Outside of field of...
民友党総裁選の日が二日後に迫ったその日、浅井信之は西へと向かう新幹線の中にいた。
総裁選の対立候補は三人いたが、ベテランの毛利は党員人気が低く、若手の丸山はまだ実績不足、ライバルは岩森内閣で環境大臣を務めた三浦と目されていたが、思うように支持が広がっておらず、もはや浅井の勝利は盤石である。
総理総裁の座が二日後、いよいよこの掌の中に収まる。
しかし、浅井の表情は浮かなかった。心の友、いや、最愛の人と言っても言い過ぎとは思われない大山との訣別のショックから、浅井はまだ立ち直れていない。レパーズは優勝決定後も順調に試合を消化し、リーグ戦の全試合消化まであと一つを残すのみとなっている。
最終戦はホーム・時鉄庚申球場にファルコンズを迎えての試合。
浅井はこの試合に招待されたのである。
「やあ、お待ちしておりました、浅井総理」
新幹線を下車すると、球団社長直々の出迎えがあった。
「まだ総理ではありませんよ」
「いやいや……。今回はお越しいただき光栄です」
「こちらこそ、……私などでいいのでしょうか」
「大変盛り上がると思いますよ、選手たちからも、歓迎の声が上がっておりました」
浅井は、この最終戦の「ファーストピッチセレモニー」に招かれたのである。
浅井は、野球に関しては全くもって素人である。幼少期にキャッチボールだってろくにしたこともないような男である。しかも、特定の政党に所属し、まもなく総裁となろうとしているような人間が、偉そうに聖地とされる庚申球場のマウンドに立つなんてこと、あっていいのだろうか。スポーツ、プロ野球、……不偏不党であるべきだと思うからこそ、浅井は大山が指摘した通り、正民党の「国民健康スポーツ振興法」に拒絶反応を催した。
だから、当初は固辞しようと思ったのである。しかし、球団からは、
「決して偏るようなことにはならないよう、配慮させていただきますので、是非とも」
という強い求めがあったし、どこで聞き付けたのか釜元は「せいぜい顔を売ってくりゃいいじゃねぇか。三百日もたずに不人気で倒れられてもつまらん」という言葉で勧めたので、引き受けることにした次第。
大山に相談したら、彼はなんと答えただろう? 「まさかお受けになるおつもりじゃありませんよね?」と言われそうだ。
しかし、……もう、彼とは縁が切れてしまったのだ。
私にはもう、友達はいない。
独りぼっちになることと引き換えに、夢を叶えるのだ。それならば、一つの夢のついでに、……プロ野球選手を一瞬でも志して、諦めざるを得なかった過去を持つ者として、庚申球場のマウンドを踏むという夢をも叶えたとして……。
スーツを脱ぎ、ワイシャツになって、代わりにレプリカユニフォームを贈られる。背番号は「1」であり「ASAI」の背文字もプリントされている。
同じ背番号「1」を背負った選手が、試合前の貴重な時間であろうに、ブルペンまでやってきてくれた。
「浅井先生、はじめまして。折原と申します」
我れがヒーロー・折原尚人。彼はレパーズ入団以来ずっと背番号「1」を背負い続けている。また、高校時代も彼は「1」だった。
感動的な対面であった。
「テレビでいつも、拝見しています。あの、実際に見ると、とっても大きいんですな」
思わず、子供のような感想を浅井は述べてしまってから、折原からボールの握り方、フォーム、懇切丁寧なレクチャーを受ける。人生振り返っても球を投げたことなんて数えるほどしかなかった男なのに、「筋がいいですよ」なんてお世辞を言われるぐらいにはボールを投げられるようになった。
グラウンドからは、ウグイス嬢によるスタメン発表の声に応じて、地鳴りのような声援、ヒッティングマーチのメドレー、そして、レパーズの球団応援歌「駆けよ豹」の大合唱。大勢の前でスピーチをすることには慣れているが、五万に迫ろうかという観衆を前にマウンドに立つなどという大役に、俄かに心が竦みそうになる。
「大丈夫ですよ。元気よく、キャッチャーのミット目掛けて腕を振って来てください!」
憧れの折原にそんな言葉で励まされて、ブルペンカーに乗り込む。
ライトスタンドの下部、屋根と壁に囲まれたブルペンから、グラウンドに出るなり、音と光の雨が浅井に降り注いだ。
「ここで、本日の、ファーストピッチセレモニーを行います。本日のセレモニアルピッチャーを務められますのは、民友党・浅井信之議員です」
スタンドからは、どよめきが起こる。市長や県知事がセレモニアルピッチャーとして登板することはそう珍しくもないが、現職の国会議員というのは、そう多くはない。スポーツの政治利用、……浅井自身がそう思うのだから、より強く疑問を抱く人間は少なくないはずだ。しかし、ブルペンカーを降りて、マスコットキャラクター・豹太郎の待つマウンドに向かう浅井に向けて、セカンドを守る伊沢、ファーストのロメロ、そして今日の先発ピッチャーを務める城田が拍手をして出迎えているのを、ファンたちは見逃さない。どよめきはまもなく、好意的な響きを伴い、「アサイ! アサイ! アサイ!」という声援に変わった。
