最後の便箋に、春を書く
人は、忘れるためではなく、生きていくために涙を流すのかもしれません。
この物語は、大切な人を失った少女が、「残された言葉」とともにもう一度歩き出すまでの、小さな春の記録です。
静かな物語ですが、誰かの心にそっと残る作品になれたら嬉しいです。
祖母の文房具店は、駅前の商店街のいちばん端にあった。春になると、店先の古い桜の木から花びらが落ちて、ガラス戸の溝に薄桃色の線を作る。
私はその花びらを見るたびに、母を思い出す。
母は手紙を書く人だった。誕生日にも、入学式にも、何でもない雨の日にも、短い手紙をくれた。
「言葉はね、残るから」
母はよくそう言っていた。
けれど母がいなくなってから、私は手紙が嫌いになった。残る言葉があるなら、残らない人のことまで思い出してしまうから。
高校二年の春、祖母が足を悪くして、私は週末だけ店番をすることになった。
客は少なかった。古い便箋、万年筆、封筒、消しゴム。時間だけが、紙の匂いの中でゆっくり沈んでいく。
その日、私は棚の奥から古い箱を見つけた。
白い箱だった。蓋には母の字で、こう書かれていた。
「結衣へ」
息が止まった。
指先が震えて、蓋を開けるまでに何分もかかった。中には一通の封筒が入っていた。宛名は、私の名前。
封はされていなかった。
私はその場に座り込んで、便箋を開いた。
『結衣へ。
これを読む頃、あなたは私を少しだけ嫌いになっているかもしれません。どうしていなくなったの、どうして置いていったの、と。
ごめんね。
でも、ひとつだけ覚えていてください。私はあなたを置いていったんじゃありません。最後まで、あなたのそばにいたかった。
結衣は泣くのを我慢する子です。大丈夫じゃないのに、大丈夫と言う子です。だから心配です。
悲しい時は、ちゃんと悲しいと言ってください。寂しい時は、寂しいと言ってください。誰かを頼ることは、弱さではありません。
あなたが生きていく毎日の中に、私がいなくても、あなたの毎日が空っぽになるわけではありません。
春が来たら、桜を見てね。
私はそこにいます。
あなたが笑える日にも、泣く日にも、何も言えずに立ち止まる日にも。
結衣、どうか幸せになって。
お母さんより』
読み終えた時、涙は出なかった。
ただ、胸の奥に硬く置いていた石が、少しだけ崩れる音がした。
夕方、幼なじみの蒼が店に来た。彼は何も買わず、いつものようにカウンターに肘をついた。
「泣いた?」
「泣いてない」
「嘘つき」
そう言われた瞬間、私は初めて泣いた。
声を殺す余裕もなく、子どもみたいに泣いた。蒼は何も言わず、ただ店のシャッターを半分閉めてくれた。
「私、お母さんに会いたい」
言葉にしたら、もっと苦しくなると思っていた。
でも違った。
苦しさの中に、息をする場所ができた。
蒼は小さく頷いた。
「うん」
「ずっと、会いたかった」
「うん」
「でも、言ったら本当にいないって認めるみたいで、怖かった」
蒼は私の隣にしゃがんだ。
「言っても、いなくならないよ。もう、ちゃんと結衣の中にいるんだから」
その言葉で、私はまた泣いた。
春の夕暮れが、店のガラス戸を淡く染めていた。桜の花びらが一枚、戸の隙間から入り込み、母の手紙の上に落ちた。
まるで返事みたいだった。
その夜、私は久しぶりに便箋を買った。
薄い桜色の便箋。母が好きだった色。
家に帰って、机に向かい、ペンを握った。何を書けばいいのかわからなかった。でも、書き出しだけは自然に浮かんだ。
『お母さんへ。』
そこから先は、少しずつだった。
会いたいこと。怒っていたこと。忘れたくなかったこと。笑うのが怖かったこと。幸せになるのが、母を置いていくみたいで苦しかったこと。
全部、書いた。
最後に私は、こう書いた。
『春が来たら、桜を見ます。
だからお母さんも、そこで待っていてください。
私はもう少し、ちゃんと生きてみます。』
翌朝、私はその手紙を封筒に入れて、祖母の店へ持っていった。
祖母は何も聞かず、店の奥から小さな木箱を出した。
「陽子もね、ここに手紙を入れていたのよ。出せない手紙を」
「出せない手紙?」
「届かなくても、書けば心は少し動くからって」
私は木箱の中に、自分の手紙を入れた。
窓の外では、桜が散り始めていた。
母がいない春は、まだ少し寂しい。
でも、寂しいと言えるようになった私は、昨日より少しだけ母に近づけた気がした。
店先に出ると、蒼が自転車にもたれて待っていた。
「学校、遅れるぞ」
「うん」
「大丈夫?」
私は少し考えてから答えた。
「大丈夫じゃない日もあると思う」
蒼は笑った。
「それでいいんじゃない」
私も、少しだけ笑った。
桜の花びらが肩に落ちた。払わずに、そのまま歩いた。
母の言葉は、ちゃんと残っていた。
そして私も、これから誰かに言葉を残していくのだと思う。
さよならは、終わりじゃない。
言えなかった言葉が、もう一度、誰かの明日を照らすこともある。
春の光の中で、私は初めて、母のいない未来へ足を踏み出した。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
『最後の便箋に、春を書く』は、「喪失は消えない。それでも人は生きていける」という想いから生まれた作品です。
誰かを失った記憶は、時間が経っても完全には消えません。
けれど、その人がくれた言葉や優しさは、きっと人生のどこかで支えになってくれる。
結衣が母の言葉によって少しずつ前を向けたように、この物語も誰かの心を静かに照らせたなら幸せです。
ありがとうございました。




