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神閥  作者: 村岸健太
記者
3/11

深い夜の底

「新田だな」

 喉仏の尖りを感じさせる、鋭く硬い声。

 自分がここに「居る」ことで、どこかで何かが起きるかも知れない……、それを期待してここに居た。

 呑気なことに新田は、「何か」が自分の身に起きるリスクを、ほとんど現実的なものとして受け止めていなかった。

 声の主は、折原との通話中にすぐ側まで来ていたのだろう。全く気付くことが出来なかった、こういう仕事に慣れている人間だと捉えていい。

「誰だ、あんたは」

 答えが返ってくるとは思っていなかった。

 元球児である。そんじょそこらの三十代半ばとは身体の造りが違うことは、シャツの上からでも明白だ。にも関わらず、躊躇うことなく接近してボディコンタクトを試みてきたということは、相当な相手ということは想像できる。

 ゆえにこそ、新田の背中には冷たい汗が伝った。

「後ろを振り返らずに進め。車が見えるか」

 新田は黙って頷いた。

 家に帰る途中で見かけた黒塗りのソブリンレガシー、同じナンバーだ。

 押し込まれた後部座席、助手席に座っているのは、議員秘書であろう、痩せた男だ。新田を連れてきた男は運転席に収まる。斜め後ろから見たかぎり、広くて厚い肩をした男だった。握られていた手首が、まだジンジンと熱い。

「突然申し訳ありません」

 いかにも神経質そうな声を、助手席の男が発した。車はすでに走り出している。シートベルトもまだ締めていないのに。

「先ほどから、民友党本部と憲政党本部とを行ったり来たりしてらっしゃったので、お声掛けさせていただいたんですよ」

 嘘を見抜かれることを微塵も恐れていない、「いけしゃあしゃあ」なんて形容がしっくり来る、薄い微笑みさえ浮かべた声だった。

「何をお調べになっていらっしゃるんですか、新田さん」

 新田は一つ深呼吸をする。何も、取って食われるわけではない。

「こんな末端も末端のフリーランスの名前をご存知なんですか」

 思いのほかしっかりと芯の通った声が出た。直前まで折原と話していたからかも知れない。彼と話すときは、どうしてもバッテリーを組んでいたときのことを思い出して、声が強くなってしまいがちな新田だった。

「あなたに限らず、この界隈で仕事をなさっている方は一人残らず。ご自身を『末端』だとか『無名』だとかとおっしゃる方も含めて。むしろ、大手社以外で仕事をされる方、……とりわけ、あなたのように熱意のある方については、いち早く発見しなければいけない」

 慇懃な物言いに包まれた棘が、ひどく感じが悪い。まるで新田のようなフリーランサーを、永田町という肉体に混入した異物、あるいは腫瘍のように言ってくれる。

「で、こちらの身分はご存知なのに、そちらは一向に素性を明かそうとなさらないんですね」

 これ見よがしに名刺を取り出して差し出したが、助手席の男は応じなかった。

 それならば、新田にも考えがあった。

「ソブリンレガシーSの750、ナンバーは芝浦、さ、7101。……釜元先生の車でしょう」

 政治家の公用車でミツバ自動車のソブリンレガシーは珍しくない。一貫して外車を使う開国党のような党もあるが、価格と風格が両立できるソブリンレガシーが人気だ。しかしこの車種の中でもとりわけ高級車として位置付けられるモデルがS750であり、これは民友党の役職付き以上の議員が、憲政党では党代表・副代表・国対委員長のみが使用している。

 だから、車種とナンバーの照合は難しくない。

 ただ、大手新聞社の記者は自分で覚えてはいないだろう。四桁を見ただけで答えに辿り着けるのは、新田のような野良犬に限られる。

「優秀な記者さんですね」

 秘書は動じない。

「ならば、こちらの申し上げたいこともおわかりになるでしょう」

 その通りだ。

 新田は既に、背筋の凍り付くような感覚に陥っている。

 もう「昨日」になった日の帰り、家のすぐ近所で見掛けたのがこの車である、という事実の示す意味に思いが至ったのだ。

「浅井先生の会見中に、憲政党の大山氏とどんな話をしておられたか、お聞かせ願えますか」

「え……」

「お話になりたくないのでしたら、結構ですが」

 これでは、永田町の「目」の恐ろしさを逆手に取るどころか……。

「何か、誤解があるみたいだ。俺は、ただ用を足しに入っただけで、大山先生と話なんてしてませんよ」

 眼鏡の秘書が、自分の言葉を信じたとは思えなかった。この車が自宅近くを走っていたことの意味を考えて、はっきりと胸に立ち昇っている不安の輪郭を、捉えないようにと努めることが、抵抗なのか無駄な足掻きなのか、新田自身にも判らない。

