Old friend.
永田町、民友党本部は、無論この時間、ぴったりと門戸を閉ざしている。
曇ってやけに明るい都会の熱帯夜に浮かび上がるシルエットは、総裁選を約一ヶ月後に控え、遠足前夜の子供のようにどこかしら落ち着かなく見える。
来たはいいけれど……。
コンビニの喫煙所に入り、一服を済ませてから、今度は憲政党本部へと歩みを進める。こちらも、ひっそりと静まり返っていて、入口脇の警官と守衛がそれぞれじろりとこちらに目を向けてくるばかり。
無論、永田町に来て浅井なり大山なりがぶらついているのを目撃して、取材をすることが出来る……、などということを思って来たわけではない。いや、百万、一億分の一ぐらいの確率で、両者が道端で密談しているところに鉢合わせる可能性もないとは言えないが、いくらなんでもそれを期待してタクシー代を掛けてやって来るほど余裕のある財政ではない。
そうではなくて、自分がここにいる、ということが重要なのだ。
これは、雑誌社時代の先輩から学んだことだ。先輩、と言っても、新田の父親ほどの年齢で、それでいながらずっと現場に赴き、スクープを求めて革靴の底を擦り減らすような男だったが……。
「何もなかった、と言うのは簡単だよ。けど、俺たちがいる。本当にそこに、『何もない』のか?」
彼はそう言って、六年前、民友党飯田政権下で起きた公共インフラの不透明な入札問題に揺れていた永田町の、とあるホテルのロビーや正面入り口に、毎日のように張り込んでいた。このホテルの一室に、疑惑の渦中にある田奈インフラ整備局長が愛人を囲っているという話があった。
問題の本丸ではない。しかし、「俺らがいたら、どう思われる?」と彼は新田に問うた。
田奈局長は、愛人との密会を撮られたくはないだろう。ここから足が遠退くはずだ。
また、他の記者たちは、新田たちの存在が「何か」を示唆しているように誤解するかもしれない。
そうした動きに、当事者たちは極めて敏感だ。飯田総理子飼いの者たちも、このホテル周辺には寄り付かなくなるだろう。結果として、疑惑の渦中にいる人物たちの動きはそれまでとは違う、ぎこちなく不自然なものに変わらざるを得なくなる。密談の場所、移動手段、連絡方法など、一つひとつの変化は小さなものであれ、重なれば大きな負担となる。
「俺らがいるここに何もなくても、俺らがここにいるだけで十分過ぎるぐらい『何かがある』ってことになる。俺らを意識させることで、連中の動きを制限することになれば、慣れない靴で、慣れない道を歩く羽目になるだろうよ。そうして靴に付いた泥を、俺らでなくても誰かが見付けることになるかもしれないだろ」
彼は、自身がスクープを拾い上げることには拘りがなかった。それよりも、法が犯されたとき、報道というそれを糾す集団のうちの一人であるという考えかたでいたのだ。
事実、田奈局長は愛人との密会をこのホテルから移さざるを得なくなり、溜まりに溜まったフラストレーションをよりによって国交省のオフィス内にて果たそうと、愛人を招いて事に及ぼうとした。スキャンダラスな下半身醜聞へと発展したこの事件が致命的なダメージとなって飯田政権はレームダックとなった。
あのときのように上手く行くとは思わないが……、昼中たっぷり吸い込んだ熱気を吐き出しているような都会のアスファルトの上に、新田は立ち止まる。
俺がここにいる、ということを、既にこの街が受け止めている。あの守衛や、警官だけではない。
永田町、霞ヶ関、こうした街は、百目鬼である。
どこで誰が何をしていたということが、あっという間に知れ渡る。民友党と憲政党、相容れない両党の本部を行ったり来たりするフリーライターが、「何」を見ているのかということは、百の目を以て見極めようとしてくれるに違いないし、僅かでも痛いと思うところがあるならば、必ずや敏感に反応するはずだという確信が、新田にはあった。
所詮は思いつき。荒唐無稽と嗤われたって仕方のない話ではあるが、……大山が敵地・民友党本部に現れたのが、「昼に食べたカレーが辛過ぎて」なんていう理由ではないのだとすれば。
民友党・憲政党の連立政権。
という妄想に、今しばらく囚われていたとして、どうせフリーである、誰にも迷惑は掛かるまいと新田は思った。
