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神閥  作者: 村岸健太
次期総理
8/11

Farewell friend.

 釜元の忠犬として働き続ける日々の中で、浅井の政治家としての実績を挙げるとすれば、「国家保安法を通さなかった」ことに尽きる。この法案は、有事の際のメディア・表現規制を念頭に置き、平時においてもSNSでの言論活動については、注意深く行われなければいけないという思想に基づいたもので、野党や市民団体からは激しい反対を浴びることとなった。メディアにおいては政権に近い学者や知識人を総動員して「今の我が国に必要な法制である」という意見を強く広めたのに、そうではない野良学者、野良コメンテイターに言いくるめられてしまうというシーンもあって、むしろ逆効果になってしまった。結局は会期末の委員会での押し引きになって、どう決着をつけるかという中、非常階段で「宿敵」と思っていた大山の意外な一面を目の当たりにして、浅井は戦意を喪失してしまったのである。

 結果的に、国家保安法は流れた。しかし国民の中には「数に任せた手段を潔しとはしなかった、浅井はなかなかの人物だ」という評価が広がることとなったし、結果的には浅井にとってはプラスの結果になったと言っていいだろう。

 浅井にとって何より大きかったのは、紛糾した委員会の外で大山浩典という男と通じ合えたということだ。

 生き馬の目を抜く政治の世界、信じられるのは己自身と、ごく僅かな側近ばかり。恩のある釜元にせよあの通りの男であるし、釜元の側を浅井を信じてはいまい。最高権力者は「最高」であるがゆえにこそ、一人しか存在し得ず、ほとんど全ての国会議員がその座に就くことを目指して政治家を志すのであるから、政党・派閥に所属しようと、とどのつまり自分以外全て敵。

 しかし、一歩政治の世界を離れたならば……。 

 政治家になってからというもの、同じ趣味の友人、というものが、浅井にはいたことがなかった。鉄道ファンということで繋がる与野党の有力議員たちがいて、彼らが仲睦まじくテレビ番組に出演する姿を眺めては、いいなぁ、私にもあんな友達がいたなら……、なんて憧れを、密やかに抱いていたのである。

 そんな中で出来た、たった一人、信頼できる友達。

 議場では恐ろしい「敵」である、というのが、浅井には却って快く刺激的だった。私の友人はこんなにも有能で頭の切れる男なのだという認識は、大いに嬉しかった。どんなに激しくやり合った後でも、二人きりの夜、秘密の「豹翔会」でレパーズの未来について語り合う時間には、仕事のことなど忘れ、少年の気持ちに戻ることが出来た。浅井は大山との時間の中で、暗く苦しかった少年時代を埋めるような、みずみずしい喜びを満喫することができたのである。

 先週末、二人の宿願であったレパーズの優勝、祝賀会。あれほど美味いビールを、浅井は知らない。チームが低迷する苦しい時期を、大山と二人で乗り越えた末に到った歓喜である。そして同じ年に、自分がついに総理大臣になる……、人生の夢が、いよいよ叶うのだ。

 大山は「強敵現る、という感じですね。もちろん、敵があなたであることを心から喜んでいますよ」と言ってくれた。彼が内心で、「強敵」と書いて「友」と呼んでくれていることがわかって、浅井は誇らしい気持ちで一杯だった。民友党と憲政党は決して相容れないし、浅井は大山が友達だから手心を加えてくれるなどとは思っていない。これまでと全く変わらぬ関係でいられることを、浅井は信じて疑わなかった。

 それゆえに、釜元からショッキングな命令を受け、しかし「新田くん」と話をしたこの日の夜、「この後、お時間いただけますか」という大山からのメールを受け取ったときには、心が躍った。釜元にあてがわれた夫人との間には子が出来ず、そもそも夫人の興味の対象としてみなされたことさえない浅井にとっては、むしろ大山と過ごす時間こそが最大の癒し、リフレッシュであるとさえ言えたのだ。