「お嬢さんは、愛莉さんとおっしゃるんですね」

 その言葉は、冷たく骨ばった手となって新田の首に巻き付いた。秘書は、手にしたスマートフォンをそっと持ち上げて、新田に見せる。

 新田の母の手を握る愛莉の、柔らかな頬、つぶらな瞳……。

「とても可愛らしいお嬢さんですね」

 新田から抵抗の気力が喪われたことを見て取ったのだろう。

「何を嗅ぎ回っているのか、言ってください」

 脅迫、ではない。しかし、その一歩手前。守るべきものがある新田には、剝き身の刃と遜色ない迫力が感じられる。

「……まだ、何も掴んだわけじゃない。あんたたちと同じだよ。大山さんがおたくらの本部のトイレにいた、俺は偶然鉢合わせただけで……。俺の背中を通り過ぎていくのがあの人だって気付いたけど、こっちはそれこそ、両手が塞がっていたんでね」

「それを信じろと?」

「俺だって知りたかったさ。大山さんからすりゃ敵地だろう、どうしてそんなところにわざわざ? 急に腹が痛くなってトイレを借りるにしたって、肛門と相談しながら場所を選ぶってもんだろう。特別な理由があったに違いない……」

「大山先生が出られてから、あなたが出て来るまで、少し時間があったようですが」

 よく見てやがる、と内心舌を打った。

「『可愛い娘』がいるんでね。そこらに転がってるかもしれないウイルスを家に持ち帰るわけにはいかないんだ」

 眼鏡の秘書が、新田の言葉をどこまで信用しているか判然としない。

 車が赤信号で停まった。左右にも、後ろにも車はいない。東京駅八重洲口が右手に見えた。

「してみると、あんた、子供はいないんだな。親父になるとな、自分の健康なんかよりもずっと、子供の身体のほうが気にかかるもんなんだよ」

 右手にポケットから取り出した小型のハンドサニタイザーを見せびらかした。

 さしたる反応はない。

「子供のためなら、親父ってのはなんでもするもんだよ。これは、実際に親父になってみないとわからない。自分の命だって惜しくなくなるし、そのくせ、やけに健康に気を遣うようになる。……ただ、これだけはやめられないんだ」

 胸ポケットから、銀色のオイルライターを。

 眼鏡の奥の双眸が見開かれた。

「……正解だ。議員の秘書をやってるぐらいだから、この組み合わせを見たらそういう顔になるだろうな」

 ちん、と軽やかな音を立てて蓋を開け、じゃり、じゃり、石を擦って見せる。

「愛莉のことを調べたんなら、とっくにご存知だろうけど、……嫁はもう死んだ。このライターはな、嫁が結婚前にくれたものなんだ。こんな形で役に立つとは思ってなかったよ」

 信号はもう青に変わっている。しかし、車は発信しない、いや、出来ないのだ。

「降りるけど、構わないかな」

 新田の問いに、沈黙だけが帰って来た。新田が車を降りぎわに、

「後悔するなよ、三文記者」

 眼鏡が、凄惨な目付きを向けて言った。

「脅して来たのはそっちだろ。民友党のドンが、手段を選ばない男だって教えてくれて、どうもありがとうよ」

 しゅっ、と後部座席に向けてアルコールを噴霧して、踵を返し、あとは走って、走って、走って……。

「マジかよ、ここまでやるか……」

 喫煙所のパーテーションの中に潜り込んだら、全身から汗が噴き出し、膝が笑う。指先が震えて、タバコに火を点けようにも上手くいかない。どうしたらいい、愛莉は、お袋は、どうなる、どうすればいい。必死に考えを巡らせるが、恐怖のせいで心はアメーバのように放散してしまう。

 しかし、立て続けに二本目を吸い終えるころには、……少しずつ考えに輪郭めいたものが生まれ始めていた。

 釜元はこんな末端、「三文記者」とは悔しいが言い得て妙な新田に対して、はっきりと脅迫を掛けて来た。自分が見掛けた大山の存在に対して、釜元が脅威を感じているということの顕れではないか。

「考えろ。……大山は何をしに来た……、何をしに、民友党の本部に。浅井に用があった……?」

 自分の存在を察知したがゆえにこそ、釜元は手を出してきた。具体的には新田自身がどんなリスクであると見做されたのだろう?