総裁選最右翼である浅井は、いわゆるネット右翼的言説を意識する政治家の一人である。釜元派として、君島との距離も近く、選挙戦において君島が唱えた排外主義的であったり陰謀論的であったりする主張に対して、岩森に近い議員たちから眉を顰めるような発言が出たのに対して、「あれも立派に一つの意見なんだから」と迎合する態度を示した。
ほか、過去を振り返ってみても、
「憲法の呪縛からの解放」
「大和民族としての誇りを取り戻す」
といった発言がたびたび議論を呼んで来た。一方でSNSにおいてはそうした発言に対して「#救国のサムライ浅井」というハッシュタグがトレンド入りする。
そうした人々が排外主義的主張を繰り返す正民党と共鳴することは想像に難くない。もはや大国と呼ばれる国々での極右政党の台頭は珍しくなくなっている一方で、この国が例外であってはいけない理屈もあるまいと新田は思うのだが。
しかし、あまりにも出来過ぎてはいないか。
ソリの合わない岩森に、愛弟子浅井が敗れ、釜元派が反主流となったのが昨年の総裁選だった。
岩森は釜元派の弱体化を念頭に、予々より疑惑が持ち上がりながら前政権ではノータッチに終わった「裏金議員の身体検査」を行うことを宣言。
しかしその後の選挙で結果を残せず、夏の参院選では大敗。
代わって躍進したのは、釜元派がルーツである君島の正民党。
そして選挙の責任を問う声は、主に「裏金議員」たちから喧しく上がり、とうとう岩森は総裁辞任に追い込まれることとなった。
後継の総裁は、今度こそ浅井であり、君島正民党と連立を組む。
釜元にとっては我が世の春。
綺麗すぎるものだから違和感を覚えた、というのは、へそが曲がっているだけだろうか? ではどうして、大山が浅井の会見のタイミングで民友党本部を訪れていたのか。
暗がりの道で考えに沈んでいた胸のポケットでスマートフォンが震えた。ディスプレイに表示された名前を見て、考えが途絶する。
「もしもし」
「新田。ああ新田!」
声は僅かに濁り、粘っこい。しかし、理性から切り離されている感じはしない。ただ、酔っていることは間違いないはずだ。さもなければ、日付も変わったこんな時間に電話を掛けるような真似をする男ではない。
「ありがとうな、……メール、ありがとう。めっちゃめちゃ……、うん、ありがとう……。ちゃんと、お礼をな、言わなきゃって思って……」
ただ、「おめでとう」と打っただけなのに、折原は心底から嬉しそうに笑う声を、新田に聴かせた。
「別に……、落ち着いてからでよかったのに。ビールかけとか取材とかで忙しいんだろう」
「もう落ち着いたよ、家に帰ってきて、奥さんも子供ももう寝て、静かになって……、いやぁ、本当にありがとうなぁ、お前からおめでとうって言ってもらえたのが一番嬉しいよ……」
新田が西国大附青陽高校に入学した年、県内の投手としてはナンバーワンという鳴りもの入りで入学したのが折原尚人だった。彼は新田と同じ右投手であり、球速も、変化球も、コントロールも、全てが新田より一回り秀でていた。
それでも、二年の夏まで折原と新田という二人の投手は両立したのだ。プロ野球では鉄面皮で、いつからか「氷のストッパー」なんて異名を授かった折原であるが、当時は動揺がすぐに投球に現れて自滅する悪癖があった。対して新田は、「二番手」の気楽さだろうか、ピンチで開き直って投げ込むスタイルで幾度も折原を救ってきた。
主将を務めていた三年生キャッチャーが引退するタイミングでマウンドを降り、マスクを被ることを選んだのは、折原という投手を一本立ちさせたいという思いからだった。プレイヤーとしての新田が見てきた中で、折原ほど優れた投手はいなかった。あとは気持ちさえどうにかなれば、もっと素晴らしい投手になるという確信、……あるいは、そうなって欲しいという切ない願いが新田の中にはあった。
厳しい言葉で叱咤し、泣かせたこともある。それでも弱気の虫を抑え込んだ折原は翌年夏、大きな飛躍を遂げ、チームは県大会を快進撃。野球部創設以来初の甲子園出場を果たしたのみならず、準々決勝まで勝ち進んだ。
プロ志望届を提出していた折原は時鉄レパーズからドラフト六位で指名を受けた。低迷するチームにあって、ルーキーイヤーから先発に中継ぎにと奮闘し、やがては抑えに転向。この年までチームのために腕を振り続け、とうとうその手に掴んだ優勝。
