしながら目線を足元に落として答える。
「……『うん』って言ったら、もうプロポーズして貰えないと思うと……つい……口が勝手に……。それに、私とフェリクス様じゃ、やっぱり身分差があるし……本妻じゃなく妾とかじゃダメなんでしょうか」
私の答えにメイド長は首を振りながら溜め息を吐いた。
「それで旦那様が納得されるとお思いで?」
「それは……」
「いいですか、アンジュさん。当家では家柄よりも重視することがあります」
「家柄よりも? 何ですか?」
モンフォール侯爵家の女主人に求められるものとはなんだろう。
私は純粋に気になってメイド長の言葉の続きを待った。
メイド長はこくりと一度小さく頷き、厳かな声音で言った。
「──モンフォールに相応しい度胸です。一度目は殺せても、復活した旦那様を前に二度目の殺害に挑める者は少ない。三度目ともなれば稀です。三度もきっちり旦那様を殺せる気概のあるレディでしたら、モンフォールの奥様として我々は大歓迎致します」
「待って、判断基準おかしくないですか?」
「何せモンフォールですので。それはさておき……アンジュさん。旦那様のこと、お好きですよね」
「ぐぅっ。それは、あの、……はい」
問いかけではなく断定の言葉だった。
突然核心を突かれて、取り繕うことも出来ずに頷けば、メイド長はどことなくわくわくした表情で重ねて問う。
「結婚しても良いくらいに?」
ここまで来たら下手に誤魔化す方が悪手だろう。
女同士の恋バナということで収めてもらおう。
そう観念してこくりと頷く。
「えぇ。身分差が許されるなら、もちろん」
「──だそうですよ、旦那様」
しかし、次の瞬間。
メイド長がニッコリ笑って物陰に向かって告げた言葉に、私は自分が策略に落ちていた事を知って思わず叫び声を上げた。
「あぁああああ!!! 裏切りましたね!?」
「私の主人は旦那様ですので」
「それはそうですけども! きぃいい、やられた……!」
目の前のメイド長はいつも通りの穏和な表情を浮かべたまま、しれっと私から視線を逸らしている。
その向こうの物陰から優雅に歩いてくるフェリクス様は憎らしいくらい、いつもよりもキラキラして見えた。
多分、髪に葉っぱがくっついていなければもっとキラキラしていたと思う。茂みになんか隠れるからよ。
「よくやった。君には臨時賞与を出そう」
「有り難く頂戴致します」
恭しく頭を下げるメイド長に機嫌良く告げたフェリクス様は、そのままこちらへやって来て私の右手を取ると徐ろに手の甲にキスをした。
驚きと羞恥でピャッと飛び上がりそうになるのを必死に我慢して左手で箒の柄を握りしめる。
ドコドコ音を立てて飛び跳ねている私の心臓のことなど知りもしないでフェリクス様は頭に葉っぱをくっつけたまま囁いた。
「アンジュ。今すぐ陛下に結婚のお許しを頂いてくるから、お茶を飲んで待っていておくれ」
「へ、へへへ陛下って! ここに来て外堀の埋め方がエグい!!! 反則! 反則よ!! こんなのダメ!」
「ダメかい?」
「ダメ! やり直しを要求します!」
「ダメかぁ……」
「ダメでしたね、旦那様」
「仕方ない。次の手を考えるとしよう」
メイド長に背中を撫でられ、とぼとぼとした足取りで屋敷の中に戻っていくフェリクス様を見送り、完全にその姿が見えなくなったところで詰めていた息を吐く。
「……明日はどんなプロポーズが来るんだろう」
呟いた言葉は、なんとなく期待に弾んでいる気がした。
***
「旦那様。どうしてご自分からアンジュさんに、当家はその特殊さ故に身分差婚も認められるときちんと説明なさらないのですか。私などが説明してもアンジュさんは納得しませんよ」
主人の後をついて歩くメイド長の声には僅かな叱責の色が見えた。
幼少の頃からフェリクスを知る彼女だが、最近のフェリクスの意図はいまいち読めなかった。
アンジュが身分差を気にするのは当然のことだが、このモンフォール家においてそこは然程問題ではない。
淑女教育ならば婚約が調い次第、モンフォール家が総出で行うし、読み書きどころか商会の仕事を手伝うことで既に外国語まで嗜んでいるアンジュである。教育自体も難航することはないだろう。
だからこそフェリクスは一番最初にそのことを直接説明するべきであったのに、どうしてか我らが当主は大切なことを伝えずに毎日求婚してはあしらわれている。
メイド長は幼な子の駄々でも眺めるような顔でフェリクスを見た。
「アンジュさんはいざとなったら旦那様を盾にして生き延びるような、強さとバイタリティのあるレディですし、むしろ陛下からも早く婚約をとお手紙が届いておりましたよね? 我々としても旦那様を三度も殺害出来るのならそれで充分です。旦那様がきちんと説明なさればアンジュさんも……」
「ふふ、僕はアンジュだから大人しく三回も殺されてあげたんだよ。それに、説明して簡単にアンジュが頷いてしまったら、僕はもう彼女に求婚出来ないんだ。そう思うとつい……」
長い睫毛を伏せ、恋する乙女もかくやと言わんばかりの眼差しで遠くを見る主人の姿に、メイド長はいよいよ呆れ顔になって溜め息を吐いた。
「まったく。似たもの同士でございますこと」
ついにメイド長は諦めて肩を竦めた。
こうなったら使用人一同(※アンジュ除く)長期戦を覚悟しよう。
フェリクスもアンジュも、二人とも好きなだけプロポーズしたりされたりすればいい。
アンジュだってあんな事を言ってはいるが断るつもりはないのだと使用人全員知っている。
せっかくだから何回目のプロポーズでアンジュがプロポーズを受け入れるか使用人たちで賭けでもしてやろう。
「もう、お好きになさいまし」
言いながら、メイド長は早速次のプロポーズについて思案を巡らせ始めたらしいフェリクスを見遣った。
青い瞳は煌めき、白磁の肌は上気し薔薇色に染まっている。頭にくっつけた葉っぱですら彼を飾る装飾品のようだ。
そんなモンフォールの美しい主人が実に楽しげにはしゃいだ声を上げる。
「あぁ、でも彼女がプロポーズに頷いてくれる時が来たら、嬉しくて心臓が破裂するかもしれないな!」
「死因がプロポーズ成功なのは、さすがにどうかと思いますわ。アンジュさんだってそんな理由で四度目を迎えたくはないのでは?」
「うーん、死なないって難しいね」
「だからこそ皆、生きることに必死になるのです」
今はただ、フェリクスが死ではなく生を見ようとしてくれる事で良しとしよう。
メイド長はそう胸の中で一応の納得を得て、微笑を湛えながら主人の後ろをついて再び歩き出した。
──そういう各々の至極身勝手で個人的な理由によって、モンフォール家の使用人たちに見守られながらアンジュ・メルシエがフェリクス・ド・モンフォール侯爵からのプロポーズを交わし続ける日々は、もう少しだけ延長戦になるようだった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。




