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最後の便箋に、春を書く

作者: あーちゃん
掲載日:2026/05/28

人は、忘れるためではなく、生きていくために涙を流すのかもしれません。


この物語は、大切な人を失った少女が、「残された言葉」とともにもう一度歩き出すまでの、小さな春の記録です。


静かな物語ですが、誰かの心にそっと残る作品になれたら嬉しいです。

祖母の文房具店は、駅前の商店街のいちばん端にあった。春になると、店先の古い桜の木から花びらが落ちて、ガラス戸の溝に薄桃色の線を作る。


 私はその花びらを見るたびに、母を思い出す。


 母は手紙を書く人だった。誕生日にも、入学式にも、何でもない雨の日にも、短い手紙をくれた。


「言葉はね、残るから」


 母はよくそう言っていた。


 けれど母がいなくなってから、私は手紙が嫌いになった。残る言葉があるなら、残らない人のことまで思い出してしまうから。


 高校二年の春、祖母が足を悪くして、私は週末だけ店番をすることになった。


 客は少なかった。古い便箋、万年筆、封筒、消しゴム。時間だけが、紙の匂いの中でゆっくり沈んでいく。


 その日、私は棚の奥から古い箱を見つけた。


 白い箱だった。蓋には母の字で、こう書かれていた。


「結衣へ」


 息が止まった。


 指先が震えて、蓋を開けるまでに何分もかかった。中には一通の封筒が入っていた。宛名は、私の名前。


 封はされていなかった。


 私はその場に座り込んで、便箋を開いた。


『結衣へ。


 これを読む頃、あなたは私を少しだけ嫌いになっているかもしれません。どうしていなくなったの、どうして置いていったの、と。


 ごめんね。


 でも、ひとつだけ覚えていてください。私はあなたを置いていったんじゃありません。最後まで、あなたのそばにいたかった。


 結衣は泣くのを我慢する子です。大丈夫じゃないのに、大丈夫と言う子です。だから心配です。


 悲しい時は、ちゃんと悲しいと言ってください。寂しい時は、寂しいと言ってください。誰かを頼ることは、弱さではありません。


 あなたが生きていく毎日の中に、私がいなくても、あなたの毎日が空っぽになるわけではありません。


 春が来たら、桜を見てね。


 私はそこにいます。


 あなたが笑える日にも、泣く日にも、何も言えずに立ち止まる日にも。


 結衣、どうか幸せになって。


 お母さんより』


 読み終えた時、涙は出なかった。


 ただ、胸の奥に硬く置いていた石が、少しだけ崩れる音がした。


 夕方、幼なじみの蒼が店に来た。彼は何も買わず、いつものようにカウンターに肘をついた。


「泣いた?」


「泣いてない」


「嘘つき」


 そう言われた瞬間、私は初めて泣いた。


 声を殺す余裕もなく、子どもみたいに泣いた。蒼は何も言わず、ただ店のシャッターを半分閉めてくれた。


「私、お母さんに会いたい」


 言葉にしたら、もっと苦しくなると思っていた。


 でも違った。


 苦しさの中に、息をする場所ができた。


 蒼は小さく頷いた。


「うん」


「ずっと、会いたかった」


「うん」


「でも、言ったら本当にいないって認めるみたいで、怖かった」


 蒼は私の隣にしゃがんだ。


「言っても、いなくならないよ。もう、ちゃんと結衣の中にいるんだから」


 その言葉で、私はまた泣いた。


 春の夕暮れが、店のガラス戸を淡く染めていた。桜の花びらが一枚、戸の隙間から入り込み、母の手紙の上に落ちた。


 まるで返事みたいだった。


 その夜、私は久しぶりに便箋を買った。


 薄い桜色の便箋。母が好きだった色。


 家に帰って、机に向かい、ペンを握った。何を書けばいいのかわからなかった。でも、書き出しだけは自然に浮かんだ。


『お母さんへ。』


 そこから先は、少しずつだった。


 会いたいこと。怒っていたこと。忘れたくなかったこと。笑うのが怖かったこと。幸せになるのが、母を置いていくみたいで苦しかったこと。


 全部、書いた。


 最後に私は、こう書いた。


『春が来たら、桜を見ます。

 だからお母さんも、そこで待っていてください。

 私はもう少し、ちゃんと生きてみます。』


 翌朝、私はその手紙を封筒に入れて、祖母の店へ持っていった。


 祖母は何も聞かず、店の奥から小さな木箱を出した。


「陽子もね、ここに手紙を入れていたのよ。出せない手紙を」


「出せない手紙?」


「届かなくても、書けば心は少し動くからって」


 私は木箱の中に、自分の手紙を入れた。


 窓の外では、桜が散り始めていた。


 母がいない春は、まだ少し寂しい。


 でも、寂しいと言えるようになった私は、昨日より少しだけ母に近づけた気がした。


 店先に出ると、蒼が自転車にもたれて待っていた。


「学校、遅れるぞ」


「うん」


「大丈夫?」


 私は少し考えてから答えた。


「大丈夫じゃない日もあると思う」


 蒼は笑った。


「それでいいんじゃない」


 私も、少しだけ笑った。


 桜の花びらが肩に落ちた。払わずに、そのまま歩いた。


 母の言葉は、ちゃんと残っていた。


 そして私も、これから誰かに言葉を残していくのだと思う。


 さよならは、終わりじゃない。


 言えなかった言葉が、もう一度、誰かの明日を照らすこともある。


 春の光の中で、私は初めて、母のいない未来へ足を踏み出した。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。


『最後の便箋に、春を書く』は、「喪失は消えない。それでも人は生きていける」という想いから生まれた作品です。


誰かを失った記憶は、時間が経っても完全には消えません。

けれど、その人がくれた言葉や優しさは、きっと人生のどこかで支えになってくれる。


結衣が母の言葉によって少しずつ前を向けたように、この物語も誰かの心を静かに照らせたなら幸せです。


ありがとうございました。

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