「プロに入ってさ、そりゃ、コーチにも監督にもめためたに怒鳴られたし、ファンの人たちのヤジもすごかった。でも、俺が一番怖かったのはやっぱりお前なんだよ。お前がガンガンに叱ってくれたおかげで今の俺があるんだ。だからさあ、お前に褒めてもらえるのが、俺は一番嬉しくってさぁ……」
声が俄かに湿り気を帯び始めた。やはりまだ、折原の心は酒に浸っているのだろう。
「まだ今年が終わったわけじゃないだろ。この後プレーオフ、……お前個人で言えば、セーブ王のタイトルだって争ってる。明日だって出番があるかもしれない。あんまり飲み過ぎずに寝ろよ」
「相変わらず厳しいなぁ」
嬉しげな苦笑が、耳をくすぐった。
「新田は、……外にいるのか? あ、ひょっとして仕事中だったか」
今更のように、折原が声を萎ませる。
「仕事だけど、そんな大したことをしてるわけじゃない。相手がいる話でもないし」
「もしかして……、あれか、あの、総理大臣が辞めるから……」
同級生がその方面のライターだからだろう、三十代男性平均よりは少しぐらい、関心が高いはずの折原である。もっとも、こんなのが「平均」だから困るんだ、というのが新田の感覚である。
「次の総理って、あの、浅井って人がなるんじゃないのか。去年、今の総理に負けた人」
「そういう見方が支配的だな」
「でもって、あの……、正民党と組むんだろ?」
正民党、という言葉を出すとき、折原は少しく声を潜めた。
それはこの国の多くの有権者たちが、特定の政党を支持したり批判したりするとき、相手の出方を伺うように、「私は支持者ではありません」という態度を匂わせるときに使う手法である。
「正民党が嫌いか?」
単刀直入に訊いてみた。
「嫌いっていうか……。なんか、むちゃくちゃなこと言ってんなって思う。戦争間違ってなかったとか、外国人出てけとか……。チームにはさ、外国人の選手いるわけじゃん。うちも今年は、カルロスと智勲がいる」
強打のベネズエラ人の内野手カルロス=ロメロと、韓国人先発サウスポーの朴智勲。チームのウィークポイントを埋めた両者の活躍なしに、今年の優勝はなかっただろう。
「二人ともいいやつで、大事な友達だ。でも、あいつらが正民党の、君島だっけ、ああいうやつの言うこと聴いたらどう思うかなって」
「当然いい気分はしないだろうな」
「うん。二人ともせっかくさ、『日本はメシがうまくて街が綺麗で住みやすい』とか『ずっと日本にいたい』とか言ってくれてんのに。……でも、チームにも選挙では正民党に入れたって言ってるやつもいるよ。でも、それに文句言ったりはできないし……」
チームメイトと支持政党が違うから協力し合えない、なんてあり得ない話だ。日本よりも遥かに強固な二大政党制の敷かれたアメリカの野球チームが、大統領選を控えて空中分解したなんて話は聞いたことがない。
ただ、日本においてアスリートが政治的発言を行うことは極めて稀だ。折原にしても、相手が旧知の仲だから、ほんの少しだけ気持ちを覗かせたに過ぎない。
彼らは国民の中でも透明であることを強く求められている。レパーズの中にいるという正民党支持者も、それを公的な発言として行なったわけではないし、本人もそれを控えることは心得ているだろう。
「ってことは、新田はいま、今度の民友党の総裁選のこと追ってるのか。その、正民党と新しい総裁の関係とか?」
「まあ……」
そんな明確なものを追っているのかどうかは、判然としない。むしろ、そこをこそ見るべきタイミングで、あえてあさっての方向に目を凝らしている。
ひとまず今は、ただこの街に「居る」ことで何らかの効果が顕れるのではないかと、薄らぼんやりした期待を抱いているだけのことだ。無論、明日の朝まで彷徨を続けることはないだろう。赤坂あたりまで歩いて出て、サウナにでも泊まるか、それとも始発まで粘ってみるか。愛莉の「おはよう」と「行ってきます」が聴けるかも知れない。
「じゃあ、邪魔しちゃ悪いな……。でも、うん、声聞けて嬉しかったよ。また愛莉ちゃん連れて球場来ることあったら声掛けてくれよな」
電話を切ってから、「豹太郎」のぬいぐるみを愛莉が抱いて寝ていたことを伝えればよかったと思った。しかしわざわざ掛け直すほどのことでもない……。
そう、スマートフォンをスラックスの右のポケットにしまおうとした手首が、ずいぶん熱く、そして分厚い掌に掴まれた。




