新法
長い夜の終わりを、短い眠りで費やした。政治家となって長いから、体調管理、いや、体調が今ひとつでもそう気取られない振る舞いは板に着いている大山である。衆議院議員会館の六階、東向きに窓を持つ自身の部屋に入り、秘書たちと挨拶を交わす。
もちろん彼らは、昨夜の大山の行状は知っている。
大山には五人の秘書がいる。このうち、腹心の、言ってもいいのが紅一点の藤倉である。年齢は大山の二つ下、痩せた女で、頭はすこぶる切れる。
この朝、最後に顔を合わせたのが、部屋の最奥、窓辺に佇んでいた藤倉だった。彼女は眼鏡の奥の瞳に険悪な光を湛えて、「よろしいですか」と切り出す。
「顔の浮腫みについてのコメントは受け付けないよ」
お説教をいなそうとした大山に、「いいえ」と短く返した藤倉が歩み寄り、耳元へ情報を差し込む。
「……本当に?」
「はい。先ほど、森田先生からお電話がありましたので、恐らくは……」
森田は大山のちょうど十歳上、憲政党の幹事長で、党首経験者でもある。穏やかで軽妙な口調で知られ、人気もあるその男が、ノックもそこそこに「大山くん、大山くん、藤倉さんに聞いたかい」と慌ただしく駆け込んでくるのだから、只事ではない。大山はすぐに森田にソファを勧める。藤倉が指示を出すまでもなく、若手秘書の高宮が、森田の前にはぬるめに淹れた緑茶を、大山の前には、濃いブラックコーヒーを置いた。一口啜って、思わず顔を顰める。藤倉の入れ知恵だろうが、目が醒める濃さだ。
「このタイミングでね、君島も、もう天下を取ったつもりなんだろうねぇ。少々先走りすぎだと指摘したいところだが……」
口調はいつもの通り滑らかだが、表情は深刻だ。
「おっしゃる通りです。その、言葉は悪いですが、……少々態度がでかい」
「言うねぇ」
苦笑いを浮かべて茶をごくりと飲んで、
「だが、自然な受け止め方だよ」
森田は頷いた。
二人の向き合うテーブルの上、焦点にいるのは、正民党党首・君島である。
藤倉が、タブレットを開いて二人の前に置いた。
君島によるSNSのポストが表示されている。
曰く……。
正民党は国家国民の安心安全な暮らしを守るため、かつて憲政党の強硬な反対によって廃案となった『国家保安法』の制定を提案します! 民友党新総裁には、何より国家国民のことを第一に考えられる方こそ相応しい!
ハッシュタグ「ヤマト霊魂!」が添えられている。このハッシュタグで検索すると、同党の支持者のポストが無限にヒットする、正民党支持者の連帯感を高めるのに役立っている。
「憲政党の強硬な反対、と来たもんだね」
森田は溜め息まじり。言うまでもなく、反対派の急先鋒として戦ったのが大山である。
「先ほどから、憲政党のアカウントには正民党支持者と思われる方々からの攻撃的な投稿が続いております」
藤倉の指摘した通り、「おはようございます。関西を中心に、大変盛り上がった夜が明け、東京地方は本日も暑くなりそうです。皆さまどうか熱中症にはお気を付けくださいね」という、公式アカウントが毎朝八時に行っている「朝の挨拶ポスト」には、常ならぬ数の批判的なリプライがぶら下がっている。
リプライを行っているアカウントの何割かは「捨て垢」であろうが、名称やアイコンに正民党のイメージカラーを用いているアカウントが多かった。
なお、毎朝この挨拶ポストを行っているのは、藤倉である。彼女が炎上を避けるべく、配慮を重ねたすえにこのポストを行っていることを、もちろん大山も知っている。彼女は無表情の中に心外そうな色を滲ませていた。
「大山くんは、こういうのやってないんだったよね」
「ええ、私は余計なことを言って炎上するのは嫌ですし……」
両親の店の一件があって以来、大山はそれを意識した生活を送ってきた。結婚もしていないし、子供もいない。父が三年前に亡くなり、母もいまは病院、……恐らく、長くはないだろう。仮に今後、何らかの理由があって「燃える」ことがあったとしても、誰にも迷惑が掛からないよう環境を整えているのだ。