浅井信之は人生において、今日が紛れもなく最上の日であるという確信を持った。四方に手を振り、深々と首を垂れる。
総理、総裁という夢の一歩手前。
ここに、本当の夢があったのだと思えば思うほど、胸が苦しくて仕方がなくなった。
私は、総理になんてならなくてもよかったのではないか。
一兵卒として、忙しく働く中、……仮に議員になれなかったとしても、自分の心に常に大切な友達の存在を意識していられるほうが、ずっと幸せだったのではないだろうか。
この日、この瞬間の感覚を分け合って、一緒に笑い合える友達が、もう浅井にはいないのだ。
本日の対戦相手・ファルコンズの一番打者が打席の遠いところに立ち、一礼をくれた。一八・四四メートル先に屈むキャッチャーは、レパーズの正捕手・児島である。
児島である、はずである。しかし、やけに小さく、遠く見える。目が霞んでいるのだろうかと、マウンドで浅井は一度、目を擦った。バックスクリーンを振り返る。スターティングラインナップ、確かにキャッチャーは児島である。緊張しているからだろう、と深呼吸を一つして。
違う、と気が付いた。
キャッチャーであるから、マスクを被っている、防具も、肩、胸、膝に脛、しっかりと固めている。けれども、明らかにグラウンドに立つ他の人物たちよりも身体が小さく、痩せている。
スタンドの声援が、ヴォリュームを絞ったように、小さくなったのを感じる。
その人物は、左手を前に突き出して、
「ノブさん、まっすぐだ。ど真ん中めがけて、思いっきり腕を振って!」
そう、叱咤の声を投げてきた。
「ああ……」
その瞬間、浅井は自分があらゆる迷いから解放されるのを覚えた。
さっき折原が教えてくれたように、左足を上げ、右足でしっかりと身体を支え、自分の身体を弓に喩え、ボールの重さを感じながら、全身を使って……。
決して格好のいいものではない。そもそも「ど真ん中」に投げることは出来なかったし、一番大切なのは形式上打席に立ってくれているファルコンズの一番打者にボールを当ててしまわないことであったのだが、……はっきり言って、視界が潤んでしまってコントロールなんて効く状況ではなかった。
それでも、ノーバウンドで白球がミットに収まった瞬間、キャッチャーが飛び上がり、まるで優勝の決まった瞬間のように、マウンドへ駆け寄ってくる。浅井も、夢中になって両手を上げて、キャッチャーと抱き合った。
「本日のセレモニアルピッチャーを務められました、民友党・浅井信之議員、そして、セレモニアルキャッチャーを務められましたのは、憲政党・大山浩典議員でございました。お二方は、レパーズの秘密応援団『豹翔会』として、日々ご声援を送ってくださっておられます。今一度、大きな拍手をお願いいたします」
アサイ! アサイ! アサイ!
オーヤマ! オーヤマ! オーヤマ!
肩を組んでグラウンドから出ていく二人に、いつ果てるとも知れない声援が降り注いでいた。
「ずるいよ、ヒロ、こんなのはあんまりだ」
二人への声援の余韻の中、借り物のユニフォームを脱いで、笑っているような泣いているような顔で浅井は咎めた。見れば、大山のユニフォームは背番号「10」である。
レパーズにおいて背番号「10」を背負っているのは五番ファーストの強打者ロメロであるが、その背番号の意味が全く異なったところにあることを、浅井はもちろん理解していた。
それは、西国大附属青陽高校にて、キャッチャーとして折原をリードした新田義輝が背負っていた番号なのだ。
高校野球において「10」は控えの背番号。新田は折原に「1」を譲り、自らはリリーフ投手としてチームを支える役目を帯びた。三年生に上がったタイミングでキャッチャーに転向したものの、背番号は「10」のまま変えなかった。だからピンチを迎えた青陽高校のマウンドには、背番号だけ見ると二人の投手がいるかのような光景だったのである。
「ごめんなさい。ですが……、どうしても、どうしてもね、私は、私たちの夢を終わらせてしまいたくなかったんです」
「新田くんだね。彼に頼んだんだ、そうでしょう」
「ご賢察です。あなたと喧嘩をすることになってしまうことは避けられない、……しかし、なんとしてでも止めなければいけなかった。でも……」
大山の目も潤んでいた。
「まったく……、君ってやつは、本当に……。どんなに仲のいい友達同士だって、喧嘩をすることぐらいあるだろう」
「そうであっても、です。……あの日から今日まで、どれだけ心細く、寂しかったことか……」
ブルペンからわざわざやってきてくれた折原が手を叩いて出迎えてくれる。
「浅井先生、ナイスピッチングでした。でもって、大山先生もナイスキャッチングでした!」
気恥ずかしさと面映さに、浅井と大山はまるで少年の頃に戻ったようだった。
浅井と大山は顔を見合わせて、
「……あの、折原さん」
「もしよろしかったら、なんですが……」
二人の夢の重なった日の記念を、
「サインをいただけないでしょうか」
そんな夢のような形で残したいと願ったのだった。