 いつもの、私のホテルでよろしいですか。

 記者の目を避け、あくまで私はこのホテルのカレーが目当てなのだという顔で、いつもの赤坂クラウンホテルにやって来た。この「カレーを目当てに」というのは、大山のアイディアだ。確かに各党本部や近隣のホテルのレストランのメニューで、カレーを見付けられないことはありえないし、それぞれ趣向を凝らした一皿を仕上げる。民友党のカレーは辛口のビーフで、憲政党はマイルドなシーフード、そしてクラウンホテルはスパイスの効いたチキンカレー。浅井は古豪野党である揚社党の食堂で供されるエビフライカレーが好きで、週に一度は行ってしまうのだが、それを以って「大山が揚社党と距離を縮めている」なとど思われることはない。だってカレーは、誰もが好きな食べものだから。

 いつもの部屋のドアの前で、ノックをする。解錠され、開いたドアから顔を覗かせた大山の顔が、

「やあ、お待ちしてましたよ」

 心なしか、いつもより固いことが気になった。

「急にすみません。実は先生に確かめておかなければいけないことが出来まして」

「おいおい……」

 翔豹会のメンバーでいるときは、お互いを「ヒロ」「ノブさん」と呼び合う約束である。それはこの時間が二人だけの、特別なものであることの証であるとともに、この場に仕事を持ち込まないという互いの意思の確認でもあるから。

「どうしたの、いつものヒロらしくもない……」

 しかし、大山は表情を強張らせたままでいる。

「すみません。本当なら、これからもあなたのことを『ノブさん』と、親愛を籠めてお呼びしたい。党派を超えた友人であるあなたのことを……。しかし、私にも譲ることの出来ないラインというものがあります。それは私は政治家である以前に一人の人間であり、レパーズを愛するあなたの友人であり、……そして、友人が間違えようとしているときに、それを止められない人間であろうとは思わないからです」

 浅井は鼻白んだ。

「私が、間違えようとしている? それは一体……」

「『健スポ法』……、正民党が連立を組んだ際に法案を提出すると明言している『国民健康スポーツ振興法』に関してです。浅井先生はお読みになりましたか」

 ぐっ、と言葉に詰まる。というのも、正民党が出す出すと言う法案というのはどれもこれも、ちょっとでも法律を齧ったことがあるなるば「そんなの出来るわけがなかろうが」と呆れるような代物ばかり。酷いものになると「核武装準備法案」なんてものをぶち上げた候補もいたほどで、……しかもその候補が選挙区でトップ当選してしまうのだから世も末だ。その末世に総理大臣という夢を叶えるのが、果たして胸を張れるほどのことなのかどうか判然としないのであるが、それはさておき、全部を精査しているかと問われると、明確な答えはしかねるのである。

 ただ、「国民健康スポーツ振興法」は、さほど問題のある法案ではなかったように思う。直接目を通したわけではないが、秘書たちに読ませて、目立った問題はないという返答を得ていた。

「主に、教育現場での体育授業の強化、それから企業に対してスポーツテストの実施を求め、有識者会議の設立をする……、そんなところだったと記憶しているが」

「それは、参院選当時のものですね。あの当時は『核武装準備法』だとか『訪日外国人向け消費税』だとか無茶な法案ばかりが目立ってしまったもので、その後にこの法案が正民党の言葉を借りればアップデート(・・・・・・)されて、いま私が問題視しているのは、これも君島女史流の物言いをするならば『国民健康スポーツ振興法2.0(・・・)』とでも呼ぶべきもの……」

 固い表情のまま、大山が取り出した茶封筒、「健スポ法2.0」とやらをプリントアウトしたものだった。

「三十三条の四項。プロスポーツについての条文をご覧になってください」

 捲って行った先。


◆三十三条 四項

指定プロスポーツ選手は、国民の健康増進意識並びに国家の団結力強化に資するため、以下を義務付ける:


ア)国民防衛隊主催の訓練キャンプに年一回(二週間)参加し、国民の模範となる規律と運動能力を示す


イ)国際競技大会(例・ワールドカップ、オリンピック、国際野球クラシック等)において優秀な成績を求めた選手・チームに対しては国民防衛隊より「国民防衛勲章」を授与し、国家の誇りを体現し、防衛隊予備員としての格を付す