 新田が捨てた灰皿から、細い煙が立ち昇っている。上手く揉み消すことが出来ていなかったようだ。溜め息を吐き、足元のペットボトルに入っていた水を掛けて消化する。後には、濡れたタバコ特有の不快な臭いが残った。

 細い煙が夜空にのぼっていく。

 釜元は、新田が「居た」ことで、なんらかの「煙」が立っているように思ったのではないか。

 全ては彼のシナリオの通りに進んでいる。岩森政権が倒れ、後釜には自分の愛弟子の浅井が就き、君島と手を取って政権を運営していく。院生と言ってしまってもいい……。

 その流れがスムーズであればあるほど、わずかな齟齬さえ許されない気になるのが人間というものだろう。好事魔多し、いまの釜元が一番聞きたくない言葉に違いない……。

「しかし、どうするか……」

 脅迫に失敗したからといって、即、あの秘書どもが愛莉と母親に手を出しに来るとは考えづらい。現状、相互に脅迫をし合った関係であることを、明日の朝にでも釜元に報せて次の判断が下されることとなる、……そうとでも思わなければ、悲鳴を上げながらタクシーを捕まえて家路を急ぐ以外に方法はない。愛莉が生まれたその日から、新田はこの世で最も臆病な男になってしまった実感があるのだった。

 この夜二台目のタクシーを拾い、再び永田町、憲政党本部前に戻った。同じ手を喰らわぬよう、今度は先ほどよりも周囲に注意を払いながら。しかし、具体性のある行動ではないことは自覚的だった。

 火のないところに煙は立たぬというが、俺は既に立っていた煙を偶然見掛けてしまったのか。

 本当に煙の臭いを捉えてしまったのか。

 憲政党本部から民友党本部へ、……今この瞬間も自分を捉えている鬼の目にじっくりと自分の身を晒し、それに飽きたら今度は赤坂見附まで足を伸ばす。喫煙所での一服を挟んで、大山の定宿であるという赤坂クラウンホテルのロビーへ向かう。衆議院議員宿舎はここから徒歩でも行ける距離だが、大山の選挙区は関西だ、一人暮らしを厄介がってこうしたホテルに滞在することを選ぶ議員も少なくない。

 しかし、だからと言って……、

「新田」

 突然名を呼ばれて、振り返ったところに、当の大山浩典衆議院議員本人が現れるなどとは思っていなかった。

 新田は何やら、自身が生肉の臭いを醸して、永田町の獣たちの前を彷徨いているような気持ちになった。

 大山は当選四期、四十八歳。憲政党きっての論客であり、党の政務調査会副会長を務めている。年齢の割にはスマートで、色が黒い。趣味は登山だそうである。白いものが増えてはいるが、量のほうはまだ十分と言っていい髪を、ふわりと後ろへ流している。

 同党の若手リーダー的存在であり、一日二十分ほどニュースを見て社会情勢を知った気になる人間からは、「野党で、いつも怒ってる人」ぐらいの認識をされている人物である。先の公共インフラ入札問題でも、疑惑追及の先頭に立ち、田奈局長や、指示をしたとされる当時の物部国交大臣、更には監督責任を飯田総理に問う姿勢は非常に鋭いものがあった。総じて、野党支持層からは頼もしく実行力があると評価され、与党支持層からは厄介がられている男だ。

 初対面である。まさかこちらの名前を認識しているはずがないと思っていたが、大山も釜元同様鬼としての目で新田を見張っていたのだろう。

「ああ、すまない、申し訳ない。新田……、さん。新田さんでしょう、そうですね」

 大山の耳も目元も真っ赤だった。だから、余計に「赤鬼」のように見えてしまう。酒気を帯びているのだろうが時間を考えれば問題視すべきことではない。彼は照れたように笑って、

「すみません、ちょっと呑んでいたもので。あなたのことは知っていますよ」

 と頭を下げた。国会で見せる戦闘体制からは想像のつかない、腰の低いおっさんの姿である。

「フリーの新田と申します」

「あなたフリーだったんですか、そうですか」

「……あの、失礼ですが先生は私をどうしてご存知だったんです」

 赤い顔を、くしゃっと笑わせて、

「西国大附属青陽高校の、キャッチャーをなさっていた、新田義輝くんでしょう」

 と言った。

 折原は、もう寝ただろうか。それとも、まだ優勝の余韻、十八年の悲願成就を噛み締めているところだろうか? いずれにせよ、試合が終わってから祝勝会、ビールかけ。プロ野球選手として最も濃密で長い夜を過ごしているに違いない。

 そんな想像を巡らせる新田もまた、十八年前から繋がる今であることをやけに意識させられる、長い夜の底にいるのだった。

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