言うまでもなく、「炎上」が攻撃手段として成立する世界の環境のほうにこそ、問題があるとは思うのだが……。
「それにしても、だ。それにしても、ちょっと、あんまりに態度が大きい。確かにまあ、浅井さんが総裁最有力であることは間違いないが、言ってしまえば参院選でちょっと勝ったぐらいの正民党が、ここまで大きなことを言えるものかね」
その参院選では議席を伸ばせず、「憲政党不振」とか「実質敗戦」とか好き放題書かれたことがよほど堪えたのだろう。森田は憤懣やるかたなしといった表情だ。
「それはまあ、正民党は釜元さんの『党外派閥』のようなものでしょうから」
大山は言って、コーヒーを啜った。苦味に顔じゅうに皺が寄る。
「釜元の権勢は民友党にとどまらず、か。それにしても、総理を辞めてずいぶん経つというのに、意欲的なことだ。よっぽど国民に対しての復讐心が強いんだろう」
釜元が総理の座を辞任したのは、党内反主流派から激しく吹きつけた「釜元おろし」の暴風による。元はといえば釜元自身の失言や閣僚の失態、そもそも公約であった年金政策での失敗のためではあるのだが、定量的に現れたのが内閣支持率であり、当時釜元政権の支持率は六パーセントほどであった。
「あくまで森田先生の個人的なご意見として伺いました」
大山は声を低くして応じた。森田は、釜元の、国民に対しての逆恨み……、とでも言いたいのだろう
岩森総理が参院選惨敗を理由に辞意を表明した時点での支持率は三十五パーセントである。今回釜元が「岩森おろし」に動いたことは疑いないが、釜元が追われたときとは状況は全く違う。恐らく今週の世論調査で支持率はさらに上がるだろう。釜元はますます岩森を妬み、国民に対しての恨みを募らせていく。そうした人間の影響力を受けた人間が、為政者として好ましいかどうかと言えば……。
沈んだ空気の中、
「……民友党さんの国家保安法の案、読んだかい?」
森田が言った。
「ええ、一応は……。前回よりはソフトになりましたが、基本的人権を制限する要素があるという認識です」
「ただね、君島はどうも、今回この法案を隠れ蓑に、もう一個問題のある法案を民友党に提出させようってつもりらしいんだ。あるいは、そっちのほうが本丸かもしれない。まだ表沙汰にはなっていないようなんだがね……」
森田は懇意の記者から、という名目で、懐から茶封筒を取り出した。コーヒーをやっとの思いで飲み干した横から高宮がおかわりを用意しようとするので、「ありがとう、もういいよ」と拒んでから、封筒の中身、出力された文書の記されたA4の髪を広げる。
「国民健康スポーツ振興法……?」
「名前だけ聞くと、我々運動不足だから毎日ジョギングでもしなさいよ、って感じだけどもね」
森田はだいぶ腹が出っ張ってきた。
読み始めて数秒、大山は二日酔いと濃いコーヒーも手伝って、胃がキリキリと痛み始めるのを覚え始めた。
大山はその日の昼すぎ、仕事の合間を縫って永田町を離れ、藤倉とともに郊外へ向かう車中にいた。窓外はまだ夏が満ち、クーラーの効いた車中にも、窓を介して熱感が染み込んでくるようだ。しかし昨晩、レパーズが優勝した、ペナントレースに関してはひとまず区切りがついたという実感があるからか、俄かに空の色が秋めいてきたように感じられるのは気のせいだろうか……?
浅井が総裁となった民友党が、君島の正民党と連立を組む。極右的価値観が国会においては支配的になる。他の野党も国民の支持を集めるためならば連立政権に協力的な姿勢を見せるだろう。その中にあって、「国家保安法」と「国民健康スポーツ振興法」が提出された場合、少なくとも前回大紛糾した前者については他の野党も反対に回るだろうが、後者についてはどうだろう?