ウ)プロスポーツ選手は地域社会でのスポーツ振興イベントへの参加し、教育者として愛国心・集団規律の重要性を啓発する


 浅井は自分がどんな表情を浮かべていたかの自覚はなかったが、顔を上げたとき、最初に映った大山は、まるで鏡のようだった。大山の方が五つほど若いのであるが、叩き上げで若い頃に苦労を重ねてきた分、浅井にはない渋みのようなものが、彼にはある。それがいま、一層深く暗く刻まれて顔に現れていた。

「……これは、つまり、スポーツを軍国主義回帰に用いようとしている?」

 軋むような音を立てて大山は頷いた。

「民友党さんでは、国家保安法はだいぶソフトにしたものを出すおつもりでしょう。もちろん、詳しいことをこの場でご案内いただけるとは思いませんが」

 図星である。

 憲法改正をソフトかつスマートに行っていくに当たって、外国の脅威を煽り、愛国心を刺激しようとする一派が、釜元をはじめ党内には一定数いる。「お国のためなら」式に、多少の自由権制限はやむなしと国民に思わせて民主主義を返上させようという考えを持つ一派がその嚆矢として放ったのが「国家保安法であった。

 しかしこの法律に拘泥することで以前のような強い反発を浴びるのはもうごめんだと考えを改めたため、浅井内閣で提出される同法案は、以前とは別物の、有事に市民の安全を確保することに重点を置いたものに変わっている。君島は盛んにこの法案が憲政党、そしてその象徴的存在である大山によって廃案にされたと訴え、今度こそ通そうと熱意を傾け、SNSで攻勢を掛けているようだが、彼女の思うような法案では、残念ながらない。

 大山は窓辺に寄って言う。

「市民に親しみのあるスポーツ選手を訓練に参加させ、軍隊という団体、兵器といった物品に対しての抵抗感を中和する。……近年、民友党さんは御用学者ではなくタレントやお笑い芸人に、政府寄りの意見を言わせることが増えていましたね。それが岩森さんになって急に政権批判を行わせるようになっていた……」

 浅井は唸った。

 そうである。浅井自身が直接手を下したわけではない、誰に何を言わせよと言ったわけでもない。ただ党内の一派、……具体名を挙げることは避けるが、岩森が「身体検査」の対象として考えているいわゆる「裏金議員」たちを多く抱える一派からは、早急な岩森退陣のために、世論の形成も欠かせなかった。毎日のように「いつまでやるつもりなんでしょうね」「選挙で負けたんだから責任取って辞めるべきでは」「こんなもん素人でもわかりますわ」と喋る「プロ素人」が用意された。

「そして、当時と今とで違う点として、SNSの発展がありますね。実態の知れない人の扇動的なデマが力を得てしまうようになっています。かつてと比べて政治の敷居が低くなっていると言うことも出来るでしょうが、その弊害の部分を、民友党の一部の皆さんが恩恵として活用しようとしていることは否定できないと、私は思います」

 浅井は反論できなかった。

 釜元政権以降の民友党の政策が成功していたなら、この国は当時より豊かなのである。少なくとも、他の先進国と呼ばれる国々が順調に経済成長を遂げている中において、ほとんど唯一と言っていいほどに低い成長率しか残せていないことや、若年層の貧困、もはや手の施しようのないレベルの少子高齢化など、打つ手はどれも裏目に出て来た。

 その状況を打開するすべを模索するよりも、国民の不満の矛先を他に向けることを、民友党の執行部は長らく選んできた。その行き着く先が、愛国心を煽った上での排外主義の浸透。自分たちのいまの苦境は外国人のせいである、という論理構築である。

 君島の正民党は、いわば、まさに、そうした流れに乗じて伸長した。釜元はその流れによって、国民の権利を制限する法律を君島に託して通そうとしている。三百日後に「元総理」になる浅井の後釜に君島を据え、長期政権を築き、自身はこの国最大にして唯一の派閥の長として君臨し続ける……。

「この法案が通ればどうなるか、……あなたも想像できるでしょう」

 大山の言葉が、浅井の胸に重くのしかかった。

 プロ野球選手たちが政治利用され、国民を戦線に送り込むための道具になってしまう。

 大袈裟ではない。

 右派は法律で人権が話題なるたびに騒ぎ立てる左派に対して「大袈裟である」という指摘を行うが、民主主義の場において市民と為政者の間に権利の綱引きが常に行われていることは言うまでもない。あらゆる法は、市民生活を制限する因子の有無を念頭に置いて設けられているものであると捉えられるのが前提だ、……というのは、原則的に立法を行う側は強力に市民生活を制限し得るからである。

 レパーズの選手たち、ライバルであるガイアーズの選手たちも、マイルドな徴兵とでも呼べそうな訓練への参加を求められることとなってしまう。

 そうなれば、野球は急激にその輝きを失うこととなってしまうだろう。

 我々が一球一打に惹かれるのは、彼らが鍛えてきた肉体と肉体、磨いてきた技と技とが、純粋なエネルギーとしてぶつかるさまが美しいからだ。彼らは己の肉体と精神を、野球という一つの競技に最適化するべく鍛え上げてきた存在である。彼らの身体はバットを振り、ボールを投げ、塁間を駆け抜けるためにある。純粋な鍛錬の結晶であるその大きな身体に、靭き心に、国家のためという価値を背負わせてしまえば、野球はその独立性を失う。

 野球が野球であるがゆえに素晴らしいのではなく、野球が国家のために貢献するものであるから素晴らしいという見方に変わってしまう。

「……浅井先生。あなたはこの法案を止めることが出来ますか」

 出来ない。

 出来るわけがない。浅井信之の内閣は、釜元の傀儡である。釜元がいなければ、そもそも総裁の座に就くこともままならなかった。総裁に、総理になるために三十年以上、苦しみに耐えて来たのである。

 浅井が言葉を発せないでいる間に、大山は答えに至ってしまった。おそらく十分経っても二十分経っても、大山に納得してもらえる言葉は出てこなかっただろう。

 無論、それは浅井自身にとっても意に沿わぬものでしかなかったはずである。

「そうですか」

 大山は溜め息に失望を滲ませた。

「……残念です」

 浅井の手から法案を受け取り、茶封筒に収める。

「新田義輝、……ご存知ですね。レパーズの折原と、青陽高校時代にバッテリーを組んでいたあの新田くんです」

 悲しい目を窓外に向けて、大山は言った。

 本当だったら彼の話は、「私このあいだ彼に会ったよ」と、楽しいおしゃべりの種になるはずだったのだ。

 それがいま、言葉の途切れるたび、胃の痛くなるような沈黙が挟まる時間にもたらされる話題になってしまった。

「彼には、五歳になるお嬢さんがいます。愛莉ちゃんという、とても可愛らしい女の子です。お母さんは、高校のクラスメイトだった女性だそうで、不幸なことに、愛莉ちゃんを産んですぐ亡くなられてしまったそうですが、……その女性は、シレビレアから移民夫婦の娘さんでした」

「え……」

 シレビレア共和国は、北アフリカの小さな国だ。いまは政情が不安定となり、外務省からは渡航中止勧告が発されている。政情の安定していた六〇年代にはこの国との交流も盛んで、多くの留学生がやって来て、東京近郊にも「シレビータウン」と呼ばれる移住者が多くいる地域があることが知られている。

 ただ、この国とルーツを同じくする人たちではないため、地域社会との共存を行うにあたっては、少なからずのトラブルは避け難く、それが一部国民の差別的感情を喚起する結果と生んでしまっている。正民党の排外主義的発言も、こうした背景によるところが大きい。

 デマに踊らされた結果、彼らのような外国人によって自分たちの経済的困窮や犯罪の増加が招かれていると誤解してしまった人々が、「この国から出ていけ」「自分の国へ帰れ」とヘイトスピーチを行うという事態を招いてしまった。