表面上は確かに、森田の言った通り、健康的な暮らしのために運動を推奨する程度のものに見える。
法案の文面によれば、「国民の健康以上、体力の向上、健康寿命延長のために、今よりも義務教育枠内における体育教育を強化する。具体的には週平均三時間と定めている体育の授業を四時間とし、運動会・体育祭も年一回のところをオリンピックイヤーには二回行うこととし、運動への意識向上を図る」という、まあ、そうだな、それぐらいならば検討の価値があるか。しかし体育以外の教育時間を削ることで学力の低下を招かないように、配慮が必要であるが、その具体的な方法はどうするのか……、というリアクションが妥当であろう。
恐らく、現在の世論を形成するテレビにおいてはその最初のリアクションに対して触れるのがせいぜい。「私もこのところスラックスがキツくてね、いやはっはっはっ。では次の話題です」ぐらいの流され方をするだろうし、世論はこの法案の包含する問題点に目を向けることはあるまい。寧ろ国家保安法の方へ目が向き、「健スポ法」への声が上がることは稀ではないか。
また、そうなるよう予めの下ごしらえは当然なされるはずだ。
国家保安法に反対する声が存在感が増せば増すほど、いつもの「野党は反対ばかり」と論調が力を得ることになる。政党支持率に神経を尖らせる党執行部はこの二十年繰り返されてきたその批判が支持率に現れれば、素早く帆の向きを変えかねない。
「先生」
目的地が近付いて来たタイミングで、藤倉が訊いた。
「その新田という記者は、そこまで信頼がおける人物なのでしょうか?」
大山は、すぐには答えなかった。まだ「昨日」にもなっていない時間に一度会っただけ、しかも、自分はもちろん相手も途中からアルコールが入った状態だった。互いのことを過大評価してしまうことは、大いに有り得る。
しかし、こういう考え方も出来ると大山は思った。
「今年の五月、時鉄レパーズは右のリリーフが手薄だった」
藤倉が怪訝な顔をした。あまり野球に興味がないのだ、
「去年大活躍した、風間っていうセットアッパーがいたんだがね。彼が昨シーズンオフに手術をした関係で、今年は投げられない。他の選手たちも懸命にその穴を埋めようとはしてくれたんだが、どうも終盤に安定感がない……」
藤倉は余計な口は挟まず、黙って続きを待っている。秘書としての付き合いが長いもので、この辺り彼女は大山という男の性癖をよく知っている。
「そこで、トレードで他球団から右投手を獲得することにしたんだ。ファルコンズの一軍のブルペンは、レパーズの打線でも七回でビハインドだとだいぶ苦しいぞ、というレベルでね。そのブルペン陣からあぶれて、二軍で燻っていた阿川という右投手を得た。獲得してすぐ一軍に上げて、レパーズのベンチは、彼をいきなり勝ち試合の一点リードの八回という場面で起用したんだ。九回には折原が控えている。勝つためには、大切なセットアッパーとしての役割だね」
藤倉は、大山浩典が熱狂的レパーズファンであることを知る数少ない人物である。政治家にとって応援する野球チームがあると知られることは、決して好ましいとは言えない。浅井もそうであるが、政治家で贔屓の球団があることを公言している人間は少ない。
特にレパーズファンは熱量の大きさで知られる。いわゆる「アンチ」もいないではない。支持する政党の政治家が自分の嫌いな球団のファンだから、という理由で心が離れてしまうケースもあるし、そもそも政治家が野球チームに入れ込んでいると知られたら「ああ、昨日レパーズが負けたからやる気がないんだな」なんて思われてしまいかねない。……現実問題として、大山と浅井は少なからずチームの状況の影響を受けている自覚があるので、出来る限り知られない方がいいのである。
「このときの阿川は、見事に一イニングをピシャリと抑えたんだ。『監督が一軍に上がったばかりの自分に出番をくれたので、その思いに応えたかった。緊張したけど、とても嬉しかったし、抑えることが出来てよかった』というコメントを残している。つまり……」
運転手の手元から「目的地付近です」という声がした。
「自分の懐の中にいるわけではない人物でも、相応の信頼を持って接すれば相手もそれに応えてくれる、と仰りたいのですね」
藤倉がすっかり纏めてしまった。その後の阿川は、失敗すれば余所者と叩かれる立場になりかねないながらも必死に腕を振るい続け、今では八回に「ピッチャー、阿川」とコールされると大歓声が上がるまでになった。春先までよそのチームの二軍で燻っていたのにも関わらず、チームに欠かすべからざる重要なピースとなったのである……、といったあたりまで話をしたかったところなので、大山としては少々物足りないところではあるのだけれど……。
新田、という表札の出た家の前に降り立つ。閑静な住宅街、という言葉をそのままこだわりなく使っていいだろう。車がいなくなると、照り付ける太陽の光が痛いほどだ。車の音で気付いたのだろう、玄関が開いて、長身の新田が姿を現した。