「釜元先生の秘書の方が、そのお嬢さんの写真をお持ちです。……新田記者に、私とあなたの関係を疑っているのならば手を引けと脅迫されたらしい……」

 自分の前に姿を現した新田義輝。あれは単なる偶然ではなかったのだと気付く。確かめるまでもなく、大山とも接触しているのだろう。

 二人の関係について、新田はすでに何かを嗅ぎ取っているのではないか。

「彼はあの素晴らしい優勝の日、私が総裁選出馬会見前のあなたに会いに民友党本部を訪れた際、私を目撃していたのです。そして、……ややこしい言い方になりますが、私のことを目撃していた彼のことを目撃していたのが、釜元先生のところの……。彼ら、どうも私とあなたが何らかの関係にあることに勘付いていますよ。そして妙な動きがあっては困る、新田さんがそれを焚き付けるような記事を書かないようにと、脅迫の種として、娘さんの写真を用意しておいたのでしょう」

 浅井の心は、大山の言葉を受け容れることが出来なくなっていた。

 自分たちの愛したチームのエース・折原尚人。彼はプロ野球選手としてやっていけるだけの活躍に欠かせなかったのが、新田義輝だ。そして優勝の翌年に入団し、低迷するチームのために健気に腕を振い続け、遂に今年、最高の瞬間を迎えた折原の物語あってこそ、浅井も大山も、かつてないほどの喜悦を味わうことが出来た。

 それなのに、自分の上司にあたる人物は、新田を脅迫していた……。

 浅井が立ち上がり、覚束ない足取りで部屋を出る。エレベーターホールまで、彼は付いて来た。

 箱が下から上がってくる。

「……私は、これまであなたを大切な友人だと思って来ました」

 それは、私もだ。

 政治家となって、初めて出来た、心から愛し合える友人だと、……信じて疑わなかった。

「ですが、……申し訳ない。私は、もうこれ以上あなたと友達の関係を保っていることは、どうやら出来ないようです。私たちの愛したレパーズは、野球は、平和な世界でなければ成り立たないこと、……そして平和というものが、為政者の油断によって容易く壊れてしまうものでもあることを、あなたほどの人がご存知ないはずがありません」

「わ、私たちのあいだに……」

 耐えきれず、喘ぐように、浅井は言っていた。

「仕事は、持ち込まないんじゃなかったのか。私たちの友情とは、そんなに脆いものだったのか!」

 大山は悲しげな笑みを浮かべるところを浅井に見せた。彼がごく自然にそう笑って見せたのではないことはわかる。精一杯の矜持として、せめて、そうやって笑って見せようとしたに違いなかった。

 それぐらいのことがわかる程度には、大山のことを知っている。大山のことを愛している。

「それでは、……また、どこかの委員会でお会いしましょう」

 エレベーターの箱に収まった浅井に、大山は言った。

「私の、……私の夢は」

 まだ、何か言えることがあるのか。

 あるとして、それはどんな言葉なのか。

 判らないまま、浅井は言葉を紡いでいた。

 大山が遮って、

「知っていますよ。……総理大臣になることだったのでしょう」

 そう言い終えるかどうかというところで、ドアが閉まった。

 蹈鞴を踏んで、壁に背中を当て、そのまま浅井はずるずるとしゃがみ込んだ。両手で顔を覆い、……違う……、という呟きを、掌の中へ閉じ込める。

「違う……、違うんだ、私の夢は……」

 なぜだか、少年のころの記憶が蘇った。

 キラキラ輝いて見えたレパーズの選手たち。自分には決して届かぬ夢の道を、数多の同級生たちが、グローブを片手にボールを投げて、歓声を上げていた。

 たくさん勉強して総理大臣になるんだ……。

 その夢は、もう、すぐそこにある。それなのに。

 駆け込んだトイレから出て、ロビーを歩く時には、次期総裁総理・浅井信之として、泰然と振る舞うことが出来る。浅井に気付いて何か声を掛けてくる人がいる。あくまで和やかな笑顔で手を振り、応じることも。

 しかし彼のスーツのポケットの中、くしゃくしゃになったハンカチの湿り気は、いつまで経っても乾く気がしなかった。

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